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December 31, 2004

エイリアンVS.プレディター

2004年も、ついに今日も終わり。

今回は多くの人が気づいている通り、年末年始のお休みが短いんだよね。だから、とくに僕らのように地方から東京に出て仕事をしていて、この時期に帰省しないといけない身としてはけっこう慌ただしくて大変なのだ。

あまり早く帰ると渋滞に巻き込まれるだろうし。かといって、明日はもう元旦。
だから今日、クルマを運転して実家に帰ろうと思っていた。そうしたらなんと雪が降っているではないですかい。あれよあれよと横浜でも積もり、そして東名も通行止めになってしまった。なんとしたことか。

よって今日帰るのはあきらめ、明日元旦の日中にクルマを走らせることに。
いやはや、神奈川県で一人年越しなんて、あのy2k問題の対応で待機していた時以来だわい。
おかげで途中まで印刷できていた年賀状を仕上げる時間はできた。100余通の葉書を書き上げポストに投函することができたのは怪我の功名か。

その後、空いた時間で映画を見に行くことにして、エイリアンVS.プレデターを鑑賞に赴いた。

もう、このタイトルから行って、いかに娯楽路線で設定ありきのご都合主義映画かわかるというものである。
とってもキッチュな香ばしさの漂う映画であることは、言うまでもない。

要は、エイリアンも、プレデターも記号になってしまった。
このような物語が生み出されるということは、キャラクタが記号と化した証し以外のなんでもない。
つまりはエイリアンもプレデターも、それだけの定番名作ものになったってことだ。

もともと、キャラクタというのは本来のストーリーそのものと不可分のもの。その物語世界のなかの必然性によって生み出されたもの、そうではないんだろうか。
しかし、そこを切り離してそのキャラクタのユニークさ、そのものだけで逆に物語世界を構築できる。
まあ、もともとそれだけインパクトのあるキャラクターだったんだろうけど、それでこういう映画を実際に作ってしまうすばからしさがよいよね。トルネコの大冒険みたいだ。

でも、これが許されるなら、もっといろんな対決ものができていいと思う。
エイリアンVS.スパイダーマンとか、プレデターVS.ラストサムライとか、エイリアンVS.キティちゃんとか、プレデターVS.寅さんとか……。
(そういえば、話は違うけど、先日見たゴジラ FINAL WARSには、ゴジラVS.USA版ゴジラのシーンがあったナ)。

ところで、例によって映画とは関係ない話に移る。
前々から気になっている話をここで一つ書いておく。調べてみたらもう1年半以上前の話なんだけど…。

気になっている新聞記事がある。
朝日新聞の2003年4月4日と5日の夕刊に2回にわたり掲載された、日本の若者は殺さないというタイトルの企画ものの記事だ。

「日本の若者は、おそらく世界一、人を殺さない若者だ」というのが、その記事の出だし。

近年、未成年者による凶悪な殺人事件が何度か起こり、そうした事件の印象だけが人々の記憶に残る。
…でも、実際のところ、日本の若者の殺人は過去何10年にも渡って減り続け、主要国のなかでも最も低い。その記事はそんな事実を明らかにしていた。

ここで興味を抱く人のために、インターネットでもその記事がオープンになっていればいいのだけど、残念ながらどこにもアップロードされていないようだ。
朝日新聞大学入試研究所のサイトに、記事の前編が引用されている。それから、こちらにもその記事をめぐる論説が掲載されている。そんなところかな。

それまでこのような分析を目にしたことがなく、その時の僕にとってこの記事はとても面白く思われたのだ。

目から鱗ってやつだ。

ふつう、世の中だんだん悪くなる、というのがおそらく大勢の人の実感なのだろう。
でも僕は内心、この世の中そんなに捨てたもんじゃないんじゃないか? とつねづね思う。ちょっとみんな過度に自虐的で、いささかセンシィティブに事件や事故の報道を受け止め過ぎているんじゃないか。

しかして実際のところ、統計を洗い出せば、こういう事実も浮かび上がる。
欧米にもアジアにもない、日本特有の傾向なんだそうだ。

なぜ現代の日本で、若者が人を殺さなくなっているのか。その問いに対する明快な解答は記事にはない。それは結局のところ、誰にもわからない。
わからないんだけど、とにかくこれが事実ならば、とてもよいことだと僕は思った。

この、僕らが生きるこの世の中はそれほど捨てたもんじゃない。それを証明するいくつかのグラフの一つなのだ。
…そんな思いを抱いたからこそ、今でも記憶に留まっている。

では、2005年もよい年でありますように。

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December 30, 2004

マトリックス・リローデッド

12月26日にスマトラ島沖で起きた地震を、NHKのニュースで巨大地震と表現している。
たんなる大地震ではなく、あえて巨大地震と呼ぶとは…? と思って調べてみると、マグニチュード8以上の地震を巨大地震と呼ぶことがあるようだ。

たしかにマグニチュード9.0と聞いた時は、どえりゃあ地震だがや、と思った。
といっても僕は地球物理学の専門家でもなんでもないので、報道で耳にしてきた数字の印象で言っているのに過ぎない。
ただ、耳にしてきた限りでは日本で起こる地震で、マグニチュード6とか7の地震は聞くが、マグニチュード8以上というのは聞いた覚えがない。
調べると関東大震災がマグニチュード7.9、阪神大震災がマグニチュード7.3。先日の新潟県中越地震は最初の本震がマグニチュード6.8だったようだ。

マグニチュードが0.2上がると地震の規模は倍に、1上がると実に32倍になるらしい。いやはや、たいしたもんだがな。

そんなことを考えているうちに地学熱がちょっと高じてきたので、書店に行って石黒耀震災列島を買ってきて読んだ。

この石黒耀氏といえば、破局的噴火を主題にしたデュー作の死都日本がかなりインパクトのあった。
数万年に一度のサイクルで起こると言われる超巨大規模の噴火。それが現代の日本で起こり、国家が破滅に陥る様を描いたものだ。
カタストロフィーのスケールが無限大、加えてウンチクも満載でぐんぐん読ませる物語だった。

つまりは、地学をテーマにしたハードSFだ。この手の小説は小松左京日本沈没以来だと思う。
「日本沈没」は、僕が中学生の時に読んで虜になった小説だ。地殻変動で日本列島が沈没に至る過程の説明に地球物理学の理論が駆使され、まさに珠玉のSFだった(なにせ映画版には竹内均が登場しているほどである)。
とはいえ、日本列島が短期間で海底に沈むというのは、現実には起こらない変動だろう。それに比べ、「死都日本」で描かれる破局的噴火は何万年という時間軸のなかでは確実に起こる。そう思って読むと、ぞくぞくとするようなリアリティを感じた。

さて「震災列島」だけど、買ってから知ったけどこれ、名古屋が舞台の小説だったんだね。名古屋が大地震と、大地震後の津波に襲われて水没してしまう…。

考えてみれば東海地震がテーマなので、その地にある大都市としては妥当な舞台設定と言えるだろう。おかげで名古屋弁や東海地方の地名がたくさん出てくる。
愛知県生まれで名古屋市内の大学に4年間通った身としては、大変読みやすい小説である。清水義範の作品じゃなくても、名古屋はこういう形で文芸の舞台になりえるんだ…。

12月30日。自宅でマトリックス・リローデッドを見る。かなり前にWOWOWで放送されていたものを、HDDレコーダーに録画していたのだ。

本当は、この年末の休暇中にエイリアンVS.プレデターか、スーパーサイズ・ミーを見に行きたいと思っていた。

しかし、29日が雪が降るなどかなり寒かった。それで、あいにくのことに風邪気味となってしまったんだよね。
ふだん体調を崩すことはあまりない身なのだけど、とにかく正月の帰省もしなければならない。あまり無理に出歩かずに部屋でおとなしくしようと、映画鑑賞はとりやめた。
「震災列島」を読み進めたり、ドラクエ8をプレイしたり、年賀状を印刷したりして(これはもともとしなければいけない)、時間を過ごす。

そして、HDDに録っただけで見ずに放置しているTV番組を整理しようと思い立ち、リモコンでナビを見ていて、目についたのがマトリックス・リローデッドだった。そんな理由で鑑賞し始めたのである。

しかしながら、前作のマトリックスも本気では見ていない(たぶん部屋で鑑賞していて、途中であきらめ最後まで見ていないか、あるいはどうでもよかったかでラストを記憶していない)。その上、今回のリローデッドもながら視聴をしていたら、まるでお話がよくわからなかった。
攻殻機動隊並に理解し難い。

ただ、たまたま今日の僕にとってよくわからなかったからといって、 この映画で描くテーマを否定するものではない。
やはりこういう映画は、部屋のTVで鑑賞するのは向いていないということなのだろう。映画館に行って、2時間缶詰になる覚悟を決めて眺めるべきである。

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December 23, 2004

ニュースの天才

この映画を見て、考古学界を揺るがしたあの大事件を思い出した。

本論に入る前に、僕と考古学の関わりをちょっと述べておこう。
また学生時代の話になる。いまをさかのぼること10余年前、僕は名古屋市内の私立大学に通い、文学部で文化人類学を勉強していた。

当時、僕のいた学科には民族学考古学の講座があり、僕は民族学のゼミに所属していた。ただ、同じ学科のなかには考古学の講座もあるわけなので、考古学の講義もいくつかとっていた。

もっとも専攻していたからいって、熱心に学問を追究していたわけでは全然ない。それは他の多くの文系学生と同じだ。
民族学専攻だからといってフィールドワークにも行くわけでもなく、同じ学科の考古学専攻の学生たちのように発掘のアルバイトに精を出すこともなく、そんなふうに4年間を終わった。
少しもったいなかったかな、と正直いまでは思ったりもする。

大学を出て社会に出て、僕は全く違う分野での仕事に就いた。
そうして、考古学とは縁のない日常を生きることになった。

2000年11月5日。毎日新聞朝刊は、旧石器発掘捏造事件を報じた。
僕がサラリーマンになって6年目の秋のことだ。

数々の遺跡発掘で発見を繰り返し「神の手」と呼ばれた藤村新一氏。
その藤村氏が、宮城県の上高森遺跡の発掘現場で石器を埋め、発見の捏造をはかろうとする決定的瞬間を毎日新聞の取材班がビデオに撮影。同紙のスクープとなったわけだ。

その後の検証作業の結果、彼が関与した162の遺跡の捏造が断定された。20年以上に渡って捏造を繰り返していたのである。
旧石器時代をめぐる教科書の記述は修正され、日本の前期旧石器時代の研究は白紙に戻ってしまった…。

まさに、考古学をゆるがす大事件だった。発覚後、考古学関係者はずっとその後始末に追われただろうし、このことで人生の歯車が狂ってしまった人も少なからずいることは想像に難くない。

もっとも僕はリアルタイムでそうした事情を把握していたわけではなくて、その時は断片的に報道を目にするくらいだった。
その全容を知ったのは、毎日新聞旧石器遺跡取材班による発掘捏造古代史捏造を、2003年から2004年にかけ読んだことによる。
この両書でスクープに至る経緯と、ゴッドハンドと呼ばれた男による捏造の全貌を知った。そのスケールの大きさにただただ圧倒されるばかり—。

ただ、なぜ藤村氏がそんなことをしてしまったのか。その人間心理の内面までは誰も知り得ていない。
これは当人が語らない以上どうしようもないことなのだけど、多くの人にとって最も知りたくなるその肝心のところが、いまだ薮の中にある。

なぜ、人は嘘をつくのか?

いったん嘘をつくと、それを取り繕うために嘘の上塗りを重ね、嘘の常習犯となる。

僕は幸いなことに、あからさまに嘘をつく経験はほとんどない、と思う。
とはいえ、ある事実を脚色したり単純化して、多くの人にわかりやすい内容にして、人と会話をする席で受けをとるくらいのことはする。誰でもこのくらいはするだろう。

その経験から推し量ると—。
たぶん、嘘をつくことで得るものは、罪悪感や後悔と、その嘘を信じた周囲の喜びや尊敬。その両方がある。
後者の快楽で前者の感情を押し殺し、自分の行為を正当化するようになる。そういう一線を踏み越えて常習化するタイミングが、どこかにあるのだろう。

くわばらくわばら。

映画館でニュースの天才を見ながら、この旧石器遺跡捏事件をずっと考えていた。

この映画そのものの感想を述べると—。
きっとこのお話は、事件の検証とか、ジャーナリズムの現場を描くといった目的があるのだろうな。
でも、先入観なしで見に来る人にとってはどうか。

この映画は、嘘がばれた時の経験—誰でも多かれ少なかれ、子供の時にあったと思うけど、あの時の感覚を再び味わうことのできるお話だと言える。
あぁ〜という後悔の念と脱力感と、じっとりと体のうちからにじみ出すあの汗と、そうした嫌な気持ちの諸々を再体験できます。
…だから、気楽に映画を楽しみたい人にはオススメできないかもしれないな、と思う。

それにしても、旧石器遺跡捏事件のほうは、誰も映画やドラマや、あるいは小説にしないのだろうか。
事件の検証は済んだが唯一、主犯の心理が明らかになっていないわけで、想像力を働かせて作品化する上では、打ってつけの題材のような気もするが…。

まさに、事実は小説より奇なり、なのだ。

いや、事実ではなく嘘か。

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December 11, 2004

ゴジラ FINAL WARS

NHKのニュースを見ていたところ、世論調査で小泉首相の靖国神社参拝について意見を聞いた結果を伝えていた。続けた方がよいという人が46%で、止めた方がよいという人が38%だとのことだった

先日同僚と飲んでいて、酔った勢いの上での談義なのだけど、中国だとか靖国だとかの話題になった。その時は、僕の周りに座っていた2人が2人とも小泉首相の靖国参拝は続けるべきだと言っていたので、たしかにそういう意見のほうが多いのかな、と思う。

ただ、僕の意見としては、日本の総理大臣は、靖国神社にお参りすべきではないと思う。
それは中国の反対があってもなくても関係ない。理由としては、日本国憲法に以下のような条文があるからだ。

 日本国憲法 第22条
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 (中略)
 第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

だから、別に靖国神社へのお参りに限ったことではない。
たとえば年始の伊勢神宮へのお参りもどうかと思う。これがキリスト教の教会であろうと、あるいは僕の地元の氏神さんである古村積神社だったとしても、公人としては行くべきではないと思う。

公職にある政治家が宗教行為を自らの支持のために利用する。あるいは、宗教団体が政治家の訪問を受けることで何らかの権威を得る。
そういうことは、政教分離の原則を掲げている国では、のぞましいことではないという気がする。

ところで、靖国神社には一般の軍人の戦没者に加えて、A級戦犯もお祀りされているらしく、それが中国などから反発を呼ぶ大きな原因らしい。

このA級戦犯がどういう人たちかというと、一連の「侵略戦争」についての「共同謀議」を行なって、平和に対する罪、人道に対する罪を重ねた人たち、となる。
極東国際軍事裁判(東京裁判)でそのように判決が下った。

4、5年前に僕も、東条英機と東京裁判を描いたプライド 運命の瞬間(とき)という映画を見たことがあった。
それがきっかけになったと言えるのかどうかわからないけど、ここ2、3年、僕は日本の近代史にわりと興味をもち、本を読み始めた。太平洋戦争の開戦に至る経過の記述もいくつか目にしている。
まあ、読んでいるのはこんな本とかこんな本とかこんな本とか、こんな本だ。

そのなかでわかってきたことだが、東京裁判で言われた共同謀議があったのかというと、それは大きな疑問である。共同謀議を認めた研究者の本は、1冊も出会ったことがない。
やっぱり、統帥権の独立を盾に軍部が暴走していく過程と、政治家が世論迎合でかつ無責任である様の記述ばかりが目につく。

軍人や政治家たちが共同で謀議を巡らせて戦争を遂行していたというのは、間違いなのだろうと思う。

このことは、東京裁判の正当性に疑義を生じさせる。そしてその結果、この裁判の構造を批判する、いわゆる「勝者の裁判」という論に力を与えるものとなる。
この主張をさらに進めると、A級戦犯は占領の犠牲になって刑に処せられた殉難者という理屈も出てくるだろう。

でも仮に、それが勝者の裁判であり、共同謀議の認定が虚構だっとしても、戦後、日本国はその虚構にのっとって独立を達成したのも、また事実である。

 サンフランシスコ平和条約 第11条
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)

受け入れているわけだ。
この結果、日本の国は戦後の発展を享受し、当然ながら政府はいまでもこの論理は捨てていない。政府がサンフランシスコ平和条約を破棄したという話は聞かない。

そのような理屈を受け入れて成立した国の行政府の長が、その戦犯が祀られた靖国神社にお参りに行く。
これは、もしかすると、虚構の論理を奉じたことについての贖罪の表現なのかもしれない。
もっともお参りしている当事者がそんな事情まで鑑みているのかは、わからない。思うに、たんに、論理の矛盾に対する感性のなさを披露しているだけ、という気も同じくらいするのだけど。…まあ、なんともわからない。

いずれにせよ、日本国は無理のある戦争を行い無条件降伏を受け入れた。その帰結として、虚構を抱えて独立せざるを得なかったという現実がある。
そして同時に、この矛盾した現実を受け入れることへの抵抗は、「勝者の裁判」論とか「A級戦犯は殉難者」とか「大東亜戦争は正義の戦争であった」といった主張を産み落とすことになる(靖国神社のWebサイトにもそのような趣旨の主張が掲載されている)。

ある意味、不幸なことなのかもしれない。
たた、その当時—敗戦後の歴史の経緯が、そうせざるを得ない道のりを辿らせたのである。論理の矛盾や、そこに対する抵抗が生じたことも含め、これが成り立ちなのだ。

だから考えるに、こうした経緯については、ある特定の観点にもとづく主張を抱き、それに盲目的に組するのは得策ではない。それらの主張が産み落とされることになった歴史の過程こそ、目を向けるべきものなのだ。クールに、複眼的に。
僕はそう思って、今日も本を読む。(ちなみにいま読んでいるのは、民主と愛国…これは本当に参考になる)。

しかし…イラクなど見ていると、あんなふうに国を崩壊させられては、敗戦後の日本よりもはるかに、とってもとっても大変なんだろうな。
復興も困難だろうけど、仮に復興できたとしてあの国が今後抱え込むであろう分裂した国論。それについては、同情を禁じ得ません。


さて、12月11日。最初はあまり見に行くつもりはなかったのだけど、ゴジラ FINAL WARSを見に行くことにした。

実は僕は、怪獣映画はけっこう好きなのである。
にも関わらず、ゴジラ映画は、見ていていつも脱力してしまう。だから、このところは忌避すべき対象になっていた。

これまでに、TVやビデオで見たもの、実際に映画館に足を運んだものを区別せずに、鑑賞したゴジラ映画を挙げると、ゴジラゴジラ(1984)、ゴジラ VS ビオランテゴジラ VS キングギドラゴジラ VS デストロイアゴジラ 2000 MILLENNIUMGODZILLA(米国版)がある。

見ていてがっかりしてしまうのは、どうしてもガメラと比べてしまうからだ。

いわゆる平成ガメラ三部作は、抜群に面白い。
怪獣出現という荒唐無稽な事態を描くなかでリアリティを重視したガメラ・大怪獣空中決戦、ハードSFのテイスト漂うガメラ2・レギオン襲来、前作とは打って変わって古都を舞台にした伝奇作品となったガメラ3・邪神〈イリス〉覚醒などなど。

平成ガメラを超える面白さをもつ怪獣映画は、僕にとっては1954年の初代ゴジラしかない(1954年のゴジラは、たんに怪獣映画の傑作というだけでなく、邦画全体を見渡してみても最高傑作だと思う)。
よく言われることだけど、あれは戦争の記憶を呼び起こし、リアルな恐怖感を感じさせる映画だったのだろう。

それ以外のゴジラ映画は、全てとは言えないが、かなりの作品が僕にとっては駄作に感じられる。
理由は簡単だ。ストーリーに、まるでリアリティがない。人間の演じるドラマが凡庸。子供仕立てで大人の鑑賞に耐えられない。
そんなところが、毎回がっかりさせられる。

だいたい続編を作り過ぎなのである(ゴジラは寅さんか?)。作品ごとで完成度が異なり、設定としても世界観が一定していないのも問題だ。
というわけで、ゴジラ映画なんてもう見に行かないぞ、と心に決めていたのだ。

でも見に行ってしまった。
というのは、ふと目にした新聞の映画評で、いままでのゴジラとは違うというようなことが書かれていた。それを読んでこれはもしかすると面白いのかもしれない、と思ってしまったからだ。

なるほど、いままでのものとは違いました。一言で言うと、戦隊ものになっていました、ハイ。
ゴジラや怪獣たちが暴れるシーンはその通りとして、人間たちが演じるドラマ仕立ての部分は、アクション戦隊ものとサンダーバードとインデペンデンス・デイを足して割ったような感じであるよ。

これは、面白い。
でももっと分析的に言うと、素直にある程度面白いというのと、いままであまりにつまらなかったから多少趣向を変えただけで痛快に感じられる、というのが足し算された面白さなんである。
1回限りの楽しさであり、もしこれが1回で終わらず定番路線になったら、それはそれで辟易してしまうだろう。

今回がFINAL WARSといいながら、早くもゴジラは再び帰ってくるだろうということが映画関係者の間では言われているみたい。
でも、もう帰ってこなくていいよ。
あまり続編を作られると、またがっかりする機会が増えるだろうから。

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December 04, 2004

血と骨

ドラゴンクエストVIIIをようやく入手できた。

このゲームが、プレイステーション2向けに発売された、今年最も売れるタイトルにおそらくなるであろうことは、言わずもがな。

このVIIIが、これまでの一連のシリーズとは装いを大きく変えているのが、ハードウェアの進歩に合わせてフル3Dを採用しているところ。
RPGのもう一つの巨頭、ファイナルファンタジーシリーズでは、もう何年も前、プレイステーション上でのリリースと同時に3D化に舵を切ったのだけど、ドラゴンクエストシリーズではこれが初めてだから、人によって好き嫌いの判断がわかれそうではある。
グラフィックと操作性が変わっただけで、ベースとなる世界観は、従来のドラゴンクエストのままなんだけどね。

僕は、中学2年の時に当時一世を風靡していたファミリーコンピュータドラゴンクエストの第一作をプレイして以来、このシリーズの作品は、ほぼ全て購入し、プレイしている。
いまでも時折、ゲームボーイでリニューアルされて発売されたドラゴンクエストI・IIで遊んでいるのだ。

一連のシリーズで僕がいちばん好きなものを挙げると、少しマイナーなんだけど1990年に発売されたドラゴンクエストIV〜導かれし者たちですね。

この作品が好きなのは3つの理由がある。
まずストーリーの作り方というところで2つ。5章仕立てに別れていて、まずそれぞれのキャラクタになりきって各章をプレイした後で、最後の章にキャラクタが集結して主人公と出会うという構成。次に敵の大ボスが人間を憎み根絶やしにしようとするまでの経緯の描き方。そりゃ当然だと思うほど悲しいものがありました。これらはよかった。
そして3つめはシステム。AIのシステムが導入されてボタンを適当に押すだけで戦闘が進んで行き、あまり頭を使わなくてもよくなったという、操作性の上での改善(人によっては改悪だったみたいだけど)はなにより大きい。

思い起こせば、大学4年の初夏、就職活動をしていて期待していた企業に全て落ち、ついに持ち駒がなくなったことがあった。この先俺はいったいどうなるんだ? と深く思い悩んでいた(…ああ、あれは失恋と同じくらいしんどかったな)。
その時、気晴らしと暇つぶしにIVを再びやり初めて、ついついクリアしてしまったのも、いまとなっては実に思い出深いことである。

ちなみに最後まで遊んだのはI〜Vまで。これ以降のVI、VIIはいまだ最初のところで終わっている。
Vまでが学生で、VI以降が社会人になってからの発売だから、単純に時間がなくなったんだろう。悲しいことだ。

そういえば、社会人になってからの9年間でクリアしたRPGは、ファイナルファンタジーIXだけなんだよなあ。

XIは、ファイナルファンタジーの一連のシリーズでは、これまたあまり話題になっていない作品なんだけど、僕は好きだ。
なにより、えー、ヒロインのお姫様がよかったのです。
当時好意を抱いていた職場のかわいい女性と雰囲気が似ていて、一人連想を働かせ愉悦の世界に浸りながらプレイしていたら、最後まで至ることができた。
社会人には過酷といっていいほど長時間プレイしなければならない大作路線のゲームに取り組む上で、そういう脳内麻薬を分泌させるような何かしらの動機は、きわめて重要だと思うのであります。

ドラゴンクエストVIII〜空と海と呪われし姫君も、なんとかクリアに至りたいものであるな。
はい。白状すると今回は後輩の女性と、一緒に競い合ってプレイすることを約束しました。

…と、わりと脳天気なことを書いたところで、今回見た映画の感想。

血と骨

この映画は、当初はとくに見に行くつもりではなかった。
僕と同様いまだ独身・カノジョなしの三河の友人、Rから見たというメールを受け取った。調べてみるとレイトショーでもまだやっていたので本牧に鑑賞に赴いた。

いやはや、掛け値なしに稀代の悪漢を描いた、実に壮絶な物語でありました。
既にいろいろなところで語られている通り、人並みはずれた強欲と凶暴さ。その描写は中途半端ではない。だからこそその男と相対する息子の葛藤のリアリティも十分である。
フィクションとはいえ、実在の人物をモデルにしているというから、また空恐ろしい。

ビートたけしの怪演ぶりがとりわけ決まっている。
原作は、僕はまだ読んだことのない作家だけど梁石日の、同名の小説

劇中に映し出される、在日朝鮮人コミュニティ周辺の日常風景から、戦中・戦後の日本の変化が垣間見える。
ということで、裏韓流としてお薦めしたい一本です。まあ、邦画だし、とくに思いのない人は決して見に行かないタイプの映画ではあるけど。

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