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December 11, 2004

ゴジラ FINAL WARS

NHKのニュースを見ていたところ、世論調査で小泉首相の靖国神社参拝について意見を聞いた結果を伝えていた。続けた方がよいという人が46%で、止めた方がよいという人が38%だとのことだった

先日同僚と飲んでいて、酔った勢いの上での談義なのだけど、中国だとか靖国だとかの話題になった。その時は、僕の周りに座っていた2人が2人とも小泉首相の靖国参拝は続けるべきだと言っていたので、たしかにそういう意見のほうが多いのかな、と思う。

ただ、僕の意見としては、日本の総理大臣は、靖国神社にお参りすべきではないと思う。
それは中国の反対があってもなくても関係ない。理由としては、日本国憲法に以下のような条文があるからだ。

 日本国憲法 第22条
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 (中略)
 第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

だから、別に靖国神社へのお参りに限ったことではない。
たとえば年始の伊勢神宮へのお参りもどうかと思う。これがキリスト教の教会であろうと、あるいは僕の地元の氏神さんである古村積神社だったとしても、公人としては行くべきではないと思う。

公職にある政治家が宗教行為を自らの支持のために利用する。あるいは、宗教団体が政治家の訪問を受けることで何らかの権威を得る。
そういうことは、政教分離の原則を掲げている国では、のぞましいことではないという気がする。

ところで、靖国神社には一般の軍人の戦没者に加えて、A級戦犯もお祀りされているらしく、それが中国などから反発を呼ぶ大きな原因らしい。

このA級戦犯がどういう人たちかというと、一連の「侵略戦争」についての「共同謀議」を行なって、平和に対する罪、人道に対する罪を重ねた人たち、となる。
極東国際軍事裁判(東京裁判)でそのように判決が下った。

4、5年前に僕も、東条英機と東京裁判を描いたプライド 運命の瞬間(とき)という映画を見たことがあった。
それがきっかけになったと言えるのかどうかわからないけど、ここ2、3年、僕は日本の近代史にわりと興味をもち、本を読み始めた。太平洋戦争の開戦に至る経過の記述もいくつか目にしている。
まあ、読んでいるのはこんな本とかこんな本とかこんな本とか、こんな本だ。

そのなかでわかってきたことだが、東京裁判で言われた共同謀議があったのかというと、それは大きな疑問である。共同謀議を認めた研究者の本は、1冊も出会ったことがない。
やっぱり、統帥権の独立を盾に軍部が暴走していく過程と、政治家が世論迎合でかつ無責任である様の記述ばかりが目につく。

軍人や政治家たちが共同で謀議を巡らせて戦争を遂行していたというのは、間違いなのだろうと思う。

このことは、東京裁判の正当性に疑義を生じさせる。そしてその結果、この裁判の構造を批判する、いわゆる「勝者の裁判」という論に力を与えるものとなる。
この主張をさらに進めると、A級戦犯は占領の犠牲になって刑に処せられた殉難者という理屈も出てくるだろう。

でも仮に、それが勝者の裁判であり、共同謀議の認定が虚構だっとしても、戦後、日本国はその虚構にのっとって独立を達成したのも、また事実である。

 サンフランシスコ平和条約 第11条
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)

受け入れているわけだ。
この結果、日本の国は戦後の発展を享受し、当然ながら政府はいまでもこの論理は捨てていない。政府がサンフランシスコ平和条約を破棄したという話は聞かない。

そのような理屈を受け入れて成立した国の行政府の長が、その戦犯が祀られた靖国神社にお参りに行く。
これは、もしかすると、虚構の論理を奉じたことについての贖罪の表現なのかもしれない。
もっともお参りしている当事者がそんな事情まで鑑みているのかは、わからない。思うに、たんに、論理の矛盾に対する感性のなさを披露しているだけ、という気も同じくらいするのだけど。…まあ、なんともわからない。

いずれにせよ、日本国は無理のある戦争を行い無条件降伏を受け入れた。その帰結として、虚構を抱えて独立せざるを得なかったという現実がある。
そして同時に、この矛盾した現実を受け入れることへの抵抗は、「勝者の裁判」論とか「A級戦犯は殉難者」とか「大東亜戦争は正義の戦争であった」といった主張を産み落とすことになる(靖国神社のWebサイトにもそのような趣旨の主張が掲載されている)。

ある意味、不幸なことなのかもしれない。
たた、その当時—敗戦後の歴史の経緯が、そうせざるを得ない道のりを辿らせたのである。論理の矛盾や、そこに対する抵抗が生じたことも含め、これが成り立ちなのだ。

だから考えるに、こうした経緯については、ある特定の観点にもとづく主張を抱き、それに盲目的に組するのは得策ではない。それらの主張が産み落とされることになった歴史の過程こそ、目を向けるべきものなのだ。クールに、複眼的に。
僕はそう思って、今日も本を読む。(ちなみにいま読んでいるのは、民主と愛国…これは本当に参考になる)。

しかし…イラクなど見ていると、あんなふうに国を崩壊させられては、敗戦後の日本よりもはるかに、とってもとっても大変なんだろうな。
復興も困難だろうけど、仮に復興できたとしてあの国が今後抱え込むであろう分裂した国論。それについては、同情を禁じ得ません。


さて、12月11日。最初はあまり見に行くつもりはなかったのだけど、ゴジラ FINAL WARSを見に行くことにした。

実は僕は、怪獣映画はけっこう好きなのである。
にも関わらず、ゴジラ映画は、見ていていつも脱力してしまう。だから、このところは忌避すべき対象になっていた。

これまでに、TVやビデオで見たもの、実際に映画館に足を運んだものを区別せずに、鑑賞したゴジラ映画を挙げると、ゴジラゴジラ(1984)、ゴジラ VS ビオランテゴジラ VS キングギドラゴジラ VS デストロイアゴジラ 2000 MILLENNIUMGODZILLA(米国版)がある。

見ていてがっかりしてしまうのは、どうしてもガメラと比べてしまうからだ。

いわゆる平成ガメラ三部作は、抜群に面白い。
怪獣出現という荒唐無稽な事態を描くなかでリアリティを重視したガメラ・大怪獣空中決戦、ハードSFのテイスト漂うガメラ2・レギオン襲来、前作とは打って変わって古都を舞台にした伝奇作品となったガメラ3・邪神〈イリス〉覚醒などなど。

平成ガメラを超える面白さをもつ怪獣映画は、僕にとっては1954年の初代ゴジラしかない(1954年のゴジラは、たんに怪獣映画の傑作というだけでなく、邦画全体を見渡してみても最高傑作だと思う)。
よく言われることだけど、あれは戦争の記憶を呼び起こし、リアルな恐怖感を感じさせる映画だったのだろう。

それ以外のゴジラ映画は、全てとは言えないが、かなりの作品が僕にとっては駄作に感じられる。
理由は簡単だ。ストーリーに、まるでリアリティがない。人間の演じるドラマが凡庸。子供仕立てで大人の鑑賞に耐えられない。
そんなところが、毎回がっかりさせられる。

だいたい続編を作り過ぎなのである(ゴジラは寅さんか?)。作品ごとで完成度が異なり、設定としても世界観が一定していないのも問題だ。
というわけで、ゴジラ映画なんてもう見に行かないぞ、と心に決めていたのだ。

でも見に行ってしまった。
というのは、ふと目にした新聞の映画評で、いままでのゴジラとは違うというようなことが書かれていた。それを読んでこれはもしかすると面白いのかもしれない、と思ってしまったからだ。

なるほど、いままでのものとは違いました。一言で言うと、戦隊ものになっていました、ハイ。
ゴジラや怪獣たちが暴れるシーンはその通りとして、人間たちが演じるドラマ仕立ての部分は、アクション戦隊ものとサンダーバードとインデペンデンス・デイを足して割ったような感じであるよ。

これは、面白い。
でももっと分析的に言うと、素直にある程度面白いというのと、いままであまりにつまらなかったから多少趣向を変えただけで痛快に感じられる、というのが足し算された面白さなんである。
1回限りの楽しさであり、もしこれが1回で終わらず定番路線になったら、それはそれで辟易してしまうだろう。

今回がFINAL WARSといいながら、早くもゴジラは再び帰ってくるだろうということが映画関係者の間では言われているみたい。
でも、もう帰ってこなくていいよ。
あまり続編を作られると、またがっかりする機会が増えるだろうから。

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