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January 29, 2006

フライトプラン

最近、ライブドア事件を伝える産経新聞の記事が抜群に面白い。フジサンケイグループの一翼を占める同紙、論調の端々に“ほれ見たことか”というニュアンスが漂っていて、まさに鬼の首をとったような勢いを見せている。

聞くところによると、産経新聞の報道は昨年のいまごろ、ライブドアがニッポン放送の株を買い占めていた騒動の最中も、半ば当事者としての切実感のためか、かなり読み応えがあったらしいが…。その時は引っ越し前でまだ購読していなかったので目にする機会がなかった。これはけっこう損していたことになるのかもしれない。


さて、早いもので1月もそろそろ終わりだ。1月最後の日曜日に鑑賞した映画は「フライトプラン」であった。なんだか久々のジョディ・フォスターが主演で、飛行機を舞台にしたミステリー映画である。

goo映画のサイトに載っているストーリーの紹介から引用すると…。

夫の突然の事故死に見舞われた航空機設計士のカイルは、6歳になる娘のジュリアを連れて、ベルリンから故郷のニューヨークへ向かう飛行機に乗り込んだ。夫の棺を乗せて飛び立つハイテク重層ジャンボジェット、E−474。それは皮肉にもカイルの設計した最新鋭の航空機だった。機内に落ち着くと、カイルは睡魔に襲われ、夢の中で夫の幻影を見る。やがて目を覚ますと、隣にいたジュリアの姿がない。客席、トイレ、厨房と探し回るが、乗客も乗員も誰一人として娘の姿を見た者はいない。ジュリアはいったいどこへ消えたのか?


というもの。予告編を見ていったいどんなオチになるのだ!?と、ちょっと興味がわいて映画館に足を運んだわけであるが。といってもこの手の映画は、犯人は身近にいて一見善人っぽいやつを疑え、というのが鉄則。ズバリ、その原則には漏れないお話ではあったよ。

ところでこのスクリーンをながめつつ、僕の頭でついつい連想してしまった映画のタイトルがあるんだよね。「フライトプラン」を観に行って物足りなかった人は、こちらのDVDをレンタルして鑑賞することを強くおすすめする。…ハイ、その映画のタイトルとは、「フォーガットン」です。

こちらのほうも、子供が消えてしまった母親の話。しかもなぜかそこに飛行機が絡んでいるところも、似ている要素ではある。でも、機中の話ではない。飛行機事故で息子を亡くし悲しみにくれる主人公。なのに、別れた夫や、周りの人は、そもそもそんな息子などいなかったと口を揃える。ある日を境に、息子が生きていたことを示す痕跡が周囲から一切合財消え去ってしまう…。不可解な状況。こんなをいったい誰が、何のために? それが陰謀であることを確信する主人公は、どこかに隠蔽されているであろう息子の姿を求めて探し続ける…。

なんとも興味をそそるじゃありませんか。しかもこのオチは、言葉では言い表せないほど素晴らしいものだった。というか、オチなどなかったといったほうが正確だろう。あまりにストレートな展開に驚愕する。ぜひ観てください。うまくすると“開いた口が塞がらない”“目が点になる”という想定外の経験が、できます。


まあ、ジョディ・フォスターが主役に座っている時点で、「フォーガットン」のような奇想天外が結末が許されるはずもなく。常識的な範囲内での、機中ミステリーに落ち着いたと言えよう。映画を愛する三河在住の独身男Gからは、“(おなじジョディ・フォスター主演の)「パニック・ルーム」並みにすんなり終わってしまう”との評が届いたが、まさに同感であった。

いや、“すんなり”と感じたというのは正確でないかもしれないな。僕としては、ストーリーにやや疑問があるといえばあるからだ。それはこんなことだ。
・女の子が乗り込むところや、連れ去るところが誰かに目撃されていたらどうするつもりだったの?
・なんでさっさと殺さずに、眠らせておくだけにしたの?

この犯人、悪事を働くのにわざわざ回りくどい方法を選んで、余計なリスク抱え込んでいるような気がするんですけど。それがたんに機中を混乱させて、さらに罪をなすりつけるため? うーむ。。。犯人の最終目的を達成するためとかならば、もっとよい方法がいくらでも考えつきそう。にもかかわらず、なにゆえこんな手間のかかることをするのか。オチがわかってからの機内二人追いかけっこの模様につきあいながら、腑に落ちない思いが僕の頭をよぎっていた。

だいたい主人公が飛行機の設計技師という設定も、意味があるんだかないんだか。設計者なのにできるのは、回路をショートさせて、酸素マスクを出すだけ…? そもそも犯人だって独力で貨物室に潜り込んだり、大切なものをあんなところに隠蔽したり。既に設計者並みに飛行機の構造に詳しいんだよねえ(あ、恋人に教えてもらったのかな?)。でも、もっと詳しいかもしれない主人公が見つけてしまう可能性は、彼は考えなかったのかな。

ふむ。まあ、そこはそこ。娯楽映画なんだし、あまり深く考えず済ますのが、鑑賞者の“あるべき姿”というものだろう。


上映時間が長過ぎもなく短くもないのは、よかった。全体で100分ちょっとくらいだったのかな? 最近やけに長い映画が増えているような気もするが、疲れず気軽に観るにはこのくらいがちょうどいいと思う。

劇中、機内で上映される映画を評して登場人物が「ひどい映画でも、上空11,000メートルの映画館からは出て行くことができない」とぼやくシーンがある。その映画のタイトルは、いったいなんだったのだろう。後で思い出して、ちょっと気になった。

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January 21, 2006

ホテル・ルワンダ

yukigeshiki雪だ、雪だ〜♪

土曜日の朝、目覚めるとあたりは真っ白だった。全国的に例年にない積雪が伝えられるこの冬だけど、横浜、東京周辺で本格的に積もったのはこれが初めてだろう。

センター試験の受験生にとっては思わぬ災難だと思うけど、サラリーマンの身としては、会社がお休みの日に降ってくれるのはかなり気が楽で、純粋にふだんとは違う真新しい風景を眺めていられる。これが平日だったら、悪くすると電車は止まるし、でも会社に行ったり客先に出向いたりしないといけないし、大変なところだ。

そんな雪の休日に、この日から川崎のCINECITTAで公開となった映画「ホテル・ルワンダ」を鑑賞に赴く。


1994年の4月といえば、僕は何をしていただろう。

そう、その時は大学4年で、就職活動の真っ只中だった。いままで経験したことのない初めての活動であり、将来への大きな不安を抱えていた。そんな気持ちのなかで企業訪問や説明会への出席を繰り返し、名古屋の栄や伏見などのオフィス街を歩いたり、時には高速バスに乗って東京の会社に出かけていた。そんな季節だったんだっけ。

その時、地球の裏側で数10万人もの人々が殺されていたなんて、思いも寄らなかった。


 newsweek20040514
 NEWSWEEK日本版 2004.5.14号)


後に、ルワンダ虐殺として知られる史上最悪の事件。アフリカの真ん中にある、ツチ族とフツ族が住まう国ルワンダで、フツ族民兵によるツチの民族抹殺が企てられ、実行されたのだ。驚くべきことに、それが進行しているさなかにその惨劇が世界に伝えられることはほとんどなかった。国連や大国は、それを黙殺した。

これは僕の記憶によるところで、当時の新聞縮刷版などを参照しているわけではないが、新聞の外信面にそのニュースが載るようになったのは、たしか8月か9月くらいのことだったと思う。終わってからのことだ。つまり、ルワンダに生きる人たちの命の価値なんて、他の国々の人たちにとってそんなものだったということだ。


しかしほんの2ヵ月か3ヵ月の間に何10万人もが殺される事態というのは、僕にとっては想像し難い。おそらく世界の多くの人たちにとっても同じだろう。

筆舌に尽くし難い恐怖と、果てることのない無念と、決して許されない残虐が、数えきれないほど繰り返された。いったい、その事態とはいかなるものなのか? それまで市井のなかで共に暮らしていた隣人や同僚や、親族を、どうして手にかけることができるのか? そもそも、そこに至る状況をどうやったら作り出すことができるのか?

その答えを知りたいとずっと思っていた。そこでおととし、ルワンダ虐殺を取り上げた書籍を読んだのだった。


  genocidenooka_cover

 フィリップ ゴーレイヴィッチ (著), 柳下 毅一郎 (翻訳)
 ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872901584/
 ジェノサイドの丘〈下〉 ルワンダ虐殺の隠された真実
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872901592/


この本で知った真実は多いのだけど、しかし正直なところ、上の問いかけについて根本的な解を得られたわけではない。渦中に身を置いたものでなければわからないことは山ほどあるだろうし、もしかすると渦中にいても知り得ないものなのかもしれない。いま僕らにできることは起こったことを知り、それを記憶しておくことだろう。

この事件における数少ない救いの一つが本書の主要な人物の一人として登場する、オテル・ミル・コリンのマネージャー、ポール・ルセサバギナさんの行動である。1,200人余のツチ族とフツ族穏健派をホテルに匿い、守り切った人物がいたのだった。そして10年の時を経て、その行ないが映画化されるに至ったわけだ。

この本を読んでいる限りでは、オテル・ミル・コリンのリアルな状況というものも想像に難かった。本の描写の限りでは、多くのツチ族が滞在しつつも、同時に政府軍と、フツ族民兵が出入りしていた不思議な空間のように読み取れた。外国からの圧力があったとはいえ、大虐殺のさなかになんという悠長なことだろう。それが一読した時の正直な僕の感想だった。

しかし今回映画化された「ホテル・ルワンダ」を見て、その空間がただ漫然と維持されていたのではなく、やはりそこには、ホテルと人々の命を守ろうとする奮闘があったのだということがわかった。


この映画は、アカデミー賞でも3部門にノミネートされるなど国際的には高い評価を受けたようだ。しかし、もともと日本公開の予定はなかった。要は、遠いアフリカの国を取り上げた映画など上映しても客足が見込めないわけで、それだけ日本にとってはまだ他人事だ…と言い切ってしまってもいいのだけど、実際はアカデミー賞にノミネートされたことでかえって配給価格が上がってしまって釣り合いがとれなくなったというのが真相のようだ。

これは一部では報道されていたことだけど、そこで「ホテル・ルワンダ」日本公開を求める会が結成されてインターネットなどを駆使して署名運動が始まった。そうした運動が効を奏したのか、今回公開の運びとなった。

まず今月14日から東京・渋谷のシアターN渋谷で上映が開始された。そしてその翌週の21日から神奈川県では川崎のCINECITTAで上映の運びとなったわけだ。
僕はレイトショーで観に行ったのだけど、大スクリーンで公開されていたわりにはけっこうな客足だった。こういう映画が多くの人の目に触れることは、よいことだと思う。ちなみに僕の脳内では、「シンドラーのリスト」「ヒトラー〜最期の12日間」、あるいは「ロード・オブ・ウォー」に連なるものとして整理される作品である。

これから全国で順次公開されていくようなので、国際関係論やアフリカの国々、民族事情といった分野に関心のある人はぜひ足を運ぶとよいと思います。


# ちなみに昨年開催された、僕の地元最大のお祭り・愛知万博(愛・地球博)にも、ルワンダが出展していました。僕にとっては絶好に面白かったアフリカ共同館のなかにルワンダのブースがあって、“おお!”と思いました。
# がその後、大量にコーヒーなどが売れ残って、帰るに帰れなくなっているとのこと。近況を伝えるブログもあります。


 

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January 08, 2006

SAYURI

日本人芸者をチャン・ツィイーが演じているとか、日本が舞台なのにセリフが英語だとか、いろいろ槍玉に挙げられそうな要素に満ちた映画「SAYURI」(Memoirs of a Geisha)。
そういう話題もさることながら、渡辺謙、役所広司のみならず、なんと桃井かおりまで劇中では英語を喋っていると聞き及び、がぜん観に行く気が湧いてきた。

そして観に行ってきたのだが、僕としてはこういう形で日本が描かれるのは、珍しく抵抗がなかった。他者に自分が属する文化がどう映るのかというのは、異文化理解の逆の意味でよい教材である。おそらく、他者が日本文化を見るまなざし、というのはこんなものなんだろう。そして、こう描かれることは、日本が国際化していることの証であるのだと考えたわけだ。


 
 (写真は、goo映画より引用 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7886/index.html


●僕がSAYURIを受け入れたわけ

そのように素直に受け入れた理由は3つほど考えられる。

まず第1に、まず日本が舞台なのに英語を喋っているという点については、そんなもんだろうという割り切りがあったということ。

もともと米国ハリウッドは徹底的なまでに英語で映画を作るじゃん。たとえば映画「アマデウス」は、オーストリアが舞台なのにドイツ語ではなく英語を喋っているし、「ラストエンペラー」では剃髪した中国人たちはみな英語を喋り、「K-19」はソ連の潜水艦のお話で、敵が米国であるのにやはり英語を喋っていた。そんなんでいちいち目くじら立てていたってしかたがない。

逆にいうと、吹き替えより字幕のほうがレベルが高いと思っている日本人の感覚のほうがおかしいのかもしれないよね。字幕なんて一瞬見逃しただけで筋がわからなくなっちゃったりするし、情報量としてもセリフに比べるとはるかに削ぎ落とされている。気楽に映画を楽しむには至ってイケていないものなのに、ありがたがって一生懸命目で追っているほうが変といえば変である。


次に、映画の背景で日本文化が、随所で妙な描き方をされているということについては、それも米国ハリウッドのアバウトさからして当然だろうという思いがあったこと。だいたいこれは日本に限った問題ではない。ハリウッド映画はおそらくどの国を舞台にしたってヘンである。そこで描かれるものは、その現地に生きる人から見て奇妙な感じに見えるに違いない。これは、世界市場に向けて最大公約数的なわかりやすさを至上命題とする、ハリウッドという装置の事情なのだ。

それに、日本をテーマにした出版が海外でヒットして映画化される事実自体が示すように、日本は既に国際化のなかの日本なのである。その文化を解釈する権利は、別に日本人にしか許されないわけじゃない。
加えていえば、そもそも外国映画が描く日本の姿がヘンだと声高に訴えるのは、日本人が解釈する日本こそが正統だという、ある種の傲慢というか欺瞞が感じられるのである。たとえば日本人が描く時代劇だって相当にヘンだと僕は思う。


 newsweek20051214
 (NEWSWEEK日本版 2005.12.14号)


たとえばNHKが放映する大河ドラマですら僕からするとヘンである。僕は、毎年の大河ドラマを見ながら「そりゃ違うだろ」「展開をはしょりずぎだ」「この登場人物はそんなにいいやつではない」などと、一人腹を立てながら見ている。史実のねじまげと、ご都合主義的な省略の横行跋扈。NHKですらこのていたらくなのである。ましてやそれ以外の時代劇なんてほとんどデタラメにちがいない(大河ドラマ以外のドラマとか、民放の番組とかほとんど見ないからよくわからないけど)。

こういう、歴史を舞台にした日本の映画やドラマを、もし仮に日本史のその時代を生きている人に見せることができたら、どう思われるだろう。たぶんに奇妙奇天烈な考証のオンパレードで、理解不能のストーリーに映るのだとと思う。そう、日本人の描く日本だっておそらくヘンなのである。日本人に間違った日本を描くのが許されて、外国人が間違った日本を描いたら怒るというのは、相当に心が狭いというものだ。

しかしながら、こんなこと語り出すと僕はいささか痛い記憶がよみがえる。そうわきまえているつもりなのに、3年前に公開された映画「ラストサムライ」については我慢できなかった。あれはかなりひどかった。明治10年の日本の風景がアレか? そしてまるで中世武者のいでたちのようなサムライたち。日本の内戦への米国人大尉の介入…あまりにありえないストーリー展開に、唖然とした。

しかもそれを、たくさんの日本人が鑑賞に行って、“感動した”とか“まさに武士道だ”と言っているのを見るに及び、僕は激しく亡国の憂いを抱いた。一般ピープルだけじゃない。こともあろうに総理大臣まで映画を鑑賞に行って、トム・クルーズと面会したりしているのである。日本はそれでいいのか? この国には、これまでの歴史教育を自虐史観だと糾弾して、新しい歴史教科書を作って広めようとする人たちがいるけど、わが国民の歴史認識は自虐だとか言うはるか手前のところで、深刻なまでに無知なのは明らかである。

繰り返すが、「ラストサムライ」は本当にひどかった。それにしては「SAYURI」は、まだましなんじゃないかと思ったのである。


 
(写真はAmazon.co.jpより引用 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BTCMKG/


その「ラストサムライ」の記憶に関連するのだけど、SAYURIに抵抗を覚えなかった第3の理由。最大の事情がこれなんだけど、なにより僕が芸者や花街のことをよく知らないということだ。

ラストサムライ」を観たのは、僕はちょうど近現代史に関する読書に夢中になっていた時だったのだ。幕末から明治維新、そして後の文明開化、富国強兵に至る時代に、どんな事件があり、どういう社会背景があり、どんな矛盾が渦巻いていたのか。そういうことを知る醍醐味を、専門書などひもときながら味わっていた。そんな折も折に、トム・クルーズの映画は暴力的なまでのデリカシーのなさで、日本に上陸してきたのだ。

僕はこの映画を、話題作だからということで無防備に、紹介された女性とクリスマス直前、みなとみらいのワーナーシネマズに観に行ってしまった。うかつだった。その後中華街で食事をして、ストレートに映画の感想を口にして、歴史のウンチクを語り始めてしまったことで、一つの恋のチャンスを失ってしまった。痛く悲しい思い出だ。でも、口にせざるをえなかった。歴史は僕のライフワークだから黙っておられんのだよ。

これはその時代やその社会のことを知っているからケチをつけたくなるのである。大河ドラマの感想と共通するところだ。もし僕が仮に、僕が明治10年の日本の実像にたいして関心も知識もなければ、「ラストサムライ」になんの抵抗も抱かなかったかもしれない。渡辺謙とトム・クルーズの友情に感動していたかもしれない。そして今頃その女性とつきあってハッピーハッピーだったかもしれない。ああ…。これから映画のチョイスはくれぐれも気をつけよう。感想を口にする場合は努めて慎重にこころがけよう。

話を戻す。「ラストサムライ」の時とは異なり僕には、芸者や花街に関する知識は皆無である。そもそも芸者という職業の人にあったことがないし、当然、芸者のいる宴席に立ち会ったこともない。これからそういう機会が訪れるかというと、おそらくないような気がする。そんな人間だから、「SAYURI」について何も感じなかったのだ。

でも、たとえばこの映画の原作のネタ元の女性は、出版されて秘密を明かされたといって原作者を訴えたという。だからこの映画でも、当事者が見ればそこには何かしらモノ申したくなる込められたりしているんだろう、とは思う。幸か不幸か、僕にはそれを読み取る能力がないのである。


●思うにチャン・ツィイーとは、馬である

戦国時代を描いたドラマで、戦国武将は必ずサラブレッドに乗っている。もともとサラブレッドみたいなカッコいい馬は日本にはいなかったから、リアリティを重視するなら道産子あたりにすべきだと思う。

で、チャン・ツィイー演じるさゆりも日本人女性にしてはスラッとしすぎているよなあ、とずっと思いながらスクリーンを眺めていた。思うに、彼女はまさにこの馬の問題におけるサラブレッドなんだよね。馬にサラブレッドを使うなら、日本人芸者にチャン・ツィイーを使うことを攻められないというのが、僕の立場である。


そんな僕が今回注目したのは、チャン・ツィイーよりもむしろ脇役だった。まず、冒頭で述べた英語を喋る桃井かおりである。僕も英語が不得意だからといって逃げずにがんばらなきゃ、と思った。


そしてさらにもう一人。さゆりの少女時代、千代を演じる女の子だ。か、かわいい…(萌え)。プリティなかわいさというよりは、可憐なのだ。つぶらなまなざしで、いたいけない表情が印象に残る女の子であった。着物姿のこの娘の姿に釘付けになった。

 
(写真は、http://www.himawari.net/tsushin/closeup/close1-suzuka.html より引用)

帰宅してインターネットで調べたら大後寿々花チャンというらしい(漢字の姓名も特徴的ですね)。出演作に映画「北の零年」などともあるから、なるほど渡辺謙と吉永小百合の娘役として昨年の初めにいちど目にしているんだなあ。その時はまるで気づかなかったよ。

まだ小さいのに実は大物。僕にとって、柊(ひいらぎ)留美以来の注目子役として彼女は脳内に留まるであろう。きっと。

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January 03, 2006

ハリー・ポッターと炎のゴブレット

●責任をとらない校長の姿

世の中の校長先生に、僕はかなり同情的である。
なぜって、学校で何か事件が起こると記者会見の場が設定され、そこで責任者である校長の発言が求められ、釈明を行わなくてはならない。

その姿を見ると他人事ではなかった。これは完全に個人的な感情によるものだけど。

僕の父は教師で、その職業生活の最後の数年間に校長をしていたからだ。

その間、僕は父の学校で何の問題も起こらないことを祈っていた(まあ、世の中にある公立学校の数からすれば、確率としては交通事故に遭うのと同じくらい低いと思うけど…)。

仕事をソツなくまじめにこなしてきて、もう少しで退職というのにテレビや新聞に曝されることになってはたまったもんじゃないよ。まあ、それが管理職の仕事といえば仕事だけど、企業の経営者や政治家と違ってたいして権限もない職にしては、いささかアンバランスな責務だとは思うね。

その父も先日、ぶじ定年退職を迎えた。だからそのような杞憂をする必要はなくなったのであった。よかった、よかった。


しかし、それに比べてこの校長はなんだ。

生徒が死ぬような危険な競技大会を率先して行った上、結果一人の死者が出ても、責任をとって辞任するのでもなく、保護者やマスメディアからの非難の攻勢にさらされるでもなく、のうのうと職に居座っていられるなんて。

生徒を集めて演説するシーンを観ながら、お前が悪いんだろ! と内心思ったのは、僕だけではあるまい。
"
映画「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の、ボクワーツ魔法魔術学校のタンブルドア校長のことだ。

1月3日、正月休み最後の日の夜に鑑賞した「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」。ストーリーとしては、ホグワーツで、100年ぶりに開催された「三大魔法学校対抗試合」。その危険な試合に、3校の代表選手に加えてなぜかハリー・ポッターも参加することになる。ハリー・ポッターや他の選手たちは次々と課題をこなしていくのだけど…。あまりネタばれするとよろしくないんだけど、復活してきた悪い魔法使いの手にかかって、あっけなく死んじゃうんですよ。選手の一人が。

しかし、親御さんからお預かりした大切な生徒の命を失ってしまったというのに、徹頭徹尾、他人事のような言明に終始するタンブルドア。それでも校長か〜!


●萌え萌えハーマイオニー

まあ、お話なのだからそんなこと言っていてもしかたがないのだろうけど。

以前も書いたけれど、この映画の隠れた(僕にとっての)醍醐味は、エマ・ワトソン演じるヒロイン、ハーマイオニーが一作ごとに成長していく姿を見ることである。いやべつにハーマイオニーだけでなく主人公・ハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフ君や、ルバート・グリント演じるその友人(映画を観終わると同時に名前を忘れてしまう…すまない)も成長していくんだけど。しかし、そんなのは、その年頃の男子がどんなに幼稚で、ダサくて汗臭いか。しかもエッチなことに興味を持ち始めてギトギトしているさまは、自分で経験しているからいいのだ。僕の脳内世界に意味があるのはハーマイオニーだけなのだ。

まだいかにも子供だった「ハリー・ポッターと賢者の石」の時から、はっと息をのむようなかわいさで魅せていた女子だった(まあ、そうでなきゃ俳優にならないんだろうけど)。萌えた。

冷静に考えると、こういうコ、けっこう得しているんだろうなと思う。その容姿ゆえに周囲の男子にも、女子にも、そればかりか先生たちにも一目置かれ、みんなにちやほやされるし、あんまり変な係とか割り当てられることもない…(えーこれは決して僕の妄想でなく、以前一緒にハリー・ポッターの映画を観に行った、理系の先輩女性も同意していました)。
そしてあげくクラスのなかで一足お先に上級生とつきあったりする。そんなタイプの女の子だ。だいたい容姿で注目される前に、ハーマイオニーって名前が、絶妙に呼びづらくて印象に残りやすいんだよ。あと、学校の名簿を開いてハーマイオニーのパパの名前をなぜか調べてしまったり、きっとボクワーツ魔法魔術学校の男子たちはそんな馬鹿なことやってるに違いない。

話が延々とずれていきそうなんだけど、そのハーマイオニーは今回は見事なドレス姿でダンスを踊る。大きくなったねえ。益々綺麗になったねえ。見事に男をそそるそのまなざし。こうやって徐々に大人の女性になっていくのだな〜。と、トオイメで眺めるのである…( ̄ー ̄)

 
 (写真は、goo映画にリンク http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7730/gallery/p014.html

ああ…(;´Д`)


●私生活の“先生” 衝撃の実像

どうでもいい話に戻るけど、僕の家は、両親ともに公立学校の教師だった。

教師の家とは、どんな感じなのか?

僕の記憶に残るのは、こんな車中の風景。たとえば家族で外食に出かける途中の道だ。僕ら兄弟はクルマの後部座席に座っているのだけど、運転席の父と、助手席の母が車中でずっと会話している。

その内容は。学校の愚痴だ。夫婦で学校の愚痴を言い合っているのだ。たとえば上司が帰らないと帰りにくいといった職場の雰囲気への嘆息だったり、権利意識だけあって仕事をしない先生を持て余しているといった同僚への批判だったり。そんなことを延々と言い合って終わりがない。

そんなことをずっと聞いて育ってきた。

休みが明けて月曜になる。父はこんな言葉を残して、玄関を出る。「ああ、学校行きたくないなあ」。


中学生の頃、たしか進路に関するホームルームの時間だったと思う。職業とは何か、どういう進路をどう選ぶのか、なんてテーマだった。そのディスカッションのために身近な職業の例として、“学校の先生”が挙げられた。

学校の先生という仕事をどう思うか、アンケートがあった。周りの生徒は、「頭がいい」とか「きまりに厳しい」とか、そんなことを書いてたのだろう。僕は、たしかこんなことを記入した。「普通の人」「数ある職業の一つ」。


それから何年かたち、僕も大学に進学していた。その時、僕は教職課程をとろうかどうか迷っていた。選択を前に、背中を一押ししてくれた高校時代の恩師の一言があった。

「ふつうの人たちを教えるんだから、ふつうの人で十分だ」

「教師って、いろいろ大変じゃないですか。人を教えないといけないし、聖職者と言われて理想を求められたりするし…」

たぶんそんなことを言って僕は相談したんだと思う。「そんなことはない」とことわって、しごく当たり前の一言を言ってくれた。そうだ、まさにそれを地でいく家庭のなかで僕は育っていたのに、何を悩んでいたのだろう。

まあ、結局教員にならなかったんだから、どっちでもよかったんだけどね。

ちなみにいま務めているネットワークエンジニアという職も、教師と同じくらいの大変さ(と気楽さ)はあると思う。児童は言うこと聞かないかもしれないが、ルーターやスイッチだってちゃんと設定したつもりなのに動いてくれないし…。職業に貴賤なしというものである。


それにしても、タンブルドア校長の態度には懸念を抱く。これでいいのか魔法公務員…。

といって、まあ彼に限ったことではなく、特定の生徒を目の敵にしたり、イタチに変身させてもてあそんだり、悪い魔法使いに監禁されていたり、およそあるべき学校の運営とは外れる路線の先生たちばかりだから、校長もこんなんでいいのかもしれないけど。日本じゃやっていけんよ。

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