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August 22, 2008

崖の上のポニョ

今年は、雨が多い。

日本列島の各地を集中豪雨が襲う。

8月29日の深夜から未明にかけては、僕の出身地の愛知県岡崎市を記録的な大雨が襲った。

真夜中にも関わらずたまたまテレビを見ていたのだが、岡崎市の全域に避難勧告が出されたと言うではないか。な、なんだって。こりゃえらいことだわい。

幸い僕の実家のあたりは危険な状態にはならなかったみたいだが、ニュース映像では街が冠水している様子を見せられ、息を飲んだ。


この日に限らず、この夏は豪雨に関するニュースをなんど目にしただろう。ゲリラ豪雨という言葉も生み出されたくらいだ。

これはきっと、何かある。誰もが考えるのが、地球温暖化の影響。増え続けるCO2のせい? むむ…もちろんそれもあるだろう。

とはいえ温暖化は徐々に進んでいる話。それでは豪雨は今年急に増えた理由を説明できない。

これは、きっとアレにちがいない。アレのせい以外、考えらない。

そのアレとはいったい…。


ポニョだ。

そう、ポニョだ。映画「崖の上のポニョ」の公開が、水を呼んでいるのだ。

「崖の上のポニョ」の観客動員数は1,000万人を超えたという。つまり1,000万人の脳裏に、あの大波が押し寄せその上を女の子が走っていく沿岸のイメージが植え付けられたことになる。

あの映画を観た人間たちの空想力が具現化し、この大地の上にこれまでにない降雨を招いているのだ。

きっとそうにちがいない。

      *   *   *

ということで、8月22日に鑑賞した「崖の上のポニョ」についての記事をしたためる。

 崖の上のポニョ
 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/


宮崎駿監督のアニメーション作品というのは、不思議な魅力に満ちているとは思うのだけど、もう何年も前から僕にはこの監督の作品がなぜこれほどまでにヒットするのか、わからなくなっている。

「天空の城ラピュタ」や「となりのトトロ」の頃ならば、わかる。ストーリーは明快で、キャラクターたちが空を飛ぶシーンは壮快で、深く考えることなくスクリーンを眺めていればよかった。多くの人が楽しめる作りになっていた。

でも、最近の作品はそうとは言い難い。具体的には、「もののけ姫」よりこのかた、宮崎駿監督の作品については難解な要素が増したといえるだろう。物語に込められたメッセージが単純明快なものではなくなり、スクリーンを眺めているだけでは話が何がなんだかわからなくなったのである。言外に語られる要素が増えたということか。

こうなるとわかる人がだけが楽しめる、玄人ごのみの内容となって、普通なら観客は絞られてくる…はずなのだが、そうはならっていないのが不可思議だ。これはおそらく、アニメーションの効果で、絵の鮮やかさ、楽しさがメッセージの難解さを隠蔽して、観客を飽きさせないでいられることが大きいのだろう。

また宮崎駿監督の力量も大きくて、物語に自らが込めたい高度なメッセージと、大衆が理解できる筋書きとの間で絶妙なバランスをとれている、ともいえるだろう。もちろん、何が何でも大衆向けの娯楽作品として強力にプッシュする広告宣伝の力も無視できないのだが。


思うに、物語には明らかにされる要素と、必ずしも明らかにされない要素がある。単純明快な物語とは、明らかにされる要素だけをつないで、ストーリーをつむいでいく。全ての伏線がわかりやすくストーリーに絡む映画は、観客にとって理解のぶれはほとんどない。。

しかし物語のなかに明らかにされない要素が埋め込まれている場合、そこにあえて注目することも可能だ。明らかにされない要素をつむぐことで、表面的なものとは違ったストーリーを描くこともできる。ただ何が正解か示されないので、基本的に観客や読者の解釈に任される。

こうした観客の恣意に任されるのは僕は必ずしも嫌いではなくて、内容にもよるがむしろ、観客や読者を試すそうした物語に魅力を感じることも多い。僕のなかでは村上春樹さんの小説や、洋画ではナイト・M・シャマラン監督の作品、そして宮崎駿監督の「もののけ姫」以降のアニメーション作品(「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」)がそれに該当している。


http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/gallery/p003.html


「崖の上のポニョ」は当初、もしかするとそうした路線を転換して、もとの大衆向けにわかりやすい作品に戻したものなのかと想像していた。映画のポスターや、TVCMを目にし、そして印象的な主題歌を耳にする限り、頭を使わずとも楽しめる娯楽作品なのかなあと、思っていた。なんとなく「となりのトトロ」に近いものかな、と想像していた。

そうではなかった。

「崖の上のポニョ」は一見、優しい絵柄で、人魚姫をモチーフにした子供向けの童話のように見せながら、宮崎監督のここしばらくの路線もいたって健在な作品であった。いや、優れた童話は、もともと人間の深層心理を反映させたたまもの。むしろ幼子向けの体裁をとることで、さまざまな謎を埋め込むこともしやすいかもしれない。

映画の冒頭、生みの魔法使いが潜水艇に乗って深海をたゆたうそのシーンから、おやおやこの船のまわりは、本来何億年も前に絶滅した生き物たちばかりだなあ、これはいったいどうしたことだ、と考えさせた時から、この映画の魅力は始まっていたのである。

(それにしてもこの映画、古代魚が浅瀬を泳いだり、カンブリア紀とかデボン紀という言葉が出てきたり、監督はNHKの「地球大進化」にでもインスパイアされたのかね)。


http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/gallery/p006.html


考えさせられた点、不思議に思った点などのいくつかをここに記してみることにする。

まず、この映画にソウスケ以外に人間の男性は登場しない。

父親のコウイチは出てくるが、家庭内の存在として描かれることはなく、その他ドッグの作業員やら貨物船の乗組員やらで登場するが、ストーリーの展開上やむなく出したという形で、主要な役割は全く担わされていない。

男性の不在。これが、この物語の謎の一つ。

男性の不在といえば、そもそも父親のコウイチはなぜ家に帰らないのだろうか。予定されていた帰宅は急にとりやめになり、貨物船を降りないその理由は明らかにされない。妻のリサに「愛している」というメッセージを送るが、それはモールス信号によってである。

一方で、ソウスケは幼いながらも大人の男性にも負けず劣らない役割を担わされ、それを物語のなかでは見事果たしている。

それとは裏腹に母親のリサも、途中で我が子を残して失踪してしまう。いったいリサは垣間見えた灯に何を期待したのだろうか。そしてその灯の主と邂逅しえたのだろうか。これもよくわからないところである。

とにもかくにも父の不在と母の失踪により、冒険譚を開始せざるを得なくなる。違う物語であれば本当は幼い子供ではなく、思春期の少年あたりならもっともしっくりとくるシーンだが、物語の体裁が童話というスタイルをとっているがため、あくまでソウスケは幼いソウスケのままではある。

それにしても、山の上から灯を放ったのはいったい誰なのだろう。これも明かされない謎の一つ。


あと、ソウスケは父親をコウイチ、母親をリサと呼び捨てにする。映画を観ていて、この3人は実は血縁関係はなくて、何らかの事情で共同生活をしているのだろう、と思ったのだが、そうではなくこの家庭はちゃんと家族であった。親をファーストネームで呼ぶアニメは他にも「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」があるが、これでいいのだろうか。

父親の不在、母親の失踪、両親を呼び捨てにする息子、とくれば家庭崩壊という呼び方すらできそうである。もっとも、これは現代社会における家庭崩壊を象徴させようとしたのではなく、ソウスケが力をもって自立すべき存在であることを強調するための意図した演出なのだろう。

男性の不在、ファーストネームで呼び合う家庭と続いて、奇妙に感じたのは、女性の描き方だ。母親をのぞくと、登場した女性で印象的なのはやはり老女たちだろう。というか、最初も最後も老女である。老女の多用は何を意味するのだろうか。「カリオストロの城」のクラリスよりこのかた、若い女性ばかり登場させる宮崎駿監督はロリコンとばかり思っていたが、思い切った路線転換である。

女性といえば物語の後半で、幼い赤ちゃんを連れた母親が登場する。この母親はどことなくずれている。ちなみに、声優を演じているのは千と千尋の声を担った柊留美ちゃんだ。うーん千尋も、お母さんになるくらいの歳頃になったんだねえ。

そういえば、ずれた母親とともにこの赤ちゃんが笑わないんだな、また。でも、ポニョが接吻すると穏やかな顔になる。


その後、幼いトンネルに入るので、ああこれは産道を描いているのだな、と思った。赤ちゃんと出会った後だからね。産道をさかのぼることでポニョは胎児の状態に戻り、そこからまた人間の生としてやりなおす、ということを象徴しているのだ。トンネルの先にはポニョの母がいるのだから、わかりやすい。

同時にソウスケがトンネルを進むこと、そしてそのソウスケは幼子でありながら既に成人に近い存在であるわけだから、将来の性交をも暗示しているのかもしれない。まあ、こうなってくるとなんでも性に結びつける通俗的な解釈論だから、この見解は破棄したほうがよいかもしれない。

いずれにせよ、トンネルをさかのぼることは生まれ変わりに欠かせない儀式であり、子宮に戻ってポニョは半魚人ではなく人間として再生することになったのだ。しかし、その立ち会い人がなんで老女たちなのだ。これはよくわからない。

あとそのシーンでわからないといえば、ポニョの母とリサが何を話していたのかも明らかにされていない。おおかた、今後のポニョの養育をよろしくお願いしますといったところなのかもしれないし、あるいはもっと別の意図の会話が行われていたのかもしれぬ。あえて明かされていないところが、老女たちは「リサさん、つらいでしょうね」と言っているし、何かヒジョーに意味深なんだよな〜。

だいたい、灯を探しに行ったリサがなぜあそこにいるのだ? もしかしてリサは…。


http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12515/gallery/p002.html


まあ、他にも不思議で奇妙な箇所はいくつもある。それらをつなげていった先に、どのような想像を働かすのか。どのような、秘められたストーリーを描くのか。それは大人の観客にとっての醍醐味だといえるだろう。

そういう意味で、この「崖の上のポニョ」は子供向けではなく、僕にとってもほどよく楽しめるテイストの映画に仕上がっていた。宮崎監督、楽しい映画をありがとうございます。


最後に、明かされている謎をちょっと記しておこう。主人公の二人の名前が、どこからとられているのかということについて。

ポニョなのだけど、ポニョという名前自体はポニョっとしているからなんでそのままだが、劇中では父親である魔法使いフジモトから彼女は「ブリュンヒルデ」と呼ばれていた。

ブリュンヒルデ。これは、「ニーベルングの指環」に登場する女神(ワルキューレ)の名なのだそうだ。主神オーディンの命に逆らったことで怒りに触れ、懲罰をくらうことになるんだという。

男の子のほう、ソウスケは、夏目漱石の小説「門」の主人公、野中宗助からとられた模様。野中宗助の家が“崖の下”にあったことにちなむのだそうだ。まあ、「門」のあらすじまで知るとさらにいろいろな想像を繰り広げてしまいそうだが。

僕自身はどちらの作品にも触れていないから必ずしもピンと来ないのではあるが、そんな由来があるらしい。ということで書いておく。

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August 11, 2008

篤姫

きょうは毎週鑑賞している大河ドラマ「篤姫」の感想を、記してみることにしよう。


■宮﨑あおいの名に埋め込まれた予言Atsuhime_1


宮﨑あおいは、徳川家とNHKに縁がある。


目下放送中のNHK大河ドラマ「篤姫」で、徳川13代将軍家定の御台所、天璋院篤姫を演じているのはご存じのとおり。

天璋院は夫・家定の死後、幕末から明治維新に至る時代を生き、女性として徳川幕府の終焉に立ち会うことになった人物だ。徳川の女を演じる女優、宮﨑あおい。

その彼女が、同じNHKでおととし出演していたのが、連続テレビ小説「純情きらり」。時代は戦前・戦中であったが、主人公が生まれ成長する舞台として設定された土地は、愛知県岡崎市だった。

岡崎といえば、これすなわち徳川家康誕生の地。いや、宮﨑あおい演じる女学生・桜子が、岡崎城のすぐ下の河原を自転車で駆け抜けるシーンはさわやかでしたね。

徳川の始まりの土地を舞台にしたドラマに出て、そしてこんどは徳川の終わりに立ち会う女性を演じる。つくづく宮﨑あおいは、NHKと徳川に縁がある。

いや、これは縁ではない。必然なのだ。

これらの役を演じるのは、宮﨑あおいをおいて他には考えられないのだ。だって名前を見れば、わかる。みやざき、あおい。

「あおい」。そう、葵の御紋の“葵”である。それは言わずとしれた徳川の家紋だ。さらに岡崎では当地を現す雅称にもなっている。彼女が徳川ゆかりの役を演じる運命は、女優としてスタートした時から名前に刻まれていたのである。

「あおい」の名は、予言だったのである。

ミヤザキ・コード。


その大河ドラマ「篤姫」が好調なのだという。アエラの今週号にも「あおい「篤姫」が維新史を塗り替える」と題して記事が組まれ、評判の背景に迫っていた。

たしかに「篤姫」、わが家でも毎回欠かさず見ている。前年の「風林火山」は時折しか視聴せず、しかも年の途中で止めてしまったから、それとは対照的だ。


■女性を主役に据えたほうが、がぜん面白い


Atsuhime_2考えてみれば、大河ドラマは女性を主役にしたほうが、これまでにない歴史の見方を提示できて面白いのかも。


「女が男と手を携え、世を開いていくのは、これで終わるのやも知れぬ…」

おととし放映された大河ドラマ、「功名が辻」。その最終回のこのセリフにはっとさせられた。

これは、大阪の陣において豊臣家が滅んだ直後のシーンで、仲間由紀恵演ずる山内一豊妻(千代)と会した高台院(北政所)がつぶやいた一言だった。

中世の幕引きとなるその時代。それはまさに女性が歴史の表舞台から退場しつつある時でもあった。


武家の歴史は、その当初より女性とともにあった。

鎌倉幕府を源頼朝とともにスタートさせた北条政子。大河ドラマ「花の乱」の主人公となった室町時代の足利義政の妻、日野富子。そして豊臣秀吉の妻である北政所や淀君。徳川3代将軍家光の乳母の「春日局」(これも大河になりましたね)…。

しかし、その後女性が権力を担うことはなくなる。近世、近代は男性優位の社会であった。天璋院だって、江戸城無血開城に陰の尽力をしたとはいえ、権勢を振るったとは言い難い。

それこそ昭和時代の末期に至り、土井たか子が日本社会党の委員長になるまで政治の表舞台に立つ女性は、歴史のなかに存在しないのである。


土井たか子までのその後の400年を一言であらわしたセリフに、僕はおおっ、すごいこと言わせる大河だなあと、感心したのだった。


■新解釈満載の大河「篤姫」に驚嘆

Atsuhime_3
おととしの「功名が辻」に続き女性が主人公となった今回の大河ドラマ。この「篤姫」もまた、別の角度からの驚きが満載だ。


篤姫が主人公と決まり、聡明で好奇心旺盛な女性と役柄が設定された時から、僕が注目していたのは、がぜん夫となる将軍・徳川家定であった。

家定が、頭も体も弱く、かなりしょうもない人物であったのは周知の歴史的事実。将軍に謁見した米国公使ハリスの前で、ただただ頭を前後に揺すっていた人物である。

あおいちゃんみたいな美人に対して、旦那となる将軍はずばりアホ…。これをどう描くのか、興味津々だったのだ。輿入れした篤姫の、がっかりびっくり“やっぱり瑛太がよかったわぁ”と落胆するシーンがあるのだろうなあ、と期待していた。

ところが、そうでなかった。

大河ドラマ「篤姫」の家定はアホではなかった。うつけもののふりした、孤独で賢い人物として設定されていたのだ。

な、なんだそりゃー。そんなドラマ見たことないぞ。いや民放ドラマの「大奥」の家定もまともだったかもしれんが、史実を重んじる大河ドラマでそんな解釈が出てくるとは思わなんだ。

それだけでなかった。そんな信長も顔負けの設定をさらに上回る驚きが待っていたのだ。


紀州徳川家の慶福か、一橋家の慶喜かをめぐって争われた将軍継嗣問題で、一橋派である篤姫や幾島の暗躍もむなしく、家定は慶福を跡目に選んでしまう。そして、紀州派の筆頭、彦根藩主井伊直弼を大老に選ぶ。

これ自体は、紛うことなき史実ではあるのだが。

ドラマでは、その理由が篤姫にあると家定が説く。篤姫を妻にし、連日夜伽を交わし、その魅力にぞっこんになったこの男は妻の顔を見てつぶやく。

「わしは初めて徳川を残したいと思うたのじゃ。このわしの家族を…」。

むむ…僕の妻もこのシーンは、ちょっと感動しながら見ていた。

さらに言う。“直弼を大老に選べば、徳川家が末永く残る道をきっと探してくれるだろう”と。“わしは家族を残したいのじゃ”。

ほぇ!? ほぇほぇほえ。

おおおおーい、勅許なしでの開国は、安政の大獄は、桜田門外の変は、尊王攘夷思想の高まりは…この後の幕末の動乱の原因は、家定の家族思いの性格にあったというのか。篤姫への愛がそうさせたというのかっっ。

このシーンを見た時にはぶったまげた。素直に感動していた妻の横で、僕は「篤姫」は本当にすごいドラマだと感嘆した。そんな歴史解釈、男性を主人公に幕末維新を描いていたら、ぜったいに出てこやしない(そもそも男性ドラマでは篤姫が登場しないか、仮に出てきてもチョイ役である)。

歴史の陰に女あり。まさに教科書が教えない歴史というべきか。いや、当然こんなこと記録には全く残っていないけどね。

幕末の動乱は、篤姫への愛が全ての始まりだった。

て!? そんな新解釈のドラマ、見たことない。

前回の繰り返しになるが、やはり、大河は女性を主人公にしたほうが、面白くなるということであろう。


次回作はぜひ現代を舞台に、大河ドラマ「土井たか子」のぞむ。


 

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