« 時をかける少女 | Main | フラガール »

October 01, 2006

レディ・イン・ザ・ウォーター

Edotokyomuseum10月1日。

わりと、元気が出ない1日。

しかし元気がないなりに、とぼとぼと外出して両国の江戸東京博物館に出かける。ここで開催されている「始皇帝と彩色兵馬俑展」を鑑賞するためである。


展示は、かなり迫力があった。

というのも、その理由はもっぱら大きさによるものである。なにせ始皇帝陵の兵馬俑だからご存じのとおり、実際の人間と同じサイズなのだ。そんなリアルな大きさの俑たちと目の前で対峙すると、2200年の時を越えコンニチハって挨拶されている感じである。いやいや、よくぞここまでおいでになりましたね、と実に神妙な面持ちになってしまう。

Saishokuheibayo_1もっともそんな迫力ある大きさは始皇帝陵だけ。最初に目に入る彼らに比べると、後の展示として続く漢代の俑たちは随分小さい。せいぜい30センチくらいだろうか。ずいぶんかわいいのね。きっとそれぞれの王朝で事情があるんだろうけど、正直かっがり感は否めないのであった。


いちどは西安に出かけて、兵馬俑坑を実際に目にしてみたいものだと思った。しかし、お金がないから当分は行けないな…。それまでは、講談社版中国の歴史の3巻「ファーストエンペラーの遺産」でもせいぜい読み通しておくか。

あと中国古代を舞台にした小説があったっけ…。そうそう、愛知県蒲郡市出身の作家・宮城谷昌光さんの一連の作品群だ。宮城谷さんの小説を激しく読みたい気持ちにさせられる展覧会であったよ。


夜。

1日なので、映画の日だった。そう思って隣の駅のシネコンに映画を鑑賞に行く。観たタイトルは「レディ・イン・ザ・ウォーター」。M・ナイト・シャマランの監督作品。

M・ナイト・シャマラン監督といえば、かつて観た「シックス・センス」がかなり衝撃的だった。あの結末はまさにそうだけど、そのインパクトだけでなく、映画全体に幾重にも巡らされた伏線、物語全体を通してたゆたう人の優しさや悲しみへのまなざしが、僕の心をとらえた。


 


そういえば「ボク、死んだ人が見えるんだ」と、あの頃は健気に卓越した演技を見せていたハーレイ・ジョエル・オスメント君。最近、飲酒運転で逮捕され、しかもマリファナも所持していたという報道があった。なんと彼も18歳になっていたのだ。これにはなんとも、久々に会った甥っ子姪っ子の成長ぶりに驚く叔父さんのような気分に包まれた。しかも早熟の有名人の例に漏れず、十分にスポイルされてしまったのである。

有名になった子役で、その後大人になっても俳優として活躍できる例はほとんどないと、随分前にエンタテイメント雑誌の記事で読んだが、彼も定石にしたがってそうなってしまったか。

おっと、話がずれた。とにかく、「シックス・センス」は僕がいままで観たなかで、最も印象に残る作品の一つである。好きな映画の一つである。

そんなわけで、その後も公開されるシャマラン監督の作品は必ず観ている。

で、いずれの作品も毎回、エンディングではなんらかの暴露的結末を盛り込んでいるわけだが、正直メジャーになったあの作品のインパクトを超えるのは苦しかったと思う。それでも、二重三重に織り込められたかのように見える伏線を読みとったり、物語の随所に散らばれた記号の謎解きをする楽しみは変わらずあって、それらが醸し出す独特の雰囲気に僕は引き寄せられている。

まあ、観る人を選ぶ監督だと思うけどね。万人受けするようなストーリーにはなっていない。だから、初めての相手とのデートの場合にはけっしてオススメできない。


今回の「レディ・イン・ザ・ウォーター」。「新しいナイト・シャマラン」と銘打たれていたので、何が新しいのだろう? と思いながら鑑賞したのであるが。

しかし、何が新しかったのだろう。ホラーのように見えてそうではない、真っ当なヒューマンドラマであるというのは、「シックス・センス」で見せてくれた。物語を貫くある“謎”“不思議”が存在したとして、その正体を解明するのが筋ではなく、謎や不思議をお話の前提として、そこに配置された人物たちの人生の投影や奇跡の現出を描くというのは、「サイン」でも見せてくれたよね。


 


むむむ…。はっ! もしかして。。この監督は、いままでチョイ役で必ず自分の作品のどこかに出演していた。それを見つけだすのが観る側にとって楽しみの一つであったのだ。

だがこの映画では、隠れていない。そればかりか、物語に欠かせない主要な登場人物の一つとしてずっと登場しているではないか。ナーフと出会ってインスピレーションを得るライター、それがシャマラン監督だった。

出ずっぱりのシャマラン。それが、世界が初めて出会うシャマラン監督だというんかい。とすると、もしかして…そうか、そうだったのか。

いままでの作品ではシャマラン監督の姿は、映像のどこにひそんでいるのか、それを探し当てるのが醍醐味だった。それはそのまま物語を字義通りに受け取るのではなく、散らばる記号的要素からそれぞれの解釈を編み上げる、氏の監督作品の鑑賞を特徴をよく象徴していたといえよう。

しかし、監督が隠れていないということは、それはそのまま解釈してほしいということではないだろうか。訴えたいことをストレートに訴えているということではないだろうか。

映画のいくつかの場面でブラウン管に映っていた、イラク戦争と思わせる映像。将来、偉大な指導者が現れて、この国を改革に導くという預言。その預言を現実にさせる媒介としてのライター。それは、いまの世界の在り方を是としていないことを監督が感じており、この映画にそのままメッセージとして込めたなのかもしれない。

まあ、わからないんだけどね。そうかもしれないけどわからない、でもやっぱり…となんども頭をひねってしまうのが、この監督の作品なのだ。

ただ、いままでの一連の作品で貫かれていたモチーフ。“信じること”“失われかけた家族との絆を取り戻すこと”というのは、やっぱり今回も変わっていない。だとすると、これもまたいままでのシャマラン監督の延長線にあると思うよ。

そして新たに描かれたとすれば、変化や救いのタネは、普通の人々のなかに既にあるということだろうか。アパートという舞台がわかりやすいほどにわかりやすい。たまたま、偶然の導きでそこに集っただけの雑多な人々の、平凡な生活の織りなしの集合のなかに変革のタネがあり、ささいな導きで芽を出し、広がっていく。

なるほど。言ってみればそれはまさにデモクラシーのわけだが…。


9月末から公開の作品だから、たぶんインターネットではいまごろこの作品をめぐって議論で盛り上がり、徐々にネタばれの情報が明らかにされてくるのだと思う。もう少ししたら、そういうサイトを観て納得感を高めたいと思う。DVDが発売されたらもういちど観て、記号の意味をもうより明確に読みとれるか試みようと思う。

でもとりあえず、いまはこの不思議な余韻を、そのままにしておきたい。

部屋の外では雨が降っている。

冒頭の話。日中の江戸東京博物館訪問に戻す。

この日は都民の日ということで、常設展は無料で観覧できるようになっていた。神奈川県民である僕にもその恩恵をもたらしてくれることに感謝(イシハラさん、ありがとう!)。

ということで常設展のフロアにもちょこっと回って、郷里の先輩に挨拶しておいた。チワ! …ここには、僕の地元・岡崎生まれで史上初めて東京に出てこられた方である、徳川家康さんの像が飾られているのだ。

大先輩に負けないよう、明日からまた仕事しなきゃね。

 Tokugawaieyasusan

|

« 時をかける少女 | Main | フラガール »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/22029/12166709

Listed below are links to weblogs that reference レディ・イン・ザ・ウォーター:

« 時をかける少女 | Main | フラガール »