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November 19, 2006

地下鉄(メトロ)に乗って

総理大臣が細川護煕さんの時だったから、1993年から94年にかけての話だったと思われる。

小学館の漫画週刊誌ビックコミックスピリッツにおいて、ホイチョイ・プロダクションズによって手がけられている連載「気まぐれコンセプト」。そこにこんな話があったのを記憶している。

乗り換えの複雑な東京の地下鉄。実はその乗り換えのルートを間違えると、異空間に紛れ込み過去にタイムスリップしてしまうのである。そして一人の男が10年前の東京に戻ってしまう。バブルただなかの東京。そこで「10年後から来た」と告白する。「まさか。そんな話信じられるか」「じゃあ10年後の総理大臣は誰だ」。

「日本新党の細川護煕です」。「ナニ、細川なんて政治家知らないぞ」。「だいたい日本新党なんてSFみたいな政党があるか」…。

開いたページを見ながら、いやたしかに10年前に戻って総理大臣の名前言っても、誰も信じないだろうなあとその時思った。それで印象に残っているのだった。バブル経済が崩壊し、自民党が野党になり、ソ連はなくなってしまうという、世の中が変化ばかりだった時のお話である。


地下鉄(メトロ)に乗って」を観た。ある日、地下鉄の階段を上がると、そこは東京オリンピック開催に湧く東京の下町だった、という設定の物語だ。

主人公の真次を堤真一さん(真一なのに真次なのだ!?)が演じ、その同僚で不倫相手のみち子を岡本綾さんが演じる。で、岡本綾ってなんだかしっとり感が漂っていていいのう、とスクリーンの向こうのその表情にひきこまれてしまう。

岡本綾といえば、かつてNHKの連続テレビ小説「オードリー」の主役を演じて一躍メジャーになった。とはいえ、その後は僕が見た映画では「あずみ」とか、あるいはJAのポスターくらいで拝見していたくらいで、その活躍の姿を見ることはなかった。正直、あんまりぱっとしていないのかなあと思っていたけど、この「地下鉄(メトロ)に乗って」で再会したら、なかなかいいオンナになっているではないか。

しかしそのみち子が思わぬ形で存在を消してしまうのにビックリした。だって、その直前まで「私、のぞまれて生まれてきた…」ってうるうる感動していたじゃん!

まあ、ストーリーにつきあっていると途中で真次とみち子の二人の真の関係が明らかになる。といっても劇中でそのことが示される前に、観客にはなんとなくわかってくるように仕込まれているのだが。そして、はっきりと示された次に、こういうオチを持ってくるとはねえ。予告編でも切り取られていたカットの後に続くのが、こんな展開だったとは。全く予想だにせんかったというのが正直なところ。

現実的に考えれば、そのまま修羅の道を進むのか、あるいは冷静になって別の生き方を選択するのか、どっちでもいいけど、生きればいいじゃん、と思うのだけど。まあ、そういうストーリー映画なのだからしかたがないか。そもそもがファンタジー映画なのである。


それにしても、藤子・F・不二雄の偉大さというものを感じざるを得ない映画ではあったよ。

タイムスリップは現実には起こりえないことだ。そういうリアリティのないものは、以前は一般の小説や映画で描かれることはなかった。その手の奇想天外を軸に据えて展開するストーリーがあれば、それはSFという範疇のなかに入れられ、マニアックな読者が楽しむものとみなされていたのである。

たとえば筒井康隆さんの「時をかける少女」というジュブナイルがある。この小説自体は、タイムスリップというSF的設定が中核に据えられているが、それをのぞけば青春のなかの切ない想いの描写に優れた小説だ。しかし、SF作家が執筆している以上、SFという枠のなかでのみ語られてきた。最も好意的に表現しても、SFジュブナイルという看板がつくのがオチだ。

もちろんSFはSFで非常に奥が深いジャンルであり、僕が大好きな文学の分野の一つだ。

しかしSF的な設定は、以前は明確に一般の文学や映画とわかれていた。それが徐々にその枠を超えて浸透してきたのだ。いつの頃からだったのだろうか。


僕が明確に記憶しているのは、いまから16年前の作品だ。

大江健三郎さんの「治療塔」である。この小説は近未来の世界を舞台にして、選ばれたエリートたちが荒廃したこの星を捨て“新しい地球”に旅立った後の、残された人々を主人公にした物語だった。

芥川賞を受賞し、ノーベル文学賞候補とも目されていた作家である。その本人があたかもSFであるかのような、いやその表紙にははっきりと“近未来SF”と銘打たれていたわけだから、少なくとも自称ではSF小説そのものを書いたのである。

といっても、僕には同書はSFと銘打っていても科学考証は一切なく、あくまでSF的な設定だけを借りたファンタジーに近いものだと思ったのだけど、有名作家がSFを執筆したということで、その事実自体は当時少なからずインパクトを持って受け止められた。

つまり、SF作家以外がSF的作品を書くというのは、16年前はまだ一般的な行為ではなく、新鮮さを持って受け止められたものだったのだ

地下鉄(メトロ)に乗って」も、SF的なスタイルを一時的に借りた一般小説ということで「治療塔」の系譜の延長線上にあるといえる。原作を執筆した浅田次郎さんは、その温かみのある人物描写で独自の世界を開拓してきた、大衆小説の作家だ。

そんな小説家がSF的な設定で小説を書いていても、誰もキワモノだとか、いっとき道を外したとか言われない。大江健三郎さんの前例に続いているからにほかならない。


いまやSF的設定が、SFの専売特許ではなくなっている。もっと言うと、これは「ドラえもん」の功績ではないだろうか。

「ドラえもん」を見ればのび太の部屋の机の引き出しや畳の裏は四次元空間とつながり、そこからタイムマシンで過去に遡れたり、あるいは宇宙の彼方の未知の惑星と行き来することが可能だった。凶悪な宇宙人が侵略基地を作るのはジャイアンの家の屋根裏であり、偶然掘り出した首長竜の卵を孵化させて育てるのはのび太の家の押し入れだった。

「ドラえもん」の革命性は、日常空間がSF的世界に直結していたことだ。いや、本来なら主になるはずのSF的世界があくまで日常の範疇から飛び出すことがない。それまでの小説や映画にはありえない、オリジナルの物語世界を構築していた。


藤子・F・不二雄原作のそのアニメに親しんで育った子供たちが、年を重ね、大人になった。そのことはすなわち、あの複雑な東京の地下鉄に乗ると、もしかするとタイムスリップができるかもしれない。そういう設定を自然に受け入れられる環境が整っていたということなのだ。

…そういえば「ドラえもん」にはのび太が、小さい頃に死んでしまった懐かしいおばあちゃんにタイムマシンで会いに行く、という回があったよなあ。

現在を生き直すために、過去に立ち返る。基本的にはこの映画もよく似た話だといえる。ただ過去にさかのぼっていいことばかりあるわけじゃなく、知らなくてもよかった背徳の事実が明らかになるというのが、ちょっと大人向きの設定だったということかな。


「ドラえもん」では、さすがに近親相姦は描けまいて。


 

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November 17, 2006

手紙

ラストシーンで、小田和正さんの名曲「言葉にできない」が流れる。

♪あなたに会えて、本当によかった
♪嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない

ああ、大学の頃、オフコースをよく聞いていたなあ、とフラッシュバックする。

僕の大学時代といえば、もう13,4年前のことだ。さすがにその頃既にオフコースは一昔前の音楽という範疇に入れられていたんだけど、美しくも切ないそのメロディが、だいたいがアンニュイな気分に囚われていたその頃の僕にはぴったりだった。

はぁあ。やっぱり、ええ曲だなあ。


ここ1、2週間、会社ではたまたま期限つきの仕事が集中して忙しく、残業も遅くなりがちだったんだけど、金曜の夜にはその週に行うべき作業をだいたいメドがつき、落ち着いた休日を迎えられそうだった。

やれやれ、めちゃくちゃ忙しかったな~。でもこれで休みだ~。ふぅ。

そんなふうに思いながら、ネオンの明かりが煌々と灯り、キャバクラの客引きがせわしげに声をかけてくる夜の新橋を歩きつつ、腕時計に目をやった。

急いで電車に乗れば、映画館で9時頃の上映を観られそうだった。よし、行こうと思って携帯で上映中のタイトルを探す。ちょうど観に行きたいと思っていた「ブラック・ダリア」が、その日で終わりだった。うーん。惜しいが、やや疲労気味の僕の脳は、どうも猟奇殺人を受け付けられるモードになっていない。癒しが必要だとするならば、邦画の人情モノを選んだほうがいいだろう。

とすると、「地下鉄(メトロ)に乗って」か「手紙」だろうか。僕は上映の時間が合う「手紙」を選んだ。


うぅぅ…。泣けちゃうねえ。

十代、二十代の頃だったらもっと別の感じ方をしていたのかもしれないけど、三十代になってからは僕のハートもややビビットになってきた。とくに家族モノには弱い。まあスクリーンのなかの登場人物と違って僕の場合、独身の気楽な身の上なんだけど、しかしいい歳してフラフラしているという負い目があるがゆえに、かえって感情を後押しするのかもしれない。

といいつつ、先日鑑賞した「涙そうそう」のように、何も感じさせない映画もたまにあるんだけどね。あれはたぶん僕のライバル妻夫木クンが演じていたというのが大きいのだろう。彼の人生には嫉妬こそすれ、同情や共感を抱かせるものは何もない。おっと話がずれた。

この映画はツボにはまった。


犯罪者の身内とされた弟に立ちはだかる現実と、その差別に満ちた人生のなかでの救いをストーリーとしてよく整理しているように思う。差別を糾弾するような安易な展開はとっていない。苦難の末にハッピーエンドが待ち受けているわけでもない。

それがよかったのだろう。山田孝之クンも、うまく演じていると思った。

主人公は長い彷徨の末、決断を下す。そして非情な思いを抱いて刑務所の兄に宛て筆をとる。そこまで追い込まれる主人公の苦悩と、しかしそれでもなお、断ち切れない肉親への情。心に響いているところに「言葉にできない」のメロディが重なる…。

手紙」、周りの人にもおすすめしうる映画だと思った。僕もマニアックなタイトルばかり会話に出すのではなく、常識的な作品を常識的な言葉で語れるようになるべきなのだろう。そういうきっかけとなりうる、適切なタイトルである。


それにしても、今年は兄弟モノの映画を多く見た。「間宮兄弟」「ゆれる」、そしてこの「手紙」である。なぜ、こう兄弟モノが上映されるのだろう。

たしかに兄弟の間に多かれ少なかれ確執は免れないものだし、それはドラマになる要素を十分はらんでいるものといえる。しかし、兄弟の間の諸問題はべつにいま始まったことではない。

そこで思い返す。兄弟といえば、ここしばらく僕が注目している事例が二組ほどある。それはどこの家族の話かといえば、まず一つは若貴兄弟である。兄弟として持ちはやされ、共に実力力士の道を歩んできたのに、なぜ今はこうもいがみ合うようになってしまったのだろうか。想像力をかきたてられる。

もう一人は皇太子殿下と秋篠宮殿下である。このお二人はべつにいがみあってはいなさそうだが、なにせ家系として背負っているものがきわめて重く、そのなかで長男は長男なりに、次男は次男なりに自負と葛藤を抱いているんだろうなあと思う。

まあ、僕に限らず一般大衆の耳目を集めることになった彼らだけど、しかしそうやって兄弟関連のニュースが世間を騒がせたことが、映画製作に関わる人たちのシナプスをも刺激したのではないだろうか。そして、その成果が今年に入って作品として開花している。そう僕は思ったのだった。

そうでなければ兄弟という全く花のない、どっちかといえばむさくるしくまさに“男臭い”家族の組み合わせに、スポットがこうも当てられる動機が考えられないのである。


どうでもいいけど「言葉にできない」って、冒頭にも記した通りかなりいい曲。♪「あなたに会えて、本当によかった。嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない」。

このさびの部分だけ抜き出すと、まさに結婚式にも使えそうな素敵な歌詞(機会があったら使おうと思っているが、機会がない)。そういう文脈でこの「手紙」でも、挿入歌として使われていると思うのだけど。

ただ最初から落ち着いて聞いてみると、実は別れの歌なんだよね、これ。初めて聞くとわかんないと思うんだけど、立派な失恋ソングです。なにせ♪「終わるはずのない愛が途絶えた」って出だしなんだもん。


それを知ってあのラストシーンを眺めるとひときわ意味深なり…。


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November 04, 2006

デスノート the Last name

もう10年以上前の話になる。

たしかどこかの居酒屋だったのだと思う、政治について友人たちと議論を交わしていた。その時のテーマは民主政治と独裁政治。要は、どちらが理想的な政治形態かという論議だった。まさに酒の席でなければ行わない。

僕としてはもちろん民主主義に軍配を上げたかったのだけど、その場知人が口にした一言に反論ができなかった。「でも俺思うけど、理想的な政治を行う独裁者がいたらそれがいちばんいいんじゃない」。

民主主義は非効率であり、時に腐敗する。では、やはり独裁政がよいのだろうか。

一晩考えてわかった。「理想的な独裁政治」とは、しょせんそれ自体が空想の産物なのである。架空の政治形態と、現実に存在する「非効率で腐敗した民主政治」を比較することは能わない。無意味なことである。

現実の歴史を見れば当初は善政を敷いたかのように見えた独裁政治も、その先必ず腐敗することが明らかである。民主主義にしろ独裁にしろ、一般に権力とは腐敗する危険性をはらんでいるのである。

その場合、独裁政治の最大の欠点は、それを防止するためのチェック機構や権力者を交代させる機構が用意されないことだ。一方民主主義が非効率なのは、実は権力分立や選挙といった腐敗に歯止めをかけるしくみを用意しているからである。すなわち、理想的な民主政治があるとすればそれは本質的に非効率なものであり、また理想的で効率的な独裁政治は実は民主政治より速やかにかつ深く腐敗するものといえる。

と、まるで「銀河英雄伝説」に登場するヤン・ウェンリーのようなことをかつて考えていたことを思い出してしまった。まあ実際には、この論議をした時には、やけにお説教じみたそのアニメーション作品をまだ目にしていなかったのだけどネ。

 


11月3日、文化の日。

祝日ではあるが会社で仕事がたまってきていて処理しきれなくなっていたので、休日出勤をしてこなす。といっても、休みの日に仕事をしているとテンションは伴わないもので、なかなかはかどらない。

午後遅めの時間からようやく本格的に稼動し始め、気づくと夜。予定していた業務の達成度は7割くらいなんだけど、休みの日にあまり遅くもなんだから切り上げる。

新橋駅前の書店に寄って、前から読みたいと思っていた「パックス・モンゴリカ」を買い求める。あまり知られていないことだけど、今年はモンゴル建国(チンギス・ハン即位)800年。これもそれに関連した出版なのだろう。

 


この日はもともと、仕事に早めに切りがつけば何か映画を観たいと思っていた。というのも先週は学生時代の友人の結婚式の二次会で帰省していて、観ている余裕がなかったからだ。映画鑑賞が習慣になっているので、あまり間が空くと落ち着かない。

しかし会社を出る時間がちょっと遅れてしまった。だから時間的にもうあわないなあ、と思って書店に入ったのだった。気にはなるので、書架の間をうろつきつつ携帯で映画情報のサイトを探す。するとすぐにかけつければ、川崎で「デスノート the Last name」を鑑賞できそうではないか。書店を出て電車に乗った。


妻夫木聡クンと並ぶ僕の心のライバル、藤原竜也クンが主役を演じるこの「デスノート」。数ヵ月前に何気なく観た前編がけっこう面白かった(その時のブログ)。

氏名を書き込むとその人物を殺すことができるという“デスノート”。それを死神から手に入れ、罪を問われないまま社会にひそむ犯罪者たちを抹殺して理想世界を作り上げようとする月(らいと)。犯罪者たちの不可解な死が相次ぎ、大衆はその力を持つ謎の存在を「キラ」として英雄視するに至る。その「キラ」の正体を暴き追い詰めようとする名探偵「L」。

二人が、互いに相手が目に見えないまま様々な作戦を立て、丁々発止の駆け引きを繰り広げる。前作のそんなストーリー展開に多くの観客同様、僕はひきこまれたわけだ。

いわゆる感動大作とか、ヒューマンドラマといったタイプの作品だと、思わずあえて人と違ったひねくれたような感想を口にしてしまう僕。「どうだった?」と感想を求めてきた人をして、「なに、この人!?」と惑わせてしまうことも少なくない。しかしこういうお話であれば、他人と違った感想を口にすることなく済むので、自分としても安心である。


素直に続きが観たい、と思っていて、そんなわけで後編が上映開始となって劇場にかけつけたわけだった。僕の心のライバル藤原竜也クン、若いのになかなか演技のできる役者だと思っていて、彼が月(らいと)を演じているのもまたこの映画の魅力の一つである。

あと後編に関していうと、Lを演じる松山ケンイチクンの、ひょっとこお面姿は必見ポイントなのだろう。この姿には劇場のあちこちの席から笑いが漏れていた。

僕も笑った。

うぷぷ。


ということで後編を観終わった。第二のキラが出て死神も二人になったり、これでは話が発散しかねないと一瞬思ったけど、その危惧は杞憂に終わり首尾よくまとまっているというところか。

そして、なるほどこんなラストなんだね。「the Last name」と冠したサブタイトルが然り、というところか。もっとも、鑑賞後電話で話してみた友人によるとコミックではまた違うエンドなのだという。ふむ…。これはいちど目を通してみるのがいいかもしれないな。機会があれば読むことにしよう。

 


「僕は新世界の“神”になる」

藤原竜也クン演じる月(らいと)がこの映画のラストシーンで口にするセリフ。本気でそう思っていたのか…賢いように見えて実はたんなる“イタい”やつだったんだなこいつ、とわかった瞬間である。

この月(らいと)のセリフから、僕にはかつて交わした議論の記憶がよみがえってきた。

彼が唱えるように、法律は果たして無力なのか。

「キラ」の行動は、本質的に支持されるべきものなのか。

これに対する答えは、かつて僕が導いた結論のなかに示唆されていると思った。まあ、それはきわめて個人的な回顧なんではあるが。それが冒頭に述べたエピソードである。

 

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