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October 15, 2006

涙そうそう

暗い劇場のなかで、あちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。

家族を失い、長らく苦労をともにして生きてきた兄妹。本当の兄妹ではなく、内心惹かれ合っている二人。その二人に永遠の別れの時がやってきたのだ。あまりに悲しい場面が描かれる。

なるほと、一般的には感極まるところだ。

そんななかにあって僕は考えていた。やばい…何も揺れ動かないよ、俺。

琉球を舞台に、僕の心のライバルである妻夫木聡クンが苦労を背負った好青年を演じ、長澤まさみチャンと共演している映画「涙そうそう」。

既に予告編の段階において「知ってたよ…本当のお兄ちゃんじゃないってこと」(by 長澤まさみが演じる役・カオルのセリフ)と聞かされていたので、二人がそういう事情にあることは観客である僕らにはわかっている。

インセストタブーに阻まれて結婚できないという、シュールに深刻な状況は抱えていないのである。

つまりお互いが本当の兄妹でないことをわかっていて、互いに内心芽生えた思いを意識しているのであれば、最終的には結婚すればいいのである。法的には何の問題もない。家庭の事情をよく知らなかった人は驚くだろうけど、二人が愛し合っていることを理解すれば祝福するだろう。

この二人の幸せな将来を阻む要素はほとんど何もない。

だけど、タイトルからしてどうもハッピーエンドを迎える雰囲気の映画ではない。おそらく二人は結ばれないことが容易に想像できる。本来結ばれて問題ないはずなのに結ばれないとするならば、これはどちらかが死ぬということなのだろう。

では、どちらだ。

途中から、僕の関心はずっとそこにあった。

ストーリーの中盤で、受験生であるカオルが兄を助けるために隠れてアルバイトを始め、彼女の兄が期待をかけるカオルの進学に暗雲が立ちこめるシーンがあった(なんだかO.ヘンリーの「賢者の贈り物」の兄妹版みたいな設定である)。

ここで兄妹が互いを思い遣る献身的な葛藤の結果、カオルがそのまま大学に落ちるのかと思いきや、なんと見事合格してしまった。ありゃりゃ。やっぱりカオルちゃん、頭よかったのね。

しかし物語の展開としていえば、そこそこめでたいできごとの先には、大きな悲劇しかないだろう。なのでもうその先となると、いったいどちらが死ぬのか、ということだけ考えてスクリーンを凝視していた。

そしてその予測は…。


外れた。

そっちのほうが死ぬとは思わなかったよ。ああ、そうなんだ…。

と感極まった観客たちのすすり泣く声が聞こえる劇場のなかで、僕は妙に覚めた面持ちで考えていたのである。

悲しい場面であることは理解できるし、ここで込み上げてくるものがあるほうが、人道にそぐうことも理解できている。理解はできているけど、クールに眺めているわが心は動かない。

まあ心が動かなかったのは、兄役が妻夫木クンだったせいもあるのだろう。僕の心のライバルである彼。その彼が清純なイメージのある長澤まさみチャンと共演するなんて、ちょっと許容できないものがある。例によって、ああ、なんで俺は妻夫木聡に生まれなかったんだ、世の中不公平だ、と思いながら見ていたわけなので、ストーリーに没入できなかったのだ。


心のライバルである妻夫木クンに対して、僕がもし「つきあって」と言われたらつきあってもいいかなあと思っているのが長澤まさみチャン。その彼女なんだが、劇場で出会うのは1年前に鑑賞した「タッチ」以来(この映画のブログ)。その時に比べて格段に芸はうまくなっているような気がした。成長の跡が見られる映画ではあった。

彼女に関して言うと見所は、平良とみサンと共演する場面が用意されているところかもしれない。平良とみサンといえば、国仲涼子が主演したNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」の“おばぁ”としてブレイクして以来、琉球を舞台にした本格ドラマでは外せない存在となっている。

今回も、身寄りを失った二人を育てたのが“おばぁ”という設定であるからして、配役としてそこに持ってこざるを得ない。というかもしそこに彼女が据えられていなければまさに画竜点睛を欠く。“クリープを入れないコーヒーと同じ”だったといえよう。重鎮である。

琉球の海を前に、デビューそこそこ、演技力も途上の若きヒロインと、1942年から芝居を続けている大御所が並んで映る。いやあ、なんとも渋いシーンですねえ。結局、これを見られるだけでもこの映画は価値があるのかもしれない。


  

 

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October 07, 2006

フラガール

どこかの深夜番組で、ふだんは口の悪いイメージのある映画監督の井筒和幸さんが鑑賞して“完璧な映画”と称していた。それの番組を見て、観に行こうと思ったのだった。

映画「フラガール」。

テレビで見た井筒監督の意見以外にも、友人たちからも既に「面白かった」という声を聞いていた。有名人も、身近な人も口を揃えるということは、本当にそうなのだろう。そう思いつつ映画館に足を向けたのであった。


ジーン。これはやばい…涙が出てきそうだよ。映画の終盤、真っ暗な空間で周囲からはすすり泣きが聞こえる。

内容としては、女子部活モノの変奏といった感じのストーリー。この女子部活モノというのはたったいま僕が考えた造語なんだけど、「スウィングガールズ」とか「シムソンズ」とかがそれにあたる。“普通”の女の子たちが何らかのきっかけである行為(吹奏楽とかカーリングとか)に目覚め、いろいろ紆余曲折があるんだけど、艱難辛苦を乗り越えた結果最終的には勝負に勝ったりコンテストで優勝したりする、というものだ。


 


その延長線上にある映画といえるんだけど、今回は学校という枠を飛び出して一つの地域社会が舞台であり、たんなる趣味の課外活動ではなくそこに暮らす人々の生活のかかった問題を描いているので、その点ではたんなる部活モノとは違う。しかも実話をベースにしているみたいでもあるし。それらが渾然一体となってついつい感情移入してそして感極まるところにつながってくるんだろうナ。でも骨子となるストーリー展開自体は、やっぱり部活モノなのだった。

まあ、悲劇というわけではない。だから人がたくさん死んだり、とんでもない不幸や貧乏が描かれたり、切羽詰まった結果非情な決断を下すようなお話ではない。基本的にはハッピーエンドな映画。それでいてじわじわとした感動が込み上げてくることに僕としては潔しとしないものがあったのだけど、結局仕掛人たちの術策にはまってしまったわけで、それはやはり井筒監督の言う通り“完璧な映画”ということなのだろう。


それにしても、邦画が復権していろいろなテーマ、様々な舞台設定で映画が作られるようになったんだね、という思いをまた強くした作品ではあった。

松雪泰子と、蒼井優が二大キャストで、元キャンディーズのしずちゃん(…って誰だ?)が出てくるところあたりがスパイス。個人的には田舎もんのあんちゃんを演じる豊悦の姿に注目してしまった。今回は炭坑夫なんだけど、「日本沈没」の田所博士の姿がついつい想像されてしまって、まあ妙な気分がしたというのが正直なところか。


 


ここから先は、例によって僕の日常生活の記録を記しておく。

体育の日の3連休明けの火曜日。中日ドラゴンズが優勝した。


Tokyodome_1その時、何を隠そう僕は、東京ドームで飛び交う紙テープのなか、落合監督の胴上げを眺めてた。優勝が決まるその場にいられるなんて、つくづく愛知県出身者として冥利に尽きるわい、と思いながら…。


前の週、職場の名古屋出身の先輩から「来週のドームのチケットとろうとしてるんだど、おおみずも来る?」と訊かれたので「ウン」と頷づいた。その後ドラゴンズがちょうどよい具合に試合に勝ったり負けたりして、気づけばなんと観戦に行くその日勝てば優勝ということに。期待感を胸に抱きつつ、東京ドームに向かったのであった。


その日の試合の経過について印象を記すなら、ただただ長かった。最初3点リードしていたのが途中同点に追いつかれ、あとはドアラのバク転もむなしく膠着状態。そのまま延長戦に流れ込み、やきもきとした時間が続く。気づけば10時を回っていた。

それがラスト12回の表で一死満塁。そして、そのままウッズ選手の満塁ホームランで逆転! 6点とってあとは流れ込むように優勝の瞬間に至ったのであった。本拠地最終戦をこんな結果で迎えてしまったジャイアンツファンには大変気の毒であっただろうけど…。


より詳しく試合の内容を伝えたいところだけど、僕はプロ野球の試合を伝える語彙や文法を持たないので、当日の中日スポーツのWebサイトの記事から引用しておく。


 巨人−中日最終戦(中日16勝6敗、18時、東京ドーム、41125人)

 中 日 000 300 000 006−9
 巨 人 000 100 200 000−3
  (延長12回)
 ▽勝 岩瀬55試合2勝2敗40S
 ▽敗 高橋尚35試合2勝6敗15S
 ▽本塁打 ウッズ46号(3)(姜建銘)47号(4)(高橋尚)二岡25号(1)(川上)高橋由15号(1)(川上)小久保19号(1)(川上)


Tokyodome_2それにしても、ドラゴンズの優勝の瞬間に立ち会うなんて、おそらく一生に一度のできごと。愛知県に住んでいたってあることじゃあない。

まさにかけがえのない貴重な体験であり、その幸運がめぐってきたことには素直に感謝しているのであった。つくづく、冥利に尽きますなあ。

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October 01, 2006

レディ・イン・ザ・ウォーター

Edotokyomuseum10月1日。

わりと、元気が出ない1日。

しかし元気がないなりに、とぼとぼと外出して両国の江戸東京博物館に出かける。ここで開催されている「始皇帝と彩色兵馬俑展」を鑑賞するためである。


展示は、かなり迫力があった。

というのも、その理由はもっぱら大きさによるものである。なにせ始皇帝陵の兵馬俑だからご存じのとおり、実際の人間と同じサイズなのだ。そんなリアルな大きさの俑たちと目の前で対峙すると、2200年の時を越えコンニチハって挨拶されている感じである。いやいや、よくぞここまでおいでになりましたね、と実に神妙な面持ちになってしまう。

Saishokuheibayo_1もっともそんな迫力ある大きさは始皇帝陵だけ。最初に目に入る彼らに比べると、後の展示として続く漢代の俑たちは随分小さい。せいぜい30センチくらいだろうか。ずいぶんかわいいのね。きっとそれぞれの王朝で事情があるんだろうけど、正直かっがり感は否めないのであった。


いちどは西安に出かけて、兵馬俑坑を実際に目にしてみたいものだと思った。しかし、お金がないから当分は行けないな…。それまでは、講談社版中国の歴史の3巻「ファーストエンペラーの遺産」でもせいぜい読み通しておくか。

あと中国古代を舞台にした小説があったっけ…。そうそう、愛知県蒲郡市出身の作家・宮城谷昌光さんの一連の作品群だ。宮城谷さんの小説を激しく読みたい気持ちにさせられる展覧会であったよ。


夜。

1日なので、映画の日だった。そう思って隣の駅のシネコンに映画を鑑賞に行く。観たタイトルは「レディ・イン・ザ・ウォーター」。M・ナイト・シャマランの監督作品。

M・ナイト・シャマラン監督といえば、かつて観た「シックス・センス」がかなり衝撃的だった。あの結末はまさにそうだけど、そのインパクトだけでなく、映画全体に幾重にも巡らされた伏線、物語全体を通してたゆたう人の優しさや悲しみへのまなざしが、僕の心をとらえた。


 


そういえば「ボク、死んだ人が見えるんだ」と、あの頃は健気に卓越した演技を見せていたハーレイ・ジョエル・オスメント君。最近、飲酒運転で逮捕され、しかもマリファナも所持していたという報道があった。なんと彼も18歳になっていたのだ。これにはなんとも、久々に会った甥っ子姪っ子の成長ぶりに驚く叔父さんのような気分に包まれた。しかも早熟の有名人の例に漏れず、十分にスポイルされてしまったのである。

有名になった子役で、その後大人になっても俳優として活躍できる例はほとんどないと、随分前にエンタテイメント雑誌の記事で読んだが、彼も定石にしたがってそうなってしまったか。

おっと、話がずれた。とにかく、「シックス・センス」は僕がいままで観たなかで、最も印象に残る作品の一つである。好きな映画の一つである。

そんなわけで、その後も公開されるシャマラン監督の作品は必ず観ている。

で、いずれの作品も毎回、エンディングではなんらかの暴露的結末を盛り込んでいるわけだが、正直メジャーになったあの作品のインパクトを超えるのは苦しかったと思う。それでも、二重三重に織り込められたかのように見える伏線を読みとったり、物語の随所に散らばれた記号の謎解きをする楽しみは変わらずあって、それらが醸し出す独特の雰囲気に僕は引き寄せられている。

まあ、観る人を選ぶ監督だと思うけどね。万人受けするようなストーリーにはなっていない。だから、初めての相手とのデートの場合にはけっしてオススメできない。


今回の「レディ・イン・ザ・ウォーター」。「新しいナイト・シャマラン」と銘打たれていたので、何が新しいのだろう? と思いながら鑑賞したのであるが。

しかし、何が新しかったのだろう。ホラーのように見えてそうではない、真っ当なヒューマンドラマであるというのは、「シックス・センス」で見せてくれた。物語を貫くある“謎”“不思議”が存在したとして、その正体を解明するのが筋ではなく、謎や不思議をお話の前提として、そこに配置された人物たちの人生の投影や奇跡の現出を描くというのは、「サイン」でも見せてくれたよね。


 


むむむ…。はっ! もしかして。。この監督は、いままでチョイ役で必ず自分の作品のどこかに出演していた。それを見つけだすのが観る側にとって楽しみの一つであったのだ。

だがこの映画では、隠れていない。そればかりか、物語に欠かせない主要な登場人物の一つとしてずっと登場しているではないか。ナーフと出会ってインスピレーションを得るライター、それがシャマラン監督だった。

出ずっぱりのシャマラン。それが、世界が初めて出会うシャマラン監督だというんかい。とすると、もしかして…そうか、そうだったのか。

いままでの作品ではシャマラン監督の姿は、映像のどこにひそんでいるのか、それを探し当てるのが醍醐味だった。それはそのまま物語を字義通りに受け取るのではなく、散らばる記号的要素からそれぞれの解釈を編み上げる、氏の監督作品の鑑賞を特徴をよく象徴していたといえよう。

しかし、監督が隠れていないということは、それはそのまま解釈してほしいということではないだろうか。訴えたいことをストレートに訴えているということではないだろうか。

映画のいくつかの場面でブラウン管に映っていた、イラク戦争と思わせる映像。将来、偉大な指導者が現れて、この国を改革に導くという預言。その預言を現実にさせる媒介としてのライター。それは、いまの世界の在り方を是としていないことを監督が感じており、この映画にそのままメッセージとして込めたなのかもしれない。

まあ、わからないんだけどね。そうかもしれないけどわからない、でもやっぱり…となんども頭をひねってしまうのが、この監督の作品なのだ。

ただ、いままでの一連の作品で貫かれていたモチーフ。“信じること”“失われかけた家族との絆を取り戻すこと”というのは、やっぱり今回も変わっていない。だとすると、これもまたいままでのシャマラン監督の延長線にあると思うよ。

そして新たに描かれたとすれば、変化や救いのタネは、普通の人々のなかに既にあるということだろうか。アパートという舞台がわかりやすいほどにわかりやすい。たまたま、偶然の導きでそこに集っただけの雑多な人々の、平凡な生活の織りなしの集合のなかに変革のタネがあり、ささいな導きで芽を出し、広がっていく。

なるほど。言ってみればそれはまさにデモクラシーのわけだが…。


9月末から公開の作品だから、たぶんインターネットではいまごろこの作品をめぐって議論で盛り上がり、徐々にネタばれの情報が明らかにされてくるのだと思う。もう少ししたら、そういうサイトを観て納得感を高めたいと思う。DVDが発売されたらもういちど観て、記号の意味をもうより明確に読みとれるか試みようと思う。

でもとりあえず、いまはこの不思議な余韻を、そのままにしておきたい。

部屋の外では雨が降っている。

冒頭の話。日中の江戸東京博物館訪問に戻す。

この日は都民の日ということで、常設展は無料で観覧できるようになっていた。神奈川県民である僕にもその恩恵をもたらしてくれることに感謝(イシハラさん、ありがとう!)。

ということで常設展のフロアにもちょこっと回って、郷里の先輩に挨拶しておいた。チワ! …ここには、僕の地元・岡崎生まれで史上初めて東京に出てこられた方である、徳川家康さんの像が飾られているのだ。

大先輩に負けないよう、明日からまた仕事しなきゃね。

 Tokugawaieyasusan

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