崖の上のポニョ
今年は、雨が多い。
日本列島の各地を集中豪雨が襲う。
8月29日の深夜から未明にかけては、僕の出身地の愛知県岡崎市を記録的な大雨が襲った。
真夜中にも関わらずたまたまテレビを見ていたのだが、岡崎市の全域に避難勧告が出されたと言うではないか。な、なんだって。こりゃえらいことだわい。
幸い僕の実家のあたりは危険な状態にはならなかったみたいだが、ニュース映像では街が冠水している様子を見せられ、息を飲んだ。
この日に限らず、この夏は豪雨に関するニュースをなんど目にしただろう。ゲリラ豪雨という言葉も生み出されたくらいだ。
これはきっと、何かある。誰もが考えるのが、地球温暖化の影響。増え続けるCO2のせい? むむ…もちろんそれもあるだろう。
とはいえ温暖化は徐々に進んでいる話。それでは豪雨は今年急に増えた理由を説明できない。
これは、きっとアレにちがいない。アレのせい以外、考えらない。
そのアレとはいったい…。
ポニョだ。
そう、ポニョだ。映画「崖の上のポニョ」の公開が、水を呼んでいるのだ。
「崖の上のポニョ」の観客動員数は1,000万人を超えたという。つまり1,000万人の脳裏に、あの大波が押し寄せその上を女の子が走っていく沿岸のイメージが植え付けられたことになる。
あの映画を観た人間たちの空想力が具現化し、この大地の上にこれまでにない降雨を招いているのだ。
きっとそうにちがいない。
* * *
ということで、8月22日に鑑賞した「崖の上のポニョ」についての記事をしたためる。
崖の上のポニョ
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/
宮崎駿監督のアニメーション作品というのは、不思議な魅力に満ちているとは思うのだけど、もう何年も前から僕にはこの監督の作品がなぜこれほどまでにヒットするのか、わからなくなっている。
「天空の城ラピュタ」や「となりのトトロ」の頃ならば、わかる。ストーリーは明快で、キャラクターたちが空を飛ぶシーンは壮快で、深く考えることなくスクリーンを眺めていればよかった。多くの人が楽しめる作りになっていた。
でも、最近の作品はそうとは言い難い。具体的には、「もののけ姫」よりこのかた、宮崎駿監督の作品については難解な要素が増したといえるだろう。物語に込められたメッセージが単純明快なものではなくなり、スクリーンを眺めているだけでは話が何がなんだかわからなくなったのである。言外に語られる要素が増えたということか。
こうなるとわかる人がだけが楽しめる、玄人ごのみの内容となって、普通なら観客は絞られてくる…はずなのだが、そうはならっていないのが不可思議だ。これはおそらく、アニメーションの効果で、絵の鮮やかさ、楽しさがメッセージの難解さを隠蔽して、観客を飽きさせないでいられることが大きいのだろう。
また宮崎駿監督の力量も大きくて、物語に自らが込めたい高度なメッセージと、大衆が理解できる筋書きとの間で絶妙なバランスをとれている、ともいえるだろう。もちろん、何が何でも大衆向けの娯楽作品として強力にプッシュする広告宣伝の力も無視できないのだが。
思うに、物語には明らかにされる要素と、必ずしも明らかにされない要素がある。単純明快な物語とは、明らかにされる要素だけをつないで、ストーリーをつむいでいく。全ての伏線がわかりやすくストーリーに絡む映画は、観客にとって理解のぶれはほとんどない。。
しかし物語のなかに明らかにされない要素が埋め込まれている場合、そこにあえて注目することも可能だ。明らかにされない要素をつむぐことで、表面的なものとは違ったストーリーを描くこともできる。ただ何が正解か示されないので、基本的に観客や読者の解釈に任される。
こうした観客の恣意に任されるのは僕は必ずしも嫌いではなくて、内容にもよるがむしろ、観客や読者を試すそうした物語に魅力を感じることも多い。僕のなかでは村上春樹さんの小説や、洋画ではナイト・M・シャマラン監督の作品、そして宮崎駿監督の「もののけ姫」以降のアニメーション作品(「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」)がそれに該当している。

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/gallery/p003.html
「崖の上のポニョ」は当初、もしかするとそうした路線を転換して、もとの大衆向けにわかりやすい作品に戻したものなのかと想像していた。映画のポスターや、TVCMを目にし、そして印象的な主題歌を耳にする限り、頭を使わずとも楽しめる娯楽作品なのかなあと、思っていた。なんとなく「となりのトトロ」に近いものかな、と想像していた。
そうではなかった。
「崖の上のポニョ」は一見、優しい絵柄で、人魚姫をモチーフにした子供向けの童話のように見せながら、宮崎監督のここしばらくの路線もいたって健在な作品であった。いや、優れた童話は、もともと人間の深層心理を反映させたたまもの。むしろ幼子向けの体裁をとることで、さまざまな謎を埋め込むこともしやすいかもしれない。
映画の冒頭、生みの魔法使いが潜水艇に乗って深海をたゆたうそのシーンから、おやおやこの船のまわりは、本来何億年も前に絶滅した生き物たちばかりだなあ、これはいったいどうしたことだ、と考えさせた時から、この映画の魅力は始まっていたのである。
(それにしてもこの映画、古代魚が浅瀬を泳いだり、カンブリア紀とかデボン紀という言葉が出てきたり、監督はNHKの「地球大進化」にでもインスパイアされたのかね)。

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/gallery/p006.html
考えさせられた点、不思議に思った点などのいくつかをここに記してみることにする。
まず、この映画にソウスケ以外に人間の男性は登場しない。
父親のコウイチは出てくるが、家庭内の存在として描かれることはなく、その他ドッグの作業員やら貨物船の乗組員やらで登場するが、ストーリーの展開上やむなく出したという形で、主要な役割は全く担わされていない。
男性の不在。これが、この物語の謎の一つ。
男性の不在といえば、そもそも父親のコウイチはなぜ家に帰らないのだろうか。予定されていた帰宅は急にとりやめになり、貨物船を降りないその理由は明らかにされない。妻のリサに「愛している」というメッセージを送るが、それはモールス信号によってである。
一方で、ソウスケは幼いながらも大人の男性にも負けず劣らない役割を担わされ、それを物語のなかでは見事果たしている。
それとは裏腹に母親のリサも、途中で我が子を残して失踪してしまう。いったいリサは垣間見えた灯に何を期待したのだろうか。そしてその灯の主と邂逅しえたのだろうか。これもよくわからないところである。
とにもかくにも父の不在と母の失踪により、冒険譚を開始せざるを得なくなる。違う物語であれば本当は幼い子供ではなく、思春期の少年あたりならもっともしっくりとくるシーンだが、物語の体裁が童話というスタイルをとっているがため、あくまでソウスケは幼いソウスケのままではある。
それにしても、山の上から灯を放ったのはいったい誰なのだろう。これも明かされない謎の一つ。
あと、ソウスケは父親をコウイチ、母親をリサと呼び捨てにする。映画を観ていて、この3人は実は血縁関係はなくて、何らかの事情で共同生活をしているのだろう、と思ったのだが、そうではなくこの家庭はちゃんと家族であった。親をファーストネームで呼ぶアニメは他にも「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」があるが、これでいいのだろうか。
父親の不在、母親の失踪、両親を呼び捨てにする息子、とくれば家庭崩壊という呼び方すらできそうである。もっとも、これは現代社会における家庭崩壊を象徴させようとしたのではなく、ソウスケが力をもって自立すべき存在であることを強調するための意図した演出なのだろう。
男性の不在、ファーストネームで呼び合う家庭と続いて、奇妙に感じたのは、女性の描き方だ。母親をのぞくと、登場した女性で印象的なのはやはり老女たちだろう。というか、最初も最後も老女である。老女の多用は何を意味するのだろうか。「カリオストロの城」のクラリスよりこのかた、若い女性ばかり登場させる宮崎駿監督はロリコンとばかり思っていたが、思い切った路線転換である。
女性といえば物語の後半で、幼い赤ちゃんを連れた母親が登場する。この母親はどことなくずれている。ちなみに、声優を演じているのは千と千尋の声を担った柊留美ちゃんだ。うーん千尋も、お母さんになるくらいの歳頃になったんだねえ。
そういえば、ずれた母親とともにこの赤ちゃんが笑わないんだな、また。でも、ポニョが接吻すると穏やかな顔になる。
その後、幼いトンネルに入るので、ああこれは産道を描いているのだな、と思った。赤ちゃんと出会った後だからね。産道をさかのぼることでポニョは胎児の状態に戻り、そこからまた人間の生としてやりなおす、ということを象徴しているのだ。トンネルの先にはポニョの母がいるのだから、わかりやすい。
同時にソウスケがトンネルを進むこと、そしてそのソウスケは幼子でありながら既に成人に近い存在であるわけだから、将来の性交をも暗示しているのかもしれない。まあ、こうなってくるとなんでも性に結びつける通俗的な解釈論だから、この見解は破棄したほうがよいかもしれない。
いずれにせよ、トンネルをさかのぼることは生まれ変わりに欠かせない儀式であり、子宮に戻ってポニョは半魚人ではなく人間として再生することになったのだ。しかし、その立ち会い人がなんで老女たちなのだ。これはよくわからない。
あとそのシーンでわからないといえば、ポニョの母とリサが何を話していたのかも明らかにされていない。おおかた、今後のポニョの養育をよろしくお願いしますといったところなのかもしれないし、あるいはもっと別の意図の会話が行われていたのかもしれぬ。あえて明かされていないところが、老女たちは「リサさん、つらいでしょうね」と言っているし、何かヒジョーに意味深なんだよな〜。
だいたい、灯を探しに行ったリサがなぜあそこにいるのだ? もしかしてリサは…。

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/gallery/p002.html
まあ、他にも不思議で奇妙な箇所はいくつもある。それらをつなげていった先に、どのような想像を働かすのか。どのような、秘められたストーリーを描くのか。それは大人の観客にとっての醍醐味だといえるだろう。
そういう意味で、この「崖の上のポニョ」は子供向けではなく、僕にとってもほどよく楽しめるテイストの映画に仕上がっていた。宮崎監督、楽しい映画をありがとうございます。
最後に、明かされている謎をちょっと記しておこう。主人公の二人の名前が、どこからとられているのかということについて。
ポニョなのだけど、ポニョという名前自体はポニョっとしているからなんでそのままだが、劇中では父親である魔法使いフジモトから彼女は「ブリュンヒルデ」と呼ばれていた。
ブリュンヒルデ。これは、「ニーベルングの指環」に登場する女神(ワルキューレ)の名なのだそうだ。主神オーディンの命に逆らったことで怒りに触れ、懲罰をくらうことになるんだという。
男の子のほう、ソウスケは、夏目漱石の小説「門」の主人公、野中宗助からとられた模様。野中宗助の家が“崖の下”にあったことにちなむのだそうだ。まあ、「門」のあらすじまで知るとさらにいろいろな想像を繰り広げてしまいそうだが。
僕自身はどちらの作品にも触れていないから必ずしもピンと来ないのではあるが、そんな由来があるらしい。ということで書いておく。

考えてみれば、大河ドラマは女性を主役にしたほうが、これまでにない歴史の見方を提示できて面白いのかも。



連休。
翌日は、クルマで出かける。

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