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May 20, 2007

スパイダーマン3

スパイダーマン3」を鑑賞した。


こういう話題の大型作品については、このブログを目にした方も既にご覧になっている場合が多いと思う。だからあえて、詳しい紹介や論評を述べる必要はないかもしれない。

僕としてはこれまで「スパイダーマン」も「スパイダーマン2」も公開時には劇場で観てきたし、その「スパイダーマン2」の時のブログでも述べたけど、主人公のトビー・マグワイアは、「カラー・オブ・ハート」を観て以来、僕にとっては注目している役者の一人というわけで、素直な気持ちで足を運んだわけだ。


そもそも、これまでの「スパイダーマン」も「スパイダーマン2」も、設定は荒唐無稽なヒーローアクションものなのだが、ストーリーとしては、主人公の苦悩とかヒーロー責任のといったテーマを丁寧に描いていて、それが僕にとっては印象深かった。前作、前々作ともになかなかよくできた映画だったよな、うん。

ということで実は今回の鑑賞に足を向ける前に、前作、前々作のDVDを購入。事前にこれまでのお話を復習しておいたほどである。何しろスパイダーマン3をヒットさせるという目的のため、1&2の両作品がセットになって約2,000円という値付けでDVDコーナーに並べられているのである。まさにこれはお買い得というものだ。


 


ということで鑑賞にのぞんだわけだけど、みなさんはどうご覧になりましたかこの3作目を。

いやいや、物語のなかみはてんこもりだよね。これでもか、これでもか、という具合で展開していって観終わったらふぅ〜。もうお腹いっぱい、という感じ。

なにしろ、予告編やポスターなどでは黒いスパイダーマンが強調されているから、自分の内面(ダークサイドみたいなもん?)との闘いがメインなのかなあ、と思いつつ、でも前作のラストを思い出すと、今回はハリーとの対決の物語以外ないだろうとも思うし、情報誌をパラパラとめくるとこんどの敵はサンドマン(砂男)なんて書いてあるし、おいおい、いったいどんなお話じゃ、と思ってしまう。

で、観てみるとわかるけど、スクリーンの向こうではその3つの敵とそれぞれ戦うことになるわけだ。なんと盆と正月が一緒にやってきたような騒ぎではありませんか。いや、3個あるから盆とクリスマスとお正月くらいかな。サービス精神てんこもりで顧客満足度ナンバーワン(当社比)を狙っているのであろう。


ただ、ストーリーでちょっと気に入らなかったことが3つほどある。まあ、基本的にはよくできた特撮映画、娯楽作品だと僕も思っているのだけど、言論の自由というものに甘えてこの場に記すことをお許しいただきたい。

まず、前々作、前作で主人公ピーターの苦悩と責任感のおおもとになった重要なエピソードがある。そのエピソードの、ピーターも知り得なかった新たな真相が、本作品で明らかにされている。

といっても実態は明らかにされるというよりは、話の展開にあわせて都合良く書き換えられる、というのが近い。それも作品中で一度のみならず二度も書き換えられる。おいおい、これは物語の中核だろ、そんな変更ありかよ、と思ってしまった。

次に、ハリーがかわいそうである。ハリーというのは主人公ピーターの親友でありライバル、物語の重要な登場人物なのだが—。

今回は改良型グライダーに乗って空を飛び回り、最初はスパイダーマンと闘い、ラストではスパイダーマンと協力する側に回る。それにしてこの最後は…。顔に大怪我を負って醜男になってしまい、でも改心してピーターを助けようとするのに、このラストはなんとも無念なことである。

だいたい、あの執事がよくないのである。3作目の最後になっていきなりコトの真実をいうからこんな結果になるのだ。ハナからお坊っちゃまにちゃんと伝えておけばいいのだ。さすればハリーも逆恨みなど抱くこともなく、前作でも本作でもただの金持ちのいい友人、無難な脇役にとどまったであろう。それではスパイダーマンのお話が作れないが。

ただ、あの場面でああいう発言をさせるのは脚本家のご都合主義と言わずしてなんであろうか? 寂しいからといって別の男に走るM.J.の尻軽ぶりよりも、執事の存在に怒りを感じてしまうワタクシであった。

最後に、脱獄して素粒子実験に巻き込まれて砂男となりはてた男の、娘の病気は結局どうなったのであろうか。治ったのだろうか。それとも結局お金は届かず、いまだ快癒の見込みもないままなのだろうか。映画の出だしで難病の娘を出しておきながら、以降のストーリーではどうでもいいことの部類にしてしまって、その後の説明がないのはいささか不親切な気がした。

むむ。


と、また今日もつまらない指摘をいくつかしてしまった。素直なココロが大切なのにね。

繰り返しになるがよくできた映画だし、映画館のチケット代の元はとった気にはさせてくれる十分な密度の作品。なので深いこと考えないほうがいいんだと思う。この映画を観るって、遊園地のアトラクションを楽しむようなもんだと思うしね。

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May 11, 2007

主人公は僕だった

以前から細々と取り組んでいることに、過去録画したVHSカセットの内容をDVDに移し替えるという作業がある。

僕はNHKの教養番組がわりと好きな人間で、とくに大学時代はNHKスペシャルを中心に大型企画をほぼ全て録画していた。だからけっこう膨大な量がある(ちゃんと数えたことないけど100巻は優に越すだろう)。

それらのVHSカセットは実家に残っているので、盆とか正月とかG.W.とか、帰省のたびに何本かを持ってきて、いまの住まいにあるDVDレコーダーとVHSデッキを使って、DVD-Rに焼いていく。単純にダビングするだけでなく、ダビングとあわせてタイトル情報なども入力するから、それなりに手間はかかる作業だ。

昨年から取り組み始めて、いくつかのタイトルをDVDとすることができた。

大英博物館」「美の回廊をゆく」「臨死体験」「大モンゴル」「驚異の小宇宙・人体Ⅱ 脳と心」「戦後50年・その時日本は」「大地の子」「四大文明」、エトセトラ、エトセトラ…。

再生しながらついつい番組を視聴してしまう。僕が録画した番組は1990年代前半のものが多いので再生するのは実に15年ぶりなんてものもある。それだけたてばテープがいかれていそうなものだが、幸いなのか劣化して視聴できなくなったカセットにはまだ出会っていない。

興味深いのは本編より、実は本編が終った後に流れるNHKニュースの断片だったりする。当時は時計のずれなど考慮して、たいてい前後に約1分の余裕を持って予約録画を設定していた。だから番組後のニュースがちょっとだけ入っていたりするのだが、なんとも懐かしいですね。湾岸戦争のニュースがあったり、ゴルバチョフ大統領が出てきたりするので。この時代はまだソ連があったんだなあと思う。

ある時はニュース解説で「安倍氏死去と政局」なんてのも残っていたな。亡くなったのはもちろん晋三さんではなく、お父さんの晋太郎さんのことである。1991年、67歳であった。総理大臣を目前にして…なりたかったんだろうなあ。そして、息子がなると予想していたかどうか。

VHSカセットは実家にまだまだたくさん残っている。この個人的大事業が完了するのはいったいいつのことだろうか。


5月11日の金曜日、職場のSさんより、「私は行けなくなったのでどうですか」と、試写会の券をもらった(どうもありがとうございます)。

それで有楽町のよみうりホールに観に行ったのだが、その映画のタイトルは、「主人公は僕だった」。


 


律儀で几帳面な性格で、数字にうるさく国税庁に勤務する男、ハロルド・クリック。その彼の頭のなかにある日突然、その行動を描写する“声”が聞こえ始める。その声はあたかも、物語を語っているかのようなのだが—。そしてある日こう告げられる。「彼は、自分が死ぬとは知る由もなかった」。

ハロルドは驚いて声をあげる。「おい、僕が死ぬって!? どういうことだ!」。

邦題は「主人公は僕だった」なのだが、原題は「Stranger Than Fiction」というらしい。訳せば、「事実は小説より奇なり」。ふむ。これはこれで劇中の展開をそれなりに物語っているような気もするね。

どちらがいいかは、どっこいどっこいかもしれないけど。


ところで「主人公は僕だった」という題名から連想した作品がいくつかある。

まず僕がまっさきに連想したのが、筒井康隆さんの短編「おれに関する噂」だ。これは、平凡な主人公である“俺”の行動についてある日突然テレビや新聞が報道を始め、ワイドショーのレポーターに追っかけられ…という筒井スラップスティックSFの代表作品である。

しかし「主人公は僕だった」は、まだ発表される前の小説に描かれるという設定なので、だいぶ違う。映画作品でいえば、展開やオチはこれまた全然別だけど、「トゥルーマン・ショー」のほうがアイデアの原点として「おれに関する噂」との共通するものが多いかもしれない。

主人公が自分が小説の登場人物だと知るということで思いつくのは、やはりSF作家の作品なんだけど、小松左京さんの「こちらニッポン…」がある。これは全世界から忽然と人類が消え去ってしまい、ごくごく僅かな人間だけが残される、というお話。いったいなぜ、なにゆえにそのような現象が起きたのか、ということなんだけど、その謎のオチはスミマセン、ここに書いちゃいましたね。この作品では主人公がからくりには気づくんだけど、とくに作家とまみえることはない。主人公と作家は、次元の異なる存在として描かれる。

はたまた、物語の登場人物が現実の世界に飛び出してくるという小説で、井上ひさしさんの「ブンとフン」というのもあった。

主人公は僕だった」が登場人物の視点から物語を作っているのに対し、こちらは作家の視点から物語が作られている。売れない三流作家フン先生が自らの小説で不可能のない大泥棒として記述したがために、小説から飛び出るという不可能を乗り越えてあらわれた、大泥棒ブンをめぐる騒動の物語である。展開はハチャメチャ、ナンセンス、ドタバタで、そしてなんとも愉快な大団円を迎える。


 


さて、今回の「主人公は僕だった」の主人公ハロルド(いかにもいい人の代表、ウィル・フェレルが演じる)。ある時点で自分が小説の主人公として描かれていることを知る。

それはハロルドが訪ねた、文学理論を専門とする大学教授の力を借りて気づくのだけど、設定として特徴的なのはその小説を描いている作家が同じこの世に生きる存在だということが自明であることかな。つまり作家と作中の人物は次元の異なる存在ではなく、同じ街で暮らしていたってこと。

で、教授(これがダスティン・ホフマンなんですね…脇役なのに大物というのがなんとも不思議)とやりとりをするあたりで、どうやって作家を突き止めるのかという推理モノ的な内容になるのかな、とちょっと思ったりもするのだが、さにあらず。全然別の理由で、いとも簡単に作家がわかってしまう。

はたまた、お話が続いてラストが近づくとその教授が「この結末は変えられない。これは最高傑作になる。君は死ぬべきだ」と言い始める。ここはここで、おお、どんな結末なのだ、と思う。思うのだけど、最後まで観続けて思ったのは、えー、その結末のいったい何が傑作なの? ってこと。いや、もっと比類なき、あっと言わせるような、まるでシックス・センスのオチのような感動する展開があるのかも、って期待したんだけど。まあ、そうそうあるわけないよね。

とはいえ、そういう物語の設計的な部分にくちばしを突っ込むのは必ずしも正しい鑑賞法とは限らないよね。お話の前提としてちょっと不思議な設定を施しているけど、これはいたって正統派のヒューマンドラマなのだ。だからそういうまなざしで見ればそこそこの傑作なんだと思う。

自分らしく生きることとか、人を愛することとか、そういうまっとうな感覚を肯定するお話なのだ。

なによりヒロインのパン屋さんアナ・パスカル演じる、マギー・ギレンホールはコケティッシュで笑顔がキュートだしね。こんな娘に馬乗りにされたらたまらんですよ。

アァ…( ;´Д`)


 


登場人物が、水からが何者かによって作られた存在だということに気づく。そういう物語の話をもう少し続けてみよう。

ブンとフン」や「こちらニッポン…」は僕が中学生の頃に読んだ作品だけど、比較的最近読んだものとしては、「ループ」と「神は沈黙せず」があるな。

ループ」は、鈴木光司さんの小説で「リング」「らせん」から連なる三部作の完結編にあたる小説だ。前々作、前作で描かれた現象が、なぜそのような現象が存在する世界になったのかということを論理的に解明している。つまりコンピューターによって作られた箱庭世界だったのだ。そして「ループ」の主人公は、破綻しようとしているその世界を救うためあえてその世界に転生する。それが「リング」「らせん」のあの人物だった…。

と学会の会長として有名な山本弘さんの小説が「神は沈黙せず」である。こちらも、この宇宙は実は“神”の箱庭だったという設定のお話。この宇宙は半径1光年しかなく、そこから先の宇宙は全て投影されたものだった、という事実が明らかになる。全ては“神”の量子コンピューターによって創造された世界だったのだ。

でもってその結果、これまで原因がわからなかった超常現象の謎が解明される(さすが
と学会の会長だけあって、疑似科学に関するウンチクがかなり饒舌である)。さらに登場人物の一人が、次元の異なるその“神”の世界へ転生することを密かな目的に、“神”の目にとまるようなユニークな人物として認識されるよう逸脱した行動を始めるに及んで日本は新たな混乱に至る…。

やっぱり、この手の話はどうしてもSFが多いよね。「主人公は僕だった」は、作中の人物が実在するという現象がなぜ起こるのかという説明がまるでない。だからこれはファンタジーなんだけど、あえてありえることとして記述するためには、量子コンピューターという夢の装置の存在が不可欠だといえるようだ。


 


もしかすると神経衰弱気味の作家、カレン・アイフルのタイプライターが、実はタイプライターの形をした量子コンピューターだったという設定なのかもしれないけど。

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May 06, 2007

クィーン

最近、♪「千の風になって」という歌がヒットしているという。

テノール歌手の秋川雅史さんという方が歌っていて、紅白歌合戦にも出場したらしい。それが話題になってこのほどフジテレビでドラマ化されることも決まったようだ。

僕はこの歌の存在は最近まで全く知らなかった。それがつい先日、ゴールデンウィークの初日に唱和する機会があった。僕の地元で友人が亡くなったのだけど、その数週間後、彼女のお別れ茶話会が催されたのだ。


 Owakare


その席で詩を書いた紙が配られ、最後に出席した方々みなで歌った。それが、「千の風になって」だった。

実はわりと親しくしていた人だったし、還らぬ身となった彼女の無念や、彼女のご家族の気持ちを考えると実に切ない心境にはなっていた。そんななか、この詩の言葉にはたしかに救われたような気がした。

そう思うとヒットしているのも頷ける。それで別の友人に、「知らなかったけどこんな歌があるんだね」と伝えたら、「だいぶ前から有名だよ。遅いよ」と返された。

ふむ…。


 


さて、そんな詩の存在を知るところから僕の大型連休はスタートしたわけだけど、その連休の最後の日に行ったことは、映画「クィーン」を観に行くことだった。

例によって何もすることがなかったので、一人でぶらり映画館、という次第である。


1997年8月、パリでダイアナ元妃が交通事故に遭い、還らぬ人となった。英国全体が衝撃に包まれ、悲嘆にくれるなか、王室は沈黙を続ける。ダイアナは既に王室と関係ない人物であって、その死はあくまで個人的なできごとと考え対応する王室一家。一方でダイアナを讃える国民の声を目の当たりにして、女王の心は揺れ動く…。とまあ、そんなお話。

このストーリーでまずしみじみ思うのは、まず、ダイアナさんの事故からもう10年もたつんだな~、ということである。正直、ちょっと驚く。そういえばあの年の10月に会社の仕事でスイスに出張したことがあった。あちこちの雑誌でダイアナ葬儀の写真を目にしていたような記憶がある。

それでこの映画の主人公は、タイトルの通り英国女王、エリザベス2世陛下。でもってこの女王を演じたヘレン・ミレンさんが、アカデミー主演女優賞を獲得したということで話題になっていたりもする。

だけど僕は、実は「ブレア」ってタイトルにしてもいいんでは、って観ていて思った。

というのも、英国首相に就任したばかりの若きトニー・ブレア氏がこの物語のもう一人の主人公。国民と王室の間の橋渡し役として、ブレア首相が大活躍する映画なのだ。


そう。1997年といえばちょうどブレア政権が発足した年だったんだね。

映画はブレア政権の発足とダイアナ元妃の交通事故が間髪入れずに起こったかのように描いている。実際にはブレア政権発足が5月で、ブレア政権の発足とダイアナ元妃の事故は8月31日だから、少なからず間はあいているのだけど。まあ、あまり重箱の隅をつつくのはナシとしておこう。

さて、いま現実の世界を目に向けてみれば、まさにブレアさんの退陣表明の報が世界をかけめぐっているところである。だいぶ前から支持率は低迷し、いつ辞めるかということとと後継が誰になるかということばかりが焦点になっていた。ブレアさんは、いわば死に体の総理大臣だ。

そんな現在の姿とは裏腹に、映画のなか就任したばかりのブレアさんはまるで違う。バイタリティーに満ちた政治家で、国民の声を機敏に察知して行動し、危うい危機のなかにあった王室をも救ったんだよ、と…。

つまりこれは、いまは損なわれてしまったある政治家の栄光に対するオマージュなのである。

劇中のブレアさんは、民衆の声に耳を傾けなければ王室の存続が危うい、と女王の心を動かす。そしてその後幾年かたち、こんどは自らが国民に背を向けられ、内閣の存続ができないところに追い込まれてしまったというわけだ。

栄枯盛衰は世のならい、ってものだよね。

うん。


ちなみに女王陛下が別荘の敷地内ながら自ら自動車(四駆!)を運転するシーンに、英国王室ではそういう行動の自由があるのねって、ちょっとビックリ。

まあ日本でも、皇后陛下が自動車免許を取得されたという記事を目にしたことはあるし、皇太子妃殿下も外務省職員の頃にカローラIIで通勤されていたと思うけど。だけどいま実際に運転をされているという話は聞いたことないしね。

ロイヤルご一家といっても違うものだ。

それにしてもご一家、ダイアナ元妃が還らぬ人となったばかりというに鹿狩りというのはさすがにまずいだろ。そういう時には殺生を避けるのは常識以前だ、と感じてしまうのだが、それも仏教的世界観に身を置いているからなんだろうか。

国が違えば、考え方も違うものだ。

そもそも実在の人物を取り上げて映画が作られること自体が、日本では許されない考えだろうとは思ったけど。ふむ。国が違うのだな。

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May 04, 2007

バベル

ゴールデンウィークのゆえか、出演した日本人女優がアカデミー賞助演女優賞候補にノミネートされて事前の話題が高かったためか、はたまたブラッド・ピッドが出演しているせいか、劇場はいっぱいだった。

だけど、率直に言えばこれは万人受けするストーリーではないよね、この映画。と思いながら鑑賞したのが「バベル」。

こういう映画、僕は嫌いではないけどね。

内容としては、愛を失いかけつつモロッコを旅する米国人夫婦、モロッコの高原に暮らす羊飼いの家族、米国人夫婦の子守りをするメキシコ人家政婦、そして自分の居場所を求める日本の聾者の女子高生、という4つの話がそれぞれ別個に展開していく。それぞれの人物たちは密接に絡み合いながらも、結局は直接まみえることなどなくラストを迎える。


そもそもバベルというタイトルからして、示唆されている内容は明らかだと思うのだけど、日本は非キリスト教徒が大勢のゆえか由来がわからない人も多いみたい。

まあ知る人には当たり前の知識なんだろうけど、これは旧約聖書に登場するバベルの塔の逸話からとったタイトルですな。ええと、創世記の11章ですね。日本聖書協会の新共同訳の聖書本文から引用すれば、こんな話です。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。/ 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。/ 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。/ 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。/ 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、/ 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。/ 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。/ 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。/ こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

この映画はお互いがわかりあえない人間、という主題を描いていると思うのだが、まさにそれを端的に表現したタイトルである。

そして創世記では、人類が互いを理解できなくなるきっかけとなったのは、奢りのなかで建設されたバベルの塔だったわけだが、この映画でキーとして象徴的に据えられているものは、一丁の銃ということになる。

それぞれの家族はお互いを認識できない関係にあるのだが、ただ一つ銃を介してつながっているのだ。映画の製作者が、それが世界の現実だと言いたいのかどうかは、よくわからないけど。


話がすっきりわからないので、他の人と感想を共有してみたいなあと激しく思わせる。多くの人がそれぞれの解釈を抱いたと思う。

そんななかで僕の感想をあえて記すと、この映画のなかで描かれる悲劇の起点というものは、前述の通り一丁の銃にあるのだが、その銃の持ち主がなぜ日本人なのである。なぜだろう、と思った。

物語のなかでは聾の女子高生の母が銃で自殺したことが明かされる。ちょうど今週のNEWSWEEK日本版ゴールデンウィーク合併号に世界各国の「銃器類による死者数」が掲載されているのだけど、日本は年間96人。うち殺人が35件で自殺が47件、事故が14件なのだそうだ。

特定事件の報道過多のせいで銃による事件が増えている印象もあるけど、ここは世界で最も銃の発砲が少ない国であることは間違いない。

チエコの母親は、そのわずか47件という特異なケースのわけだ。現実にはありえないと言ってよいことなのである。まあ、聾の女子高生が飲酒と興奮剤でラリって、おまけにいささか色情狂ですぐ全裸になることがそもそも同じくらいありえないんだろうけど、なんでこういう設定を日本に持ってきたのかなあ、と思う。よもや日本の観客を得たいがための便宜的なものというわけではあるまい。

おまけにNEWSWEEK誌の同記事の、世界地図上の色分けを見れば、数値は示されていないもののモロッコだって同じくらいの死者率(人口10万人あたり5人以下)である。モロッコと日本という、銃による殺人がきわめて少ない地域で生じた発砲事件を描き、一方で銃による殺人が世界のなかでも桁違いに多い米国の夫婦が撃たれる側の被害者となる。これはいったい何を意味するのだろうか…?

むむむ…。

実は、何も意味していなかったりして。


繰り返しになるけど、すっきり整理されたストーリー展開の映画ではないから、他の観客の感想や解釈、あるいは抱いた疑問というものを自ずと聞いてみたくなる。僕の感想というか疑問は上にまとめた通りなんだけど、これはいささか的外れ、筋違いなものの気がする。

そんなわけで、インターネット上にあるこの映画についてのコメントをしばしウォッチして回った。

それらのなかには参考になるものもいくつかあったし、たんに「わからない」と言っているものも多かった。最も「フムフム」という読ませてくれたのは、goo映画にあったこちらのコメントであろうか。参考まで、挙げておきます。

 新しい人間関係としての「近親相姦」
 http://movie.goo.ne.jp/review/movie/MOVCSTD10222/1_29/index.html

ああ、なるほど。そういう読み取り方ができるのね、という感じである。僕ももっと考えよう。


【追記】 舞台の一つを「ヨルダン」と記述していましたが、正しくはモロッコでした。該当の箇所をモロッコに修正しました。 2007.5.7


 

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