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July 29, 2006

M:i:III

ミッション・インポッシブル3

おなじみトム・クルーズ主演のスパイ大作戦だ。やはり適度にこういう痛快映画を観て、頭のなかをスッキリさせるべきだろう。

しかし、今回のトム・クルーズ君冒頭からスパイを引退しており、花嫁と結婚してスウィートな生活に突入してしまう。しかも元スパイの身分を隠したまま。

そんな! 元スパイが小市民的幸福を享受できるものかというと、やはりそうは問屋が卸さないのである。突然の命令で呼び出され、愛妻には出張と偽って拉致された元部下の救出作戦に向かう。しかし見事に失敗。上司からの評価は下がり、自身は自己嫌悪に陥る。

で、その先もいろいろドタバタがあって、そしてお決まりの展開というべきか、トム・クルーズ君の弱味につけこむため、悪党たちは彼の花嫁を捕らえてしまう。

この悪党たち、彼女を閉じ込めておくために選んだ地は、地球の反対側の上海。おいおい、なぜそんなに手間のかかることをする? と、突っ込むほうがこれは野暮というものなんだろう......

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July 18, 2006

銀河英雄伝説 わが征くは星の大海

アニメーション映画「銀河英雄伝説 わが征くは星の大海」を鑑賞する。

WOWOWで放映されたのをHDDレコーダーに録画しておいたものだ。どうもWOWOWは、このたび「銀河英雄伝説」全話を一挙放映するらしい。「わが征くは星の大海」その前哨戦として、特別企画で放送されたものだ。


 


これはもともとOVA(オリジナルビデオアニメーション)として製作された作品である。実は3年ほど前に僕はビデオレンタルで借りて、全話見てしまった。2人の英雄や彼らを取り巻く周辺の人物像が魅力的なのもさることにながら、やたらくどいほどに加えられるナレーションが独特の雰囲気を醸し出すことがこの作品の醍醐味だといえる。ま、今回は映画版のためか、ナレーションはかなり抑えられていたみたいだけど。

遠い未来、人類が銀河を支配した時代の架空の歴史とウンチクが満載で、それがナレーションによって語られる。SFと歴史モノの両方が好きな御仁なら、間違いなくハマってしまうであろう優れたフィクションである。

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July 16, 2006

日本沈没

主人公なのに、ほとんど何もしない小野寺(草ナギ君)。

実に最後の15分に至るまで何もしない。それまでの間は、なぜ彼が出ているのかわからない。おい、ちっとは世のため人のために働けよ! と思ってしまうのは僕だけではないはずだ。今回はレスキュー隊員となった阿部玲子(柴崎コウさん)が、たんに深海オタクで何のとりえもないこの男になんでほれるのか、さっぱりわからない。

まあ、国土が破壊され交通網は分断されているなか、彼だけはワームホールがあるのか瞬間移動の才を持っているのか、あちこち神出鬼没ではあるが。


ということで映画「日本沈没」である。

ご存知のように、この映画はリメイクであり、前作がある。実は1999年にもリメイクの企画があったらしいが、実現しなかった。33年ぶりの映画化ということになる。

1973年に公開された前作は、もはや歴史的なSF作品といってよい小松左京さんの原作にほぼ忠実に作られている。しかし、リメイクとなればあえて前作と同じにはしたくないという意識が働くのであろう。ことごとく前作の設定を踏襲しないで作られた映画になっている。結果として、原作とも大幅に異なる内容になっている。

なにせ(ここから先はいわゆるネタばれの発言になるのだけど)、結局日本列島は沈没しないのだ! このラストにはさすがにビックリした。ふむ…さすがかつて時の首相をして、不沈空母と言わしめた国だけある(って、「不沈空母」発言もいまや歴史上のできごとかい?)。


今回の映画は驚きの連続だった。

まず物語の始まりでさっさとアメリカ測地学会の発表のシーンが出てきてしまう。原作であれば物語の後半、いよいよ佳境にさしかかって設けられたこの場面が、今回の映画ではいきなりスタートに来て、日本列島が沈没することが決定事項として語られるのである。

なるほど、観客は既に「日本沈没」と知って観に来るわけだし、話をショートカットしてしまうのね。日本が沈没することがわかるまでのあれやこれやは前作を観ればいいしね。ただ、これでは田所博士の立場というものがなくなってしまうじゃないか、と心配はしてしまう。まあ今回の田所博士(トヨエツ)は別の意味での活躍を見せるのではあるけどね。

そして「何もしない小野寺」と軌を一にしていると言える設定が「すぐに死んでしまう山本首相」。前作および原作では未曾有の国難に際し、日本民族の未来を確保せんと決意し行動する総理大臣が、冒頭で早々と事故死してしまう。おおーい、これでいいのか。

言ってみれば、潜水艦パイロットそしてレスキューの一員としてミクロのレベルで動く小野寺と、政治家としてマクロで動く山本と、それぞれの立場で日本人を救おうと奮闘するさまが前回の映画の後半であった。

この2人を“殺して”、代わってその位置には新たなキャラを据えている。新たに登場する人物、2人はともに女性だ。これは何を意味するのか? 僕は考える。


まあ、それはそれでよい。

ただ「日本沈没」は僕にとって最も印象の強い小説の一つだ。読んだのは13歳の時だ。そもそも、そういう時期に読んだ本って忘れようと思ってもなかなか忘れられないものだ。

ましてや未曾有の災害で国土が崩壊し、民族が前例のない苦難に見舞われるなんていう、相当にインパクトのある設定である。作中では小松左京さんお得意の“文明批評”が登場人物の会話として長々と語られる。社会というものの存在に気づき、関心を持ち始めた始めた年頃には本当に刺激の強い1冊であった。

それゆえあれやこれやと書きたくはなってしまう。いくつもネタはあるのだけど、この場では抑え目にしておくのが賢明だろう。


映画を観ながらずっと考えていたことがある。それは日本政府がいかに奮闘したところで、10ヵ月で1億2000万人の退避というのは果たして物理的に可能なのだろうか、ということだ。

そこで帰宅してからインターネットに接続して、日本の海外旅行者数の推移を調べてみた。

原作では1億1000万人を国外へ退避させることが可能なのか、論議されるシーンがある。そこで類似のケースとしてひきあいに出されるのが、終戦後の本土への引き揚げ体験。10年で1000万人というその先例に対し、この災厄では10ヵ月で1億1000万人。そのスケールの途方もなさが、登場人物の口から強調される。

10ヵ月1億人…。なるほど1970年代では、それは雲をつかむような数値だった。調べてみると、当時の海外旅行者数は年間230万人しかない。小説においても明記はされていないものの、僕の読書の印象ではおそらく数1000万人程度しか救出できなかったことになるんじゃないかと思う。

それがいまはどうだろう。2005年の海外旅行者数は、実に1600万人である。かつての7倍! ゴールデンウィークの10日間に限ってみれば約60万人が国外に“脱出”している。これを単純計算で10ヵ月のスケールで見れば2500万人である。無論これは人口にははるかに足りないわけだが、もし非常体制で空港や港湾などの設備をフル稼働させたら…。

日本国民全員国外脱出というのは、不可能ではないのかもしれないのだ。

かつて荒唐無稽だったこと、奇跡の範疇に属したことが、そうではなくなっている。

そう考えると、「日本沈没」という物語が、21世紀においてはの構造を大きく作り変えなければならなかったことは納得できる。新たなキャラ、新たな設定が必要だったのも、こうした現実の側の変化から来ているのだろう。


それからラストについてはこう思った。日本列島の沈没が食い止められるというこの設定は、女性を主役に据えたことから必然的に導き出されたものではないか。

前作は“母”なる日本の死、そして世界という大きな舞台に向かって“家を出る”日本人、というモチーフに貫かれていたと思う。それは男子の自立になぞらえられた物語だった。そのラストにおいて、日本列島は完全に姿を消し、片鱗たりとも存続することは許されなかった。

しかし本作のラストでは大地は残り、女性政治家によって国土への回帰が呼びかけられる。混乱のなか大人の男たちは醜態を見せ、また若者は家を守るために死んだ。しかし最後まで母なるものは残る。そこから再生が始まるのだ。

今回映画館で観せられたのは、母性原理の「日本沈没」なのだ。


  

  

 

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July 15, 2006

もののけ姫

むかし大学の一般教養科目として受講した経済学の講義で、担当していた若い講師がこんなことを言っていた。

「みなさんサークルのジャケットによくSince 1995とか刷り込んであるじゃないですか。あれってやめたほうがいいですよ。あえて歴史がないことを示す必要はないから」

経済学とは関係のない話題だったので、たぶん何かの雑談だったのだろう。その講師が留学経験として語った話によると、欧米であえてSince ~で年号を入れるのは、その団体に歴史がある時に限られているらしい。

ふむ。

そんなことを思い出したのは、いま、映画館でさかんに流されている「ゲド戦記」の予告編を観たからだ。予告編自体はよい出来で、この映画を観たいと思わせるものなのだけど、なぜか最後にこの一言が入る。

「宮崎吾郎第一回監督作品 ゲド戦記」。

あの、あえて「第一回」監督作品って…。なんでわざわざ銘打つのだろう。経験がなく未熟で、もしかすると駄作かもしれないよ、ということを観客に知らしめているだけじゃないだろうか。

僕は宮崎吾郎さんという人は寡聞にして知らなかったのだけど、どうも宮崎駿さんのお子さんらしい。有名人の子供ということになる。ご本人にとって血や環境がどの程度プラスに働いたのかわからないけど、とにかく「第一回監督作品」を強調するのは止めたほうがいいんじゃないかと思った。


「ゲド戦記」の予告編ばかり見せられているせいか、ふとむかしの宮崎駿監督の作品が観たくなった。

タイトルは、「もののけ姫」。

 


長編アニメーションとしては久々の登場となった作品だ。それ以前の作品となると「紅の豚」「魔女の宅急便」となっていささか古くなるし、それ以降は「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」だからまだ記憶に新しい。時間的にそろそろもう一回観てもいいかな、と思う頃の作品が「もののけ姫」だった。

それに「もののけ姫」は、一連のシリーズではかなり転機になっている作品だと僕は思う。

この作品以前の宮崎駿作品は、あきらかに万人受けする、わかりやすいストーリーだった。しかし久々に製作されたこの「もののけ姫」を境に、単純なわかりやすさはなくなり、奥深くマニアックなストーリーに転じたと思う。正直言って、いったい何が面白いのかよくわからない。

そのくせ、観客動員数は増え続け、公開されれば1,000万人近い観客が劇場に押し寄せる。これは不思議だ。いったい日本国民はどうなってしまったのか?


まあ、その理由を推察するのは僕の手には余りすぎる。「もののけ姫」のDVDをレンタルしてきて部屋で鑑賞したのは、7月15日の土曜日、3連休の最初の休日だった。エアコンを効かせた部屋で、画面に没頭する。

「もののけ姫」が僕にとって印象深いのは、これは「風の谷のナウシカ」のストーリーの裏返しになっているからだ。これは有名な話だし、映画を観て気がついた人も多いと思うのだけど。もういちどストーリーをなぞって、それを検証してみたかった。

主人公のアシタカはペジテのアステルだろう。もののけ姫であるサンはナウシカ。トルメキアの女司令官であるクシャナは、エボシ。

たたら衆は鉄を作るために森を切り開き、禿山にしてしまう。いわばトルメキアだ。怒る森のもののけたちは、「ナウシカ」でいえば腐海の蟲たち。そしてナウシカで描かれた王蟲の突撃は、今回はイノシシたちの猪突猛進として描かれる。

ただ「ナウシカ」では、主人公ナウシカが立つ〈自然〉側が“善なるもの”として描かれたのに対し、この作品では単純な善悪の判断はつけていない。自然破壊者の筆頭エボシはしかし、たたらの女や男たちを守護する存在でもある。ラストに至っても、善悪の判断はつけられず、サンは〈自然〉側として、アシタカは〈人間〉側として、互いを認めつつも袂をわかって生きていくことになる。

こういう描き方は、僕は好きだ。ま、映画として面白いものかどうかはまたべつだけど。

だいたい、「風の谷のナウシカ」は僕はあまり好きではなかった。あの作品は、ストーリーとしては完全に破綻していた。あのストーリー展開で論理的に納得のゆく結末は、王蟲の突進によって風の谷が滅ぼされるか、よみがえった巨神兵が王蟲を焼き払うかのどちらかしかない。しかし奇跡という禁じ手を持ち込むことによって、そのどちらのラストも回避し、巨神兵に寄らず谷は守られ、王蟲たちは自発的に帰っていく。なんだそりゃ!

そりゃ、奇跡が起こればどんな展開でもできちゃうよ。どんな展開もできてしまうからこそ、それでラストの落とし前をつけるべきではないのである。まあ「風の谷のナウシカ」はそれが許された--つまりアニメーションが実写の映画やTVドラマより一段低く、子供の見るものとして扱われていた時代だからできた芸当である。

 


実はその「風の谷のナウシカ」には、もう一つのストーリーがある。「風の谷のナウシカ」はアニメージュ誌に連載されていた、宮崎駿さん自身の手による漫画が原作で、映画はそのごく初めを大幅に改編して1本の独立した作品にしたに過ぎない。

原作の漫画は映画公開後も延々と連載が続き、1994年に完結する。そのラストに至る過程で善なる〈自然〉というモチーフは失われ、実はその時代の人間たちはナウシカを含め、腐海の不浄の環境のなかでも生き延びることができるように“改造”された存在、という設定になっている。

純粋な自然のたまものではなく、不浄のなかでしか生きられない人間。

この作品で最終的に到達したものが、そのままこの1997年の「もののけ姫」につながっていると思う。だから舞台を中世日本に移し、歴史学者である網野善彦さんの学説を取り入れて非農業民たちの世界を描きつつ、人物造形は「ナウシカ」のまんまだし、視点はかつての「ナウシカ」とは逆というお話になったのだろう。


ということで3連休の初日、ほぼ9年ぶりに「もののけ姫」を鑑賞したのだった。

べつに新たな発見とかはとくにないんだけど、ホント、わかりやすいまでに裏「ナウシカ」だよなあ、とやはり意を強くしたのだった。


部屋のTVで「もののけ姫」を観終わって、その日の夕方は新大久保で食事会があったので出かけていった。メニューは、韓国料理。

Koreanpartyたまたま共通の知人を介して知り合った韓国人の友人がいて、その彼に「韓国料理の食事会を企画しよう!」とお願いして、この日に店をとってもらったのだ。集まった人数は、計7人。焼肉やキムチなどなどに舌鼓を打つ。日中暑かったから、ビールがおいしい!

ちなみに店の名前は「大長吟」だった。つまりNHKで放映中の「チャングムの誓い」の韓国での題名である。ヒットしたドラマにあやかっているのかなあ、と思ったら、店内に入れば主演イ・ヨンスのポスターはあるし、ドラマの解説は貼ってあるし、チャングムのフィギュアも飾られていたりして、ほぼ完全に便乗商法的なお店であった。

まあ、おいしかったからいいんだけどね。

ドラマ終わっても、店名はずっと同じなんだろうか?

  

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July 09, 2006

ブレイブ ストーリー

ロールプレイングゲーム(R.P.G.)は、自分がプレイしたほうが面白い。

と思わせる映画であった。

このR.P.G.をプレイしているのは他人。他人というのは、すなわちこのアニメーション作品の主人公であるワタルだな。ワタルがプレイするストーリーを延々と眺めている感じ。

映画もゲームも、所詮は誰かが作った物語をなぞる。それは同じ。しかし、映画とゲームは違う。もし、ゲームのスタイルをとるのであれば、誰かが作ったゲームのシナリオをなぞるのは自分でなくてはならぬ。

物語の中後から、俺にコントローラーを貸せ! と考えてしまったのは僕だけではないはずだ。


まあ、でもそれは僕らの錯覚なのだ。この物語はゲームに慣れた世代にあえて親しみやすくするために、ゲームの文法を冒頭で借りてきているだけで、映画であることはちがいない。

かつてコンピューターゲームは、小説や漫画や映画の構築した世界観や文法を模倣するところから始まった。初期のゲーム作品のその模倣のスタイルは、子供じみていて、とてもキッチュなものだった。しかし時代は変わった。ゲーム自体が小説や映画と同じくらいの力をもつメディアになった。だとすれば、小説や映画がゲームを模倣することもあっておかしくないし、これはそのような作品である。

だから取り違えてはならない。小説や映画の世界設定を借りたコンピューターゲームが、しかしあくまでゲームの範疇を踏み出すものではなかった。それと同様に、コンピューターゲームの設定を借りた映画も、やはり映画であることは間違いない。


この「ブレイブストーリー」は、夏休み映画であり、おそらくは少年少女たちをターゲットにしている。それを前提にして考えれば、この物語の伝えようとするメッセージはそれなりの意味があるだろう。

友情の大切さを描き、さらに友人が間違った行為をなそうとしている時、それに迎合するのでなく対峙することが必要なこと、悲しみや心の痛みは誰かが消し去ってくれるのではなく、それを受け入れて生きていくことこそが人生であること。

両親や先生など、周囲の大人たちに守られた環境から徐々に踏み出そうとし始める、プレ思春期の少年少女たちに、必要なものの詰まった映画なのかもしれない。


ラスト近くになって、勇者が願いをかなえるために集める5つの宝玉の一つが、それを盗ると世界が崩壊してしまうということがわかる。これはR.P.G.として考えるとかなり矛盾した設定である。というか、ゲームがゲームとして成り立たなくなる、致命的な欠陥であるといえる。

でもこれがゲームではなく、現実の模倣だとしたらどうだろう。両立しない何かを選び取るというのは、実際に生きる上ではしばしばありうることではある。

やはり、これはゲームの文脈によって読み解く物語ではないのだ。うん。


ここから先は変わってどうでもいい話。

7月7日の七夕の日に、僕の以前の職場の先輩と、いまの職場の後輩の女性と、僕とでお食事会をやった。先輩と後輩が同じ県の出身ということで、セッティングしたのだ。

個人的にあっさりとしたものが食べたいなと思っていたので、幹事の裁量でベトナム料理にしようと思い、汐留のベトナムフロッグを予約した。初めて使うお店だが、入ってみると雰囲気は悪くない。回りのテーブルは、カップルが多かった。デートに使えるお店なのね。

通路を挟んだ向かいの席では「合コン」らしき催しが行われていた。僕は県民同士の二人の会話はそっちのけで、合コンの進展に眼が釘付けになってしまった。

4対4のテーブルで、男性側はカジュアルスタイルだけど、基本的にはサラリーマンっぽい。女性陣のほうもOLたちかなというテーブルだったけど、なぜか男性の一人が際立ったキャラだった。いかにもサーファー風だったのだ。

いかにも女性とのトークにも慣れていそうなのだけど、ところがその隣に座っている女の子は逆にサーファーはタイプではないのか、全く無視状態。サーファー君も普段のようにうまく会話を進められないので戸惑っているのが見て取れた。サーファー君、ついにトイレ休憩の機会を利用して別の席に移動してしまった。女の子の隣には別の男子が座ったのだが、そのとたんに女の子も表情が変わり、ちゃんと会話に相槌を打つようになった。なるほど、タイプはこんな相手だったのね。

ふむ、勉強になるなあ…と人間観察を続けていたのだが、そうこうしているうちにちょうどよい時間になったのでお店を出た。

まだ帰るのには早い時間だったので、「じゃあ夜景を観に行きましょうよ」と、先輩と後輩を連れて汐留の電通ビルの47階に上がってみた。前から何度か上がっているんだけど、この辺りでいちばん高いビルで、レストランフロアの窓から東京湾、千葉方面の方角が展望できていい眺めなんだよね。

Shiodomecouple既に何人も先客がいて、ロマンチックな七夕の夜を楽しんでいる。

デッキチェアに目をやるとそこにもカップルが陣取っていた。うわっ、この二人…既に周囲が目に入らないモードになっていて、ラブラブお楽しみ中ではありませんか。うむ。むむむ。おおー。ドキドキ…。ムフ。

こうして、七夕の夜は、合コンやカップルなどの人間観察に勤しんでふけていったのだった。さすが、年に一度の恋のお祭りの夜だねえ。ゴロニャーゴ。



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July 08, 2006

LIMIT OF LOVE 海猿

近所のホームセンターで、カセットコンロ用の焼肉プレートを見つけたので購入してしまった。

これで一人焼肉ができる!

ということで土曜日、実行してみたのだった。

商店街にある食品スーパーで肉と、そしてたれを買い求める。焼肉といえばやはり牛肉、具体的にはカルビとかタンとかいうことになるのだろうけど…肉の棚を見て考える。高い…。

ということで、財布へのインパクトを考慮して、今回は豚トロとホルモンを購入する。

Hitoriyakinikuベランダにガスコンロを設置して、アウトドア用の折りたたみ式チェアにこしかけ、焼いてみる。ビールを片手に焼き上がった肉を皿に運び、そして口にする。もぐもぐ。

試してみてわかったことがある。

一人焼肉は、けっこう手間がかかる。

お店で何人かで食べる時ならば、自分が食べている時にも誰かが肉を補給して裏返して、焼き上がったら皿に運んだりしてくれる。肉に飽きてきたら逆に自分がそれをして、誰かの皿に運ぶ。そういうコラボレーションが成り立つのだ。

しかし、一人焼肉では全てを自分がしなければならない。大変だ…。

あまり、楽しくないぞう。うーん。

せっかく買った焼肉プレートなのに。ここはやはり、冬の鍋に続いてパーティーでもやるしかないか。気が向いたら企画しよう。

晩御飯として一人焼肉をしていたらついつい夢中になってしまい、レイトショーの時間に遅れてしまった。

今日は、この日から公開の「ブレイブ ストーリー」を鑑賞しようと考えていたのだが、上映開始時刻に映画館に着かないことがわかったので、変更。代わって「M:i:III」を観ようと思う。ところが、次の回はプレミアスクリーンでの上映だった。なんと。深夜料金1,200円で観ようと思っていたところで、プレミアスクリーンの料金2,400円払うことになるのはちょっと痛い。

残った選択肢は「LIMIT OF LOVE 海猿」だった。

伊藤英明君と加藤あいチャンのカップルは、僕の私生活とあまりにレベルが違いすぎて気が乗らなかったのであるが、しかたがない。これを観ようと決めた。


さて、ハリウッドのアクションムービーを観ているとどうにも共感できないことがある。それは何かというと、やたら人が死ぬことだ。

主人公の男女二人が生き残ることはわかっているのだけど、周りのキャラは足を踏み外して奈落の底に真っ逆さまになったり、恐竜に食われたり、悪霊の呪いで首チョンパにされたり、漆黒の宇宙空間に飛ばされたり、そんなふうにしていともあっけなく死んでしまう。

そんなんでいいのか?

男女二人を助けるために、貴重な人命が何人分も失われているのは、どう考えても解せないものがあった。これは教育によくないよ。

たぶん、そんな映画ばっかり上映するからキレる子が育ち、治安が悪化し、心が荒んでホリエモンみたいな拝金主義の権化が幅を利かすするのである。これはまさに年次改革要望書と同じようなもので、アメリカが日本の弱体化を狙い、そのための映画を送り込んでいるにちがいないのである。教育基本法を改正して、そこに人が必然性なく死ぬ映画を上映のを制限することを明記すべきなのである。

その点、かつて「人の命は地球よりも重い」と言った総理大臣のいる国は違う。日本映画では簡単に人は死なない。ということで、海難救助アクション映画の「LIMIT OF LOVE 海猿」も、安心して観ていられるのだった。

これだけ大きな事故だったのに、絶体絶命、危機一髪の連続だったのに、海上保安官たちの勇気と体力と仲間意識によって、登場人物はぶじ助かるのである。

よかった、よかった。


ところで去年、米国出張に行く際の飛行機のなかでハリウッド映画「ナショナル・トレジャー」を観ていたら、宝探しの冒険活劇だったにも関わらず、珍しくほとんど人が死ななかった。

もうストーリーの細部はたいして覚えておらず曖昧なのであるが、たしか僕がカウントした限りでは、穴ぼこのなかで足を踏み外して落ちてしまう一人くらいしか死んでいなかった。状況的には、それはもう不慮の事故である。

主人公を追っかけていた悪人たちも、ラストに至って追われる立場になり、しかしその結果射殺されるわけでもなく、みんなおとなしくお縄頂戴となっていたように思う。

ハリウッドも、これまであまりに人命を軽んじ、劇中で殺しまくってきたことに反省し始めたのであろうか。ふむ…。


  

 

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July 05, 2006

初恋

「初恋」と聞くと、島崎藤村の詩が脳裏に思い浮かぶ。そう、「初戀」と題されたあの詩だ。

 まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
 林檎(りんご)のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛(はなぐし)の
 花ある君と思ひけり

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり

 わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

 林檎畑の樹(こ)の下(した)に
 おのづからなる細道は
 誰(た)が踏みそめしかたみぞと
 問ひたまふこそこひしけれ


なんだか、読み上げているとちょっと胸がキュンとするよね。自分の初恋の記憶なんて忘れてしまったが(そもそも僕にそういう経験があったのかどうか疑問)、中学の国語の教科書に載っていたこの詩を僕はなぜか諳んじている。

この詩を思い出すと、ああ、初恋ってこういうものなんだろうなあと、たまらなく甘酸っぱくそして切ない気持ちに包まれる。


その詩にも似た味わいを、スクリーンの向こうにほのかと感じる作品。


水曜日。ノー残業デーだったので定時で退社し、映画館に向かう。向かった映画館は、有楽町シネカノン

この映画館は、僕にとってはなかなか乙なスポットである。というのもこの館は、ビックカメラ有楽町店と同じ建物(旧有楽町そごう)のなかに入っているからだ。まずは映画館の窓口に向かい、券を買った上で、ビックカメラの店内を散策する、ということができる。情報家電やPCを見て時間を潰すのは飽きないものだ。

さて、本日有楽町シネカノンで鑑賞したのは、「初恋」。宮崎あおいチャンが主演だというので観に行った。

しかしこれ、タイトルからして切ないラブストーリーかと思いきや、あの3億円事件を描いた作品だという。3億円事件が舞台なのに、初恋とはいかに…? といぶかしく思いつつスクリーンを眺めていたわけだけど…正直、女子高生の切ない恋心にどうして3億円事件が絡むのか、腑に落ちなかった。

しかしこれは、そういう原作があるわけなのね。

劇中、映し出される1960年代という時代の雰囲気みたいなものは、興味深かった。改めて数えてみると、60年代ってもう40年近く前なんだなあ。ああ。


ところで話は変わるけど、主演の宮崎あおいチャンについて言えば映画「NANAでのハチ役での好演も記憶にあるのだけど、さらに新しくはNHKの連続ドラマ「純情きらり」でただいま主役・有森桜子役を演じていることが僕にとっては印象深い。

なぜかといえば、このドラマが舞台にしている岡崎市は、僕が生まれ育ったところだからだ。そして劇中では、宮崎あおいチャンが、おそらくは演劇指導を受けてのたまものであるが、三河弁らしき言葉を口にしていたりする。

三河弁が標準語だと思って育った地元の人間からすれば、それはとてもライトな、ライトな三河弁なのだけど、初恋で切ない演技を見せる彼女が、僕らと同じ言葉をまがりなりにも話そうとしているのだ。その事実に、僕はたまらなく乙なものを感じてしまう。はぁああ。

初恋の切なさと、僕らの言葉・三河弁が、宮崎あおいを通じて結びついたのだ。萌え…。


 

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July 02, 2006

トリック劇場版2

日曜日。

前日に続いて映画を鑑賞する。劇場は同じくTOHOシネマズ川崎。鑑賞した映画は、「トリック劇場版2」。

TVドラマ版のでは仲間由紀恵と阿部寛の、絶妙な言葉の掛け合いが醍醐味だったこの作品。スクリーンに映し出されるのを見るとさほど面白くない。というかある種の退屈さも感じるほどであった。

しかしそれは僕だけの感想なのだろう。一般には面白い作品になるのかもしれない。その証拠に、周りを見ると結構楽しんでいるようではあった。ふむ。

いったい何ぞ面白からんや。


翌日。

会社は創立記念日で午後半休だった!(僕の勤務先は1999年7月1日に誕生した)。せっかくの機会、レクレーションとして同僚たちとボウリングに出かける。

場所は品川プリンスホテルのエグゼクティブタワー。なぜここを選んだかというとボウリング場があることは当然だけど、このほかに、同ホテルにはカラオケもあるから(カラオケ山手線ね)。なおかつ数年前まで僕は品川勤務であり、地理については勝手知ったる土地である。


ボウリングは僕にとって稀にたしなむ娯楽だ。だけど、何度やっても上達している実感はない。なにせこれまでスコアが100を超えた経験が1、2回くらいしかない。

今日のボウリングについていうと2年ぶりだった。前回はいつやったのだろうと考えると2004年の創立記念日だった。そう、だいたい2、3年にいちどしか機会は巡ってこないのだ。

ということでレッツプレイ!

3_july精神集中。心を空にして投げるべき。むむむ…。

そして、2ゲームの結果。

1ゲーム目はスコア88。2ゲーム目は91であった。やはり今回も進歩の跡は見られない。加えていうと僕の10歳下、入社2年目の女性社員にも後塵を拝するありさまであった。彼女のスコア101に対し、オレ33歳、91。とほほ。

とほほほほ。

日は暮れて、道遠し。

…いや、プレイが終わった時点ではまだ日は暮れていなかったか。


どうでもいいけどエグゼクティブタワーって、発音してみるときわめて言い難いことに気づいた。

えぐぜくてぶたわー。試しにあなたも口にして繰り返してみよう。えぐぜくてぶたわーえぐぜくてぶたわーえぐぜくてぶたわー。

どう?

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July 01, 2006

DEATH NOTE デスノート 前編

ボーナスが出たので、新しいパソコンを買った。

買ったパソコンは、パナソニック製のレッツノートR5。ここ10数年間ずっとマッキントッシュしか使っていなかった僕にとって、新品としては初めて購入したWindowsパソコンである。

これはB5サイズ、999gと非常にコンパクトで軽量なノートPCであり、モバイルで原稿を執筆することを主な用途として購入した。

正直、マッキントッシュには最近失望を感じていた。CPUをそれまでのPowerPCからインテル製に切り替え、新たに製品ラインナップを一新して発表したわけだが、そのなかで最も普及価格帯であり、なおかつ最小サイズだったのがMacBookだ。

ところが、現在使っているPowerBook G4 12インチよりも大きく、そして重い。重さを比較すると、PowerBook G4が2.09kgであるのに対し、新製品MacBookは2.36kg。なんと2kgも重くなっている。

これまでのPowerBookでも重かったのに、新製品になって改悪である。がっかりした。その失望感が、僕をして軽量のWindows搭載ノートPCに目をむけさせることになった。そしてモバイル用では評価の高いレッツノートを、オンラインストアで注文するに至らせてしまったわけだ。

7月1日の土曜は、自宅に届いたそのPCをセットアップし、必要なソフトをインストールし、実際に使って遊んでいた。


そんな土曜日。ずっと部屋にこもってばかりいるのもなんなので、映画を観に外出した。鑑賞した映画は、「デスノート 前編」。

これが意外に面白かった。意外に、といっても正確には、“期待せずに見たらかなり面白かった”という感想を既に聞いていたので、意外というのは実は意外ではない。期待しないで見ると面白いという期待通りの出来ではあった。

名前を書かれた人は死んでしまうノート“デスノート”を使い、世界中の犯罪者にひそかに制裁を下す主人公・夜神と、犯罪者の大量死を殺人事件と考えて捜査に乗り出した謎の名探偵・Lの、両者の知性と意地をかけた作戦が繰り広げられる。互いを追い込もうとして奇策を繰り出すさまはまさに、丁々発止というのがふさわしい。

原作は、週刊少年ジャンプ連載の漫画だという。ジャンプというと僕も中学生の時は読んでいたが、その後いつの間にか購読をやめてしまい、以来どのような漫画が連載されているのかのトレンドには疎い。デスノートについては、そのようなタイトルの漫画があったような記憶はあったが、掲載誌はどこで、どういう話なのかは全く知らなかった。


しかし、こういう作品を世に送り出していることを見ると、同誌の先進性とか市井の人気といったものは、いまも変わらないのだろうか。

たしか僕が中学の頃、ジャンプは最大部数を誇っていた。実際に団塊Jr.(ジュニア)ということで子どもの人口が最も多かった頃だった。その時代の勢いがまさにジャンプに乗り移った感があり、ジャンプ掲載の漫画がTVアニメーションの原作になることも多く、振り返るにまさしく同誌の最盛期だったと思う。

#眠い…ココログの更新もかなり時間がかかる時間帯なので、改めて執筆します。

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