July 16, 2006

日本沈没

主人公なのに、ほとんど何もしない小野寺。

実に最後の15分に至るまで何もしない。それまでは本当になぜ彼が出ているのかわからない。ちっとは世のため人のために働けよ! と思ってしまうのは僕だけではないはずだ。今回はレスキュー隊員となった阿部玲子が、たんに深海オタクで何のとりえもないこの男になんでほれるのか、さっぱりわからない。

まあ、国土が崩壊し交通網は分断されているはずなのに、彼だけは自分だけのワームホールを持っているのか、瞬間移動の才があるのか、あちこち神出鬼没ではあるが。


ということで日本沈没である。

ご存知のように、この映画はリメイクであり、前作がある。

1973年に公開された前作は、もはや歴史的なSF作品といってよい小松左京さんの原作にほぼ忠実に作られている。しかし、リメイクとなればあえて前作と同じにはしたくないという意識が働くのであろう。ことごとく前作の設定を踏襲しないで作られた映画になっている。結果として、原作とも大幅に異なる内容になっている。

なにせ(ここから先はいわゆるネタばれの発言になるのだけど)、結局日本列島は沈没しないのだ! このラストにはさすがにビックリした。

さすがかつて時の首相をして、不沈空母と言わしめた国だけあるわい…(って、「不沈空母」発言もいまや歴史上のできごとかい?)。


今回の映画は驚きの連続だった。まず物語の始まりでさっさとアメリカ測地学会の発表のシーンが出てきてしまう。原作であれば物語の後半、いよいよ佳境にさしかかって設けられたこの場面が、今回の映画ではいきなりスタートに来て、日本列島が沈没することが決定事項として語られるのである。

なるほど、観客は既に「日本沈没」と知って観に来るわけだし、話をショートカットしてしまうのね。日本が沈没することがわかるまでのあれやこれやは前作で観ただろうしね。
ただこれでは、田所博士の立場というものがなくなってしまうじゃないか、とのっけから心配してしまう。結局、別の意味での活躍を見せるのではあるけどね。

そして「何もしない小野寺」と軌を一にしていると言える設定が「すぐに死んでしまう山本首相」。前作および原作では未曾有の国難に際し、日本民族の未来を確保せんと決意し行動する総理大臣が、冒頭で早々と事故死してしまう。おおーい、これでいいのか。

言ってみれば、潜水艦パイロットそしてレスキューの一員としてミクロのレベルで動く小野寺と、政治家としてマクロで動く山本と、それぞれの立場で日本人を救おうと奮闘するさまが前回の映画の後半であった。

この二人を“殺して”、その位置に新たなキャラを据えている。新たに登場する人物は二人はともに女性だ。なるほど。


まあ、それはそれでよい。

「日本沈没」は僕にとって最も印象の強い小説の一つで、読んだのは13歳の時だ。そういう時期に読んだ本って忘れようと思ってもなかなか忘れられない。

ましてや未曾有の災害で国土が崩壊し、民族が前例のない苦難に見舞われるなんていうインパクトある設定であり、作中では小松左京さんお得意の“文明批評”が登場人物の会話として長々と語られるのである。社会というものの存在に気づき関心を持ち始めた始めた年頃には本当に刺激の強い1冊であった。

それゆえあれやこれやと書きたくはなってしまう。いくつもネタはあるのだけど、この場では抑え目にしておくのが賢明だろう。


ただ、映画を観ながらずっと考えていたことがある。それは日本政府がいかに奮闘したところで、10ヵ月で1億2000万人の退避というのは果たして物理的に可能なのだろうか、ということだ。

そこで帰宅してからインターネットに接続して、日本の海外旅行者数の推移を調べてみた。

原作では1億1000万人を国外へ退避させることが可能なのか、論議されるシーンがある。そこで類似のケースとしてひきあいに出されるのが、終戦後の本土への引き揚げ体験。10年で1000万人というその先例に対し、この災厄では10ヵ月で1億1000万人。そのスケールの途方もなさが、登場人物の口から強調される。

10ヵ月1億人…。なるほど1970年代では、それは雲をつかむような数値だった。調べてみると、当時の海外旅行者数は年間230万人しかない。そして原作の展開から類推するに、実際には数1000万人程度しか救出できていないんじゃないかと、思わせられる。

それがいまはどうか。2005年の海外旅行者数は実に1600万人である。実にかつての7倍! ゴールデンウィークの10日間だけでも約60万人が国外に“脱出”している。これを単純計算で10ヵ月のスケールで見れば2500万人である。もし脱出という目的の下、空港や港湾などの設備をフル稼働させたら…。

日本国民全員国外脱出というのは、もはや不可能ではないのかもしれないのだ。

かつて荒唐無稽だったこと、奇跡の範疇に属したことが、そうではなくなっている。

そう考えると、「日本沈没」という物語が、21世紀においてはの構造を大きく作り変えなければならなかったことは納得できる。新たなキャラ、新たな設定が必要だったのも、こうした現実の側の変化から来ているのだろう。


それからラストについてはこう思った。日本列島の沈没が食い止められるというこの設定は、女性を主役に据えたことから必然的に導き出されたものではないか。

前作は“母”なる日本の死、そして世界という大きな舞台に向かって“家を出る”日本人、というモチーフに貫かれていたと思う。それは男性の人生になぞらえられた物語だった。そのラストにおいて、日本列島は完全に姿を消し、片鱗たりとも存続することは許されなかった。

しかし本作のラストでは大地は残り、女性政治家によって国土への回帰が呼びかけられる。混乱のなか大人の男たちは醜態を見せ、また若者は家を守るために死んだ。しかし最後まで母なるものは残る。そこから再生が始まるのだ。

今回映画館で観せられたのは、母性原理の「日本沈没」なのだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 15, 2006

もののけ姫

むかし大学の一般教養科目として受講した経済学の講義で、担当していた若い講師がこんなことを言っていた。

「みなさんサークルのジャケットによくSince 1995とか刷り込んであるじゃないですか。あれってやめたほうがいいですよ。あえて歴史がないことを示す必要はないから」

経済学とは関係のない話題だったので、たぶん何かの雑談だったのだろう。その講師が留学経験として語った話によると、欧米であえてSince ~で年号を入れるのは、その団体に歴史がある時に限られているらしい。

ふむ。

そんなことを思い出したのは、いま、映画館でさかんに流されている「ゲド戦記」の予告編を観たからだ。予告編自体はよい出来で、この映画を観たいと思わせるものなのだけど、なぜか最後にこの一言が入る。

「宮崎吾郎第一回監督作品 ゲド戦記」。

あの、あえて「第一回」監督作品って…。なんでわざわざ銘打つのだろう。経験がなく未熟で、もしかすると駄作かもしれないよ、ということを観客に知らしめているだけじゃないだろうか。

僕は宮崎吾郎さんという人は寡聞にして知らなかったのだけど、どうも宮崎駿さんのお子さんらしい。有名人の子供ということになる。ご本人にとって血や環境がどの程度プラスに働いたのかわからないけど、とにかく「第一回監督作品」を強調するのは止めたほうがいいんじゃないかと思った。


「ゲド戦記」の予告編ばかり見せられているせいか、ふとむかしの宮崎駿監督の作品が観たくなった。

タイトルは、「もののけ姫」。

 


長編アニメーションとしては久々の登場となった作品だ。それ以前の作品となると「紅の豚」「魔女の宅急便」となっていささか古くなるし、それ以降は「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」だからまだ記憶に新しい。時間的にそろそろもう一回観てもいいかな、と思う頃の作品が「もののけ姫」だった。

それに「もののけ姫」は、一連のシリーズではかなり転機になっている作品だと僕は思う。

この作品以前の宮崎駿作品は、あきらかに万人受けする、わかりやすいストーリーだった。しかし久々に製作されたこの「もののけ姫」を境に、単純なわかりやすさはなくなり、奥深くマニアックなストーリーに転じたと思う。正直言って、いったい何が面白いのかよくわからない。

そのくせ、観客動員数は増え続け、公開されれば1,000万人近い観客が劇場に押し寄せる。これは不思議だ。いったい日本国民はどうなってしまったのか?


まあ、その理由を推察するのは僕の手には余りすぎる。「もののけ姫」のDVDをレンタルしてきて部屋で鑑賞したのは、7月15日の土曜日、3連休の最初の休日だった。エアコンを効かせた部屋で、画面に没頭する。

「もののけ姫」が僕にとって印象深いのは、これは「風の谷のナウシカ」のストーリーの裏返しになっているからだ。これは有名な話だし、映画を観て気がついた人も多いと思うのだけど。もういちどストーリーをなぞって、それを検証してみたかった。

主人公のアシタカはペジテのアステルだろう。もののけ姫であるサンはナウシカ。トルメキアの女司令官であるクシャナは、エボシ。

たたら衆は鉄を作るために森を切り開き、禿山にしてしまう。いわばトルメキアだ。怒る森のもののけたちは、「ナウシカ」でいえば腐海の蟲たち。そしてナウシカで描かれた王蟲の突撃は、今回はイノシシたちの猪突猛進として描かれる。

ただ「ナウシカ」では、主人公ナウシカが立つ〈自然〉側が“善なるもの”として描かれたのに対し、この作品では単純な善悪の判断はつけていない。自然破壊者の筆頭エボシはしかし、たたらの女や男たちを守護する存在でもある。ラストに至っても、善悪の判断はつけられず、サンは〈自然〉側として、アシタカは〈人間〉側として、互いを認めつつも袂をわかって生きていくことになる。

こういう描き方は、僕は好きだ。ま、映画として面白いものかどうかはまたべつだけど。

だいたい、「風の谷のナウシカ」は僕はあまり好きではなかった。あの作品は、ストーリーとしては完全に破綻していた。あのストーリー展開で論理的に納得のゆく結末は、王蟲の突進によって風の谷が滅ぼされるか、よみがえった巨神兵が王蟲を焼き払うかのどちらかしかない。しかし奇跡という禁じ手を持ち込むことによって、そのどちらのラストも回避し、巨神兵に寄らず谷は守られ、王蟲たちは自発的に帰っていく。なんだそりゃ!

そりゃ、奇跡が起こればどんな展開でもできちゃうよ。どんな展開もできてしまうからこそ、それでラストの落とし前をつけるべきではないのである。まあ「風の谷のナウシカ」はそれが許された--つまりアニメーションが実写の映画やTVドラマより一段低く、子供の見るものとして扱われていた時代だからできた芸当である。

 


実はその「風の谷のナウシカ」には、もう一つのストーリーがある。「風の谷のナウシカ」はアニメージュ誌に連載されていた、宮崎駿さん自身の手による漫画が原作で、映画はそのごく初めを大幅に改編して1本の独立した作品にしたに過ぎない。

原作の漫画は映画公開後も延々と連載が続き、1994年に完結する。そのラストに至る過程で善なる〈自然〉というモチーフは失われ、実はその時代の人間たちはナウシカを含め、腐海の不浄の環境のなかでも生き延びることができるように“改造”された存在、という設定になっている。

純粋な自然のたまものではなく、不浄のなかでしか生きられない人間。

この作品で最終的に到達したものが、そのままこの1997年の「もののけ姫」につながっていると思う。だから舞台を中世日本に移し、歴史学者である網野善彦さんの学説を取り入れて非農業民たちの世界を描きつつ、人物造形は「ナウシカ」のまんまだし、視点はかつての「ナウシカ」とは逆というお話になったのだろう。


ということで3連休の初日、ほぼ9年ぶりに「もののけ姫」を鑑賞したのだった。

べつに新たな発見とかはとくにないんだけど、ホント、わかりやすいまでに裏「ナウシカ」だよなあ、とやはり意を強くしたのだった。


部屋のTVで「もののけ姫」を観終わって、その日の夕方は新大久保で食事会があったので出かけていった。メニューは、韓国料理。

Koreanpartyたまたま共通の知人を介して知り合った韓国人の友人がいて、その彼に「韓国料理の食事会を企画しよう!」とお願いして、この日に店をとってもらったのだ。集まった人数は、計7人。焼肉やキムチなどなどに舌鼓を打つ。日中暑かったから、ビールがおいしい!

ちなみに店の名前は「大長吟」だった。つまりNHKで放映中の「チャングムの誓い」の韓国での題名である。ヒットしたドラマにあやかっているのかなあ、と思ったら、店内に入れば主演イ・ヨンスのポスターはあるし、ドラマの解説は貼ってあるし、チャングムのフィギュアも飾られていたりして、ほぼ完全に便乗商法的なお店であった。

まあ、おいしかったからいいんだけどね。

ドラマ終わっても、店名はずっと同じなんだろうか?

  

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 09, 2006

ブレイブ ストーリー

ロールプレイングゲーム(R.P.G.)は、自分がプレイしたほうが面白い。

と思わせる映画であった。

このR.P.G.をプレイしているのは他人。他人というのは、すなわちこのアニメーション作品の主人公であるワタルだな。ワタルがプレイするストーリーを延々と眺めている感じ。

映画もゲームも、所詮は誰かが作った物語をなぞる。それは同じ。しかし、映画とゲームは違う。もし、ゲームのスタイルをとるのであれば、誰かが作ったゲームのシナリオをなぞるのは自分でなくてはならぬ。

物語の中後から、俺にコントローラーを貸せ! と考えてしまったのは僕だけではないはずだ。


まあ、でもそれは僕らの錯覚なのだ。この物語はゲームに慣れた世代にあえて親しみやすくするために、ゲームの文法を冒頭で借りてきているだけで、映画であることはちがいない。

かつてコンピューターゲームは、小説や漫画や映画の構築した世界観や文法を模倣するところから始まった。初期のゲーム作品のその模倣のスタイルは、子供じみていて、とてもキッチュなものだった。しかし時代は変わった。ゲーム自体が小説や映画と同じくらいの力をもつメディアになった。だとすれば、小説や映画がゲームを模倣することもあっておかしくないし、これはそのような作品である。

だから取り違えてはならない。小説や映画の世界設定を借りたコンピューターゲームが、しかしあくまでゲームの範疇を踏み出すものではなかった。それと同様に、コンピューターゲームの設定を借りた映画も、やはり映画であることは間違いない。


この「ブレイブストーリー」は、夏休み映画であり、おそらくは少年少女たちをターゲットにしている。それを前提にして考えれば、この物語の伝えようとするメッセージはそれなりの意味があるだろう。

友情の大切さを描き、さらに友人が間違った行為をなそうとしている時、それに迎合するのでなく対峙することが必要なこと、悲しみや心の痛みは誰かが消し去ってくれるのではなく、それを受け入れて生きていくことこそが人生であること。

両親や先生など、周囲の大人たちに守られた環境から徐々に踏み出そうとし始める、プレ思春期の少年少女たちに、必要なものの詰まった映画なのかもしれない。


ラスト近くになって、勇者が願いをかなえるために集める5つの宝玉の一つが、それを盗ると世界が崩壊してしまうということがわかる。これはR.P.G.として考えるとかなり矛盾した設定である。というか、ゲームがゲームとして成り立たなくなる、致命的な欠陥であるといえる。

でもこれがゲームではなく、現実の模倣だとしたらどうだろう。両立しない何かを選び取るというのは、実際に生きる上ではしばしばありうることではある。

やはり、これはゲームの文脈によって読み解く物語ではないのだ。うん。


ここから先は変わってどうでもいい話。

7月7日の七夕の日に、僕の以前の職場の先輩と、いまの職場の後輩の女性と、僕とでお食事会をやった。先輩と後輩が同じ県の出身ということで、セッティングしたのだ。

個人的にあっさりとしたものが食べたいなと思っていたので、幹事の裁量でベトナム料理にしようと思い、汐留のベトナムフロッグを予約した。初めて使うお店だが、入ってみると雰囲気は悪くない。回りのテーブルは、カップルが多かった。デートに使えるお店なのね。

通路を挟んだ向かいの席では「合コン」らしき催しが行われていた。僕は県民同士の二人の会話はそっちのけで、合コンの進展に眼が釘付けになってしまった。

4対4のテーブルで、男性側はカジュアルスタイルだけど、基本的にはサラリーマンっぽい。女性陣のほうもOLたちかなというテーブルだったけど、なぜか男性の一人が際立ったキャラだった。いかにもサーファー風だったのだ。

いかにも女性とのトークにも慣れていそうなのだけど、ところがその隣に座っている女の子は逆にサーファーはタイプではないのか、全く無視状態。サーファー君も普段のようにうまく会話を進められないので戸惑っているのが見て取れた。サーファー君、ついにトイレ休憩の機会を利用して別の席に移動してしまった。女の子の隣には別の男子が座ったのだが、そのとたんに女の子も表情が変わり、ちゃんと会話に相槌を打つようになった。なるほど、タイプはこんな相手だったのね。

ふむ、勉強になるなあ…と人間観察を続けていたのだが、そうこうしているうちにちょうどよい時間になったのでお店を出た。

まだ帰るのには早い時間だったので、「じゃあ夜景を観に行きましょうよ」と、先輩と後輩を連れて汐留の電通ビルの47階に上がってみた。前から何度か上がっているんだけど、この辺りでいちばん高いビルで、レストランフロアの窓から東京湾、千葉方面の方角が展望できていい眺めなんだよね。

Shiodomecouple既に何人も先客がいて、ロマンチックな七夕の夜を楽しんでいる。

デッキチェアに目をやるとそこにもカップルが陣取っていた。うわっ、この二人…既に周囲が目に入らないモードになっていて、ラブラブお楽しみ中ではありませんか。うむ。むむむ。おおー。ドキドキ…。ムフ。

こうして、七夕の夜は、合コンやカップルなどの人間観察に勤しんでふけていったのだった。さすが、年に一度の恋のお祭りの夜だねえ。ゴロニャーゴ。



| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 08, 2006

LIMIT OF LOVE 海猿

近所のホームセンターで、カセットコンロ用の焼肉プレートを見つけたので購入してしまった。

これで一人焼肉ができる!

ということで土曜日、実行してみたのだった。

商店街にある食品スーパーで肉と、そしてたれを買い求める。焼肉といえばやはり牛肉、具体的にはカルビとかタンとかいうことになるのだろうけど…肉の棚を見て考える。高い…。

ということで、財布へのインパクトを考慮して、今回は豚トロとホルモンを購入する。

Hitoriyakinikuベランダにガスコンロを設置して、アウトドア用の折りたたみ式チェアにこしかけ、焼いてみる。ビールを片手に焼き上がった肉を皿に運び、そして口にする。もぐもぐ。

試してみてわかったことがある。

一人焼肉は、けっこう手間がかかる。

お店で何人かで食べる時ならば、自分が食べている時にも誰かが肉を補給して裏返して、焼き上がったら皿に運んだりしてくれる。肉に飽きてきたら逆に自分がそれをして、誰かの皿に運ぶ。そういうコラボレーションが成り立つのだ。

しかし、一人焼肉では全てを自分がしなければならない。大変だ…。

あまり、楽しくないぞう。うーん。

せっかく買った焼肉プレートなのに。ここはやはり、冬の鍋に続いてパーティーでもやるしかないか。気が向いたら企画しよう。

晩御飯として一人焼肉をしていたらついつい夢中になってしまい、レイトショーの時間に遅れてしまった。

今日は、この日から公開の「ブレイブ ストーリー」を鑑賞しようと考えていたのだが、上映開始時刻に映画館に着かないことがわかったので、変更。代わって「M:i:III」を観ようと思う。ところが、次の回はプレミアスクリーンでの上映だった。なんと。深夜料金1,200円で観ようと思っていたところで、プレミアスクリーンの料金2,400円払うことになるのはちょっと痛い。

残った選択肢は「LIMIT OF LOVE 海猿」だった。

伊藤英明君と加藤あいチャンのカップルは、僕の私生活とあまりにレベルが違いすぎて気が乗らなかったのであるが、しかたがない。これを観ようと決めた。


さて、ハリウッドのアクションムービーを観ているとどうにも共感できないことがある。それは何かというと、やたら人が死ぬことだ。

主人公の男女二人が生き残ることはわかっているのだけど、周りのキャラは足を踏み外して奈落の底に真っ逆さまになったり、恐竜に食われたり、悪霊の呪いで首チョンパにされたり、漆黒の宇宙空間に飛ばされたり、そんなふうにしていともあっけなく死んでしまう。

そんなんでいいのか?

男女二人を助けるために、貴重な人命が何人分も失われているのは、どう考えても解せないものがあった。これは教育によくないよ。

たぶん、そんな映画ばっかり上映するからキレる子が育ち、治安が悪化し、心が荒んでホリエモンみたいな拝金主義の権化が幅を利かすするのである。これはまさに年次改革要望書と同じようなもので、アメリカが日本の弱体化を狙い、そのための映画を送り込んでいるにちがいないのである。教育基本法を改正して、そこに人が必然性なく死ぬ映画を上映のを制限することを明記すべきなのである。

その点、かつて「人の命は地球よりも重い」と言った総理大臣のいる国は違う。日本映画では簡単に人は死なない。ということで、海難救助アクション映画の「LIMIT OF LOVE 海猿」も、安心して観ていられるのだった。

これだけ大きな事故だったのに、絶体絶命、危機一髪の連続だったのに、海上保安官たちの勇気と体力と仲間意識によって、登場人物はぶじ助かるのである。

よかった、よかった。


ところで去年、米国出張に行く際の飛行機のなかでハリウッド映画「ナショナル・トレジャー」を観ていたら、宝探しの冒険活劇だったにも関わらず、珍しくほとんど人が死ななかった。

もうストーリーの細部はたいして覚えておらず曖昧なのであるが、たしか僕がカウントした限りでは、穴ぼこのなかで足を踏み外して落ちてしまう一人くらいしか死んでいなかった。状況的には、それはもう不慮の事故である。

主人公を追っかけていた悪人たちも、ラストに至って追われる立場になり、しかしその結果射殺されるわけでもなく、みんなおとなしくお縄頂戴となっていたように思う。

ハリウッドも、これまであまりに人命を軽んじ、劇中で殺しまくってきたことに反省し始めたのであろうか。ふむ…。


  

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 05, 2006

初恋

「初恋」と聞くと、島崎藤村の詩が脳裏に思い浮かぶ。そう、「初戀」と題されたあの詩だ。

 まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
 林檎(りんご)のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛(はなぐし)の
 花ある君と思ひけり

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり

 わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

 林檎畑の樹(こ)の下(した)に
 おのづからなる細道は
 誰(た)が踏みそめしかたみぞと
 問ひたまふこそこひしけれ


なんだか、読み上げているとちょっと胸がキュンとするよね。自分の初恋の記憶なんて忘れてしまったが(そもそも僕にそういう経験があったのかどうか疑問)、中学の国語の教科書に載っていたこの詩を僕はなぜか諳んじている。

この詩を思い出すと、ああ、初恋ってこういうものなんだろうなあと、たまらなく甘酸っぱくそして切ない気持ちに包まれる。


その詩にも似た味わいを、スクリーンの向こうにほのかと感じる作品。


水曜日。ノー残業デーだったので定時で退社し、映画館に向かう。向かった映画館は、有楽町シネカノン

この映画館は、僕にとってはなかなか乙なスポットである。というのもこの館は、ビックカメラ有楽町店と同じ建物(旧有楽町そごう)のなかに入っているからだ。まずは映画館の窓口に向かい、券を買った上で、ビックカメラの店内を散策する、ということができる。情報家電やPCを見て時間を潰すのは飽きないものだ。

さて、本日有楽町シネカノンで鑑賞したのは、「初恋」。宮崎あおいチャンが主演だというので観に行った。

しかしこれ、タイトルからして切ないラブストーリーかと思いきや、あの3億円事件を描いた作品だという。3億円事件が舞台なのに、初恋とはいかに…? といぶかしく思いつつスクリーンを眺めていたわけだけど…正直、女子高生の切ない恋心にどうして3億円事件が絡むのか、腑に落ちなかった。

しかしこれは、そういう原作があるわけなのね。

劇中、映し出される1960年代という時代の雰囲気みたいなものは、興味深かった。改めて数えてみると、60年代ってもう40年近く前なんだなあ。ああ。


ところで話は変わるけど、主演の宮崎あおいチャンについて言えば映画「NANAでのハチ役での好演も記憶にあるのだけど、さらに新しくはNHKの連続ドラマ「純情きらり」でただいま主役・有森桜子役を演じていることが僕にとっては印象深い。

なぜかといえば、このドラマが舞台にしている岡崎市は、僕が生まれ育ったところだからだ。そして劇中では、宮崎あおいチャンが、おそらくは演劇指導を受けてのたまものであるが、三河弁らしき言葉を口にしていたりする。

三河弁が標準語だと思って育った地元の人間からすれば、それはとてもライトな、ライトな三河弁なのだけど、初恋で切ない演技を見せる彼女が、僕らと同じ言葉をまがりなりにも話そうとしているのだ。その事実に、僕はたまらなく乙なものを感じてしまう。はぁああ。

初恋の切なさと、僕らの言葉・三河弁が、宮崎あおいを通じて結びついたのだ。萌え…。


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 02, 2006

トリック劇場版2

日曜日。

前日に続いて映画を鑑賞する。劇場は同じくTOHOシネマズ川崎。鑑賞した映画は、「トリック劇場版2」。

TVドラマ版のでは仲間由紀恵と阿部寛の、絶妙な言葉の掛け合いが醍醐味だったこの作品。スクリーンに映し出されるのを見るとさほど面白くない。というかある種の退屈さも感じるほどであった。

しかしそれは僕だけの感想なのだろう。一般には面白い作品になるのかもしれない。その証拠に、周りを見ると結構楽しんでいるようではあった。ふむ。

いったい何ぞ面白からんや。


翌日。

会社は創立記念日で午後半休だった!(僕の勤務先は1999年7月1日に誕生した)。せっかくの機会、レクレーションとして同僚たちとボウリングに出かける。

場所は品川プリンスホテルのエグゼクティブタワー。なぜここを選んだかというとボウリング場があることは当然だけど、このほかに、同ホテルにはカラオケもあるから(カラオケ山手線ね)。なおかつ数年前まで僕は品川勤務であり、地理については勝手知ったる土地である。


ボウリングは僕にとって稀にたしなむ娯楽だ。だけど、何度やっても上達している実感はない。なにせこれまでスコアが100を超えた経験が1、2回くらいしかない。

今日のボウリングについていうと2年ぶりだった。前回はいつやったのだろうと考えると2004年の創立記念日だった。そう、だいたい2、3年にいちどしか機会は巡ってこないのだ。

ということでレッツプレイ!

3_july精神集中。心を空にして投げるべき。むむむ…。

そして、2ゲームの結果。

1ゲーム目はスコア88。2ゲーム目は91であった。やはり今回も進歩の跡は見られない。加えていうと僕の10歳下、入社2年目の女性社員にも後塵を拝するありさまであった。彼女のスコア101に対し、オレ33歳、91。とほほ。

とほほほほ。

日は暮れて、道遠し。

…いや、プレイが終わった時点ではまだ日は暮れていなかったか。


どうでもいいけどエグゼクティブタワーって、発音してみるときわめて言い難いことに気づいた。

えぐぜくてぶたわー。試しにあなたも口にして繰り返してみよう。えぐぜくてぶたわーえぐぜくてぶたわーえぐぜくてぶたわー。

どう?

| | Comments (0) | TrackBack (1)

July 01, 2006

DEATH NOTE デスノート 前編

ボーナスが出たので、新しいパソコンを買った。

買ったパソコンは、パナソニック製のレッツノートR5。ここ10数年間ずっとマッキントッシュしか使っていなかった僕にとって、新品としては初めて購入したWindowsパソコンである。

これはB5サイズ、999gと非常にコンパクトで軽量なノートPCであり、モバイルで原稿を執筆することを主な用途として購入した。

正直、マッキントッシュには最近失望を感じていた。CPUをそれまでのPowerPCからインテル製に切り替え、新たに製品ラインナップを一新して発表したわけだが、そのなかで最も普及価格帯であり、なおかつ最小サイズだったのがMacBookだ。

ところが、現在使っているPowerBook G4 12インチよりも大きく、そして重い。重さを比較すると、PowerBook G4が2.09kgであるのに対し、新製品MacBookは2.36kg。なんと2kgも重くなっている。

これまでのPowerBookでも重かったのに、新製品になって改悪である。がっかりした。その失望感が、僕をして軽量のWindows搭載ノートPCに目をむけさせることになった。そしてモバイル用では評価の高いレッツノートを、オンラインストアで注文するに至らせてしまったわけだ。

7月1日の土曜は、自宅に届いたそのPCをセットアップし、必要なソフトをインストールし、実際に使って遊んでいた。


そんな土曜日。ずっと部屋にこもってばかりいるのもなんなので、映画を観に外出した。鑑賞した映画は、「デスノート 前編」。

これが意外に面白かった。意外に、といっても正確には、“期待せずに見たらかなり面白かった”という感想を既に聞いていたので、意外というのは実は意外ではない。期待しないで見ると面白いという期待通りの出来ではあった。

名前を書かれた人は死んでしまうノート“デスノート”を使い、世界中の犯罪者にひそかに制裁を下す主人公・夜神と、犯罪者の大量死を殺人事件と考えて捜査に乗り出した謎の名探偵・Lの、両者の知性と意地をかけた作戦が繰り広げられる。互いを追い込もうとして奇策を繰り出すさまはまさに、丁々発止というのがふさわしい。

原作は、週刊少年ジャンプ連載の漫画だという。ジャンプというと僕も中学生の時は読んでいたが、その後いつの間にか購読をやめてしまい、以来どのような漫画が連載されているのかのトレンドには疎い。デスノートについては、そのようなタイトルの漫画があったような記憶はあったが、掲載誌はどこで、どういう話なのかは全く知らなかった。


しかし、こういう作品を世に送り出していることを見ると、同誌の先進性とか市井の人気といったものは、いまも変わらないのだろうか。

たしか僕が中学の頃、ジャンプは最大部数を誇っていた。実際に団塊Jr.(ジュニア)ということで子どもの人口が最も多かった頃だった。その時代の勢いがまさにジャンプに乗り移った感があり、ジャンプ掲載の漫画がTVアニメーションの原作になることも多く、振り返るにまさしく同誌の最盛期だったと思う。

#眠い…ココログの更新もかなり時間がかかる時間帯なので、改めて執筆します。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 25, 2006

ダ・ヴィンチ・コード

むかし名古屋で僕が通った大学はカトリック系だった。大学1年はキリスト教概説、大学2年はキリスト教思想とそれから哲学が必修科目だった。講義のために聖書を買ってページをめくったし、それから大学のサークル活動で受難劇を演じているクラブがあって、毎年の公演を観劇した。

僕自身はキリスト教徒ではないのだけど、だからキリスト教のアウトラインくらいには触れたと言えるのかもしれない。

これは余談だけど、キリ概やキリ思の先生は神父で概して講義の出席や試験には厳しかった。その結果として単位を落とす学生が多かったのでかえってキリスト教嫌いが増えていたのではないかと心配するのだが、僕自身はとくにそういうことはなかった。よってキリスト教に対する反発はなんら抱いていないのである。


Thedavincicodeたとえそういうアウトライン程度でもキリスト教に関する知識を持っている人のほうが楽しめるだろうなと思ったのが、今回見た「ダ・ヴィンチ・コード」だ。

逆にいうとキリスト教に関する知識がなければ非常につまらない映画なんじゃないかと思う。話題作だから、という理由だけで足を運んだ日本人は後悔するかもしれない。あるいは何がフィクションかを判断する前提がなく、素直に信じちゃったりするのかもしれない。


この原作は2年前に読んでいて、ストーリーの中盤以降相次ぐどんでん返しに「これはまさに映画向けだなあ」という感想を抱いた。実はその時に既に映画化は決まっていたのだった。

それで一般に、こういう話題作は人を誘いやすい。だから本来は女性でもデートに誘って観に行くべきなんだろうけど、話題作であるがゆえにか既に誰かと行ってしまったという人が多かった。あと実際のところを言うと、こちらから誘ってみたけど婉曲に僕とは行く意思がないことを表明する人もいて(まあ、よくあることだ。よくある)、一人で足を運んだのである。そもそも公開された当初は何かと締め切りに追われていて、映画に出かける余裕がなくてタイミングを逸したというのもある。

読んだのが2年前というのは、ほどよく細部を忘れさせてくれていて具合はよかった。でも、基本的には原作そのままの作品だったね、うん。

閑話休題。


ストーリーとしては、キリスト教世界では早い時期に“異端”とされ、同時に語り尽くされてもきたある神話を真実として扱い、それについてのメッセージが誰もが知る有名画家の有名作品の絵画のなかに隠喩として込められているという解釈を持ち出し、あれやこれやと暗号の謎解きの要素をもたせてダイナミックにしたというお話である。端的に言って途方もないウソを(まあ、ウソでない可能性もないわけじゃないんだが証明はできない)、いかにももっともらしく仕立てたといえるだろう。見事である。

この手の構造の物語は、博覧強記な作者との知のかけひきを楽しむのが醍醐味である。その分野の知識がゼロではそもそも土俵に載れないし、逆に作者より詳しくなってしまうと全く面白くなくなると思う。僕に生半可な知識しかなくてちょうどよかったのかもしれない。


 

  

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 24, 2006

バルトの楽園(がくえん)

23日の金曜は、「世界の山ちゃんでNGNについて語る会」を開催。世界の山ちゃん神田須田町店に、ユニアデックス、KDDI、NTTコミュニケーションズの奇特な、いやユニークな面々が揃う。計6名で、名古屋の手羽先にくらいつつ情報通信業界のあれやこれやを語り合った。NGNっていうのはNext Generation Networkのことね。

とても1回だけでは語り尽くせないので、またやりましょう、ということで散会。

そして休日に入る。書籍の初校が仕上がってきて休日は校正に取り組まないといけないのだけど、久々に締め切りに追われない休日の感覚を楽しんでいるのでついつい後回しにしてしまうのであった。


24日の土曜には、池袋にて映画「バルトの楽園(がくえん)」を見た。

非常に教科書的なストーリーであった。松平健とブルーノ・ガンツが共演しているというので、重厚長大な歴史大作かと思って鑑賞にのぞんだわけだが、実際には共演しているシーンはそれほど多くなかった。バルトとタイトルにあるから、欧州大陸のどこかが舞台になるのかと思ったが、徹頭徹尾日本であった。

お話としては、第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ兵たちと、収容所所長や地元の人たちとの心の交流を描いたもの。

1914年の第一次世界大戦で日本軍と戦い、捕虜になったドイツの青島駐留部隊(当時、ドイツは中華民国の領土の一部である山東半島を租借地としていたのだ)。日本の収容所に入って当初過酷な扱いに苦しめられる。しかし統合で板東収容所へ移されると、そこは収容所長である松江の方針により、寛大な待遇がはかられていた。やがて戦争が終わり祖国に帰ることになったドイツ兵たちは、松江と板東の人たちに感謝を表するため、コンサートを企画する…。


登場人物はみんな善い人である。息子が出征して戦死したことの八つ当たりを、日独混血の少女に向けるドキュンなおっさんをのぞけば、悪い人はほとんどいない。だから教科書的なストーリーと書いたわけだが、時にはこういう映画も必要だろう、と思った。

注目したのはSAYURIで、少女時代を演じていた大後寿々花チャンが登場していること。いま述べた日独混血の少女、しお役である。劇中ではドイツ人の父が戦死し、消息を求めてはるばる訪ねた坂東の地で松江を頼ることになる。

か、かわいい…(萌え)。ということでついついスクリーンに登場すると目で追って、可憐な思いにとらわれてしまう。ところがストーリー中では、戦争が終わって一人の中年ドイツ兵が引き取ってパン屋にしたいと松江に申し出る。そして松江もしおも、それを受け入れてしまう。おいおい、と見ていて思った。そんなんでいいのか!?

いたいけな少女を手元に置きたいと願う、三十代独身男…。ふつうに考えて、もっと警戒すべきではないのか。奴がロリコン趣味だったらどうするのだ。いや、絶対に何かしらの下心があるに違いない。

…と一瞬熱くなりかけたのだが、そんな思いを抱くほうが間違っているのだろう。登場人物が抱いているのはあくまで善意なのだ。教科書的な美談に、妄想はそぐわない。


そうそう、突然少女を引き取りたいと申し出るこの男の例をはじめ、劇中にはいろんなエピソードが盛り込まれているのだが、概して話を展開させるための伏線が弱いと思った。そのため個々のエピソードが印象深く脳裏に刻まれないというのが、残念なところかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 17, 2006

間宮兄弟

半年ぶりに、解放された。

一切の締め切りに縛られてない休日が、僕の生活に戻ってきた。はぁああ。何にも追われていないって、え〜な〜。

ぼーっとして、脱力系な時間を過ごす。窓から見上げる天気は、曇り…。

僕が本職の傍らIT系の業界誌やWebサイトに技術解説の記事を書く活動を続けているのは、僕を知るみなさんの多くはご存知の通りだ。とりわけ、この半年間取り組んできたのが、新たな書籍の執筆と編集だった。長かった。勤務時間中には書けないので時間外や休日をそのために費やすわけだが、書いても書いても終わりそうになかった。

その書籍の原稿を、他の執筆者たちの書いた分も含めてとりまとめて、内容に手を加えて、図や写真を揃えて、この金曜日に制作会社に全て入稿を完了したのだ。全てだ! 100パーセント。もはや残っているものは、何もない。

解放された…。

このあとはできあがってきた校正刷りを確認する地道な作業がたんたんと続くのだけど、それはもはやたいした作業ではない。産みの苦しみの段階は過ぎ去ったのだ。あとはもう、本ができあがるのを待つだけだ。それは情報セキュリティをテーマにした技術書で、8月上旬に書店に並ぶ予定だ。僕にとっては、社会人になって5冊目の著作にあたる。


Samuraiblueそんなわけで、腑抜けた足取りでふらふらと街を歩く。横浜駅に出て、昼食のため回転寿しに入って生ビールを頼みぐびりと喉に通す。ぷぁあ〜、うまいっ。昼間っから飲むビール…最高だよ。

軽く酩酊しながら、街をうろつく。なぜだか赤レンガパークにあるサムライブルーパークに足を向けてしまったりする(写真)。しかし基本的にはやることもとくにないので、携帯電話を取り出して映画の時間を調べる。観たい映画は決まっていた。もう上映期間の終わりも迫っていた「間宮兄弟」だ。

新宿で1館、上映されているのを確認すると、夕方電車に乗って映画館に向かった。このシーズン最初のつっかけを足に履きながら。ちなみに帰途には雨が降っていて、この日、僕の生足はほどよく濡れてしまったのである。


ということで鑑賞した「間宮兄弟」なのだが…。

これは…イイ!

結論から言えば、なんとも僕の感性にジャストミートに突っ込んでくる映画だった。

まず主人公たちの部屋が、本でいっぱいだというところに共感を抱く(僕の部屋も本は多いのだ)。そして、女性たちにかかんにアタックしながも、器用になりきれず、ふられてしまってハッピーエンドを迎えられないという展開にも激しく共感を抱く。いいやつなのに、モテない。わかる、わかるよその気持ち…。

そういう共感をベースにしつつ、登場人物たちの会話がまた絶妙だった。その間合いとやりとりが愉快で、日常の風景を綴ったタイプの映画にも関わらず2時間ずっと楽しませていただいた。

ま、日常の機微を描く映画といっても、もちろん創作的な要素はある。最大にして唯一、この物語の根幹とでもいえるそれは、すなわち、いい歳になった男がいまだ兄弟で遊んでいるという設定だ。男二人兄弟で育った僕、映画を観ているとついつい、幼少のみぎり弟と戯れていた日々を思い出してしまう。ああ〜弟はいま何してるのかな。また遊びたいなあと、観賞後ふと携帯を手に取ってなんかメールでも送ろうかと思ってしまうのだが…。いやお互いもういい大人なんだから、と考えてとどまった。

僕らはもう大人。あの日々は戻ってこないのだ。…でも、スクリーンの向こうで二人は遊んでいる。だから、この映画はファンタジーだといえる。現代を舞台にした、ユーモラスで心優しきファンタジーなのだ。

間宮兄弟の二人には、佐々木蔵之介と塚地武雄という凸凹兄弟を配役している。ほかに沢尻エリカとか、常磐貴子とか、時に中島みゆきが出てきたりする。


おそらくDVDが出たら、購入してしまうだろう。半年間の束縛から解き放たれ、緩んだ頭で鑑賞したせいかもしれないけど、そんなふうに感じさせた映画であった。公開期間中に観られてよかった。

ついでにいうと、こんどは僕の部屋でカレーパーティーと、浴衣パーティーを催したくなってしまったのだよ。そう、やっぱり浴衣である…うーん、ええのう。たまらんのう。

おっと、季節はまさに…夏!? むむ、これは…。


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 13, 2006

グッドナイト&グッドラック

ゴールデンウィークの連休が明けて1週間。連休明けの勤務はだるいよなあ、と思いつつ働いていてようやく次の週末を迎えることができた。

夏休みが待ち遠しいと思ってしまうのだが、そう考えるにはいささか気が早過ぎるというものだろう。


TOHOシネマズ川崎で「グッドナイト&グッドラック」を鑑賞する。

時代は、1953年の米国。マッカーシー議員による“赤狩り”が吹き荒れるなか、反骨の精神を持って議員の活動に疑問を呈する報道を行なったCBSの人気ニュース番組のキャスターとクルーたちを描いたノンフィクションのヒューマンドラマであった。タイトルは舞台となるテレビ番組「See It Now」で、主人公エド・マローが毎回言う締めのセリフに由来する。

もともと僕はジャーナリズムには関心を持っているので、こういうタイトルは自ずと見に行ってしまう。ジャーナリズムの現場をテーマとし、実際の事件を題材にとった映画は、僕にとって「ニュースの天才」以来となる。また、報道の理念を追究するという点では、猪瀬直樹原作、弘兼憲史作画のコミック「ラストニュース」も思い出す。

ところでこの「グッドナイト&グッドラック」、1950年代のテレビという演出のため、映画の画面も徹頭徹尾モノクロである。

全篇が白黒の映画というと、大多数の人は、「シンドラーのリスト」を思い出すであろう。あれもノンフィクションの題材をもとにした、ヒューマンドラマだった。

でも、実のところをいうと僕には全然異なるストーリーの「カラー・オブ・ハート」が印象深い。後に「スパイダーマン」の主役を務めて名を馳せたトビー・マクワイア君を僕が初めて知ったのはこの映画で、なかなかの好青年だと思ったものだ。おっと、考えてみればこれも1950年代のテレビ番組をテーマにした映画だったな。だから、全く関係ないというと、言い過ぎになるのかもしれない。

もっともこっちはノンフィクションとは対極にある、ファンタジー作品であったけど。現代の若者が1950年代のドラマの世界に入り込んでしまうという設定がユニークであったとは思う。これ、実は僕のおすすめの映画の1本なのである。

ということで、むかしのテレビをテーマにする場合は、モノクロで描くのが基本的な演出であり、マナーとでも呼べるのだろうと思ったのだった。


ところで、白と黒ということで思い出したのだけど、このたび発売になったIntel CPU搭載のマッキントッシュのノート型製品、MacBookは白・黒の2バージョンで登場した。

僕はもう13年間もマッキントッシュを使っていて、雑誌の原稿を書いたり、ブログのエントリを更新する際には書かせない道具になっている。そのマッキントッシュがこれまで使っていたCPUのPowerPCを捨て、新たなラインナップに模様替えして登場することになるので、新製品には嫌でも注目せざるを得ない。

ちなみにいま使っているのはPowerBook G4の12インチのバージョン。従来のノート型のマッキントッシュのなかでは最も小さく軽く、帰省の際や出張時などに持ち運んだり、休日に出先のカフェで原稿を打つ際など、重宝している。

そう思っていたところに、白黒の2カラーで新製品MacBookが発表となった。実機を見てみようと横浜駅前のヨドバシカメラに足を運んだ。が、しかし…。

でかい。。

画面サイズが13.3インチに広がったから、小さくはならないことは覚悟していたけど、いまPowerBook G4の12インチを使っている身としては、道具としての品質が劣っているものになってしまうよ。模様替えしたキーボードのテイストも、いささか安っぽさが感じられて(これは主観の問題なのだろうけど)気に入らない。

とはいえ、アップルはIntel Macのラインナップがこれで一通り揃ったと発表している。選択肢はこれ以外にはないのだろう。当面はこのままPowerBook G4を使い続ける決意を新たにしたのだが、しかしこの先々のことを考えると実に困ったことではある。Windowsと違ってマッキントッシュがアップルのみの製品である以上、ユーザーはアップル様のてのひらの上で踊るしかないものなのだ。

MacBookにちょっとがっかりした休日だった。


   

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 30, 2006

ニュー・ワールド

Soba_1大型連休の2日目。朝食に蕎麦をゆでて食べる。

蕎麦をゆでるのは、ささやかながらこの4月に始めた習慣の一つ。僕の生活のけっこうな部分を依存している近所の百円ショップで、ふと蕎麦も売られているのが目についた。昨年末に大きめの鍋も買ったところで、ゆでるのに丁度具合がよい。

ここでたんにゆでるだけでなく、蕎麦を打つ、とまで言えばかなり格好もつくだろう。でも、そこまでの手間をかける意思は全くない。日々の食材の話である。これまではコンビニの弁当コーナーで売られているざる蕎麦を買って食べることがあったけど、自分でゆでることにすれば100円で5食。原価が圧倒的に安い。

この先、僕の朝食の定番メニューとなりそうだ。

ちなみに、竹製のざる蕎麦用盛り皿も同じ百円ショップで調達。ああ、百円ショップの存在は、僕の生活をいかばかりか豊かにしてくれていることであろうか。


暇なので一人映画館に出かけて、「ニュー・ワールド」を見る。

そういえば、このところあまり映画を観ていない。だからこのむびろぐの更新も数えるほどだ。なんでだか、僕にどうしても観ておかなければと思わせるようなタイトルがこの春先は少なかったんだよね。

ゴールデンウィークに突入した今週も、どうもその傾向は変わらない。それでも、映画館の会員カードのポイントがかなりたまっていてタダで1, 2本鑑賞できるくらいあったので、とりあえず足を向けた。


さて、映画の感想なのだが…端的に言ってしまえば、低温体質向け恋愛叙情劇といったところかな。

実は最近(というかだいたいいつもそうなんだけど)わりとテンションは低めで、ゆえに愛だの恋だの素直には受け止められない心持ちになっている僕(ああ、よろしくないですね)。そんななかでうかつにも見てしまった愛のお話であった。ふぁ〜。まあ、一方で歴史時代を舞台にした物語は好みなので、そっちからの興味で観たいと思ったんだけどね。

ポカホンタス、という名前はディズニー映画でアニメ化されたことがあるので、聞いたことはあった。でもそれ以上の知識はない。この映画を観て彼女が数奇な人生を送ったお人であったことはわかった。舞台は17世紀初頭の新大陸、アメリカ開拓時代の初期。原住民の王の娘ポカホンタスとイギリス人入植者ジョン・スミスの間に、種族を越えた愛が花開く。

最初のほうではノロケの場面とかもあったりして、このままこの二人、勝手に盛り上がって行くのかなあ、なんだかどうでもいいなあと思っていた。けれど、予想に反してそれ以上に盛り上がっていくことはなかった。控えめで淡々とした雰囲気のまま、終盤に至ってしまった。これは人によって好みのわかれるところかもしれないけど、それは観ている僕の気分的にとってはちょうどいいくらいの抑え方だった。


ポカホンタス役は新人女優さんらしいのだけど、やや照れ気味で逡巡するようなまなざしをつねに見せていたのが、また初々しくてよかったかなあ。

全編を通して叙情的で、まるで詩のような感覚の映像に満ちていた。登場人物もみんな口数少なく、セリフはまるで独り言をつぶやいているかのようだった。おそらく、この映画の出演者たちはセリフを覚えるのに苦労しなかっただろう。実にリリカルな作品だった。

人によってはかなり、退屈に思うかもしれないけど。


そういえば映画「ニュー・ワールド」といえば、こんな発表もあったナ…。

 シーンに応じて香りが発生、NTT Comが映画「ニューワールド」を香りで演出
 http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/04/11/11594.html

ふうむ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 22, 2006

天国の本屋〜恋火

休日。とくに予定もなく、おかげでまた誰とも会わず、誰とも会話しない1日を迎えてしまった!

まったり自分のペースで過ごせてそれはいいんだけど、1人でいるとやはり、だんだん気分が暗くなってくる。うぅ…。


そんな鬱状態になって夜を迎えると、NHK BSで映画「天国の本屋〜恋火」を放送していた。


 


かつて映画館で竹内結子チャン(この時はまだ独身…)のさわやかな横顔が写るポスターを見かけて気になっていたタイトルである。その時は結局見逃してしまったのだが、これ幸いと鑑賞する。しかし—TVで見る時はだいたいそうなるんだけど、途中でながら視聴に移行してしまった。よって、一応最後まで観たのだけどストーリーがさほど頭に入っていないのであった。

そもそも僕は奇跡をベースにした映画を、どうも受け付けないようだ。

そう。まがりなりにももっともらしい理屈をつけてSF仕立てにするか、あるいはかなりシュールなレベルまで昇華されるとかしてくれないと、僕の脳は面白がらない。理由もなく奇跡を許容してしまうと、そのとたんにどんな恣意的で都合のいいストーリー展開が可能だしなあ。そう思うと萎える。いや、リアリストなんですね、僕は。

まあ、こんなことは女性と初めてデートする日の映画のチョイスの際には、口が裂けても言ってはいけない。言ってしまいそうだけど。いや、それはデートできるようになってから悩め。


それにしても竹内結子チャンって、死んでいる人の役が多いな。「黄泉がえり」とか「いま、会いにゆきます」とかね。まだ若いのに…ちょっと死に過ぎである。現実世界では長生きしてください。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 16, 2006

純情きらり

僕の生まれ育った愛知県岡崎市を舞台にした連続テレビ小説、「純情きらり」の放送がこの4月から始まった。地元が舞台のNHKドラマは、僕が小学校5年の時の大河「徳川家康」以来ではないかい。


 Aoimiyazaki


ドラマの主役である女学生を演じているのが、宮崎あおいチャン。昨年話題になった映画「NANA」での演技の記憶も新しい。若い女優さんたちのなかでもバツグンにキュートなお人だ。そんな彼女がセーラー服にくるまって、三河弁を話してくれるのだろうか…。

僕がかつてふれあった女子中高生たちと同じく、「やだげー」「ほだら」「やめりん」とか、滑舌よく喋ってくれるのであろうか。

萌え…。


ということで朝からチャンネルを回し、ブラウン管から三河弁が流れてくるのを聞くと、なんとも嬉しくなってしまう。といっても、登場人物たちが喋っているのはずいぶんライトで、スロウな三河弁だな。これは、もしかすると地元で視聴している人にとっては、標準語に聞こえてしまうかもしれない。

なにせ生まれた時から三河弁が当たり前だで、地元におると何が標準語で何が方言なのかという区別がつかんのだわ。

僕もかつてはそうだった。それでも、就職して関東地方に出てきた結果、日常で地元の言葉を聞くことがなくなってしまい、たまに帰省した時に三河弁を意識できるようになった。家族との会話もそうだけど、暇つぶしに車で喫茶店に行った時なんかそうですね、お店でたむろっとるおじちゃんおばちゃんたちの会話が、もぉみんな典型的な三河弁。おそらく、本人たちはわかっとらんのだろうけど…。


僕の見る限りドラマのなかでは、宮崎あおいチャン本人のセリフにはさほど三河弁が混じらない。これはちょっと不満に感じるところだ。彼女には、ぜひ共演する戸田恵子さん並みの三河弁を期待したい(…戸田恵子さんは名古屋の出身だけど、彼女のお父さんが三河の出身らしく、劇中でも一段レベルの高い三河弁を駆使している)。

このままでは萌えが足りないのだ。もっと萌えを!


もっとも、このドラマのなかの時間は、ただいま昭和12年(1937年)。この設定に従うと当時16歳の有森桜子(宮崎あおいチャン)は、死んだ僕のばあちゃんよりは年下だけど、親父やお袋よりはずっと年上だ。

と、そのことに気づいてから僕の想像力は、禁断の妄想を描き始めてしまった。いまはピチピチな彼女のお顔に、しわとかしみが生じて、白髪にまみれたらどんなふうになるのだろうと、イメージを膨らませてしまうのだった。

萎え…。


ついでにいうと僕の実家のある地域は、昭和30年(1955年)の、いわゆる昭和の大合併の時に岡崎市に編入された地域だ。だから実のところ昭和12年の宮崎あおいにとっては、僕らはよそものなのであった。

越えられない一線。ああ…。

ブラウン管に映し出される岡崎は、昔ながらの岡崎。岡崎城や、乙川噴水や、八丁蔵通り。これらは街の岡崎の風景だ。僕の実家からそんな街の岡崎に出るのには名鉄バスで30分。郊外の農村地帯に生まれた身としては、ドラマとはまた違う風景のなかで生きてきたのであるよ。

ああ。街の生活が、街の宮崎あおいがまぶしい。


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 14, 2006

県庁の星

就職戦線異状なし」で、バブル真っ最中の時世に理想の就職活動を模索する大学生の姿を演じ、「踊る大捜査線」では大組織の論理に翻弄されつつも生真面目であろうとする若い社会人を演じていた俳優・織田裕二さん。

そんな彼も38歳…。精悍な顔立ちはずっと変わらないが、内に青臭さを残して正論を梃にがんばる役回りだけではそろそろしんどいのではないかと、数年前から心配になっていた。たとえばそこが湾岸署なら、いつまでも下っ端刑事の役回りじゃないだろう。部下もつくだろうし、とすれば上司との間に立って折り合いをつける場面も出てくるだろう。普通の組織ならそんな年次なのだ。

現実問題、30代にもなって青島刑事みたいな人って、職場にいたら困りませんか?


さて、おそらく「踊る大捜査線」以外では、「ホワイトアウト」以来の映画作品になるんじゃないかと思う、「県庁の星」。こたび彼が演じた役は、地方公務員のエリート候補生であった。うーん、徐々にエスタブリッシュメントに近づいていっているようですねえ。

僕は、原作の小説を既に昨年の秋読んでいた。なるほど、映画化するにはちょうどよい案配のストーリーだと思っていた。ただ、原作の印象からすると、織田裕二は年齢がいささか上だし、柴崎コウは若過ぎる。そうですね、織田裕二は伊藤英明で、柴崎コウは桃井かおり(!)くらいな感覚だったかなあ。

映画としては、典型的な職業理解を背景として、典型的なストーリーを典型的な配役でこなしているというところか。これはたぶん、ある種のわかりやすさを譲れないお約束として求められたのだろう。そのなかで、製作者や出演者のみなさんはそれなりにがんばったということなのだろう。


ところで話を戻すと、何が仕事上のリアルって、年代によって変化するよね。だから20代後半の青島刑事の時に見えた組織のリアルと、30代後半の野村係長(本作品で織田裕二さんが演じている役)から見える組織のリアルって違うだろう。どこをリアルの落としどころとするか。

そこをこの映画では、原作にはない要素をいくつかと付け足してラストに見せているのだが。これが成功していると感じるか、失敗していると感じるかは人それぞれかもしれない。ご覧になってみてください。

ただ、行政のリアルという観点では、きわめて基本的なところで疑問符がつく。なぜ一介の行政職員が、選挙によって選ばれた代表である県議会議長と、県議会(のようなところ)で対峙できるのかが不思議。権力分立の前提からしてありえないと思い、この、あまりの非現実的な場面に僕はひるんだ。おいおい、見る側になじみの薄い世界だからといって、こんな描き方をしてもよいのか?

いや、そう思うのが間違いなのかもしれない。考え直すとしよう。これはフィクションなのだ。おそらく映画「県庁の星」の日本には、われわれの日本国憲法はなく、地方自治法もなく、そこには別の法治が働いているものと考えよう。つまりこれは、われわれの知るガバナンスとは異なる精神によって築かれた世界の、行政改革の話なのですよ。たぶん。


って深く考え過ぎかな。織田裕二さんや柴崎コウさんが演じるお話って、そもそもが万事そんな程度のものなのかもしれない。


  

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 01, 2006

東京フレンズ

■東京って、やっぱり憧れの大都会だと思う。

「いちばん最初に描いた夢を、あなたはいまも覚えてる?」

ストレートで、ギクリとさせられてしまう言葉だよね。ましてや、大塚愛チャンにそんなことを問いかけられたら、真剣に考え込んでしまうだろう。もともとは“夢”を抱かず、現実しか見ていない僕ですら、思わず「え!? オレってどんな夢あったんだっけ」と、なかったものを探し出しそうになる。


東京って、やっぱり憧れの大都会だと思う。もしここを読んでいる人が地方に生きてきた人なら理解してくれるだろう。東京と聞くと、そこにはあらゆる夢と希望が詰め込まれて、刺激に満ちていて、全てがキラキラと輝いている気がしたんだよね。そう、あれは僕が大学生の頃。社会というものをだんだんと理解するようになって、フィールドを広げて、取材や就職活動で東京を訪れる機会を持つようになった。上京するたびに、ああホントすげぇ街だなと感動した。

こんな刺激に満ちた環境に身を置きたいと思ったから、就職して東京勤務を希望したのだ。

実際に社会人になって出てきた東京は、悲しいかな、学生時代と違ってもはや自分には自由な時間のない身だし、寮は都心までかなり遠いところだったし、そして気づいてみると地元での生活と違って、会社の同僚や先輩以外知り合いもいないし、思い描いていたものとはだいぶ違った。不安で、心細くて、ウキウキするようなものではなかった。それでも、苦闘しつつなんとか10年ちょっとの間、この都会で自分なりのものを築こうとしてきていまに至っている

そうそう、大学の頃に流行ったトレンディ・ドラマで「東京ラブストーリー」というものがあった。小田和正さんが主題歌「ラブストーリーは突然に」を歌い、鈴木保奈美チャンが織田裕二クンに「セックスしよ」と投げかける、あのドラマだ。東京とつけば、そんなものだってリアルに感じられた。

実際にはのんべんだらりとした日常を送っていて、そんなことは全然起こらない。まあ、落ち着いて考えればそういうのは東京だからとか東京ではないからとか、あんまり関係ない。でも当時は、東京にいるだけで、ドラマになりそうなそんな素敵な何かがあるような気がしたんだ。まあ、いまだったら、ニューヨークってとこかな。

東京という地名は、やはりそういうイメージを抱かせる。というところで目にしたのが「東京フレンズ」というタイトルなのである。

東京フレンズ。東京の友達。

くぅ〜。そう聞くと、ただの友達じゃない雰囲気が漂ってきますね。やっぱり東京というからには、バツグンにかわいい女の子とか、クールでスマートな男子とか、夢とか野望とか卓越した才能とか、そういうものを秘めたやつが友人にいてもおかしくない気がする。そこにたとえば、大塚愛チャンがいたっておかしくないわけだ。


 Tokyofriends

  http://www.tokyofriends.jp/


 Amazon.co.jp:東京フレンズ プレミアムBOX: DVD
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00081U4DY/


ドラマ「東京フレンズ」。これは大塚愛を、地方から上京してきた主役の女の子に据えた物語であった。もっともドラマといっても、TVドラマではないし、もちろん映画でもない。セルDVD限定で大塚愛初主演作品が提供されるということで、一部では話題になったパッケージだ。そんな話題性もあったし、なにより1話を見始めたところで存外ひきこまれたので、レンタルを繰り返して全5話を見終えた。いささかご都合主義的でソフトクリームみたいに甘いストーリー展開が気にはなるんだけど、主役・脇役の女の子たちは悪くかなかったから、まあいいとしよう。

そのドラマで毎回愛ちゃんが問いかけてきたセリフが冒頭のメッセージなのだ。つくづく思う。やっぱり東京って、夢を叶えるために存在している場所なんだよなあ。

僕らにとっては、そうなのだ。そういうところだったのだ。


■さほど夢を抱かない僕が東京に出てきて

さほど“夢”を抱かない、現実主義者の僕が東京に出てきて耽読していたのは、清水義範さんの小説。「青山物語1971」「青山物語1974」だった。

大学生だった僕がインタビューしたこともある清水義範さん。言葉の醍醐味を駆使し、パスティーユ小説という新たな領域を切り開いた名古屋出身の作家だ。教師だった僕の父と同じ愛知教育大学を出ていて、普通なら当然教師になるべきなんだろうけど、作家になるという夢を胸に秘め大学を出ると同時に上京した。といってもすぐに小説家になったのではなく、青山の小さな会社に勤めてサラリーマン生活を送りつつ文芸活動を続けたのだ。その風景をつづった自伝的小説が、「青山物語」だった。

それは織田裕二くんや鈴木保奈美さんのようにイケメンと美女の織りなすドラマではなく、地方から出てきたちょっと気弱な青年の、純真で健気な奮闘ぶりを描いたお話だった。1995年の僕には、清水さんほどの大望はなかったわけだけど、この小説には東京に出てきたばかりの自分の境遇を重ね合わせ、大いに共感させてもらったものだ。

そういえば「東京ラブストーリー」も、原作の漫画版は地方出身者たちの不安というものが登場人物たちの根底にみえた作品だったよなあ。ドラマは結局途中までしか観られなかったから、僕にとってのT.L.Sは、漫画版なんだよね。東京というのは全く、夢と希望に満ちて輝いていて、でも時にはそれに潰されそうになって、戻ることもできなくて、寂しさのあまり人を好きになって傷つけたり傷つけられたりして、そんな街だった。

一方で、清水さんの代表的作品「金鯱の夢」には作家にならなかった清水義範という人物が登場する。名古屋に幕府が開かれ、名古屋弁が標準語になり、そして平成日本の首都も名古屋だったらどうなっていたかという、壮大な歴史パロディのこの作品。小説の結末に、小学校の教師として暮らすもう一人の清水義範の姿が描かれるんだよね。名古屋という日本の中心の大都会に生まれたおかげで、野心も努力も抱かず作家になりたいという希望もたんなる夢で終わったという…。そう、東京に夢を重ねられたというのも、ある種の特権ではあり、チャンスではあったんだよね。たぶん。


東京ラブストーリー」と「青山物語」と、そして「東京フレンズ」。僕にとってはもう過去のものともいえるし、現在進行形で10年たったいまもまだ続いているともいえるんだけど、この都会を前にして抱いてきたいろんな思いが、鏡のように映し出される作品たちではある。


「いちばん最初に描いた夢を、あなたはいまも覚えてる?」。

うーん、ギクギクッ。


  

  

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 28, 2006

薔薇の名前

U.エーコーがしたためたことで有名な原作を読み終ぇたので
(その時のブログはこちら
映画のほぅも鑑賞してみた( →_→)

中世を舞台にしたぁの複雑精緻、重厚長大な物語
ぃったぃどぅやって2時間ちょっとの映像に収めるのだろぅと思ったヶど( ・◇・)?
なるほどよくできてぃますね☆


 


この原作に対する僕の読書の仕方ゎ☆
7日間のできごとを眼前に押し寄せるたくさんの文字の羅列として(@_@)
ただただ逐語的に読み進めてぃっただけ(- -;)
だヵら読後にふりヵぇって
ではこの物語の中核をなすエピソードは、伝えるべきテーマはなんだろぅとぃうと( ・◇・)?
とくに自分なりの評価を持たないでぃたo( _ _ )o
海の向こぅの碩学の大家が書いたこの作品☆
押し寄せてきた情報をこなすのが精一杯で
ゎが脳内の壷に漬け込んで熟成させるゅとりができてぃなぃのだ_| ̄|○


そんな思ぃを抱いてDVDを観てみると( →_→)
ぃゃぁ、映像とぃうのゎ、ゎヵりやすくてぃぃね〜( ̄▽ ̄ )
何の努力もせずに世界像が自分のなかに入ってきます!
中世の修道院とぃうのゎこんな具合だったのね、とぃぅ姿を見せてもらえて大ぃに満足♪

#…もっとも、ぃまこの地球上に生きてぃる人の誰一人
#中世ヨオロッパの様子を実際に目にした人ゎぃなぃので
#その満足感が適正なものかゎ誰にもゎからないですが(w

鑑賞し終ゎった時、ぃささかアッサリしている感がしたのゎ
原作を読んだ直後だヵらだろぅ
同じことを別の言葉で言ぅと、ぁの長大な物語ヵら要点を抜き出して
映像として再構成したらこんなふぅになるとぃう
好例を見せてもらった気がした☆
原作のなかから抽出したいくつかの成分を凝縮させ、それを熟成させたら
こんな作品に仕上がる
他人の解釈の井戸をのぞきこむことができ☆ 感心した( ̄▽ ̄ )

映画化としてゎ、成功してぃるといってぃぃのでゎなぃだろうヵ


映画をご覧になったことがなく原作も知らなぃ方に紹介しておくと☆
内容としてゎ中世、北イタリアのぁる修道院を舞台に
図書館に眠る“禁断の書”をめぐって起こされた連続殺人事件を追うミステリー(@_@)
中世版ホームズとぃった役回りの主人公・ウィリアム修道士を
ハゲ中年親父(wのショーン・コネリーが演じてぃる
歴史を舞台にした作品が好きな方にゎオススメ!できると思ぃます(・▽・)/


  

| | Comments (0) | TrackBack (1)

March 24, 2006

ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女

  Dragonquest_1


初めてプレイしたロールプレイングゲームのことを思い出した。スクリーンに広がる大地と、居並ぶ異形のキャラクターたちと、未知の世界に迷い込んで勇者を演じる子供たちの姿に、かつての自分を重ねあわせた。そう、かつてファミリーコンピュータが映し出した幻影の箱庭に、僕の魂はとりこになったんだよね。それはナルニアに迷い込んだベンジー家の子供たちと同じだった。


と、映画「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」の予告編を見てちょっとワクワクしたので映画館に足を運んだのだけど、観終わった感想としては正直、可もなく不可もなく、といったところだろうか。

映像は素晴らしいけど(…とまた書いて思ったけど、考えれば最近の映画はコンピューターの発達により、どれも映像は素晴らしいよね)、お話としてはちょっとアッサリしている感じ。それは、僕が頭に思い浮かべていたものが、同じファンタジーの大作—すなわち「ロード・オブ・ザ・リング」であったり、「ハリー・ポッター」であったからだろう。それらはたんなる冒険活劇ではなく、時に人の心の闇なども描いていたりして物語に深みを醸し出していたのであるが。そういった底の深さは鑑賞していて感じられない。


ナルニアへの扉は洋館のなかの古びたタンスだったかもしれないが、僕のアレフガルドへの扉は、居間にあった。こたつにこもりつつ眺める14インチのテレビ画面だった。

僕が初めてプレイしたロールプレイングゲームである、ドラゴンクエスト。困難を重ねた旅路の末、竜王の城に辿り着き、長いダンジョンを抜けた後についに宿敵の姿を目にする。しかし、その時竜王は甘いささやきをつぶやくのだ。「 わしは待っておった。そなたのような 若者が現れることを。 もしわしの味方になれば世界の半分をやろう」。ウィンドウに「はい・いいえ」と選択肢が現れた時、思わず僕らは「はい」を選んでAボタンを押してしまった…。

二次元の、粗く色数も限られたドットで構成されてた世界にも関わらず、当時の僕らはブラウン管の向こう側にリアリティを感じていた。そう、竜王の懐柔を受けると、次の瞬間世界は闇に包まれてジ・エンドとなる。冗談きついよ、と歯ぎしりするが後の祭り(ああ、魔女に調略された次男エドマンドのごときですね…)。そこにはプレイヤーの心の弱さを見越した演出があった。箱庭世界に現実の深みを醸し出すには、おそらく映像表現だけに頼っていてはかなわない。


  

| | Comments (1) | TrackBack (0)

February 25, 2006

シムソンズ

トリノオリンピックでは概して日本勢が不振であり、メダルは女子フィギュアスケートでの荒川静香選手の金メダル1個しかとれなかったらしい。とはいえ、スポーツを通じた国威発揚にさほど関心のない僕としては、今回のような盛り上がり(盛り下がりと呼ぶべきか?)くらいでちょうどいいんじゃないかと思ってしまう。

それにしても今年はまだ、FIFAワールドカップの開催も待っている。サッカーはルールもわかるし、試合の観戦自体は嫌ではない。けど、ワールドカップのたびに繰り返される、いささか過剰に過ぎる演出と喧噪はついていけないなあ、と時に感じてしまう。スポーツにそういう思いを抱いている人間は、けっして少なくないはずだ。

しかしつくづく思うんだけど、ああいう騒ぎっぷりの苦手な人や、サッカー嫌いの人は、前回の日韓のワールドカップの時は1ヵ月間どうやって過ごしていたのだろうか。辟易しただろうね。


 sim-sons

 (公式サイト http://www.sim-sons.com/より)。


トリノオリンピックの閉幕も迫った2月25日の土曜日、映画「シムソンズ」を観に行った。北海道の旧常呂町(いまは北見市になってしまったらしい)を舞台に、カーリングに果敢に挑戦する4人組の女の子たちの奮闘ぶりを描いた映画だ。実話をベースにした作品だという。僕自身は試合をよく観ていないのだけど、トリノオリンピックの期間中にわかにカーリングに注目が集まり、その結果この映画も知れ渡るという効果があった。

けど、そもそもがそんなにメジャーな作品ではないので、増えたとはいえ上映されている館や時間はごく限られている。僕はまだ上映していた近場の映画館を調べて、みなとみらいのワーナーシネマズに足を運んだ。けっこうな雨の日だった。僕の靴のどこかに穴が空いているのだろう、歩いているうちになかが濡れてくる。新しい靴を買わなきゃなと、濡れた靴下の感触につつまれながら、スクリーンに目を向けた。


この映画は、かなりおトク度が高いといえる。というのも、かわいい女の子が4人も登場するからだ。つまり、普通の映画だったらヒロインは1人だけなのだけど、それに比べれば4倍楽しめるといえよう。主演は加藤ローサ。昨年末、職場の忘年会のビンゴ大会の景品で、ローサちゃんのフォト&インタビューをまとめた「ローサのもと」が見事僕に当たって所有しているというのは、ここだけの秘密だ。ついでにいうと、景品を選定して買い込んだのは僕自身だというのも、ここだけの話。なお、ビンゴ大会では誓って作為などしてゲットしたわけではないことを付け加えておく。


 rosanomoto_hyoshi


とはいえ、ローサのあのハーフな顔立ちは正直、北海道の田舎町にふさわしくないだろ、と思ってしまった。まあ、近頃は田舎の高校生でも、いっぱしの化粧はしそうなのでおろそかにはできないが。しかし伊藤和子というわりと平凡な名前の高校生に対して、ローサはできすぎである。

加藤ローサ以外の陣容としては、まずちょっとネクラでメガネ萌えするの女の子に、高橋真唯。いつも通勤電車のNO LOANの広告で窓口の女性役の姿にお目にかかっていたのだが、メガネをかけて牛舎を掃除する格好もなかなかに乙であるよ。あとは星井七瀬。この子は見た目からして最も高校生っぽいよねえ。なっちゃんのCMキャラクターに選ばれて、その後僕にとってはとんと行方知れずになっていた感があるのだが、スクリーンで久しぶりに再会した。そして能天気にカーリングを始めた主人公の対極にいる、上級者でかつちょっと屈折した感じの女の子に、藤井美菜。この人は僕も初対面で知識はないんだけど、まあ美人だなと思う。劇中の雰囲気としては、柴崎コウにちょっと似ているかもしれない。そうだな、柴崎コウと藤谷文子を足して2で割ったような感じだ。伝わるかどうかちょっとビミョーな比喩だけど。

あと、この4人をひきいる監督役が、「水曜どうでしょう」の大泉洋。北海道のローカル放送HTB発でブレイクしたこの番組を、僕はたまにtvk(テレビ神奈川)で見かけていた。北海道を舞台にした映画としてはふさわしい配役でしょうか。


そんなわけで4倍楽しめるおトクな映画「シムソンズ」だけど、ストーリーとしては、真っ当なスポーツ友情ものだといえる。もっとも題材としているスポーツがカーリングであるため、派手なアクションとか、ほとばしる汗とか、そういう要素とは無縁に済んできわめて落ち着いた仕上がり。映画のシンボルマークがちょっと「スウィング・ガールズ」にも似ているんだけど、いささかコミカルで完全にフィクションだったあの作品に比べるとずっと真面目なストーリーである。

青春の物語というのは、こんな配役で、こんな展開で作ればいいんだなあ、と、クールに考えながら鑑賞してしまった。

東京などの大都会から離れた地方で青春時代を過ごした人なら、この映画の冒頭にある主人公の叫びはよくわかるはず。「このままこの常呂で就職して、常呂で結婚して子供をたくさん生むの? そんなのいや〜!」。田舎に埋もれたまま終わりたくない、もっと便利で刺激の多い環境に触れてみたいという切望の感覚と、かといってじゃあ何をどうしたらそこから脱出できるのか、思いつくものが何もないという閉塞した気分。同じ立場にいたことのある人なら、身に染みて頷けるだろう、と思った。


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 15, 2006

B型の彼氏

僕を取り囲む250人の女性たち。しかもみんな年頃…。こんな空間に紛れ込んで、いったいどうふるまえばよいのだろう。


勤務先がノー残業デーである水曜日。飲み会の予定も何もなかったので映画を観に行くことにした。タイトルはもちろん、先日見逃して残念な思いをした「B型の彼氏」である。

会社帰りに旧有楽町そごう、いまはビックカメラが入居する読売会館の7Fに位置する、有楽町シネカノンで鑑賞した。

そしたら満席となった劇場で、観客はほとんど全て女性だったのだ。かろうじて確認できた男子は5人。彼女に連れられてカップルで来ているのが2組。中年のオッサンが2人。そして僕だ。場合によっては僕も分類されてオッサンが3人ということになるのかもしれないけど。

僕がこの映画を鑑賞したかったのには、理由がある。ズバリ、血液型恋愛映画だったからだ。そのストーリーは、こんなものだ…(goo映画より要約)。

女子大生のハミは運命の出会いを信じている女の子。ある時ヨンビンと偶然の出会いを果たし、「彼こそ運命の相手」とロマンチックな妄想にはまりこむ。でも、実はヨンビンはB型の男の子だった! そう、巷で恋人にしたくない男性1位に輝く、わがままで自意識過剰で自己チューなタイプ。一方、ハミは小心で慎重なA型、全く違う性格のヨンビンに惹かれていくのだが…。

以上。とはいえ、同じストーリーでも、これが邦画だったら観る気は起きなかっただろう。韓国映画だというところががぜん知的好奇心の対象になった。日本以外でも、血液型性格診断が受け入れられている国があるんだということ。そこにまずインパクトを受けた。

そしてそれが韓国ということで、なるほどとも思った。隣国であり、文化、社会、経済のさまざまな側面でこの国とよく似たものをもつ国だ。それゆえに、血液型性格診断は大衆娯楽の1作品のタイトルとなっておかしくない程度には受容されているのだろうか。

そもそも血液型性格診断は、日本以外の社会でも普遍性をもつ慣習かというと、そうとは思えない。同じアジアの一角にあって、同質性のある韓国の社会だからこそ受容されたのは間違いない。それはどのように浸透したのだろうか。同時に日本でいうそれとの間にいかばかりか相違は生じていないのだろうか。

このように、この作品は僕のなかに眠る、文化人類学根性をえらく刺激した。これを観ずして、他にどんな映画を観ろというのだ。そう思わせるタイトルだったのだ。


こんなふうに理屈で考えていることからお察しがつくように、血液型性格診断を僕は好きじゃない。おそらくそれは生物学的にも心理学的にも、根拠のないものだと思う。「いやいや、よく当たっているんだよ」という御仁もいるかもしれないが…なるほどたしかに色眼鏡をかければ、そのレンズは補強する方向にしかものごとを映さないものだ。

でも冷静になって考えてほしい。血液型が性格との関連において、特別な地位を占める必然性があるのだろうか? そもそも血液型とは何か。われわれの体内を循環する体液のなかで、酸素分子を運搬する役割を担う成分がある。その成分は、他の身体から同じ成分を混入した時に、凝集反応を示したり示さなかったりする。その組み合わせを血液型という。

この程度のものが性格に何らかの影響を与える因子となるのなら、われわれの身体をつくる要素には、もっと性格に影響を与える因子があってよいように思われる。たとえば心臓の脈拍数は? 精液に含まれる精子の数は? 虫歯の数は? 小腸の柔毛の密度は?

こうした、われわれの身体を構成する要素と性格の関係は考慮されないのに、なぜ赤血球という成分の凝集の組み合わせだけがこんなにも結びつけられているのだろう。何も合理的な説明は見出されていないというのに。


血液型の存在が知られるようになって約1世紀。現代日本で血液型による分類は、主にパーソナリティを対象として行なわれる。しかし当初は民族の優劣と結びつけて考えられていた。そのことを知ったのは、大学時代。こちらの本を読んでからだ。


 ketsuekigata_cover

 「血液型と性格」の社会史 血液型人類学の起源と展開
 松田 薫 (著)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/430924145X/


血液型が注目されたのは第一次大戦の頃。傷病兵の手当のために、輸血の必要性が迫られたからだ。

そしてわかったこと。ヨーロッパの民族は、A型が多い。一方、ヒヒなどの血液型はB型。アジアやアフリカの民族も、B型の比率が比較的多い。このことから類人猿はB型から始まりA型に徐々に進化したとされ、よってA型が多いほど優れた民族の証しとする。そんな研究があらわれた。

冷静に考えれば不思議に思うだろう。たかが赤血球の凝集反応の組み合わせである。それが社会進化論と結びついた時、民族の優劣を規定する因子とされたのだ。ある種のものごとがその元来の範疇を越えて、社会的な信条、文化的な背景を映し出す鏡に変貌するのは、むかしもいまも変わらない。


B型の彼氏」のような映画が製作されるということは、韓国社会においても血液型性格診断は受容されている。その受容のさまを、できることなら日本のそれと比較して知りたいと思うが、残念ながら韓国における血液型性格診断の歴史的経緯を記した文献を、いまの僕は知らない。
 
まだ見ぬ文献に代わって、この映画を僕は一つの資料として、民族誌として鑑賞した。
 
ふと感じたのだが、もしかすると韓国における血液型性格診断は、日本に比べた場合は浸透の度合いはそれほど高くないといえるのかもしれない。なぜなら劇中では登場人物の一人が勤める、血液型に注目した結婚相談所があえて斬新なビジネスモデルとして紹介されている。また、B型の典型的性格(と信じられているもの)を懇切丁寧に説明している。これらのシーンを眺めていてそう見受けられた。

しかし同時に各血液型の典型的な性格分類は、日本とほぼ共通であった。これは注目すべきことだろう(ま、だから日本で映画として公開できるわけだが)。このことは2つの国の血液型性格診断は、その根源において同じものであることを示している。日本で血液型性格診断がブームを呼んだのは1970年代以降のことだという。おそらくそれより後に、この慣習は韓国に伝播したのだろう。


そのような分析的な視点で眺めてしまったわけだけど、映画自体はなかなかよかった。けっして主演がドラマ「夏の香り」で注目した女優ハン・ジヘだからだけではない。ストーリーはそこそこ愉快で、笑いの湧く場面も数多くあった。おそらく血液型性格診断に抵抗がなく、かつB型以外の人であれば純粋に楽しめる映画なのだろう。同じ空間にいた僕以外の、250人の女性たち(と4人の男性)がそうであったように。

個人的には、僕は鑑賞する直前までこの映画のタイトルを「B型の彼女」だと思っていた。ところが“彼女”ではなく「B型の彼氏」と知ってかなりの違和感があった。なぜ彼女ではなく、彼氏なの? だって、わがままで、身勝手で、気を遣ってもそんなこと忘れたかのように裏切ってくれる存在。それはつねに女性の側じゃないか。少なくとも僕の経験では、そういう記憶しかないのだ。

でも、タイトルは間違いなく「B型の彼氏」だった。女性は女性で、男性の身勝手を実感して生活しているのだろう。映画を鑑賞し終わって、異性が僕らの性に対して抱く感覚を想像した。

男という性に生まれつくか、女という性に生まれつくか。この身体的特性だけは、僕らの社会で顕著な差異を生じさせていることはまがいもない(もっともその差異の多くは生物学的に生じたというよりは、それを記号として活用する文化の大系が生み出したものであろうけど)。この差異のせいで僕らは同じ文脈を前にしても、違う解釈で読み解くがごとく生きている。しかし、あたかも遊園地のコーヒーカップという遊具の内で両端に座った時のように、まわりまわって360度回転した結果、結局同じものを見ているに過ぎないということもあるのだ。


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 12, 2006

ミュンヘン

■我が家であぶられる漆黒の煮汁

1月にいちど催したのがけっこう楽しく、その記憶が僕の脳内をリフレインしていたのでまた鍋パーティーを企画した。2月11日、前回とは別のメンバーで、友人・知人、5人が僕の部屋に集まり、鍋を囲んだ。

1回しか使っていないにも関わらず土鍋がヒビ割れているなどのトラブルがあったのだけど、普通の鍋に変えてなんとかスタート。そして煮立って、器に盛ったらこんなものだった。


 haraguronabe


漆黒の液体が、灰色に染まった白菜やしめじ、豚肉を浮かべてたゆたっている。なんとも食指をそそられる一品じゃありませんか。え、何か違う?

今回作ろうとしていたものは、ごま風味の豆乳鍋だったはず。それを選んだ深い理由はとくになくて、新聞の家庭欄に、たまたまレシピが掲載されていたことによる。

レシピには、必要な食材として豚肉、野菜、調味料などと並び「ねりごま(白)」とあった。自分史のなかでも料理という経験には関わって日の浅い僕。ねりごま〜、そんなものどこに売っているんだ? と思って近所のスーパーの棚を物色していると、見つけた。なんだ、普通にあるじゃんと、カゴのなかに入れた。

鍋を待ちわびる来客たちの前で、調理を進める。鍋のなかにねりごまにだしつゆ、それから水と酒を入れ、煮込む。続いて白菜、葱、しめじ、肉、豆乳を入れ、アクをとる。

その結果、できあったものが上の写真なんだけど…。

途中から、色合いがどうもおかしいと思っていた。レシピには白いスープに浮かぶおいしそうな鍋が写っているのに、目の前で湯立っているのは、それとは全く装いが異なる。こ、これは…灰汁を煮込んでいるようだ。

原因は、すぐに判明した。ねりごまだ。レシピにねりごま(白)と明記されていたのに、僕が買ったのはねりごま(黒)だったのだ。「えー」と軽く批判のまなざし。しかしスーパーの棚にはそれしか売っていなかったのだからしかたないよ。

この鍋は、その場で腹黒鍋と名付けた。なぜならその場に居合わせた(女性以外の)出席者が、その名にふさわしい面々だったからだ(まあ腹黒というより、腹太なんじゃないかという話もあるけど)。ちなみに色は妙でも味は普通、食感もおかしくない。舌に広がるのはごまと豆乳のシンフォニー。マイルドにしてヘルシィで、腹太な人にもたぶんおすすめできる一品である。


■ミュンヘンかルワンダか、それが問題だ。

ミュンヘンホテル・ルワンダどちらがいいかなあ」

その腹黒鍋の席で、同じ三十路独身男で同期の友人I君がつぶやいた。なんと、最近新たな出会いがあったのだという。僕をさしおいて…これは聞き捨てならん。さっそく僕をはじめ同席者から質問攻めに会う。「次に会うのはいつ?」 それが明日だと言うではないか。

男性的なアピールは全くないけれど、理系の男らしくまじめでマメで、いわゆる“いいやつ”のI君。そんな彼にも、再び春がめぐってくるのだろうか。もしかすると君にとってこれが人生最後かもしれない、がんばるのだ。

デートには彼女の希望で、映画を観に行くことになっているらしい。どちらかのタイトルを観たいと挙げられたようで、上の相談になるわけだ。「ミュンヘン」と「ホテル・ルワンダ」って。…もしかして、かなり硬派の彼女なのか? これは手強そうだ。

僕は本棚からさっそく2冊の本を取り出し、「ホテル・ルワンダを観に行くなら、これで予習していけ」と薦めた。もちろんその本は、「ジェノサイドの丘・ルワンダ虐殺の隠された真実」(上・下)である。そしてNEWSWEEK日本版のバックナンバーを探し、ルワンダ虐殺10年の記事のページも開く。

しかし、彼は同席した先輩女性のアドバイスに耳を傾けていた。「有頂天ホテルが面白いよ。カップルで観に行くならこっちのほうがええで」「そうですかぁ」。おい、社会派の彼女を攻略するんじゃないのか…? 「そういう性格ではないと思う。でも、たんに東京ウォーカーで2つの映画の記事を読んだみたい」。けっこう普通の人らしい。ふーん。じゃあどっちでもいいや。

その後は、やはりデートに行くならお台場だとか、早く本当のホテルに行けとか、映画よりプラネタリウムに行くべきだとか、日本科学未来館のが素晴らしいとか、そういう話題で盛り上がったのである。しかしデートできるって、つくづく羨ましい。出会って2回目…ただただ脳内に妄想を繰り広げ、ひたすら先の展開を期待して胸膨らむ頃ではありませんか。ああ、羨ましい。

I君のお台場デート、いったいどうなったのであろうか。まだ、報告を受けていない。


■シンプルなメッセージを奥ゆかしく

そんな僕も翌日、映画を観に行った。「どっちの映画がいいかなあ」と口に出そうにも会話の相手はいない。春の来たI君と違って、僕はひとり映画館に来ているのだった。今頃I君はお台場でウキウキして、これからあんなことやこんなことを…あぁ。いや、むなしいのでよそう。

僕がこの日迷った選択肢は、「B型の彼氏」か「ミュンヘン」だった。話題の「ホテル・ルワンダ」は先日観てしまっていたのだ(その時のブログ)。

実は映画館に着いた時点では決めていた。断然、「B型の彼氏」である。ポップでコメディタッチの韓流恋愛映画で、一人ウキウキするに限る。なにせ今週末くらいでもう公開が終わってしまうのだ。早く観なければ。

と決意していたのに。いざチケット売り場に並ぼうとしたところディスプレイの上映時間に、“満席”の印が。そんなあ。がっかり…。

しかたがないので、第2候補であった「ミュンヘン」をチョイスしたのである。ふぁあ。3時間の社会派大作映画、だらだらと眺めるか。


観終わって思った。これはきわめてシンプルな問題意識を、実際の事件に託して長時間の物語として作り上げた作品だなあ、と。

(ここから先はネタバレで書きますけど;)

ニューヨークの摩天楼を背景にした公園でのラストシーン。「御前の祖国に帰れ」と諭す、イスラエルの諜報機関モサドの上司。それまでパレスチナのテロリストたちを手にかけてきて、精神が破綻しそうになりつつも家庭に戻った主人公は答える。

「こんなことを続けていては、永遠に平和は訪れない」。

背景に写る国連本部のビルから、カメラは方角をずらし、9.11で崩れ去ったワールドトレードセンターの双子のビルを映し出す。そしてそのまま、エンディングのスタッフロールが重なる。この象徴的なシーンに、この映画のメッセージが凝縮されていると思った。たぶん、多くの人も同じだろう。


しかしこの主人公の俳優、優男ふうで一見、暗殺者を演じるとは思えないのだけど、この映画のなかでは妻子を愛し料理を振る舞いながら、しかし祖国には忠誠を誓って4人の仲間とテロリストたちを殺していくのである。この一見ミスマッチな配役は、物語に独特の立体感を醸していて、イイ!と思った。きっとそういうものなんだよね。

イスラエルでは和平推進勢力の再結集をはかったシャロン首相が脳梗塞に倒れ、一方パレスチナ自治区では過激派勢力であるハマスが選挙で躍進する。トリノでは、そんなことと関係なく冬季オリンピックが開幕する。映画の公開にあわせたかのような時事ネタがよくもタイミングよく集まったものだ。けっして、よいニュースではないのだけど。


B型の彼氏」を観てほどよく能天気な気分になるはずが、一転して重々しい世界の現実に思いを巡らせることになった、日曜日の午後であった。

次回こそは「B型の彼氏」を観よう。上映期間が終わってしまう前に。そう思いつつ、川崎のヨドバシカメラに寄ってうろうろした。時節柄、大型画面の薄型テレビに関心があったのだ。

しばしテレビ売り場を徘徊する。テレビを眺めていると画面に川嶋あいが出て歌っていた。なんだかかわいいお嬢さんだなあ、と思った。萌え…を感じる。そのままCDショップに向かい、新星堂で彼女がボーカルを務めるI WiSHCDを買って、電車に乗って帰宅した。


 


iPodで♪明日への扉なんて聴いて、胸がキュンとする…(´・3・`)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 01, 2006

オリバー・ツイスト

 
 (写真はSankei Web http://www.sankei.co.jp/news/060201/sha094.htm より引用)


「ただいま地震が起きましたため、列車を停車しております…」

車中にアナウンスが流れた。

この日はノー残業デーで、とくに飲み会の予定も入っていなかった。だから早く帰ることになるだろうと思っていた。しかし、午後からモスバーガーのハンバーガーが無性に食べたい気分に包まれ、そこで最寄りの店舗に立ち寄って晩飯にハンバーガーを食らっていたのだ。

満足して横浜方面の京浜東北線に乗って、帰途に着く。列車が停まってアナウンスが流れたのは蒲田を出たあたりの頃だ。電車に乗っていたので揺れには全く気づかなかったのだけど、大きかったのだろうか? ふぁあ、会社の近くでハンバーガーなど食わなきゃよかったな。


僕がかねてより願っていることの一つが、東京で大地震には遭いたくないということ。東京は危険がいっぱいのような気がするのだ。高層建築。ビルの密集した繁華街。多数の人が集まる施設。そして満員の通勤電車…。相当悲惨なことになりそうである。

こう言う人もいる。「東京でもどこでも、大地震に遭えば死ぬ時は死ぬし、助かる時は助かる」。もちろん大地震は東京であれ、どこであれ起こってほしくないできごとだろう。もちろんそうである。しかし僕がとくに問題にするのは、自分が致命的な事態に陥る確率である。

これが僕の地元なら、人の数といってもたかだか知れている。民家は点在して道も広いし、街といっても高い建物など全くない。東京にいる時に比べれば災害時に影響を及ぼす係数がかなり少ない気はする。

僕の地元である西三河地方も東海地震の想定地域になっているわけで、決して地震に関して安全な地方ではない。だけど東京で大地震を迎えるよりはマシだろう。だからつねづね、首都圏直下型地震が起こる前には東京の生活を離れたいものだと考えている。といって、日々の仕事があるからにわかに、というわけにはいかないのだけど。


最も避けたいことが、通勤電車のなかで地震に遭うことだ。満員の車両が脱線でもしたら、相当悲惨な事態に巻き込まれそうである。

そしてこの日、ついに電車のなかで地震に遭う事態に遭遇してしまった。しかし幸いに車中では全く揺れを感じない程度のものだった。電車の停車時間が長引くにつれ苛立ちを見せる乗客たちのなかで、僕はたいした地震ではなかったことを心の中で感謝していた。震度6や7だったら電車は軌道を維持することはできない。

それでも停車を続けているということは、もしかすると地上では、それなりに揺れたものだったのだろうか…。

「この電車は、次の川崎駅まで行って運転を停止します」

5分ほどたった頃アナウンスが流れて電車は動き出し、そして僕と乗客たちは川崎駅で降ろされた。


川崎駅で放り出されてしまったのが午後8時50分くらい。京浜東北線だけでなく、横浜方面に向かう全てのJRの路線がストップしている。京急が動いているか確かめてそれに乗ってもよかったのだけど、ちょうどレイトショーが始まる時間帯だったので、携帯で上映時間を調べて映画館に向かうことにした。2、3時間潰している間に、JRもきっと運行を再開するだろう。

チケットを買う時まで気づいていなかったのだけど、この日は映画の日だった。鑑賞したのは、「オリバー・ツイスト」。原作はチャールズ・ディケンズチャールズ・ディケンズで、文芸名作モノの映画化作品である。


 
 (写真は、Amazon.co.jp http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4042110169/ より引用)。


チャールズ・ディケンズというと、「クリスマス・キャロル」は、幼少のみぎり児童向けの抄訳版で読んだり、アニメーションや映画作品を観たことがある。だけど、「オリバー・ツイスト」については全く触れたことがなかった。映画を観て、初めてその物語世界を知った。

でも、基本的にこういう映画は好きなのである。どういうところにひかれるかといえば、当時の時代の風景をリアルに再現していることだ。歴史的な光景をいま目前にできるというのは映画ならではの愉しみである。もちろん、時代の再現には相当お金がかかるわけで、これは大作映画にしかない醍醐味である。

ということで電車が停まった結果、この晩はロンドンの貧民窟を舞台にしたストーリーを僕は堪能し、オリバー少年の運命に涙し、その純粋な精神には感動したのだった。しかし、オリバーを囲む人物たちが、悪漢も善人もなんとも人間味に溢れていたなあ。原作がもともとそうなのだろうけど、物語になんともいえない深みを醸していた。


19世紀のロンドンから21世紀の川崎に復帰すると11時半頃。JRの駅に向かうとまだ電車は動いていない。おお、なんということだ。

駅は騒然としていた。横浜より先、いわゆる湘南のあたりの住民となると、東海道線しか路線がなく、それが停まるとみな往生してしまう。そうした乗客たちが往生している。

僕も以前鎌倉市内の寮に住んでいた頃は、災害時に電車の運行状況にはかなり過敏だった。長距離通勤になればなるほど、その距離に応じ線路上にトラブルが発生する可能性は高くなる。
いまでも忘れられないのは8、9年前に大雪が降った夜のこと。7時に会社を出て満員の東海道線の車両に押し込まれたのに、架線に雪が積もって電車は駅間で動かなくなってしまい、結果寮に辿り着いたのは午前3時くらいだった。あの時は本当にひどい目に遭った。当然、翌朝は定刻通り出社しないといけないわけだし…。

ふだんから長距離で満員の電車を我慢して通っているのに、トラブルで停まって帰れなくなるというのはまさに災難以外のなにものでもない。自分の経験もあって、僕はこういう時の湘南方面の住人には大いに同情するのである。まあ、湘南みたいなええところに住んでいるってことでおあいこだよ、とあえて言い放つこともできるのだけど。

僕についていうと、いま住んでいるのは川崎のすぐ近くの駅が最寄りで、京浜急行の沿線でもあるので京急電車に乗り換えて帰宅した。京急もひどい混雑だった。


部屋に入ってから、新聞社のニュースサイトをチェックした。

2月1日午後8時36分発生した地震は、埼玉県や神奈川県の一部で震度4を記録した。JR東日本の横浜方面の在来線は線路の安全点検のため運転を見合わせ、4時間近くたった2日午前0時10分頃から再開した。23万7000万人に影響が及んだという。

 Sankei Web 社会 埼玉、神奈川で震度4 東海道線一時止まり24万人に影響(02/02 01:05)
 http://www.sankei.co.jp/news/060201/sha094.htm

| | Comments (0) | TrackBack (1)

January 29, 2006

フライトプラン

最近、ライブドア事件を伝える産経新聞の記事が抜群に面白い。フジサンケイグループの一翼を占める同紙、論調の端々に“ほれ見たことか”というニュアンスが漂っていて、まさに鬼の首をとったような勢いを見せている。

聞くところによると、産経新聞の報道は昨年のいまごろ、ライブドアがニッポン放送の株を買い占めていた騒動の最中も、半ば当事者としての切実感のためか、かなり読み応えがあったらしいが…。その時は引っ越し前でまだ購読していなかったので目にする機会がなかった。これはけっこう損していたことになるのかもしれない。


さて、早いもので1月もそろそろ終わりだ。1月最後の日曜日に鑑賞した映画は「フライトプラン」であった。なんだか久々のジョディ・フォスターが主演で、飛行機を舞台にしたミステリー映画である。

goo映画のサイトに載っているストーリーの紹介から引用すると…。

夫の突然の事故死に見舞われた航空機設計士のカイルは、6歳になる娘のジュリアを連れて、ベルリンから故郷のニューヨークへ向かう飛行機に乗り込んだ。夫の棺を乗せて飛び立つハイテク重層ジャンボジェット、E−474。それは皮肉にもカイルの設計した最新鋭の航空機だった。機内に落ち着くと、カイルは睡魔に襲われ、夢の中で夫の幻影を見る。やがて目を覚ますと、隣にいたジュリアの姿がない。客席、トイレ、厨房と探し回るが、乗客も乗員も誰一人として娘の姿を見た者はいない。ジュリアはいったいどこへ消えたのか?


というもの。予告編を見ていったいどんなオチになるのだ!?と、ちょっと興味がわいて映画館に足を運んだわけであるが。といってもこの手の映画は、犯人は身近にいて一見善人っぽいやつを疑え、というのが鉄則。ズバリ、その原則には漏れないお話ではあったよ。

ところでこのスクリーンをながめつつ、僕の頭でついつい連想してしまった映画のタイトルがあるんだよね。「フライトプラン」を観に行って物足りなかった人は、こちらのDVDをレンタルして鑑賞することを強くおすすめする。…ハイ、その映画のタイトルとは、「フォーガットン」です。

こちらのほうも、子供が消えてしまった母親の話。しかもなぜかそこに飛行機が絡んでいるところも、似ている要素ではある。でも、機中の話ではない。飛行機事故で息子を亡くし悲しみにくれる主人公。なのに、別れた夫や、周りの人は、そもそもそんな息子などいなかったと口を揃える。ある日を境に、息子が生きていたことを示す痕跡が周囲から一切合財消え去ってしまう…。不可解な状況。こんなをいったい誰が、何のために? それが陰謀であることを確信する主人公は、どこかに隠蔽されているであろう息子の姿を求めて探し続ける…。

なんとも興味をそそるじゃありませんか。しかもこのオチは、言葉では言い表せないほど素晴らしいものだった。というか、オチなどなかったといったほうが正確だろう。あまりにストレートな展開に驚愕する。ぜひ観てください。うまくすると“開いた口が塞がらない”“目が点になる”という想定外の経験が、できます。


まあ、ジョディ・フォスターが主役に座っている時点で、「フォーガットン」のような奇想天外が結末が許されるはずもなく。常識的な範囲内での、機中ミステリーに落ち着いたと言えよう。映画を愛する三河在住の独身男Gからは、“(おなじジョディ・フォスター主演の)「パニック・ルーム」並みにすんなり終わってしまう”との評が届いたが、まさに同感であった。

いや、“すんなり”と感じたというのは正確でないかもしれないな。僕としては、ストーリーにやや疑問があるといえばあるからだ。それはこんなことだ。
・女の子が乗り込むところや、連れ去るところが誰かに目撃されていたらどうするつもりだったの?
・なんでさっさと殺さずに、眠らせておくだけにしたの?

この犯人、悪事を働くのにわざわざ回りくどい方法を選んで、余計なリスク抱え込んでいるような気がするんですけど。それがたんに機中を混乱させて、さらに罪をなすりつけるため? うーむ。。。犯人の最終目的を達成するためとかならば、もっとよい方法がいくらでも考えつきそう。にもかかわらず、なにゆえこんな手間のかかることをするのか。オチがわかってからの機内二人追いかけっこの模様につきあいながら、腑に落ちない思いが僕の頭をよぎっていた。

だいたい主人公が飛行機の設計技師という設定も、意味があるんだかないんだか。設計者なのにできるのは、回路をショートさせて、酸素マスクを出すだけ…? そもそも犯人だって独力で貨物室に潜り込んだり、大切なものをあんなところに隠蔽したり。既に設計者並みに飛行機の構造に詳しいんだよねえ(あ、恋人に教えてもらったのかな?)。でも、もっと詳しいかもしれない主人公が見つけてしまう可能性は、彼は考えなかったのかな。

ふむ。まあ、そこはそこ。娯楽映画なんだし、あまり深く考えず済ますのが、鑑賞者の“あるべき姿”というものだろう。


上映時間が長過ぎもなく短くもないのは、よかった。全体で100分ちょっとくらいだったのかな? 最近やけに長い映画が増えているような気もするが、疲れず気軽に観るにはこのくらいがちょうどいいと思う。

劇中、機内で上映される映画を評して登場人物が「ひどい映画でも、上空11,000メートルの映画館からは出て行くことができない」とぼやくシーンがある。その映画のタイトルは、いったいなんだったのだろう。後で思い出して、ちょっと気になった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 21, 2006

ホテル・ルワンダ

yukigeshiki雪だ、雪だ〜♪

土曜日の朝、目覚めるとあたりは真っ白だった。全国的に例年にない積雪が伝えられるこの冬だけど、横浜、東京周辺で本格的に積もったのはこれが初めてだろう。

センター試験の受験生にとっては思わぬ災難だと思うけど、サラリーマンの身としては、会社がお休みの日に降ってくれるのはかなり気が楽で、純粋にふだんとは違う真新しい風景を眺めていられる。これが平日だったら、悪くすると電車は止まるし、でも会社に行ったり客先に出向いたりしないといけないし、大変なところだ。

そんな雪の休日に、この日から川崎のCINECITTAで公開となった映画「ホテル・ルワンダ」を鑑賞に赴く。


1994年の4月といえば、僕は何をしていただろう。

そう、その時は大学4年で、就職活動の真っ只中だった。いままで経験したことのない初めての活動であり、将来への大きな不安を抱えていた。そんな気持ちのなかで企業訪問や説明会への出席を繰り返し、名古屋の栄や伏見などのオフィス街を歩いたり、時には高速バスに乗って東京の会社に出かけていた。そんな季節だったんだっけ。

その時、地球の裏側で数10万人もの人々が殺されていたなんて、思いも寄らなかった。


 newsweek20040514
 NEWSWEEK日本版 2004.5.14号)


後に、ルワンダ虐殺として知られる史上最悪の事件。アフリカの真ん中にある、ツチ族とフツ族が住まう国ルワンダで、フツ族民兵によるツチの民族抹殺が企てられ、実行されたのだ。驚くべきことに、それが進行しているさなかにその惨劇が世界に伝えられることはほとんどなかった。国連や大国は、それを黙殺した。

これは僕の記憶によるところで、当時の新聞縮刷版などを参照しているわけではないが、新聞の外信面にそのニュースが載るようになったのは、たしか8月か9月くらいのことだったと思う。終わってからのことだ。つまり、ルワンダに生きる人たちの命の価値なんて、他の国々の人たちにとってそんなものだったということだ。


しかしほんの2ヵ月か3ヵ月の間に何10万人もが殺される事態というのは、僕にとっては想像し難い。おそらく世界の多くの人たちにとっても同じだろう。

筆舌に尽くし難い恐怖と、果てることのない無念と、決して許されない残虐が、数えきれないほど繰り返された。いったい、その事態とはいかなるものなのか? それまで市井のなかで共に暮らしていた隣人や同僚や、親族を、どうして手にかけることができるのか? そもそも、そこに至る状況をどうやったら作り出すことができるのか?

その答えを知りたいとずっと思っていた。そこでおととし、ルワンダ虐殺を取り上げた書籍を読んだのだった。


  genocidenooka_cover

 フィリップ ゴーレイヴィッチ (著), 柳下 毅一郎 (翻訳)
 ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872901584/
 ジェノサイドの丘〈下〉 ルワンダ虐殺の隠された真実
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872901592/


この本で知った真実は多いのだけど、しかし正直なところ、上の問いかけについて根本的な解を得られたわけではない。渦中に身を置いたものでなければわからないことは山ほどあるだろうし、もしかすると渦中にいても知り得ないものなのかもしれない。いま僕らにできることは起こったことを知り、それを記憶しておくことだろう。

この事件における数少ない救いの一つが本書の主要な人物の一人として登場する、オテル・ミル・コリンのマネージャー、ポール・ルセサバギナさんの行動である。1,200人余のツチ族とフツ族穏健派をホテルに匿い、守り切った人物がいたのだった。そして10年の時を経て、その行ないが映画化されるに至ったわけだ。

この本を読んでいる限りでは、オテル・ミル・コリンのリアルな状況というものも想像に難かった。本の描写の限りでは、多くのツチ族が滞在しつつも、同時に政府軍と、フツ族民兵が出入りしていた不思議な空間のように読み取れた。外国からの圧力があったとはいえ、大虐殺のさなかになんという悠長なことだろう。それが一読した時の正直な僕の感想だった。

しかし今回映画化された「ホテル・ルワンダ」を見て、その空間がただ漫然と維持されていたのではなく、やはりそこには、ホテルと人々の命を守ろうとする奮闘があったのだということがわかった。


この映画は、アカデミー賞でも3部門にノミネートされるなど国際的には高い評価を受けたようだ。しかし、もともと日本公開の予定はなかった。要は、遠いアフリカの国を取り上げた映画など上映しても客足が見込めないわけで、それだけ日本にとってはまだ他人事だ…と言い切ってしまってもいいのだけど、実際はアカデミー賞にノミネートされたことでかえって配給価格が上がってしまって釣り合いがとれなくなったというのが真相のようだ。

これは一部では報道されていたことだけど、そこで「ホテル・ルワンダ」日本公開を求める会が結成されてインターネットなどを駆使して署名運動が始まった。そうした運動が効を奏したのか、今回公開の運びとなった。

まず今月14日から東京・渋谷のシアターN渋谷で上映が開始された。そしてその翌週の21日から神奈川県では川崎のCINECITTAで上映の運びとなったわけだ。
僕はレイトショーで観に行ったのだけど、大スクリーンで公開されていたわりにはけっこうな客足だった。こういう映画が多くの人の目に触れることは、よいことだと思う。ちなみに僕の脳内では、「シンドラーのリスト」「ヒトラー〜最期の12日間」、あるいは「ロード・オブ・ウォー」に連なるものとして整理される作品である。

これから全国で順次公開されていくようなので、国際関係論やアフリカの国々、民族事情といった分野に関心のある人はぜひ足を運ぶとよいと思います。


# ちなみに昨年開催された、僕の地元最大のお祭り・愛知万博(愛・地球博)にも、ルワンダが出展していました。僕にとっては絶好に面白かったアフリカ共同館のなかにルワンダのブースがあって、“おお!”と思いました。
# がその後、大量にコーヒーなどが売れ残って、帰るに帰れなくなっているとのこと。近況を伝えるブログもあります。


 

| | Comments (1) | TrackBack (5)

January 08, 2006

SAYURI

日本人芸者をチャン・ツィイーが演じているとか、日本が舞台なのにセリフが英語だとか、いろいろ槍玉に挙げられそうな要素に満ちた映画「SAYURI」(Memoirs of a Geisha)。
そういう話題もさることながら、渡辺謙、役所広司のみならず、なんと桃井かおりまで劇中では英語を喋っていると聞き及び、がぜん観に行く気が湧いてきた。

そして観に行ってきたのだが、僕としてはこういう形で日本が描かれるのは、珍しく抵抗がなかった。他者に自分が属する文化がどう映るのかというのは、異文化理解の逆の意味でよい教材である。おそらく、他者が日本文化を見るまなざし、というのはこんなものなんだろう。そして、こう描かれることは、日本が国際化していることの証であるのだと考えたわけだ。


 
 (写真は、goo映画より引用 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7886/index.html


●僕がSAYURIを受け入れたわけ

そのように素直に受け入れた理由は3つほど考えられる。

まず第1に、まず日本が舞台なのに英語を喋っているという点については、そんなもんだろうという割り切りがあったということ。

もともと米国ハリウッドは徹底的なまでに英語で映画を作るじゃん。たとえば映画「アマデウス」は、オーストリアが舞台なのにドイツ語ではなく英語を喋っているし、「ラストエンペラー」では剃髪した中国人たちはみな英語を喋り、「K-19」はソ連の潜水艦のお話で、敵が米国であるのにやはり英語を喋っていた。そんなんでいちいち目くじら立てていたってしかたがない。

逆にいうと、吹き替えより字幕のほうがレベルが高いと思っている日本人の感覚のほうがおかしいのかもしれないよね。字幕なんて一瞬見逃しただけで筋がわからなくなっちゃったりするし、情報量としてもセリフに比べるとはるかに削ぎ落とされている。気楽に映画を楽しむには至ってイケていないものなのに、ありがたがって一生懸命目で追っているほうが変といえば変である。


次に、映画の背景で日本文化が、随所で妙な描き方をされているということについては、それも米国ハリウッドのアバウトさからして当然だろうという思いがあったこと。だいたいこれは日本に限った問題ではない。ハリウッド映画はおそらくどの国を舞台にしたってヘンである。そこで描かれるものは、その現地に生きる人から見て奇妙な感じに見えるに違いない。これは、世界市場に向けて最大公約数的なわかりやすさを至上命題とする、ハリウッドという装置の事情なのだ。

それに、日本をテーマにした出版が海外でヒットして映画化される事実自体が示すように、日本は既に国際化のなかの日本なのである。その文化を解釈する権利は、別に日本人にしか許されないわけじゃない。
加えていえば、そもそも外国映画が描く日本の姿がヘンだと声高に訴えるのは、日本人が解釈する日本こそが正統だという、ある種の傲慢というか欺瞞が感じられるのである。たとえば日本人が描く時代劇だって相当にヘンだと僕は思う。


 newsweek20051214
 (NEWSWEEK日本版 2005.12.14号)


たとえばNHKが放映する大河ドラマですら僕からするとヘンである。僕は、毎年の大河ドラマを見ながら「そりゃ違うだろ」「展開をはしょりずぎだ」「この登場人物はそんなにいいやつではない」などと、一人腹を立てながら見ている。史実のねじまげと、ご都合主義的な省略の横行跋扈。NHKですらこのていたらくなのである。ましてやそれ以外の時代劇なんてほとんどデタラメにちがいない(大河ドラマ以外のドラマとか、民放の番組とかほとんど見ないからよくわからないけど)。

こういう、歴史を舞台にした日本の映画やドラマを、もし仮に日本史のその時代を生きている人に見せることができたら、どう思われるだろう。たぶんに奇妙奇天烈な考証のオンパレードで、理解不能のストーリーに映るのだとと思う。そう、日本人の描く日本だっておそらくヘンなのである。日本人に間違った日本を描くのが許されて、外国人が間違った日本を描いたら怒るというのは、相当に心が狭いというものだ。

しかしながら、こんなこと語り出すと僕はいささか痛い記憶がよみがえる。そうわきまえているつもりなのに、3年前に公開された映画「ラストサムライ」については我慢できなかった。あれはかなりひどかった。明治10年の日本の風景がアレか? そしてまるで中世武者のいでたちのようなサムライたち。日本の内戦への米国人大尉の介入…あまりにありえないストーリー展開に、唖然とした。

しかもそれを、たくさんの日本人が鑑賞に行って、“感動した”とか“まさに武士道だ”と言っているのを見るに及び、僕は激しく亡国の憂いを抱いた。一般ピープルだけじゃない。こともあろうに総理大臣まで映画を鑑賞に行って、トム・クルーズと面会したりしているのである。日本はそれでいいのか? この国には、これまでの歴史教育を自虐史観だと糾弾して、新しい歴史教科書を作って広めようとする人たちがいるけど、わが国民の歴史認識は自虐だとか言うはるか手前のところで、深刻なまでに無知なのは明らかである。

繰り返すが、「ラストサムライ」は本当にひどかった。それにしては「SAYURI」は、まだましなんじゃないかと思ったのである。


 
(写真はAmazon.co.jpより引用 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BTCMKG/


その「ラストサムライ」の記憶に関連するのだけど、SAYURIに抵抗を覚えなかった第3の理由。最大の事情がこれなんだけど、なにより僕が芸者や花街のことをよく知らないということだ。

ラストサムライ」を観たのは、僕はちょうど近現代史に関する読書に夢中になっていた時だったのだ。幕末から明治維新、そして後の文明開化、富国強兵に至る時代に、どんな事件があり、どういう社会背景があり、どんな矛盾が渦巻いていたのか。そういうことを知る醍醐味を、専門書などひもときながら味わっていた。そんな折も折に、トム・クルーズの映画は暴力的なまでのデリカシーのなさで、日本に上陸してきたのだ。

僕はこの映画を、話題作だからということで無防備に、紹介された女性とクリスマス直前、みなとみらいのワーナーシネマズに観に行ってしまった。うかつだった。その後中華街で食事をして、ストレートに映画の感想を口にして、歴史のウンチクを語り始めてしまったことで、一つの恋のチャンスを失ってしまった。痛く悲しい思い出だ。でも、口にせざるをえなかった。歴史は僕のライフワークだから黙っておられんのだよ。

これはその時代やその社会のことを知っているからケチをつけたくなるのである。大河ドラマの感想と共通するところだ。もし僕が仮に、僕が明治10年の日本の実像にたいして関心も知識もなければ、「ラストサムライ」になんの抵抗も抱かなかったかもしれない。渡辺謙とトム・クルーズの友情に感動していたかもしれない。そして今頃その女性とつきあってハッピーハッピーだったかもしれない。ああ…。これから映画のチョイスはくれぐれも気をつけよう。感想を口にする場合は努めて慎重にこころがけよう。

話を戻す。「ラストサムライ」の時とは異なり僕には、芸者や花街に関する知識は皆無である。そもそも芸者という職業の人にあったことがないし、当然、芸者のいる宴席に立ち会ったこともない。これからそういう機会が訪れるかというと、おそらくないような気がする。そんな人間だから、「SAYURI」について何も感じなかったのだ。

でも、たとえばこの映画の原作のネタ元の女性は、出版されて秘密を明かされたといって原作者を訴えたという。だからこの映画でも、当事者が見ればそこには何かしらモノ申したくなる込められたりしているんだろう、とは思う。幸か不幸か、僕にはそれを読み取る能力がないのである。


●思うにチャン・ツィイーとは、馬である

戦国時代を描いたドラマで、戦国武将は必ずサラブレッドに乗っている。もともとサラブレッドみたいなカッコいい馬は日本にはいなかったから、リアリティを重視するなら道産子あたりにすべきだと思う。

で、チャン・ツィイー演じるさゆりも日本人女性にしてはスラッとしすぎているよなあ、とずっと思いながらスクリーンを眺めていた。思うに、彼女はまさにこの馬の問題におけるサラブレッドなんだよね。馬にサラブレッドを使うなら、日本人芸者にチャン・ツィイーを使うことを攻められないというのが、僕の立場である。


そんな僕が今回注目したのは、チャン・ツィイーよりもむしろ脇役だった。まず、冒頭で述べた英語を喋る桃井かおりである。僕も英語が不得意だからといって逃げずにがんばらなきゃ、と思った。


そしてさらにもう一人。さゆりの少女時代、千代を演じる女の子だ。か、かわいい…(萌え)。プリティなかわいさというよりは、可憐なのだ。つぶらなまなざしで、いたいけない表情が印象に残る女の子であった。着物姿のこの娘の姿に釘付けになった。

 
(写真は、http://www.himawari.net/tsushin/closeup/close1-suzuka.html より引用)

帰宅してインターネットで調べたら大後寿々花チャンというらしい(漢字の姓名も特徴的ですね)。出演作に映画「北の零年」などともあるから、なるほど渡辺謙と吉永小百合の娘役として昨年の初めにいちど目にしているんだなあ。その時はまるで気づかなかったよ。

まだ小さいのに実は大物。僕にとって、柊(ひいらぎ)留美以来の注目子役として彼女は脳内に留まるであろう。きっと。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 03, 2006

ハリー・ポッターと炎のゴブレット

●責任をとらない校長の姿

世の中の校長先生に、僕はかなり同情的である。
なぜって、学校で何か事件が起こると記者会見の場が設定され、そこで責任者である校長の発言が求められ、釈明を行わなくてはならない。

その姿を見ると他人事ではなかった。これは完全に個人的な感情によるものだけど。

僕の父は教師で、その職業生活の最後の数年間に校長をしていたからだ。

その間、僕は父の学校で何の問題も起こらないことを祈っていた(まあ、世の中にある公立学校の数からすれば、確率としては交通事故に遭うのと同じくらい低いと思うけど…)。

仕事をソツなくまじめにこなしてきて、もう少しで退職というのにテレビや新聞に曝されることになってはたまったもんじゃないよ。まあ、それが管理職の仕事といえば仕事だけど、企業の経営者や政治家と違ってたいして権限もない職にしては、いささかアンバランスな責務だとは思うね。

その父も先日、ぶじ定年退職を迎えた。だからそのような杞憂をする必要はなくなったのであった。よかった、よかった。


しかし、それに比べてこの校長はなんだ。

生徒が死ぬような危険な競技大会を率先して行った上、結果一人の死者が出ても、責任をとって辞任するのでもなく、保護者やマスメディアからの非難の攻勢にさらされるでもなく、のうのうと職に居座っていられるなんて。

生徒を集めて演説するシーンを観ながら、お前が悪いんだろ! と内心思ったのは、僕だけではあるまい。
"
映画「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の、ボクワーツ魔法魔術学校のタンブルドア校長のことだ。

1月3日、正月休み最後の日の夜に鑑賞した「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」。ストーリーとしては、ホグワーツで、100年ぶりに開催された「三大魔法学校対抗試合」。その危険な試合に、3校の代表選手に加えてなぜかハリー・ポッターも参加することになる。ハリー・ポッターや他の選手たちは次々と課題をこなしていくのだけど…。あまりネタばれするとよろしくないんだけど、復活してきた悪い魔法使いの手にかかって、あっけなく死んじゃうんですよ。選手の一人が。

しかし、親御さんからお預かりした大切な生徒の命を失ってしまったというのに、徹頭徹尾、他人事のような言明に終始するタンブルドア。それでも校長か〜!


●萌え萌えハーマイオニー

まあ、お話なのだからそんなこと言っていてもしかたがないのだろうけど。

以前も書いたけれど、この映画の隠れた(僕にとっての)醍醐味は、エマ・ワトソン演じるヒロイン、ハーマイオニーが一作ごとに成長していく姿を見ることである。いやべつにハーマイオニーだけでなく主人公・ハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフ君や、ルバート・グリント演じるその友人(映画を観終わると同時に名前を忘れてしまう…すまない)も成長していくんだけど。しかし、そんなのは、その年頃の男子がどんなに幼稚で、ダサくて汗臭いか。しかもエッチなことに興味を持ち始めてギトギトしているさまは、自分で経験しているからいいのだ。僕の脳内世界に意味があるのはハーマイオニーだけなのだ。

まだいかにも子供だった「ハリー・ポッターと賢者の石」の時から、はっと息をのむようなかわいさで魅せていた女子だった(まあ、そうでなきゃ俳優にならないんだろうけど)。萌えた。

冷静に考えると、こういうコ、けっこう得しているんだろうなと思う。その容姿ゆえに周囲の男子にも、女子にも、そればかりか先生たちにも一目置かれ、みんなにちやほやされるし、あんまり変な係とか割り当てられることもない…(えーこれは決して僕の妄想でなく、以前一緒にハリー・ポッターの映画を観に行った、理系の先輩女性も同意していました)。
そしてあげくクラスのなかで一足お先に上級生とつきあったりする。そんなタイプの女の子だ。だいたい容姿で注目される前に、ハーマイオニーって名前が、絶妙に呼びづらくて印象に残りやすいんだよ。あと、学校の名簿を開いてハーマイオニーのパパの名前をなぜか調べてしまったり、きっとボクワーツ魔法魔術学校の男子たちはそんな馬鹿なことやってるに違いない。

話が延々とずれていきそうなんだけど、そのハーマイオニーは今回は見事なドレス姿でダンスを踊る。大きくなったねえ。益々綺麗になったねえ。見事に男をそそるそのまなざし。こうやって徐々に大人の女性になっていくのだな〜。と、トオイメで眺めるのである…( ̄ー ̄)

 
 (写真は、goo映画にリンク http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7730/gallery/p014.html

ああ…(;´Д`)


●私生活の“先生” 衝撃の実像

どうでもいい話に戻るけど、僕の家は、両親ともに公立学校の教師だった。

教師の家とは、どんな感じなのか?

僕の記憶に残るのは、こんな車中の風景。たとえば家族で外食に出かける途中の道だ。僕ら兄弟はクルマの後部座席に座っているのだけど、運転席の父と、助手席の母が車中でずっと会話している。

その内容は。学校の愚痴だ。夫婦で学校の愚痴を言い合っているのだ。たとえば上司が帰らないと帰りにくいといった職場の雰囲気への嘆息だったり、権利意識だけあって仕事をしない先生を持て余しているといった同僚への批判だったり。そんなことを延々と言い合って終わりがない。

そんなことをずっと聞いて育ってきた。

休みが明けて月曜になる。父はこんな言葉を残して、玄関を出る。「ああ、学校行きたくないなあ」。


中学生の頃、たしか進路に関するホームルームの時間だったと思う。職業とは何か、どういう進路をどう選ぶのか、なんてテーマだった。そのディスカッションのために身近な職業の例として、“学校の先生”が挙げられた。

学校の先生という仕事をどう思うか、アンケートがあった。周りの生徒は、「頭がいい」とか「きまりに厳しい」とか、そんなことを書いてたのだろう。僕は、たしかこんなことを記入した。「普通の人」「数ある職業の一つ」。


それから何年かたち、僕も大学に進学していた。その時、僕は教職課程をとろうかどうか迷っていた。選択を前に、背中を一押ししてくれた高校時代の恩師の一言があった。

「ふつうの人たちを教えるんだから、ふつうの人で十分だ」

「教師って、いろいろ大変じゃないですか。人を教えないといけないし、聖職者と言われて理想を求められたりするし…」

たぶんそんなことを言って僕は相談したんだと思う。「そんなことはない」とことわって、しごく当たり前の一言を言ってくれた。そうだ、まさにそれを地でいく家庭のなかで僕は育っていたのに、何を悩んでいたのだろう。

まあ、結局教員にならなかったんだから、どっちでもよかったんだけどね。

ちなみにいま務めているネットワークエンジニアという職も、教師と同じくらいの大変さ(と気楽さ)はあると思う。児童は言うこと聞かないかもしれないが、ルーターやスイッチだってちゃんと設定したつもりなのに動いてくれないし…。職業に貴賤なしというものである。


それにしても、タンブルドア校長の態度には懸念を抱く。これでいいのか魔法公務員…。

といって、まあ彼に限ったことではなく、特定の生徒を目の敵にしたり、イタチに変身させてもてあそんだり、悪い魔法使いに監禁されていたり、およそあるべき学校の運営とは外れる路線の先生たちばかりだから、校長もこんなんでいいのかもしれないけど。日本じゃやっていけんよ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 31, 2005

男たちの大和/YAMATO

■嘉永七年 大和、ペリー艦隊を撃滅す

昭和20(1945)年4月、沖縄戦への水上特攻部隊として決死の覚悟で出航した戦艦大和と3,333名の将兵たち。しかし、突如時空の嵐に呑まれタイムスリップしてしまう。行き着いた先は、嘉永7(1854)年6月、伊豆・下田沖。戦艦大和の目前にあったのは、幕府と日米和親条約の交渉を進めるペリー艦隊の姿だった。

おのれ鬼畜米英!! 黒船艦隊に、大和の主砲が火を噴く。ドドーン。黒船は木っ端みじん、海のもずくと化して沈んだ。幕府を恫喝し、屈辱的な形で国を開かせようとしていた脅威は、ここに消滅した。歓喜にむせぶ幕府の役人たち。その後の歴史を知る大和の将兵たちは日本に上陸、幕政の改革と開国、公武合体を推進する。やがて幾多の動乱を経て、将軍の地位を改組した“大君”(たいくん)を元首に戴く近代国家が日本列島に誕生する…。


zipang_coverと、そんな愚にもつかない漫画のストーリーをつらつら考えてみたことがある。見る人が見ればわかると思うけれど、これはもちろんかわぐちかいじ氏の漫画「ジパング」の壮大なパロディである。
2000年から週刊モーニングにて連載が開始されたコミック。太平洋戦争のただなかにタイムスリップしてしまったイージス艦乗組員たちの運命を描いた作品で、現在も連載中だ。

200X年、南米エクアドルでの争乱に対処するため出航したイージス艦「みらい」。突如として1942年6月、ミッドウェー海戦周辺の海域にタイムスリップしてしまう。そして主人公の自衛官・角松は漂流していた海軍将校・草加拓海を助ける。みらいが60年後の世界から来たこと、この戦争が無惨な敗戦に終わることを知った草加は、自分の理想を実現させるために動き始める。
zipang_mangaその理想とは、「なんの策も無いまま戦争の泥沼にはまり込んでしまった大日本帝国でもなく」「無条件降伏という屈辱から始まる戦後日本でもない」、全く新しい国家を作ること。最初は時代の傍観者たらんとしたみらいも、そのための戦いに巻き込まれていく——。


さすが「沈黙の艦隊」の作者、時代を先取りするのに敏といえる内容である。かつての「沈黙の艦隊」が、かたや自衛隊は違憲という党派が存在し、一方で冷戦が終結し国際貢献を迫られる90年代初頭の時代の空気を感じ取り、どちらにも与しない全く新しい形での安全保障を描いた傑作であった。
そしてタカ派の政治家が台頭し、戦後の見直しが唱えられ始めた2000年代には、「ジパング」である。この戦後体制が生んだ自衛隊を、それ以前の時代に持ち込んで歴史のやりなおしのために奮闘させる。うまい、実にうまいねえ。

それにしても、タイムスリップするのはなぜ自衛隊ばかりなのだろうか。漫画「ジパング」の前には、半村良原作で映画化もされた「戦国自衛隊」という作品があった。これはタイトルの通り、陸上自衛隊が戦国時代に紛れ込んで戦国大名たちと合戦するというもの(映画では設定が変更されているけど、原作では自衛隊が実は織田信長の役回りを演じていたというオチが、最後に明かされる)。

しかし現代の自衛隊が過去に行くばかりではなく、別のモノがさらに過去に行ってもかまわないではないか。ということでジパングのコミックのページをめくりながら思いついたのが、連合艦隊を幕末にタイムスリップさせるという案。いささか閉塞状況が漂う平成のこの時代に、戦後体制ができる直前から歴史をやりなおせたらという発想が出てくるなら、敗色迫る大戦末期の将官たちは、明治国家ができるところからやりなおしたいという思いにきっとかられるのではないか?

ということで、大和とペリー艦隊が戦うシーンを想像してみたわけだ。この漫画のタイトルは既に決めてあって「タイクーン」(Tycoon)という。しかし残念ながら僕には画才がなく、いまのところこの漫画は僕の脳内にしかない。こんな時、ドラえもんの秘密道具で出てきた「漫画製造箱」があるといいなあ、とつくづく思う。


■うわっ なんだこの男臭さは

2005年の大みそか。愛知県への帰省中にMOVIX三好で観た映画は、「男たちの大和/YAMATO」。戦後60年という節目の年の幕引きに、ふさわしい選択と言えようか。


 

 (写真は、goo映画のサイトの画像にリンク http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7954/index.html


この映画は大作なんだろうけど、タイトルどうにかならんものなのかね、と個人的には思う。“男たちの”大和…。いかにも女子供を遠ざけそうなタイトルである。まあ、原作の題名がそうだからと言われればそれまでだけど。とはいえ太平洋戦争モノということで、ミリオタとかちょっとウヨな人が集いそうなイメージ、ただでさえ敬遠されそうじゃありませんか。そこに加えわるこの男臭さ。観衆を限定してしまう気がする。

正直なところ、僕も当初は観るつもりではなかった。パスしようと思っていた。そしたら富山に住むメル友から、「意外に面白かったですよ」という感想が届いたので、じゃあ観てもよいかなあ、と思いを改めたのだ。それでも忙しかったら観なかったんだけど、幸か不幸か大みそかの夜は暇で、だからといって「ハリー・ポッター」でハラハラドキドキしたい気分でもなく、「SAYURI」で勘違いされたニッポンの姿を観るのもどうかなあという心境だったのだ。そんな理由での「男たちの大和/YAMATO」なのである。


鑑賞しての感想…。中村獅童がカッコよすぎる。なんじゃこのクドいほどのカッコつけたがりは、と思ってしまった。

僕が中村獅童という役者を知ったのは、実は映画「いま、会いに行きます」だ。だから、この人はおどおどして頭悪くてそれでも誠実さのあるキャラ、という印象が根付いてしまった。ところが、その後観たドラマや映画では、全然違う役を演じている。そのたびに僕の脳内イメージを修正するのにやや手間がかかる。

この映画の中村獅童は無頼漢で、侠気がある下士官を演じているのだが、もうひたすらええカッコばかりだね。「入院していれば助かるのになんでわざわざ大和に戻ってきたんだ!!」と仲間に問われ、ニヤッと笑ってキザなセリフを答えたりとか(表情は覚えているけどセリフは忘れた)。もう万事が万事こんなんだから、中村獅童のふるまいしか覚えていなくて、他にどんな役者が大和に乗っていたのか忘れてしまったヨ。

大和の最後の航海については、去年なんとなくつけていたテレビがNHKで、「その時歴史が動いた」のアンコール放送「戦艦大和沈没~大鑑巨砲主義の悲劇」を放映していた。それを観たところだった。

その番組は非常によくできていて、沖縄戦出撃の最後の航海の最中、こんなふうに攻撃を受けて沈んでしまったということをCGで再現し、時系列で説明してくれてた。戦闘中は混乱していただろうに、ふーん、ここまでわかっているなんてすげーな、と僕は感嘆した。そして、生き残った人へのインタビューを聞きながら涙し、つくづくいまの平和な時代に生まれてよかったとの思いを新たにしたのである。

映画の後半。その番組の説明をなぞるかのように大和が攻撃を受け、沈んでいく。もっともNHKの番組みたいに詳しく解説してくれたわけではない(もっぱら中村獅童の奮闘がメイン)。「その時歴史が動いた」はDVD化もされているようなので、この映画を観る人はあわせて観るとよいと思う。フムフム、そうだったのかとかぁなり納得できるよ。


■夢想せん、誇り高き大君の国

その「その時歴史が動いた」やこの映画のなかでも登場するのだけど、大和の最後を描いた作品には、必ず描かれるシーンがある。敗れて死ぬことが自明の航海に赴く士官たちが、この戦いの意義は何だと自問し、そしてある学徒出陣士官が言葉を放つ。もともとは吉田満著「戦艦大和ノ最期」にあるものだ。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。 日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、 真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。 今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」

いかにもドラマみたいなこのセリフを、実際の戦場で口にした将校がいるという。潔く死を覚悟した言葉だけに、戦後を生きる僕らのハートにズキンと響く。もし、こんな言葉を口にする彼らが歴史のやりなおしを行う権利を得たとすれば、いったいどんなグランドデザインを描こうとするだろう。僕のなかに抱えた思いが、冒頭に紹介したような着想につながっていった。

主体的に改革を起こして開国と文明開化をはかり、産業を興して国を富ませ、しかしそれでいてこの列島の外に決して覇権を求めようとしない誇り高き大君の国…。そんな夢想の国家が僕の脳裏に宿ったのである。


さようなら、2005年。

 

 

| | Comments (0) | TrackBack (1)

December 24, 2005

キングコング

最近の生活記録と雑感を3つほど。

まずその1。

先日、職場で忘年会の幹事を務めた。というか、誰もやりそうにないので僕が手を挙げたというのが正直なところかもしれない。僕自身は、あまり幹事向きの性格だと思えないけど、といってそれほどそういう役回りを嫌とも思わない人間なので、こうして時折職場の宴会の幹事を務めることがある。

bonenkaiそれで今回幹事はソツなくこなし、場としてもそこそこ盛り上がって終わったのでよかったんだけど、一つ愕然としたことがある。それは、この宴席の光景だ。どういうことかというと…。男だ。男しかいない。
僕が勤めているのはぜんぶで20余名程度の職場なんだけど、女性でいた派遣社員の人の契約が切れてしまったり、他の社員の人も体調がよろしくないなどで、いろいろな事情が重なってなんと男性ばかりがずらりと並ぶ光景が出現した。

なんだよ、この理系みたいな環境は、と思うのだけど、実際理系の職場なのだからしかたがない。しかしなあ。
いま僕は自分史上最大の、男の比率の高い環境に身を置いている。こういう場面に遭遇するにつけ、つくづく遠くへ来てしまったもんだと思う。思い出せばむかしはこうではなかった。
高校では文系クラスに身を置き、大学は文学部だった。女性のほうが多い環境が当たり前だった。なのに、なのにだよ。まず会社に入ってみたら、同期を見渡すと学部の頃に比べて男女の比率が逆転していた。次に、僕は技術系の職場に配属になった。女性の比率ががくんと減った。さらに組織変更が繰り返されるたびに女性は減っていき、気づけば男しかいない状況がマジリアルになった。

とはいえ、過去女性が多い環境に僕が身を置いてきたからといって、そのなかで僕がもてたという記憶は全くないんだろうな。むしろそんな環境でいかに女性の反感を買わないようにするかに苦心した。その結果、“いいお友達”としての男性を演じるのが得意になって、すっかりスポイルされてしまった。別の意味でもてない男に落ちぶれてしまったわけで、女性ばかりの環境というのは、僕にとって諸刃の刃だと思う。
でも、たとえそうでも青春の多感な時期に身を置いた僕は、そんな環境が性に合っているのだ。それが僕にとっての自然であり、心がなごむのだ。ホント、とんでもなく遠くにきたもんだと思う。誰か僕を戻しておくれ。


xmaspartyその2。クリスマスイブイブの祝日に、先輩の家のクリスマスパーティーに招かれた。毎年開かれてむかしの職場の仲間たちが参加し、すっかり恒例行事になっているものだ。

車で到着すると、家には既にファミリーが何組か来ていた。子供たちの合計はなんと7、8人にもおよぶ。自ずと彼ら彼女らの遊び相手を務めることになった。幼子たちの輪のなかに入っていく。
「ようし、おじちゃんも遊ばせてよ…」。
きゃっきゃと逃げ回る子供たちを追っかけたり、追いかけられたり、時には蹴りを入れられたり(子供とはいえ痛いよ…)。そんなことをしていると、むかしお正月に親戚の集まる場で、こんなふうにおじさんに遊んでもらうのが楽しかったなあ、なあんて思い出す。

そしていまは、僕がおじさんだ。子供たちの前で、今年は自分を臆面なくおじさんと呼ぶことができる。僕はおじさん。
そう独身であるとはいえ、早くも三十代の身なのだ。人間たるもの年相応の適切なふるまいをとるべきとすれば、その一つが子供の前でおじさんを名乗ることなのだと思う。

僕が抵抗なくおじさんを口にすることができるのは、夏の終わりに観たある映画の影響が大きい。

8月のクリスマス」だ。この映画のなかで主役の山崎まさよし34歳は、共演する関めぐみを相手に、一人称として「おじさんはね…」と語りかけていた。そこで気づかされたのだ。34歳はおじさんなら、1つ下の僕だって同類なのだ。
それがまがいもない現実だとすれば、ならばせめて映画のなかの山崎まさよしのようにストイックで含蓄のあるおじさんを目指そうと思う。映画の写真屋さんのような包容力ある人物を演じられるといいのだが、残念ながら僕には包容力というものがきわめて乏しい。ならば、その辺りは代わりのもので充当しよう。ウンチクとか知性とか、進んで幹事を引き受けるとか、そういったもので。うん。


その3。クリスマスイブに鑑賞した映画の話。ようやくむびろぐの本題である。

例によって暇つぶしに映画を観に行こうとして映画館のタイトルを眺めたら、僕の趣味に合いそうな作品が3つしかなかった。「キングコング」と「SAYURI」と、「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」。映画のタイムテーブルを見て、思わずむむむと考えてしまう。どれも3時間くらいある作品なのだ。

最近思うのだけど、映画に3時間かけるとなるとかなりの覚悟が必要だ。たとえばたまたま忙しくて睡眠不足の週があったとして、そんな折に3時間もの映画を観ると絶対途中で寝てしまう。体調不良の時に観れば、その時間に腰掛けているのが苦痛になってくるし、思いっきり咳やくしゃみをしたくなるタイミングもめぐってくる。いまさら言うまでもないことないかもしれないけど、3時間作品を観るには心身ともに健やかであることが求められるのだ。うかつに観に行くことはできない。

それなのに、観たい映画3本が3本とも3時間越えるのってどうよ、という気がした。それでも3本とも観に行きたいという思いがあるので、手始めに最も頭を使わなくても済みそうな作品として、「キングコング」を鑑賞に赴いたのであった。世間的には3連休の中日、クリスマスイブの日のレイトショーだった。イブということもあってか、劇場はわりと空いていた。

これがなかなか馬鹿にできない冒険活劇映画であった。3時間もあるので出だしはやや冗長で、始まってからキングコングが実際に登場するまでの時間がやたら長い。しかもだまされて船に乗り込むことになる脚本家役の俳優が、甘いマスクのエイドリアン・ブロディということで相当の違和感を抱く。おいおい、怪獣映画に戦場のピアニストか!?

しばらくおんぼろ船でのタイタニックみたいな内容が続くのだが、船が髑髏島についてから話は急転する。いきなりプレデターおたくっぽい原住民が襲ってきたかと思いきや、美女(ナオミ・ワッツ)はさらわれてキングコングに差し出される(これは定番)。その後突如としてジュラシックパークになり、さらにはスターシップ・トゥルーパーズのような蟲、蟲、蟲の場面を見せたりして、そしてキングコングは生け捕りにされてニューヨークに運ばれてしまう。その後コングが逃げ出して、美女と野獣のようなシーンを一瞬見せつつその後は、エンパイアステートビルのてっぺんに登っての例のあのシーンが繰り広げられる。

で肝心のエイドリアン・ブロディなのだが…はじめはもしかしてこの人チョイ役!?と思って眺めていたけど、いやいやちゃんと彼にふさわしい舞台が与えられていたんだね。髑髏島ではナオミ・ワッツを助け出すために恐竜に追っかけられたり蟲に食われかけたりしながら大活躍である。ピアニスト以外の役を初めて見たから正直意外な気もするんだけど…やっぱり、どちらかというとニューヨークに戻っての脚本家姿のほうがサマになっているよね。彼はやはり芸術家とか、知性的な人物を演じるのが似合う人だ。

そしてラストシーンが問題なんだよ。気づくと、いつの間にかコングに感情移入してしまっている自分に気づくんだよ。おおお、たかだか巨大ゴリラの怪獣映画だと思って観ていたのに、これはどうしたことか。婦女子あたりだったら思わず泣いちゃいそうな、そんなエンディングなんだよ。いや、なかなか馬鹿にできないストーリーだなと思った次第。
1930年代初頭が物語の設定なので、全編に渡って当時の風景が再現されていて、レトロな感じに魅入ってしまう。そういう映像を眺めているだけでもそれなりに楽しくなる。そんなビジュアルな面での醍醐味もあって、怪獣に冒険に、ユーモアそしてロマンスと、相当にカネを費やした豪華てんこもり映画であった。観終わると、ちょっとお腹一杯な感じ。

まあ、真冬なのにかなり薄着で高層ビルの屋上に連れて行かれるナオミ・ワッツの姿に風邪ひかないのか心配になったり、ティラノサウルスやらブロントサウルスなど他に恐竜がたくさんいるのに(かなりすごいことだと思うんだけど…)それには目もくれず巨大ゴリラの生け捕りにこだわるのはなぜ?とか、突っ込みどころもいっぱいあるんだけどね。


痛快娯楽映画を観てかなり満足な気分に浸る。そして一人帰って酒飲んで寝る、クリスマスイブの夜であった。


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 17, 2005

ロード・オブ・ウォー

tree9月の総選挙に地元・岐阜の選挙区で民主党から出馬して落選した大学時代の後輩、熊谷君。
僕も選挙期間中は短い間だけど事務所に駆けつけて少し作業を手伝った(その時のブログ)。その彼が昨日、東京に出てきたというので学生時代の仲間で集まることになった。

3年前まではエリート銀行マンだったのに、辞めて選挙に出て、結果は自民党大物候補に大差をつけられて惨敗。そして3ヵ月たったいま何をしているかというと、無職でNEET状態だという。それじゃ逆杉村太蔵だよ…。
まあ、それでもあくまで前向きなのが彼の彼たるゆえん。僕がリスペクトするところだ。


右上の写真はそれとは全く関係ないんだけど、今週仕事で訪れた新宿・初台の東京オペラシティにて飾られていたクリスマスツリー。今年も僕個人は独り身で終わることになりそうだけど(がんばったつもりだけどなあ…反省会しなきゃ)、ただ一人で歩いていても、このシーズンの街は綺麗でいいよね。

熊谷君や、彼を支える人たちや、そしてなにより僕自身にも幸あれ。


さて、今日見た映画は、ロード・オブ・ウォー。この17日から公開が始まった作品だ。
ニコラス・ケイジが主演で、世界のさまざまな紛争の舞台裏で暗躍する武器商人の生き様を描いた作品だ。川崎のチネチッタで鑑賞する。レイトショーではあるが、公開初日ということもあってか座席はけっこうな混雑。ほぼ満席の状態だった。

これがなかなか、僕にとっては面白かった。それは、僕がもともとNEWSWEEKを購読したり、NHKBSの海外ニュースを観たり、国際政治の動向を垣間見るのが嫌いじゃないからかもしれないけど。

でも、「世界には5億5000万丁の銃がある。ざっと12人に1丁の計算だ。めざすは…“1人1丁”」という出だしから関心をぐぐっとそそられるし、いかにも悪人キャラの男優じゃなくあえて優男系のニコラス・ケイジを主役に据えたのも成功していると思うし、その主人公ユーリーと対照的に、悪事に染まりきれず麻薬に走り最後は自滅してしまう弟ヴィタリーの人生に涙するとか、ストーリーとして引き込まれる要素に満ちていると思う。同じ時期に公開されている「ハリーポッター」ほど万人受けするものではないが、けっしてマニアックな作品ではないよ。

ということでオススメします。クリスマスデートにぜひカップルで見て、世界の平和に思いを馳せよう。あ、言っておくけど決してシリアスな作品ではないです。深刻なストーリーが嫌いな人でも十分楽しめる、ライトな映画ですので。

…ところで。どうでもいいけど、数年前にクリスマスイブに一人で横浜・関内の映画館に行ったことがあるけど、カップルで一杯だった。その時観た映画のタイトルは「バトル・ロワイヤル」だったんだけどね。そんなことを思い返し、考えるに、イブに中学生同士の殺し合いの映画観るよりは、こちらの映画のほうがセンスよい選択になると考える次第である。


鑑賞し終わって思わず、朝日新聞の連載をまとめた書籍である「カラシニコフ」を読みたくなる。この本を僕は昨年の秋に買い求めて、最初のほうに目を通しただけで読了していなかった。AK47の開発者がまだ生きていて、その本人にインタビューしているということで、一部で話題を読んだ書ではある。ちょうどよいきっかけなので、本棚から取り出してまた読み進めてみるとするかな。
kalashnikov_cover

 カラシニコフ
 松本 仁一 (著)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022579293/<

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 10, 2005

Mr.&Mrs.スミス

saikano_coverもし、つきあい始めた恋人が、最終兵器だったら…。

そんな、ワンポイントアイデアのごとき設定で話が始まる漫画がある。高橋しんの作品「最終兵器彼女」だ。1999年頃から2001年くらいにかけて、青年向けの週刊漫画誌ビックコミックスピリッツに連載されていた。その後、OVA作品としてアニメ化もされている。

なかなか面白い着想だよな、とこの漫画のタイトルを目にして、僕は感嘆した。なるほど、恋人のことってわからないもんな。一緒に過ごしていない時間、いったい相手は何をしているものなのか。不安でしかたがないだろう。
もしかしてもしかすると、彼女が遠い国に出かけていて戦争しているなんてことだってありうるかもしれない…。

saikano_1主人公のシュウジは、友人と買い物に出かけた札幌の街で、突如として起こった未知の空襲に巻き込まれる。 空中を舞い、敵機を撃墜して地上に降り立ったのは…。
「ち…せ…」
「ごめんねシュウちゃん…私、兵器になっちゃった」。
焼け跡となった街角で、恋人・ちせの変わり果てた姿を目にする主人公。…うーん、うまいよねえ。

saikano_2この漫画(ファンの間ではサイカノと略されるらしい)は、彼女が最終兵器という、まさかのワンポイントアイデアから始まっているにも関わらず、意外にも重厚な内容へと話が展開する。連載が始まった当初は、“ふーん、「いいひと。」の作者が、こんな話も書くんだなあ。きっとヒット作の後の軽い気分転換なんだろうな”と思ったけど。そんな中途半端な作品ではなかった。

ストーリーとしては、若い二人の恋愛模様(思春期の頃、描かれるような経験を実際にした御仁も多いと思われる。キュンとしちゃうよね…僕にはなかったけど(><) )と、戦争とは何か、生命の生き延びようとする意思とは…といったことが織り交ぜられて進行していく。最初は軽妙にスタートするのだけど、途中から話が次第に重くなる。全巻を読み終えた時には思わず呆然として、日常に復帰するのにしばしの時間を要するほどだ。


つきあっている恋人同士で相手のことがわからず、彼女が最終兵器かもしれないという不安を抱いてしまう。
では、籍を入れて同じ屋根の下に暮らす夫婦ならどうかというと、やはりそこは変わらないようだ(僕自身は結婚生活というのも経験していないからよく想像できないけど、周囲の話を聞くと夫婦間の理解というのはそれなりに大変なものらしい)。
だから、夫が、妻が、もしかすると殺し屋だってことがあっても不思議ではない—。

今回観た「Mr.&Mrs.スミス」はそんなワンポイントアイデアで作られたハリウッド映画。そしてワンポイントアイデアのままストーリーが終わるので、気楽に観ていられる。まあ、世界中で万人にヒットする映画としては、こんなふうに仕立てればよいのだろう、という感じ。

殺し屋同士の夫婦喧嘩、さぞかし騒然としたものになろう。はい、その通りです。
二人の戦場に選ばれるのはややハイソな一戸建て住宅のキッチンであったり、郊外型の巨大なスーパーマーケットであったり、劇中のテレビ番組ではマーサ・スチュワートのニュースが流れていたり、日常の光景のなかで非日常を描き出しているのはちょっと楽しいかもね。

教訓もテーマも何もない映画が、2時間の暇つぶしとしては、よい作品でしょう。ただ、共演しているブラッド・ピッドアンジェリーナ・ジョリーがこの映画を機に交際しているなんて噂を知ると、スクリーンを眺めていてちょっとムカつくかもしれないけどね。なんだよ、あの来日時の記者会見は。ああ、俺もつくづくブラピに生まれたかったよ。そうすれば…(以下略)。

おっと、ゴホゴホ…。そんな映画を観て思わず連想の対象としたのが、上で紹介した「最終兵器彼女」のわけだが、結局設定が一見似ているように思えても、全く非なる作品なんだよね、この2つは。つくづく。


アニメ「機動戦士ガンダム」によくある評価として、現実の戦争を知らない僕らの世代に、戦争のリアルを知らしめてくれた、というコメントがあるよね。
そういう意見を言う人を具体的に挙げると、作家の福井晴敏さんだけど。たしかに、「機動戦士ガンダム」の作品世界は第二次世界大戦に代表されるような旧来の戦争の影響を強く受けて成立していると思う。
ただ、ふと僕は思う。これからの世代に戦争と平和を考えさせるとしたら、アニメや漫画がその役割を果たしうるとしたら(それが果たせると必ずしも僕は思っているわけではないが)、むしろこの「最終兵器彼女」のほうがよいのではないかと。

戦争とは、兵士が、新兵器が物理的に戦闘を繰り広げる戦場のみにあるのではない。
平和な生活を送っていると思い込んでいたのに、ある日突然周囲の状況が転換する。最初は遠いところで起こっていたはずのそれが、そろりと日常のなかに侵入してくる。普通の人たちがそれに気づいた時には、もう事態は戻れないところに来てしまっている…。
そういうものではないだろうか。とくに9.11以降においては顕著になりつつあるこの時代の現実を象徴するストーリーとして、(その大半は9.11以前に描かれたものだけど)この「最終兵器彼女」は、非常に優れたテキストブックになるのではないかと思うのだ。うん。

たかだか漫画を、持ち上げ過ぎかな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 08, 2005

声なき声を聴け! 家が凶器になる時!!

これは、姉歯どころの騒ぎじゃないよ。

地域のケーブルテレビで放送されていた講演会の映像を部屋で一人、最後まで観てしまったのだけど、これが下手な映画やドラマよりも格段に面白かった。いや、かなりぞくぞくする内容だったと言うべきか。

僕はいま横浜市内でマンションを借りて住んでいるのだけど、この部屋ではケーブルテレビが受信できる。
全チャンネルを受信するには契約の申し込みと、STBなどが必要だ。ただ地元ケーブルテレビ会社が制作して放送しているチャンネルだけは何もせずに視聴できている。 一人暮らしでこの地域に縁の薄い僕。様々な地域情報を映し出すそのチャンネルは重宝する。

meguro_1平日の夜、珍しく残業も飲み会もなく早い時間に帰宅してテレビをつけると放送されていたのが、地元の会館で行われた講演「声なき声を聴け! 家が凶器になる時!!」。
タイトルから容易に想像できるように地震をテーマにしたもので、東京大学で都市被害軽減工学を専門とする目黒教授という人が講師だった。

なんとなく見始めたわりには、これが目からうろこの内容だった。

阪神大震災の死者の約92パーセントは、地震発生から15分以内に亡くなっている。つまり、建物の倒壊によるものだった。

防災の本質とは何より人が死なないようにすること。 よく、災害現場では避難所の環境の問題などが報道されるが、それは命あってのこと。死んでしまったものの声は届かない。まず生き延びることだ。
死者を減らすには、具体的に建物が倒れないよう、家具の下敷きにならないよう、直接の対策を打たなければ意味がない。

meguro_2新耐震基準が導入された以後の建物は、阪神大震災でも倒れにくかったという。
耐震基準が改められたのは1981年。それ以前の建物は、全国に1,000〜1,200万棟あると言われている。

そのスライドを見て、僕は息をのむ。

もちろん新耐震基準を満たさないからといって、全ての建物が倒壊するわけではないだろう。きっとその何割かは問題なく持ちこたえてくれるのであろうが。おそらくは。
ただ、そこに保証はない。確率、もっというと運不運の問題ということになる。いまの住まいは、同僚たちの社宅は、田舎の実家は大丈夫なのだろうか?

時あたかも、姉歯建築士が計算書を偽造して設計したマンションやホテルのニュースがテレビや新聞をにぎわしている。
突然の事態に戸惑う住民への説明会の模様、営業中止になったホテル…。ニュースの映像を見ていると、同情をさそうものだ。これが大きな経済犯罪であることは間違いない。

しかし。そもそもこの国では、そんな騒ぎとはべつに、何千万の人たちが建築基準上問題のある建物に住み続けているのだ。
それらの建物は、いま渦中にあるマンション問題と打って変わって、建て替えをめぐって騒動になることはない。その危険が国会で取り上げられることもなく、自治体がそこに住まう人びとに引越しの勧告を出すこともない。

人びとはそこで生活を営み、建物は静かにずっとたたずんでいる。
これまでも、これからも。

その事態がリアルになる時まで。

首都圏直下型地震が、今後30年以内に起こる確率は70パーセント。東海・東南海地震は80パーセント。

起こってしまった時に、それは…。

ああ、おそがいことだがや。
ホント、下手なホラー映画よりもスリリングを感じる放送だったよ。

※mixiの日記に掲載したものを再掲しました。
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=57781703&owner_id=155401

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 27, 2005

ALWAYS 三丁目の夕日

僕は、昭和の最後の16年間ばかりを自分の人生として体験している。
愛知県の実家にいた当時。振り返ると僕の頭をとらえて離れなかった不安があった。

核戦争の恐怖。

その頃、世界はまだ冷戦のさなかだった。米国とソ連という二つの超大国が、覇権を競い世界を何度も破滅に追い込めるほどの核弾頭を保有して対立していた。

核戦争後の地球」「ザ・デイ・アフター」「風が吹くとき」…核戦争をテーマにしたテレビ番組や映画が何本も作られた。TVで放映されるそうした番組を目にするたびに僕は夜、寝らなくなり、翌日の教室は人類滅亡の話題で騒然となった。1999年7の月に空から恐怖の大魔王が降ってくるというノストラダムスの大予言は、核ミサイルの飛来を示していると信じて疑わなかった。

実際、ソ連の核弾頭のいくつかは、日本にも向けられるとされていた。その標的の一つとされていたのが、通称・刈谷の鉄塔。 米軍の無線通信設備であった依佐美送信所のことだ。
核戦争になったら、この平和な西三河に広がる田園や家々や学校は焼かれ、空にはキノコ雲が舞い上がり、放射線と火傷にやられてみんな死んでしまうのだ。みんな「はだしのゲン」の登場人物みたいな姿になってしまうのだ。

その光景を脳裏に浮かべて僕は戦慄した。そして信じられなかった。この状況の下で、大人たちはどうしてみんな安穏と生活を営んでいられるのだ?

シュールだった。あまりにもシュールな時代だった。庶民のレベルでは表面的には安穏と生活を営んでいたように見えつつも、あの時代のあの状況は多くの思想や文学、芸術に深い刻印を残していったのはたしかだ。
だいたい当時、僕が空き時間を使って帳面に描いていた漫画にも(実際には漫画というレベルになく、ストーリー性を持った落書きといった程度のものだが)、狂った米ソの首脳が核ミサイルのボタンを押し、名古屋や東京や、世界の各地にキノコ雲が上がるというオチが頻繁に盛り込まれたものだ。


それに比べて、よい時代になったものだと思う。

僕が高校生になった頃、日本では昭和がまさに終わろうとしていた時だったけど、冷戦が終結した。
米ソの首脳が握手をして核弾頭を削減する条約に署名し、東欧の国家が民主化され、ベルリンの壁が打ち壊された。ブラウン管に映るそれらの光景に、僕は感動していた。
世界は一瞬のうちに、変わってしまうことがあるのだ。しかも、よい方向へと。

あれから20年近くがたつ。
大国はいまだに核兵器を手放していないが、全面核戦争が起こるとは到底思えない。テロの心配はあるけれど、そうしたことに個人が巻き込まれるかどうかは運不運、確率の問題だろう。近隣の国ぐにとの関係悪化とか、環境問題とか、深刻な問題は横たわっているけれど、だからといって今日明日にみんなひどい目に遭うといった火急の事態にはならないだろう。

人類が、その愚かさで自らの文明の存続にトドメをさしかねない時代はもはや過ぎ去ったのだ。本当に、いい時代になったものだ。


11月27日に、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を鑑賞する。
昭和33年の東京を再現しているということで、その映像が話題になっている作品だ。

kureyon_5こんな映画が話題になる時代に僕が言いたいことは、“前を見てイ㌔”ということに尽きる。
で、そのことについてはかつて映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」の感想のところで述べた(その時のブログ」)。

その繰り返しにもなるのだけれど、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」は、本当に素晴らしい映画だった。この作品では5年前に既に、20世紀のノスタルジーに虜になる大人たちの姿を描いている。そしてそれだけでなく、力強い明日へのメッセージをしんちゃんに託して言わせている。「オラたちはどうなってしまうのさ〜」と。

われわれはしんちゃんたちの世代と、21世紀を生きるしかないのだ。
ALWAYS 三丁目の夕日」は、それが公開されるはるか前に、そのヒットする状況を風刺し、その独善的な論理を看破する作品が作られていた。みんな「クレヨンしんちゃん」を見て目を覚ませ。

だいたい、その時代、貧乏のなかの善意があったかもしれないけど、いっぽうで矛盾にも満ちた時代でもあった。庶民の生活の手の届かないところで米ソの対立があり、核戦争の恐怖が世界を覆っていたことは(ICBMはまだなかったかもしれないけど)上で書いた通りだ。
だから、あの時代がアプリオリによきものだったとしてとらえるのは、どうかと思う。

それに僕らはこれから、21世紀をよいものにしていかなければならない。そのモデルは過去にはない。たしかにエアカーも、チューブを走る高速列車も実現していないけれど、いまははるかにいい時代だ。それを生かさずしてどうする?

前を見てイ㌔。


と、そういう決意表明はこれで置いておくと。映画はそれなりに面白かったね。なによりこの映像は一見の価値はあることは間違いないから、鑑賞して損はないと思う。
登場人物が全て善人であるという設定には「そんなことありえね〜」との思いが頭をよぎるけど、原作が「三丁目の夕日」だからそこはいいのだ。

あと、青森育ちの純情娘にふんした堀北真希がかわいい。いままで都会の高校生役が多かったと思うけど(「ケータイ刑事銭形舞」とか)、ちょっとイメージが変わった。萌え…。
と言うていたところ職場ではまた、「誰それ?」って聞かれたんだけど。いまフジフィルムのお店で、晴れ着姿の等身大ポスターで写真年賀状の宣伝している女のコですヨ!

 horikita

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 26, 2005

ブラザーズ・グリム

●珍妙なる体験

ドクター中松フライングシューズを履いてみた。

 jumping_shoes

えーと、勤労感謝の日に知人のお宅にお呼ばれに預かり、西東京市まで車を走らせてきた。僕と同じく西三河出身の奥さんの手によるキムチ鍋にしばし舌鼓を打ち、3歳の娘さんと楽しく戯れる。

で、その知人なぜかドクター中松フライングシューズを所有しているという。彼の独身時代に購入したものらしいのだが、ベランダに放置されていたそのシロモノを、話の流れで実際に履いてみることに…。

知人自身ももう5年以上これでジャンプしていないらしく、足を通すと次々とプラスティック部品が欠損していく。なんとか装着完了! …不安定な足場にふらつく。

で、ピョンピョンと飛び跳ねてみたいところだけど、僕が履き慣れないためか、あるいは古くなってバネが弱まっているのかあまり跳ねない。
どうにかこうにか、マンションのベランダを走ってみる。

 jumping_shoes_2

本当は時速40キロメートルで走れるものらしいが…。
それにしても、ここでもしどこかの住戸のドアが開き、住民が出てきたら僕の人生はどうなってしまうのであろうか。

ドクター中松フライングシューズを履くのは、僕にとってこの日が人生最初で最後の体験になると思う。たぶん。


●久々に洋画を鑑賞する

というところで、事実は映画より珍妙なり、と言える体験をしたのだが、その後に鑑賞した映画は、「ブラザーズ・グリム」。これもまた珍妙なるストーリーの映画であった。

鑑賞したのは11月26日の土曜日。
久しぶりにレイトショーに足を運んだ。そういえば、今月は、なんだかずっと映画を鑑賞していなかったなあ。といっても、観たいと思わせる映画が少なかったわけでは決してない。むしろ、11月には気になる作品がかなり多かった。

昭和33年の東京を再現した映像が話題の「ALWAYS 三丁目の夕日」とか、ガンダムオタクにとって必見になっている「機動戦士ZガンダムII 恋人たち」とか(僕は必ずしもガンダムファンではないのだが)、昨年のNHKの朝の連ドラ「天花」のヒロインでかなりひどい演技を見せていたnon-no出身のモデル・藤澤恵麻初主演映画の「奇談」とか(はたして恵麻はその後、芸がちっとはうまくなったのか?)とか。数え上げればことかなないほどある。
こんなにあるんだけど、他の予定が入ったりして、なかなか映画館に足が向かわなかったんだよね。

この日も上記のいずれかを観ようと思ったのだけど、上映館と時間がどれもあわず、さほど優先度は高くなかった「ブラザーズ・グリム」を観ることにした。
2時間の上映時間を経験した後の印象としては、僕のなかでは、そうですね、映画「タイムライン」と同じくらいのオススメ度と言えましょうか。万人に対し面白いと思わせられるかは微妙なレベルだけど、時間潰しに観るには悪くないくらいの作品といったところ。

気づけばこの映画、僕にとっては随分と久しぶりに洋画の作品になる。僕は観た映画の記録は必ずこの「むびろぐ」につけているから、ご覧のみなさんは過去のブログを探っていただければわかると思うけど…。
調べてみると、8月の「ヒトラー〜最後の12日間」以来ですか。その前は、同じ8月に「アイランド」を観ているな。

最近は邦画のほうが気になる作品が多い。ふむ、なぜだろう。これについて、また別の機会に考察してみたいところだが。


●砧公園でイスラム芸術を堪能

 setagaya_art_200511

その映画「ブラザーズ・グリム」を鑑賞した26日、日中の僕は世田谷区の砧公園を訪れていた。

公園内にある世田谷美術館で開催されている「宮殿とモスクの至宝」が気になって、車を走らせ環状8号線を北上して鑑賞に赴いたのだ。
なにせイスラム世界の芸術なんて、ふだんなかなか目にすることもないだろうし。僕は歴史系の展示でちょっとマイナーな部類に属するものは、がぜん観ておきたいという気が高まって足を運んでしまうことが多い。

この展覧会も、僕を満足させるに十分なものであった。金属細工やらガラス工芸やら絨毯やらの上に展開された、いにしえの、遠きくにぐにの芸術作品に目を見張る。

ただ思ったのは、偶像崇拝を禁じたイスラムでは、あくまでパターン化された抽象的な文様にとどまると僕は教科書的に思い込んでいたのだけど、地域や王朝によってはけっこう人物像や動物など描き込まれているんだね。
とくに、たとえばオスマン朝トルコは見事に抽象的で、一方同じ時期のサファビー朝イランのほうはそうでもなくはなやかな図像も描かれるようだけど。トルコとイランで芸術の指向性が違ったという理解をしていて正しいのだろうか? (イスラム芸術史について詳しくないので…もし間違っていたらすみません)。

そういえば、愛知万博でイラン館の入り口にモリゾーとキッコロが織り込まれたベルシャ絨毯が飾られていた。あれを目にした時は、マスコットキャラクタなんて偶像以外のなにものでもないし、イスラム的に問題ないのかしらんと思ったけど。でも、こういう歴史の文脈で理解すればいいってことなのかな。

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 20, 2005

義経

なんとなく、ではあるのだけどほぼ1年に渡って鑑賞する大河ドラマに久々にめぐりあってしまった。

「義経」である。

せっかく観ているのに、このむびろぐに書き留めずに置くのもなんだかな、と思ったので、今日ここにまとめておく。

観ているわりには、この主人公の義経を、僕はあまり好きにはなれない。
もっぱら渡哲也演じる平清盛とか、中井貴一演じる源頼朝のほうにばかり注目していた。

だいたい義経は、このドラマのなかで時折「新しき国をめざす」と言うのだけど、口先で理念だけ言っているだけで、実現のための努力を何らしていない。現実を顧みず理想を言うだけなら誰にだってできる。それは、究極の野党のスタンスだ。

それに比べて、鎌倉に幕府を築き上げようとしている頼朝の、なんとも重みのあることか、
そう。僕は元来、義経より頼朝が好きな人間なのだ。これは7年間、頼朝のお膝元である鎌倉市内に住んでいたことも大きいんだろうけど。より重い責任を背負って、新しい時代を開こうとした人物なのだ。

このドラマを観ると、そんなことを考えてしまうのだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 03, 2005

カスタムメイド10.30

僕は広島弁の女の子には、弱い。

これも古い話だけど、過去たまたま広島出身の子に恋をしたことがあった。かわいく、なかなかに魅力ある存在であった彼女はずっと広島弁を喋っていて、これにはやられてしまった。

方言の力。ま、地元にいると普通なんだろうけど、この東京にいて方言が言葉の端々に出ると、それだけで好感度がアップしてしまう。標準語の女性だったらとくに記憶に残らないんだろうけど、広島弁とセットになって淡い記憶はいつまでも心に残っているのである。

ああ、きゅんとするねえ。


さて、いまの僕は木村カエラに日々感嘆している。

テレビ神奈川で毎朝放送している音楽バラエティ「sakusaku」に、木村カエラが登場したのはもう3年くらい前のことになる。当時はセブンティーンかなんかのモデルということで登場してきた。この娘、最初は(いまもだが)ブラウン管の向こうでわりと無愛想だったんで、なんなんだこの18歳は、と思っていた。

 kaera_sakusaku
 (テレビ神奈川「sakusaku」より)

しかし、この人はなかなかたいしたもんだと最近は考えている。彼女は会話のセンスがいいのだ。頭がいい。ま、九州の県の名前を聞かれて宮城県を挙げるなど、ぶっとんだところも見せつけるが、そういう学校教育的な頭のよさではない。もっとべつの尺度での、非常に優れた感性を持っている。

僕がそんなふうに感じ始めた頃、既に彼女はモデルとしての枠を越えて活動し出しており、既にCDを出していたり、ボーダフォンのCMに登場して「カエラはメールしほうだい♪」とのたまっていたり、徐々に世間的に名が知られるようになってきていた。そこから先のブレイクは、ご存知のとおりだ。


木村カエラのような女性は正直僕の好みではないので、仮に身近にいたとしても、僕は自分からは好きにならないだろう。ただふりかえってみると、逆に僕の人生はこういうカテゴリの子に好かれることが、実は多かったような気がする。

一般の感覚の人たちの集団に混じると僕はスルメみたいなもんらしい。「おおみずは噛めば噛むほど味がでる」とよく言われる。このブログを通してしか僕を知らない人には的確に伝えられなくて申し訳なく思うけど、以前もどこかで書いたけど掛居君や取手君には決してなりきれないのが僕だ。

そんな僕の、キワモノ(電波男)的な部分を面白がって愛してくれる人が、男女を問わず折々現れる。そんな人たちのおかげで僕はここまで生きてこられたと言っても、過言ではない。

僕が出会ってきたそんな人たちのタイプに、木村カエラは似ているのだ。
いや、もちろんこれは錯覚かもしれないけど。でも、sakusakuでカエラと共演する人形キャラ、増田ジゴローや白井ヴィンセントとのトーク−ガンダムやスターウォーズ、戦国大名や三国志などのネタが多い−に相槌を打つ姿を見て僕はそう感じてしまったのだ。


前口上がずいぶんと長くなった。

sakusakuで知った木村カエラの初主演映画ということで注目。さらに予告編でカエラちゃんが女子高生の制服を着て広島弁を喋っているのを見てこれまでにない“萌え”を感じ、足を運んだ。

映画「カスタムメイド10.30」。

「歌いたいんじゃ、歌いたいんじゃ、歌いたいんじゃ〜」と叫ぶ木村カエラの姿に、僕らが知る歌手としての彼女を思わず重ねてしまうよね。

でも、映画のストーリーとしては???な内容だった。まあ、解説にあるとおり「奥田民生10.30ひとり股旅@広島市民球場LIVEのドキュメントと、広島で青春を過ごす、バンド少女のストーリーをクロスさせた青春音楽映画」の、それ以上でもそれ以下でもないわけなので、よしとしよう。

以前出張の多い仕事をしていた時に、何度か広島にも出かけたことがあった。その時訪問していた支社のビルは、広島市民球場の隣に建っていた。今回、映画のスクリーンにもちらりと映っていて、かつての仕事をしていた時のことを少し思い出した。あの時は僕もまだ若手と呼ばれる年代だったな〜。


どうでもいいけど劇中で木村カエラが手にしている携帯電話は、ボーダフォンではなくauだったヨ…。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 30, 2005

春の雪

世の中、さまざまな愛の形がある。

先日、ある公園でのんびりしていたらちょっと離れたところのベンチに、20代後半くらいのわりと整った服装をした若い女性と、50代くらいで髪の薄いスーツ姿の男性が座っていた。僕の座っていた場所とちょうど向かい合うような位置関係にいたので、自ずと二人の姿が目に入る。

ちょうど年の差から親子か、あるいは親戚同士かな、と漫然と眺めていたけど、どうも様子がおかしい。あの二人、距離が近すぎる。よく見ると手を握りあい、おじさんは女性の肩にもう片方の手を回している。そして耳元に顔を近づける。

わわ。この二人は…正面から見られない。いたたまれなくなって席を外す。はたしてどういう関係でこうなったのか知る由もないけど、夕暮れ時の公園の一角が、まさに二人の“世界の中心”になっていた。

うーん。世の中、さまざまな愛の形がある。

僕についていうと、最もよく出会う形はこんなもの。
あるところで女の子と知り合い、まあそれなりに仲良くなる。向こうも僕のことを嫌ってはいないようだし、食事や映画に誘って何回かデートもする。ウキウキ。

話ている限りでは、どうやら彼氏もいないようだ。おお。よし、ここいらで告白してみるか。
心臓をドキドキバクバクさせながら、おずおずと切り出す。「えーと、実は…」。なんとも不器用な物言いになってしまうなか、言葉を選んで精一杯気持ちを伝えるのだが。

「え!?」。

さっくり返される。

「ごめん、おおみずくんはいい友達」。

へなへな〜。なんだよそりゃあ。

こんなことが何回か続いた。
それにしても、と思う。彼氏がいないんだったら、ものは試し。とりあえずつきあってくれてもいいんじゃないだろうか。しかし、どうやらそういうものではないらしい(逆の立場になったことがないのでよくわからない)。

ということで、彼氏のいない女性に告白して、つきあってもらえない。これが僕が最も経験する愛の形なのだ。いや、それは愛じゃないぞという常識ある方々の意見も寄せられそうだけど。

ああ、いかんいかん。
こんなことを書いていると、またブログの内容がへたれになってしまうじゃないか。

世の中、さまざまな愛の形がある。

さまざまな愛の形のバリエーションとして、最近恋愛をテーマにした邦画を立続けに、いくつか観ていることになる。
殿の側室となったかつての幼なじみへの、萌える思いを胸に秘めたまま忠勤に励むお侍もいれば(蝉しぐれ)、34歳でおじさんと呼ばれつつも若い娘と恋に落ち、でも死んでしまう写真屋もいる(8月のクリスマス)。

そして今回鑑賞したものは、高貴な家柄に生まれながらもいささか屈折し、道ならぬ恋愛に足を踏み入れ破滅していく二人の姿であった。「春の雪」である。

高校時代にそれなりに読書に励んだ僕だけど、実は三島由紀夫というのは手を出していない作家の一人である。この映画は、遺作「豊饒の海」の第一部にあたるものらしいけど、そのようなわけで物語に対する予備知識はとくに持たずに鑑賞している。

ただ既に予告編は目にしていたわけで、その内容から勝手に、かなりエロエロな映画なんだろうなとは、ひそかに思っていた。この前観た「ジョゼと虎と魚たち」でもわかるように、妻夫木聡というのはあの若さでありながら、既に男のエロを演じるのに長けた役者なのだ(たぶん私生活で実践しているんだろうナ)。だから、そこを期待して観に行ったわけなんだけど…。

でも、結論からいうとエロ度はそんなに高くなかったね。まあ内容が内容だけに濡れ場というものはそれなりにあるのだが、結局竹内結子は脱がないのである。唯一出てくるヌードは、女中のものくらい。そんなあ。。

ということではあるが、愛の形のバリエーションの一つを考えるお話として、まあそれなりに楽しんだ。
そもそも本当に華族があんな字句通りの華やかな生活していたとは思えないけど、いわゆるイメージ通りの絢爛さというものを映像化しているのは、楽しい。カメラワークの綺麗な映画だよ。


それにしても仏さんの国から留学してきたのにやたら愛について語りたがるシャムの王子二人。彼らはなかなか面白いキャラであったな。ふふ。

何より忘れることはできないのは主人公・清顕の親友、本多であろう。本多、おまえはつくづくいい奴だよ。物語の冒頭で清顕にかなりひどく陥れられそうになっていながら、にもかかわらず友人として変わらずつきあって、物語の最後まで清顕に尽くして。

思うにそういう男って、どこにいるものなのだ。一見華やかなスポットを浴びる清顕と聡子、しかしこの二人が身を滅ぼすのはまさに自業自得、ひっきょう以外のなにものでもない。そして世の中は本多、おまえのようなやつこそ幸せになるべきなのだ。

本当に本多はいい人です。いい人ぶりを応援してあげてください。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

October 22, 2005

蝉しぐれ

ズルズル、クション…と。
ここんところずっと雨が降っていて気温が低かったせいか、風邪をひいてしまったよ。

週の半ばからどうも変…と思いつつもサービス残業などしていたら、いやいや、やられてしまいました。
ある日は午前中だけ会社に行って打ち合わせに出て早退したり、次の日は1日自分が出ないと回らない用事があって休めずに出社したりと、そんなふうに体のためには根本的に間違っていることをやっているうちに、休日を迎えた。

部屋でベッドに寝込みつつ、テレビでNHK BSをつけていると、海外ニュースにてヨーロッパで鳥インフルエンザが見つかっていて、ちょっとした騒ぎになっている模様を映し出したりしている。風邪でダウンしているところに鳥インフルエンザのニュースか。実にシュールだなあ。
「復活の日」でも読んでみようか。

ということで、せっかく休日を迎えたわけではあるが。
体調はよくないし、それゆえ誰とも会う予定も入れていないし、必然的にテンションは低くなる。ああ、一人暮らしってさみしいなあ〜(´ω`。) 久々に心底そう感じてしまったヨ。


部屋にこもっていても気分は塞ぐし、一応出歩けるくらいには復調しているので、とぼとぼと駅周辺をうろついてみる。

iモードで上映時間を確認して映画館に向かい、前々から観ようと考えていた「蝉しぐれ」を鑑賞する。映画館の都合か、劇場はプレミアスクリーンで、ゆったり座席にもたれて鑑賞できた。この土日唯一のラッキーといえることかな。

この映画は、けっこう萌え度が高いストーリーではないかと思って注目していたんだよね。

幼なじみの仲でお互いひきあっていた文四郎とふく。しかし、文四郎は父が謀反の罪で切腹となり、一方ふくは殿の側室となる。そして年月を経て大人になった二人(木村佳乃と市川染五郎)が対面する。封切り前に流れていた予告編では、そんな光景が映し出されていた。

とくに予告編の二人が対面するシーン、なんとも切なく胸を打つ映像なのですよ。。。

そう思って観たところ、予告編で想像していた通りの映画であった。
そしてこの二人、お互いのことを想いつつ、でもプラトニックなまま別々の人生を歩んでいくのね。ああ、キュンとするねえ。泣かせるねえ。

いい映画でした。

ただ、個人的な好みを言うと、萌えサムライ映画として比べると同じ藤沢周平原作で昨年公開されていた「隠し剣 鬼の爪」のほうが上だったかな。
あのだらしな系武士・永瀬正敏と、ピュア女中・松たか子のカップルは最高だったよな。僕にとってはやはり、“殿の側室”よりも“女中”のほうが萌え度が高いようである(端的に言えば、人妻よりメイドということだよ)。それに、あっちのラストはハッピーエンドでほんわかとした気持ちになれた。ウン。


切ない映画を見終わってまた一人。少し寒い夜の街をまたとぼとぼと歩いて、マンションに戻る。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 10, 2005

ジョゼと虎と魚たち

tsumabuki_chiduru池脇千鶴の乳房があらわになるシーンに、目が皿になる。
ううわわっ、ドキドキだなあ。

あたかも神々しい観音様を拝むかのように、思わず手を合わずにはおられんかった。というと、いささか言い過ぎだけど。


職場の飲み会で、派遣社員の女性と映画についての会話になった。ふだんはクールな彼女が機嫌よく「なかなか面白かったですよ」と紹介してくれたのがこのタイトル。
話を聞いてさっそく地元のビデオレンタル店に足を運び「ジョゼと虎と魚たち」のDVDを借りた。そして3連休の最後の日に部屋で一人、24インチのテレビ画面でこの映画を鑑賞していたわけだけど…。

いやいや。池脇千鶴チャンに、妻夫木聡クン、そして上野樹里チャンといったキャストからいって、もっと若者若者した爽快なストーリーなのかと思っていたのですよ。そしたら予想に反して、かなりエロティックな内容だったのでビックリしちゃったわけ。

tsumazuki_juriまあ、池脇千鶴のヌードを鑑賞できたのは棚からぼたもち的なインパクトだったと言えるかもしれないけど、上野樹里チャンのファーストキッスが妻夫木クンに奪われているのを見るのは、正視しがたいものがありました。あぁ。
そもそも、この時の樹里チャンは16歳くらいなはずでは…こ、これは犯罪だぁ。

ということで、この前「サマータイムマシン・ブルース」で、上野樹里・萌え度、じゃなかった好感度がアップしたのがいっきに急降下。

それにしても、妻夫木クンのエロ度はかなり高い。男として部屋に女性を連れ込んだ時、こんなふうに振る舞うんだよなあというティピカルなモデルを演じていて成功していると思う。

ああ、僕もつくづく、妻夫木聡に生まれたかったよ(なんだか毎度言っているけど)。
そしてこんないい思いをしている妻夫木聡なぞは、逆に僕に生まれ変わって「妻夫木サンって毎週秋葉原に通ってそうですよね!?」とか年下の女性に言われる人生を送ればいいのだ。


って、こんなことをしたためていると、また三河の旧友Rから
「いい社会人なんだからブログに書くことはもう少し考えたほうがいい」
と忠告されそうだな…。

ということで、筆者の名誉のために補足しておきます。このブログはフィクションです。
フィクションね。実在の人物には何ら関係ありませんから!


参考までに映画のストーリーを少し書いておこう。

妻夫木聡演じる大学生・恒夫は、バイト先で客から、毎朝乳母車をひいて街を歩くあやしい老女がいるという話を聞く。乳母車に乗っているのは、歩けないというハンディキャップをもった女の子、くみ子(池脇千鶴)だった。恒夫は、ユーモラスで知的な会話にとみ、負けん気の強いくみ子にひかれていく。一方恒夫の恋人、上野樹里(役名忘れた…)は面白くない——。

そんな話です。

ちなみにDVDのおまけである、コメンタリーつきのほうも視聴してみたら、さすがに池脇千鶴、自分が脱ぐシーンが近づいてくると言葉少なになってきますね。女のコだから当然。妻夫木クンは一生懸命盛り上げようとするんだけど。
というか、よくコメンタリーひきうけたよね。ということで、女優と普通の女のコの狭間で揺れ動く池脇さんを見せてくれるDVDのおまけのコメンタリーは必見です。

ウフッ。


さて話は変わって…。最近の日常のなかにおける気になる発見。

僕は毎日、港区にある会社に通っている。新橋駅から会社まで歩いていく徒歩10分くらいの道のりの途中、ふとある電柱の真ん中あたりについているのを、見つけた。

livedoor_ap_1livedoor wirelessのアクセスポイント。
おお、ついにこんなところまで。

もともと僕は、公衆無線LANサービスはよく使っているほうだと思っていて、原稿を書く際にはホットスポットのエリアになっているお店に入ることが多い。
で、書いているのはIT専門誌に依頼された、無線LANの技術解説記事だったりする。僕は仕事でも、無線LANという技術を担当しているのだ。

そういうことをなりわいとしている人間のカンとしては、当初ライブドアが発表した2,200台程度のアクセスポイントじゃ、想定したように山手線内の80パーセントをカバーするのは無理だろう。かといってアクセスポイントを増やせば安価な月額料金を維持するのは困難だし、そのあたりの舵取りは難しいんじゃないかな。

でもとりあえずこういうのを見ると着実にアクセスポイントが増えているんだなあと実感はできる。がんばっているようですねえ。
他に見たことないけど。

livedoor_ap_2とはいえ場所は日比谷通りから小路に曲がったところの電柱。周りに、とくに腰を落ち着かせられるようなカフェとか、施設はないんだよな。日比谷通りに打とうとしても電柱はないわけだし、とりあえず深く考えずにつけられるところを選んで設置したのかな、という感じを受けてしまう。

かろうじて直線で目視できる範囲のお店として、日比谷通りを挟んで向かい側にVELOCEがあるのを発見。

iStumblerそのVELOCEに入って通りにいちばん近い席に陣取り、どんなSSIDが見えるか手持ちのPowerBook G4でiStumblerを立ち上げて観測してみました。その結果がこの写真です。

まだ電波が飛んでいるだけで、サービスとしては使えるようになっていなかったみたいだけど、いずれ使えるようになるんだろうな。使えるようになったら、試験サービスの期間のうちにいちど試してみることにするか。


そういえばむかし、僕も公衆無線LANサービスに関する本を書いたことがありました。
一応、ホットスポットをテーマにした本としては最初のものでは。そしてついでにいうといまのところ最後でもあるんだけど。

これです。ああ、2年前なのになんだかずいぶん懐かしいよ。

 無線LANホットスポットパーフェクトガイド
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757100825/

| | Comments (1) | TrackBack (0)

October 09, 2005

8月のクリスマス

山崎まさよし、34歳。若い女のコに「おじさん」と呼ばれる。

それを眺めているオレ:33歳独身。「もうおじさんかあ」としばしふさぎ込む。
_| ̄|○

(写真は、goo映画のサイトの画像を表示 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7448/gallery/p001.html )。


いまは富山県に住むメル友から、地元を舞台にした映画だからぜひご覧あれ、とメッセージを受け取った。それがこの「8月のクリスマス」。

地方の風景を描いた映画は、嫌いではない。というか、最近はその手の邦画のタイトルがかなり好き。
ただこの映画のことは、メールで言われるまでよく認識していなかった。同名の曲を山崎まさよしが歌っているのは知っていたのだけど。
そして映画のサイトを訪れてみて、以前何かを観に行った折りに予告編が流れていたのを思い出す。検索してみると、もともとは韓国の作品で、それを北陸の地方都市を舞台にリメイクしたストーリーのようだ。(インターネットに、この映画のロケに使われた鈴木写真スタジオの紹介がありました)。

天気のよくない10月の3連休の中日、同郷出身の知人と約束して、川崎のチネチッタに足を運んだ。
(観賞後は川崎にある世界の山ちゃんの店舗に足を運ぼうとしたけれど、満席なのでさっくりあきらめベトナム料理レストランで舌鼓を打った)。


ストーリーとか、キャストとかの紹介は映画情報のサイトに譲るとして、この映画から僕が得た教訓は3つほどある。

まず1つめ。
 三十路ともなれば「おじさん」と呼ばれるのは甘受しなければならない。

関めぐみ演じるヒロインに当初からおじさん呼ばわりされ、反論するどころか自分から「おじさんはね…」と語りだす始末を見せる山崎まさよし。
その態度は、たとえば年次的にいっていま新卒で入ってくる女のコにそう呼ばれても文句言えない、潔く受け入れろということを、僕らに示す。

2つめ。
 にもかかわらず、何の前触れもなく若い娘に好かれることが起こりうる。

ここで希望復活。僕の人生にもまだ、そんな恋愛に陥るポテンシャルが残っているかもしれない。ちょっとドキドキ…(脳内妄想爆裂)。

最後に。
 男三十代、志半ばで死んでしまうことも起こりうる。健康に留意し、摂生を心がけよう。

そう。年々、自分史上最大体重を更新している身。実家に帰れば母が「生活習慣病にならないよう気をつけろ」と口をすっぱくして言う。運動不足であることも実感しているし。

健康の問題に限らず、生活の全般において節度を保ち、日々の労働と多少の趣味に身を置いて、静かな日常を送るべきだろう(…ちょうど連休に部屋も掃除したところだし)。そのような日常を心がけていれば、その予期せぬ効果として、映画のように季節外れのクリスマスが巡ってくることもあるかもしれない。

あと他にも、地元に戻って写真館でも営めばモテるのかなあ、とか、観覧車デートってしてみたいよなあ、横浜のやつまだ乗っていないんだよね、とか、いろいろなことを考えたのだけど、概してくだらないのでボツ。


端的に言えばこの「8月のクリスマス」、蓼(タデ)食う虫も好きずきってことを示した、“おじさん萌え”の娘がヒロインの物語と言える気もする…(歳の差恋愛のカップルのデートにはオススメ、かも!?)。

スクリーンには、積極的な恋愛模様が繰り広げられることは決してなく、感情を抑え目に淡々と二人の関係性をスケッチした映像が繰り返される。そんな映像の織りなし方が、これこそがまさに“萌え”だよぉお…というインプレッションにつながってくるんだよね。

萌え。

と、また愚にもつかないことをしたためたけど。原則的に僕のなかでは、一昨年に公開された「解夏」と同じタイプに分類される映画です。
静かで綺麗で、素敵なストーリーです。泣いちゃいます。

三十路の男性は観に行ってください。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

October 01, 2005

NANA−ナナ

いやあ、若い若い…。

映画館の観衆の年齢層が僕の歳よりかなり低くて、自分がこの空間で一人、浮いているんじゃないかとずっと気になってしまったよ。(ま、「クレヨンしんちゃん」の映画ほどじゃないんだろうけど)。

10月最初の日曜日、映画の日に池袋で鑑賞した映画「NANA−ナナ」。

みんなこの映画を観て、自分の“いま”とリアルに照らし合わせて教訓にできる。そんな人たちなのだ。
そう思うと正直、かなり羨ましく思う。この映画の内容を、たんにフィクションの一つとしてしか楽しめない年代となってしまった僕にとっては——。

たまたま同じフロアでは「蝉しぐれ」を上映していたから、そっちのシアターに入ったらまた違う世代の人たちがいっぱいいたんだろうけどネ。


僕が時折、携帯で暇つぶしにのぞいているサイト、narinari.comで、この映画の好評を伝える記事が掲載されていた。なんでも、観客動員数は絶好調だという。

僕も、なんとなく観たいと思っていたタイトルではあった。なにより、narinari.comの映画評でも絶賛しているように宮崎あおい演じる小松奈々は、ナカナカにカワイイ。予告編を観ただけで、気になってしまう。
といっても現実にいたら、僕が忌避するタイプ(というか、向こうからも近寄ってこない)の女の子ではあるんだけどね。いやだからこそ、こういうスクリーンのこちら側から眺めてみたくなるものだ。

映画の登場人物が評していた“疲れる女”というのは言い得て妙。だから僕も現実にはつきあいたくはないけど(…いやいや、のぞんだとしてもそんな機会巡ってこないよね)。
でもこういうコ、ルックスを眺めている分にはいいよなあ。宮崎あおいが演技しているのを見るのは僕は初めてだと思うけど、その仕草に眼釘付け(ウキウキ)。って、気づけばこれはオヤジ趣味ってやつかいな?

そして…中島美嘉はコワかった。もう一人の主役、大崎ナナを演じる。こういうのも僕は避けて通りたいタイプの女子(…というか、例によって相手から近寄って来た試しはなし)。
演技はけっしてうまいとは思わなかったけど、ただドスの効いた声で叫んだり、ケンカしかけたりするシーン。この辺りは真に迫っていて、演技ではなくこれこそが中島美嘉の“地”なんじゃないかと思ってしまう。

もともとCDのジャケット写真が、髪が長くて水がしたたっていて、“貞子”みたいで不気味に感じていたんだけど。この映画を観てひときわコワさを実感…。ウェーーーン。

という、ティピカルに両極端な女性を組み合わせて、お互いを鏡にそれぞれが織りなす心模様を見せてくれる物語。
似たような設定としては、昨年の下妻物語があるが…。かの作品ほどデフォルメはされておらず、よって観客は等身大の女の子として感情移入もしやすいだろう。あえて僕が語るまでもなく、原作がベストセラーになっているということからわかるように、傑作なのだろうね。


orient映画を観る前に、同じ池袋の、サンシャイン文化会館内にある古代オリエント博物館を訪問する。

うーん、古(いにしえ)の遺物を眺めるのって、やっぱりいいよなあ。しみじみ。

この古代オリエント博物館、僕はずっと前から行きたいと思っていた施設。おそらく大学の時に、博物館関係の書籍か何かにあたっていて、ここの博物館の名を知ったのだと思うけど。
東京で働くようになって10年。折をみて行こう行こうと思いつつ、なんとなくいままで持ち越してしまっていた。これは、僕が住んできた神奈川県から池袋はかなり遠い(埼玉に行くのともうほとんど同じような感覚)、というせいも大きかった。

展示の模様にふと、大学時代、アルバイトやら博物館実習やらに励んだ大学の人類学博物館を彷彿とする。
しかし、かつての博物館ほどコンパクトでなく、かといって上野にある大きな美術館・博物館ほどの規模でもなく、ほどよい感じでまとまったサイズのミュージアムだと思った。

何千年かの時を経て、この現代に遺されたさまざまな器物——。それらを目にして、心が洗われた時間でした。

この秋は、もっと博物館に足を運ぼう、かな。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

September 20, 2005

タッチ

かくして1つの世代というものを、実感せらるる。

かつてヒットしたコミックであり、TVアニメとしてリアルタイムで観ていた作品が映画化されると知って、ついつい足を運んでしまった。タッチである。みゆきではなくタッチなのである。みゆきのほうが思春期の匂いに満ちているのだが(憶い出がいっぱい♪)、タッチである。タッチ、タッチ、ここにタッチ あなたから〜♪
(写真は、goo映画の画像を表示 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7526/gallery/i001.html

これはちょうど僕が中学校の頃、日曜の夜に放映されていたアニメだ。あの年頃に目にしていたものはやはり印象深く、ビビッドに記憶に残っている。
インパクトがあったのは、TVアニメではなく映画の「タッチ 背番号のないエース」のほうだなあ。映画のラスト。カッちゃんが事故で死んだ日の試合に、タッちゃんが突如として登板するんだよね。なんというか、鮮烈な印象がある。

今回のタッチを見に行った理由にはもちろん、ヒロイン・浅倉南役の長澤まさみがけっこうかわいいというのもある。笑顔がナイスで、ちょっと舌足らずな口調が特徴の女の子。ところが、職場で長澤まさみという名前を出してみたところ、「誰それ?」「知らない」という。なんと。セカチュウとか観てないんですか、みなさん。

となると、挿入歌として懐かしの「タッチ」をカバーしているユンナなんて、知名度は当然皆無。彼女は17歳の韓国人シンガー。この前デビューして♪ほうき星がヒットしていたというのに、、これじゃまさしく星屑ロンリネス…。
仕方ない。同僚たちの大半はもう三十路を過ぎ、結婚して家庭を構えているのだ。人にはそれぞれ、その立場にふさわしい話題というものがある。長澤まさみの笑顔がいかに素敵だろうと、そんなものに関わっている暇なんてないのだ。

さて。
それで、鑑賞中にはやはり、「背番号のないエース」のインパクトが強かったせいもあって途中、おいおいここで達也が登板するんじゃないんかよ、と思わず言いたくなってしまった。でも、よく考えてみればそれはかつての映画版の演出。うん。TVアニメや原作では、淡々と話が進んでいくんだったね、たしか。

さらに思い出してみると、あだち充の原作のコミックは、僕の記憶ではも少しそこはかとないテンポ、ユーモア感みたいなものがベースに漂っていた気がする。ダメ兄貴の達也の、ひょうひょうとしたおとぼけぶりとか、そんなところだ。
そういった原作の独特の醍醐味は、実写化にあたりかなりそぎ落とされてしまったように思う。そしてその分、南をめぐる恋愛ドラマとしての側面が強調されているのかな? …そんな感想を抱いた。

まあ、タッちゃんカッちゃんを演じているお二人はけっこうイカすルックスだし、まさに主役として双子を揃えられただけで御の字なんだろうし、多くをのぞむべきではないのかもしれない。
そもそも、原作と映画が同じものでなければいけないというルールなんてないのだしね。

それにしても、思う。
このような昭和時代の漫画を原作にした映画を作って、はたしてヒットするのだろうか? この内容は平成生まれ、21世紀に青春を送る若者にはビビッドに響くのかな。だいたいいまさら野球なんて、という気もする。ということでは、その世代が観た感想というのも聞いてみたいものだが…。
しかしあいにく身近にそんな知り合いがオラン。触れ合う機会すらない。こういうところで、僕らの周りは既にディスコミュニケーションで外堀が埋まってしまっていることに気づく。

世代間の断絶というものを、改めて実感する年頃なのである。


ところで、3連休中に暇なので、もう一つブログを開設してみました。

手の内を明かせば、実は会員になっているソーシャルネットワーキングサービスのmixiのなかで、日記として公開していた内容です。でもmixiの日記だと、当然ながらmixiの会員の人しかご覧いただけないので、よりオープンなブログという形式に移行したわけです。
手作業で移したので思いのほか時間がかかりましたが、まあどうせ休日は暇な身ゆえ、適度な時間潰しにはなりましたかな。

こっちが映画に対して、あっちのブログのテーマは、本です。Bookです。…といっても例によって駄文を連ねているに過ぎないのですが、ワタシが織りなす精神世界によりいっそう迫りたい人は、あわせてご覧くださいまし。

 僕は、こんな本を読んできた。
 http://yu1o.blog.ocn.ne.jp/openbook/

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 18, 2005

サマータイムマシン・ブルース

上野樹里がイイ!(・∀・) と聞いて、数少ない上映館を探り当てて観に行ってきましたよ。ハイ。
夏が過ぎて、気候に秋が感じられ始めた頃に鑑賞したのが、このサマータイムマシン・ブルースです。
(写真は、goo映画の画像を表示 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7450/gallery/i001.html )。

結論をまず言うと、コミカルななかに、青春のほろ苦さがよぎる映画でありました。

タイトルにタイムマシンが入っているということから即おわかりのように、タイムパラドックスをテーマにしたお話です。パラドックスをストーリーの軸に据えつつ、全体としてはコメディタッチで描いたライトな青春映画ね。

SFとしての根幹、タイムパラドックスについて述べておくと、たとえタイムマシンができても過去は変えられないというのが、この映画の結論ですね。
まあ、リモコンのパラドックスは、おそらくこうなるのだろうと話の途中で顛末が読めてしまいます。

で、肝心の上野樹里チャンなのだけど。物語の始めではチョイ役みたいに扱われている。正直、おいおいそれじゃ話が違うよ、と思った。だけど、話の終幕に近づくと存在感を増してくる。
いやあ、こんな娘が同じ部室にいたら。同じ空気を吸っていることを考えたら…う〜ん、微妙なドキドキ感を感じてしまう19歳。

そしてなるほど! こういうオチになるわけね。
いやあ、このラストは切ないっ ゜(´□`。)°゜

たとえていえば、身近で親しくしていて、内心思いを寄せていた女の子に、実はラブラブな彼氏がいるんだってわかった時の、あの時のポッカリとした感覚だよね。くぅぅ〜。
ここまで観て初めて、タイトルに「ブルース」とつけられている理由がわかりました。

あと、ふだん“いい友人”として接している女の子に、おずおずと、都合があえばでいいからなんて言い訳をつけて映画に誘うシーン。これも自分の経験が脳裏に浮かんでキュンとしてしまった…(´・ω・`)

ほろ苦いねえ。

映画館を出た後は手持ちのiPodで渡辺美里の懐かしのナンバー、♪サマータイムブルースを探り当て、聴きながら帰宅。


さて。

minatomiraiこの映画を鑑賞した前の日(敬老の日を含んだ3連休の初日)、名古屋から大学の学科の後輩、N君が横浜に出張してきた。友遠方より来る、また楽しからずや。
N君は学部を出て院に進んだりして、長いこと彷徨の年月を刻んでいたのだけど、昨年ようやく定職を得て働き始めたという男。思い返せばかつてはともに青春のほろ苦さを噛み締める年頃だったのだが、気づけばもはや取り返しのつかない三十路独身である(ちなみに、7月には一緒に万博に行った)。

ちょうどいい機会なので、東京にいる、同じく学科で彼と同学年の後輩の女性にも連絡をとり、桜木町で3人で会食した。ちなみに彼女は大学を出てから看護大学に進み、最近ナースになった。と思っていたら、今年は看護婦をしながら東大の院にも入って再び学問の道も志しているという。たいしたもんだね。というか、いつまで勉強し続けるのだろう?

いずれにせよ、文化人類学というマイナーな学問を学んだ身の上で、なんとか社会人をやっていけていることをお互い確認し、乾杯。

troy食事をした店が、その前の週にたまたま店の前を通りかかって見つけた、桜木町のトルコ料理レストラン。
いや、レストランというわりには店は狭く、小料理屋ともいうべきよそおい。僕はこういう店はけっこう気になってしまうので、かこつけて足を運んでみたわけ。

トルコビールとケバブ(串肉)に舌鼓を打つ。
僕は、トルコ料理に対する判断基準をもたないので、味覚については何とも言えない。ただ外観から予想した通り、店内はきわめて質素(グリーンの壁にトルコっぽいものや国旗が飾ってある)、そしてお店をやっているトルコ人男性も朴訥な感じ。こういう雰囲気が嫌じゃない人にはよいお店だと思う。

桜木町のみなとみらいとは反対の野毛側、動物園通りにある、トロイというお店です。
と、具体的に紹介しようとしても、グルメサイトでは紹介されておらず、iタウンページですら出てこない(お店のたたずまいをみれば、さもありなんという感じだけど)。いやあ、実に通好みのスポットですね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 09, 2005

容疑者 室井慎次

ありきたりで月並みな感想かもしれないけど、いやあ、柳葉敏郎もたいした演技をするよなあ。
映画容疑者 室井慎次を観て、そう思った。

(写真は、goo映画の画像を表示 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7439/gallery/i001.html )。

ある人のネット日記に“落ちがあまりにチャチくて、ガッカリな映画だ”と、酷評に近い感想がまとめられていたし、この前の交渉人 真下正義は僕の嗜好に合わなかったし、そんなわけでほとんど期待せずに観に行ったのだが。
期待しないで観に行ったわりには、かなり僕にとってはヒットした映画であった。

踊る大捜査線シリーズのなかでも、和久さんと並んで非常に際立っていたキャラクタ。それゆえに、こうして派生モノとして別の映画に仕立ててしまうことに、賛否両論渦巻くことが予測されるが。どうなんだろう?

ま、少なくともこの作品の限りにおいては、僕は楽しめました。たしかにセットがちょっとチャチといえばチャチな場面はあって、もう少しお金をかけてほしかった気もするけれど…。
でも、おしなべて映画というものが2時間の暇つぶしとして考えると、悪くないレベルの作品だとは思います。


orange鑑賞時期は、ちょうど衆議院の総選挙の選挙期間のただなか。
僕はその期間中、9月の3日から6日まで岐阜県可児市に赴き、岐阜4区から立候補した大学時代の後輩、熊谷君の選挙事務所のお手伝いをさせてもらった。
(熊谷君に関するブログは、こちらこちら)。

 http://homepage.mac.com/yu1o/kuma/

ピュアな学生時代に、同じサークルで濃密な時間を過ごした仲間同士である。他人事ではないわけだし、選挙の応援にも身が入る。
しかし、そういう感情論とは別に、準備も足りず民主党には無風で、厳しい選挙ということも理解できた。僕の休暇にも限りがある。彼の行く末を案じつつ、横浜に帰ってきたわけだ。

こういう時には、自分への癒しも必要だ。ということで、残業も飲み会の予定もない金曜日の夜に鑑賞した映画だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 28, 2005

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲

kureyon_5僕らのまわりのいたるところにイエスタディ・ワンス・モアはひそんでいて、過去への郷愁の虜にしてしまおうと手ぐすねをひいている。

たとえば、新横浜ラーメン博物館のなかに再現された、昭和33年の夕焼けの下町。ラーメンとは本質において何の関係もないのだが、この空間が魅力となって多くの人びとを招き寄せる。お台場にできた台場一丁目商店街もしかりであろう。

あるいは、続々と発売される過去のアニメーション作品のDVD作品。かつて夢中になっていたアニメがDVD化される。いい大人になって…と思う反面、大人であるがゆえに少なくない金額を出費することも可能。思わず購入してしまう御仁は少なくないようだ。

そして2005年に入って、イエスタディ・ワンス・モア勢力の策動は一つの頂点に達した。それは…。

祝日「昭和の日」の制定である。
ご存知の人も多いだろうが、いまみどりの日とされている4月29日。それが、2007年から昭和の日という祝日になってしまうのだ!

イエスタディ・ワンス・モアはついに、過ぎ去ったものへの郷愁を国家の制度のなかに位置づけることに成功したのである。
おそるべし…。

さて。


kureyon_0なんでこんなに泣かせる映画なんだ…。

これは、まったくたいしたアニメーション作品だ
いや、その噂を聞き及んでいるからこそ、DVDをレンタルしてきたわけなんだけど。鑑賞してみて、評判にたがわぬ内容であることに改めて納得させられた次第。

そのタイトルは、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲

クレヨンしんちゃんだからと言って、侮るべからず。というか、これクレしんの映画作品の体裁はとっているけど、子供向きのお話になっていないよ! このストーリーを堪能できるのは、大人しかないじゃん。
見れば明らか。

クレしんの映画シリーズがただものではないことは、以前もTVで放映されているのを眺めていて知っていた(以前のブログ)。だけど、この作品自体は見ていなかった。

bsanimeこの作品を知った直接のきっかけはといえば、BSアニメ夜話で紹介されていたから、ということになる。
例によって、岡田斗司夫が熱弁を振るっていた。

そのBSアニメ夜話のナレーション内容をそのまま移して、ストーリー紹介をしておこうか。(うちのHDDレコーダーに、まだ残っていたのですハイ)。


kureyon_12001年に公開された、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲。監督は、TVシリーズも手がけた、原恵一

しんちゃん一家の住む春日部に、20世紀博がやってきた! 高度経済成長のシンボル、大阪万博を再現。懐かしのヒーローになって遊ぶこともできる、大人のためのテーマパークだ。
しんのすけとひまわりをほったらかし、ひろしとみさえも20世紀博に夢中…。

kureyon_2しかし、この20世紀博の裏には、秘密結社イエスタディ・ワンス・モアの陰謀があった。リーダーは、ケンとチャコ。

20世紀博のとりことなった大人たちは、どこへ行くのか。

20世紀博のなかに広がっていた世界。そこは、昭和の日本。懐かしい匂い漂う夕焼けの街。
誰もが、貧しくとも未来への希望に満ちた暮らしを送っていた。
ケンとチャコのねらいは、古きよき20世紀の日本を取り戻すことだったのだ。

連れ去られた大人たちを取り戻すため、しんのすけ率いるカスカベ防衛隊が、イエスタディ・ワンス・モアと壮絶な戦いを繰り広げる…。

kureyon_3過去と未来、ひろしはどちらを選ぶのか。

TVシリーズとは一味違う、大人からも支持を得た作品だ。

(以上、BSアニメ夜話でのナレーションによるストーリー説明より)。


と、この説明からもわかるとおり、たびたび出てくる20世紀博のなかの風景が、昭和の日本なのですよ。
昭和の日本を模して作られた夕焼けの街を駆け抜けながら、「チキショー、ここはなんでこんなに懐かしいんだ!」と父親ひろしが叫ぶ。

Amazon.co.jpのレビューでも書かれているが、そのひろしの回想がこの映画のなかで最も感極まるシーンの一つ。僕は、思わずウッて来てしまったよ。


父親ひろしを大人に戻すために、ひろしの靴を鼻にあて“大人のにおい”を嗅がせる。そんなクレしん的なギャグ・アクションから一転、ひろしがそれまでの半生を振り返る、回想シーンへ。

kureyon_4父親がこぐ自転車の後ろに座って、背中を見上げていた子供時代。学校に通い、やがて都会に出て働き始める。
そして結婚して子供ができて、会社の仕事に疲れつつも家庭を支え、支えられ。こんどは我が子を、かつて自分がそうだったように後ろに載せて、自転車をこいでいく…。

こんなシーンがしばらく続く…。
“大人のにおい”のなかで、父親ははっと我を取り戻す。そして、自分が半生をかけて獲得したもののために戦う。

おい、しんのすけじゃなくて、ひろしが主役になってるよ。

でも、そもそもがそういう映画なのだ。

鑑賞していて、“チキショー、なんでこんなに泣かせる映画なんだっ”。…と、僕も叫びたくなる。
そんな僕はいまだ一人暮らしの身の上。いや、三十路で独身でいることに、ホント申し訳なくなるような作品です。


…。

平成という新しい時代がまもなく20年を迎えようとする年に、いまさらスタートする昭和の日

思うんだけど、昭和の日を推進してきた人たちって、ケン、チャコと同じく将来、この先の時代のことは視野になかったんだろうなあ。
これから昭和にリアルを感じない世代がどんどん増えてくるのに、自分たちが生きてきた時代だけ特別なものと考えて、祝日にしてしまって…。

これぞまさに、われわれの内なる心が常に抱く“イエスタディ・ワンス・モア”が招き寄せたものの、きわみといえるだろう。
昭和の日は現実社会に築かれた、“20世紀博”なのだ。

ということで、再来年から導入される昭和の日には、ぜひともこのクレしんを上映すべし!
そしてこの21世紀、平成の僕らの時代こそが大切なのだと、改めて噛み締めるべきなのだ。

前を見てイ㌔。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 26, 2005

ヒトラー 〜最後の12日間〜

1998年に公開された「プライド 運命の瞬間(とき)」という映画がある。

たいして話題にもならなかった作品だけど、公開当時その筋では少なからぬ反響を呼んだ。
というのも、その映画は、太平洋戦争開戦時に首相を務め、戦後はA級戦犯として東京裁判で絞首刑となった人物、東条英機を主人公に据えた映画だったからだ。

この映画は、端的にいえばアンチ東京裁判の内容で、戦争に至りそして敗戦を迎えた日本にも国家としてのプライドがあるべき、というのがテーマ。と聞くとまあアレなわけだが、実際にはその頃って、歴史観の見直しを強硬に唱える論調は、いまほどさかんではなかった。

だから、東京裁判の見方としてオルタナティブなものを示したお話として、比較的穏当に受け入れることができたように思う(ほんの7年前なんだけどね)。
なにせ朝日新聞社が発行する週刊誌アエラで、いままでと違う側面から東条英機を描いた映画が公開になったということで記事にしていたくらいなのだ。僕はそのアエラの記事を読んで映画を知り、実際に映画館に足を運んだのだった。

そうだ、思い出した! いまは結婚してワーキングマザーになっている職場の先輩女性と観に行ったのであった。
横浜の伊勢佐木町で映画を鑑賞した帰り道に、二人で歩きながら、東京裁判が“勝者の裁判”として、不当な側面がぬぐえないことを説明した記憶がある。

うーん、あまりデート向きの話題じゃないよね…。


Ganzふとそんな映画のことを思い出したのは、川崎のチネチッタで「ヒトラー 〜最後の12日間〜」を鑑賞したからだ。
まあ、枢軸国つながりで連想したわけだ。

こちらの映画はドイツで初めて製作された、ヒトラーの人間性を描いたお話という。人間性に迫ったことが、ドイツでは少なからず波紋を広げているらしかった。
実際、主役のヒトラーを演じる俳優ブルーノ・ガンツがなかなかの演技をしていてひきこまれる作品だ。彼が今回アエラの表紙(左の写真)を飾ったことも、話題作である証しなのだろう。

ヒトラーを描いたこの映画を、かつて東条英機を描いた映画と同じように僕はこのアエラで知り、見に行かなければという気にとらわれた。ちなみに今回は一人で足を運んだ。

映画そのものの感想としては、破滅に瀕した独裁者というものの狂気をうまく描いているような気がした。
それから、そういう独裁者の気まぐれに翻弄されてうんざりしつつ、それでも最後まで抗うことができず従う側近の様子も印象に残った。そこには卑近ながら、上司には逆らえないサラリーマンの身の上を重ねてしまう…。
戦場となり徹底的に破壊されるベルリン市街地の様子は、以前鑑賞した戦場のピアニストの廃墟となったワルシャワのシーンを思い出しもする。


またヒトラーの、人間としての側面を描いた作品として物議を醸し出していると聞いたのだが、その部分については取り立てて強調されるようなものではないだろうと思った。
だいたいどんな悪人だって映画の主役に据えるならば、このくらいの描写がなければお話に厚みがない。べつにヒトラーを犠牲者とか英雄とか見立てているわけでもないんだから、そこにそんなに目くじら立てずともよいんじゃないだろうか。

と思うのだけど、これほどの描写も戦後のドイツは許してこなかったとすれば、それほどに禁欲的で自省に満ちた国だったのだろうか。それはそれで感嘆はすべきことではある。

人間としてのヒトラーを描くことすら禁じるその価値観にあてはめれば、日本の「プライド 運命の瞬間(とき)」は、どうだろう。きっと、浅はかなリビジョニズムの最たるものであると轟々とした議論を呼びそうなものだ。

ただ、幸か不幸か日本の場合、ドイツとは戦争に対する見方がちょっと異なっている。
つまり、日本では政府は東京裁判の判決を受け入れながらも、民間の論調としては裁判に疑義が挟まれることがもともと少なくない。それに、東条英機はそもそも独裁者ではなかったわけで、その点でもヒトラーのように稀代の悪人に仕立てることは難しい。

そんなわけで、とくに問題作として大きな議論を呼ぶこともなく「プライド 運命の瞬間(とき)」が製作されたわけだが…。まだまだこの手の問題に鷹揚だった1997年当時の状況もあり、いかんせん映画としての出来そのものが、そんなにたいしたものでもなかったこともあり。公開当時は一部のマニアにのみ受け入れられた映画として通り過ぎて行った。


気づけば、この「ヒトラー 〜最後の12日間〜」を鑑賞したのは、戦後60年目の8月である。
そしてヒトラーのドイツと洋の東西をまたぎ、同盟を結んで枢軸国として戦争を指導したのが、「プライド 運命の瞬間(とき)」の主役、東条英機。この人は、繰り返しになるけど東京裁判のA級戦犯として絞首刑になった人物だが、そのA級戦犯を祀ってあるところにお参りに行って論議を呼んでいるのが、いまの小泉首相。

靖国神社参拝である。

今年の8月15日は、小泉首相はその靖国神社に参拝しなかった。これは、中韓の反発に加え、これから総選挙を迎えにあたって、世論の反響というものも考慮したのだろう。
しかし参拝があることを予測したのか、NHKスペシャルでは靖国関連の番組が企画されていた。夏休み中でなんとなくチャンネルをつけていたのだけど、終わってみるとそれぞれ滅法面白かった。受信料を払っていることの元はとったという感想を抱かせる番組だった。

終戦60年企画と銘打って放送された「靖国神社〜占領下の知られざる攻防」(8月14日放送)と、「戦後60年 靖国問題を考える」(8月15日放送)だ。


この放送を見て感じたことは、まず戦後60年という節目は、もう戦争そのものを振り返るものではなくなったんだなあということだ。先の大戦のなかの現実そのものではなく、その戦争をどう捉えるべきなのかという問題が、公共放送が終戦記念日に選んだネタなのだ。

むむ…。難しいところだよね。
戦争は、厳然として起こった事実である。それを題材にすれば、事実を明らかにして知らしめることとイコールであり、それはジャーナリズムの根幹の作業だといえるだろう。
しかし、そうやって明らかにされた史実をどう眺めるかは、各人の主観の問題であり、そこを突き詰めてもTV番組の枠のなかで適切な答えが出ようにもないと思う。

実際、識者の論戦が交わされた8月15日の放送は、結局のところすれ違いに終わった感は否めなかった。
とはいえ、そうやってすれ違いに終わるほどの歴史観の相違が現に存在するのであれば、それを浮き彫りする題材を、公共放送が選んだことは意味あることだとは思う。

この問題を突き詰めれば、ちょうど映し鏡のようにいくつかの論点が浮かび上がってくる。それらを挙げれば、「靖国神社という場に対する評価」「先の大戦に対する解釈」「東京裁判の見方とA級戦犯合祀の問題」「近隣諸国である中国や韓国へのまなざし」といったところだろうか。


僕もくだんのNHKスペシャルを観たり、いろいろな書き物を読んで勉強しているのだけど、これらの論点について最右翼の立場をとれば、おそらくこんな感じになるだろう。

“靖国で会おう”を合言葉に死んでいった兵隊さんたちにとって、彼等が祀られるのは靖国神社しかない。大東亜戦争は当時の国際情勢におされた自尊自衛の戦争。東京裁判は勝者の裁判であり、不当なものとして認めることはできない。また、今後も戦没者を追悼するには靖国神社以外にはありず、国立の追悼施設は必要ない。中国や韓国の反発は内政干渉であり、この問題を外交のカードに使っている。国益を考えるならばそうした反発は無視すべきである。総理大臣による靖国神社への参拝は、憲法違反ではない。

容易に与し難い部分もあるが、ストレートであり、それだけに力をもつ主張ではある。
一方、最左翼の立場をとると、こんな感じだろうか。

靖国神社は軍国主義を推進し、庶民を戦争に駆り立てた国家組織の一つであった。太平洋戦争に至る一連の戦争は侵略以外のなにものでもない。東京裁判は、当時の国家指導者の責任を問うた妥当な裁判である。またサンフランシスコ平和条約で裁判を受け入れた以上、戦犯をたたえるような行為はすべきではない。靖国神社にA級戦犯が祀られているのは大きな問題だ。戦没者の追悼には靖国神社以外の施設を考えるべきである。中国や韓国など近隣諸国には侵略や植民地支配への反省を示し、協調していくことが国益である。また、総理大臣の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法第20条に反し、違憲である。

ごもっともである。
戦後の日本国政府はサンフランシスコ平和条約で主権を回復したわけだし、その平和条約で東京裁判も受諾したという立場をとっているので、部分的には政府の見解とも重なるところがある。
ただこの主張には、綺麗ごとの側面しか見ていない印象がつきまとう。本気でこれを唱えれば、かえってリビジョニズムの燃え上がりに油を注いでしまうだろう。


プライド 運命の瞬間(とき)」についていうと、言わずもがな、明確に前者の立場で作られた映画だ。
前者の立場をとる時に必ず強調されるのが東京裁判の判決時におけるパル判事の少数意見…そういうわけで映画でも東条となんら縁はないのに、パル判事が重要なキャラクタとして映画に登場する。個人的には、毎度判で押したようにパル判事ばかり持ち出すのはどうかと最近は思うのだけど。でも、連合国側に他に味方となってくれる人物がいないからしかたないんだろうね。

まあ、実際にはパル判事を持ち出さずとも東京裁判に疑義が挟まれるのはむべなるかなというところがある。
現実には日本はヒトラーのような独裁者に指揮された国ではなかった。そればかりか、戦後になって戦争当時の指導者のほとんどが、内心は戦争には反対であったと唱えた。どうやら、壮大な無責任体制にあったことこそが逆に戦争を招いたのかもしれないわけだ。
にも関わらず東京裁判は、当時の国家指導者の間に明確な意図と工作が存在したとして断定している。そこに“共同謀議”が存在したとみなしているわけだ。このことがその正当性に疑問符をつけることになってしまい、結果として後者の立場も素直に受け入れられないという状況を招いてしまっている。

アンビバレント。
そう。前者の立場と後者の立場の狭間で、僕らは首尾一貫した見方をとることが困難な状況に置かれてしまっているのだ。

ちなみにそれは、靖国参拝を強行して波紋を広げることになった小泉首相においてすら、そうである。


6月2日の衆院予算委員会で、「A級戦犯に対して総理はどういうお考えをお持ちですか」という民主党の岡田代表の質問に、小泉総理大臣は答えている。「戦争犯罪人であるという認識をしているわけであります」と。

これにたまげた人は少なくなかった。とくに、右寄りの人たちにとってとりわけインパクトのある答弁だったようだ。
先に触れたように、東京裁判の正当性にはつねに疑問符がつきまとう。右派の立場をとるならば受け入れ難い。だからA級戦犯は犯罪者ではなく、靖国神社では昭和殉難者としているわけだ。

勢い余ったのか読売新聞は、社説で「国立追悼施設の建立を急げ」という社説まで掲載してしまった。そこには、「小泉首相は、いったいこれまで、どのような歴史認識、歴史観に基づいて靖国神社に参拝していたのだろうか」とある。狼狽しているのが見て取れる。

まあ、実際には政府の長として東京裁判は受け入れません、なんて言えるわけはない。
そこでたとえば、中曽根元首相はかつて政府の立場と両立させるべく、A級戦犯を切り離す「分祀」を画策した。それ自体賛否はあるにせよ、一つの筋は通したものだった。
しかし小泉さんは、東京裁判は受け入れます。A級戦犯は犯罪者です、でもその人たちを昭和殉難者として祀る靖国神社には、参拝するんです。…と、つかもうにもつかみどころのない意見の持ち主。そこには論理も何もない。矛盾を隠すために、かえって意固地になっているのかもしれない、とすら思う。

僕も、小泉という人は首尾一貫してないんじゃないかと思ってたけど(以前のブログ)、ホントにそのとおりだった。おいおいって、思わずにはいられない。


そんな総理大臣が結果として今年の8月15日に靖国神社の参拝は行なわず、代わって戦後60年にあたって談話を出した。
そこには、こんな一節がある。

とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。

一衣帯水」っていい表現だねと、正直僕は思った。まあ、関係を悪化させている張本人は誰だよって、見る向きもあるのだろうが。
とはいえ注目の日に靖国参拝をせず、こういう談話を発表する。曖昧で首尾一貫に欠けるけど、この人はなかなか機微に長けるというか、バランスの取り方を踏まえた政治家なんだなとは思う。


いずれにせよ、アンビバレントを解消できないまま、僕らは60年後の時代を過ごしている。
稀代の独裁者が戦争を指導したのでもなく、戦前から続く国家が崩壊したわけでもなく。一方で敗戦を招き、結果として自らの手で当時の指導者を裁く権利も失われ、勝者の裁きにゆだねざるをえなかった。
そうした歴史の経緯がもたらした条件が、結果として靖国問題に関し、首尾一貫した立場をとることを許さない。

ヒトラー 〜最後の12日間〜」が議論を呼ぶ国と、「プライド 運命の瞬間(とき)」が難なく上映されてその後話題にも上らない国。この違いはこうした所与の相違にある。

…と述べて締めたいところだが、映画の中身に関していうと、我が国のものは製作者側の“力み”がいささか空回り気味で、エンターティメントとしての出来は大したことなかったというのが正直なところ。

だからいま、この両作品を同じレベルのものとして比べるのはフェアではないだろう。洋の東西をまたいだ戦争指導者の映画として、あくまで僕がタイトルを思い出し、戦後60年ということに絡めて連想したことをここに書き連ねただけである。


なんだか随分と話がとんでしまったわけだけど、とにもかくにもこの、「ヒトラー 〜最後の12日間〜」は破滅をむかえんとする独裁者の行状を描き、人間ドラマとして“見せる”作品に仕上がっている。
上映時間は3時間に及びいささか冗長で、もう少し短くまとめたほうがよろしいような気もしたけど…こういう“重い”映画が嫌いではない人であればご覧になるのがとよいと僕は思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 18, 2005

お見合い放浪記

omiai_1NHKBSの連続ドラマアンコールで、「お見合い放浪記」を放送していた。HDDレコーダーで毎回欠かさず録画して、観てしまった。

 お見合い放浪記
 http://www.nhk.or.jp/drama/archives/omiai/

ああ。NHKはなんでこんなタイムリーな時期に放映してくれるのか。


実はこれ、わりと面白おかしくもなかなかに切実で、歴々の連続ドラマのなかではモスト・オブ・観てしまった1本なんである。

omiai_2水野真紀が主演で、 「お見合いでも、ときめいた恋をして結婚したい」とさまざまな男性とお見合いを繰り返す、というお話。
思えば、放送時は初めて僕がお見合いを2、3回か経験した頃。男女の違いはあれ、けっこう自分の身の上に重なるところもあり…。すっかり水野真紀演じる永沢ゆずに感情移入していた。

ただ、世間的には「ロッカーの花子さん」などと違ってたいして話題にもならず、よって続編の制作もDVD化もアンコール放送もされず。
僕はとても残念に思っていて、「お見合い放浪記」をもう1回観たい、永沢ゆずにもう一度会いたい、というのがかねてからの願いだった。

だが、そんな僕の願いとは裏腹に、衝撃的なことがこのドラマの放映後に待っていた。水野真紀がなんと、後藤田代議士(いまは前・代議士か)と結婚してしまったのである。
それを聞いた時、僕は同志を失った気がした。水野真紀、お前もか。う、裏切り者ぉっ。°°・(>_<)・°°

そして。

メラメラ……恨みはらさでおくべきか〜 (by 魔太郎)

今回、お星様に僕の祈りが通じたのか、念願かなって再放送とあいなった。なにせいまも盆暮れの時期になりゃあ、決まって母から「お見合い」というタイトルのメールが届く身…。
そうやって、何回か挑んだ結果はいかばかりといえば、現在の僕は独身であることから自ずとおわかりのとおりであろう。
聞くなっ(耳に蓋)…聞かないでくれ〜゜(´□`。)°゜。ワーッ。

だからこそ、いまも身につまされるドラマなのである。


それにしても…。

ふとしたはずみでこんどお見合いをするという話をこぼすと、女性はさっと聞き耳を立てるよね。
わりと早い時期に結婚した女性なんかとくに。こうのたまう。
「私もいちどでいいからお見合いしたかった〜」

何ゆうんとるんじゃゴルァ! て感じである。

この腐女子が〜…ケッ。

その時彼女たちの脳内は、和室のイメージでも思い浮かべているに違いないのである。 鹿おどしの水を打つ音が“カッ、コーン”て響く、あのシーンだ。

ドラマの観過ぎだって!

こっちは、遊びじゃないんだYO!

まあ、ステレオタイプなお見合いのイメージを抱くのは勝手なんだけど、実際にはそういうものはない。
だいたい見合いは地元でやるんである。僕の田舎には、そんな立派な施設はない。

そんな格式ばったものはなく、せいぜいホテルのロビーで会うのが関の山。場合によってはファミリーレストランとか近所の喫茶店とか、さまざまだ。
庶民には、庶民にふさわしい場というものがあるのだ。


さて。また話が変わるけど。

もう30代後半にさしかかろうとする先輩の独身男性がいる。
つねづね結婚を希望しているので
「なら、お見合いはどうです?」
と向けると
「いや、やはり恋愛でないと…」
「見合いの話も親から来るけど、ことわっているんだよね。そしたらあまり話が来なくなってきたな」

バッコ〜〜ンッ
いったいあなたは、いまさら何をゆうてんだ! \(`O´)/

いや恋愛でもいいよ、なら相手を見つけてきなよ。
現実が伴っていないのに自ら手段を閉ざしていったいどうするのだ? ハァ〜。

実際のところ、お見合いって、出会いの形の一つでしかなく。

だから、やることそのものは他の出会いの形とあまり変わらない。
ナンパ、出会い系サイト、ねるとんパーティー、合コン、友人の紹介…。出会いにはいろいろあるけど、結局やることは男女で二人の時間を作って食事でもしながら、あれこれ話を合わせていく。それは同じだ。
お見合いもしかり。

ちょっとだけお見合いが違うのは、間をコーディネートする人がいるということ。同じような家庭環境の男女が会うよう予め調整済みだ。だから変な人に会う確率はほぼ皆無。
これがナンパや出会い系や合コンだと、どんな痛い目に遭うかわからない。

そう、実はお見合いって、すごく安心で、なおかつ楽なのですよ。
他の出会いの形だと、二人の時間に持ち込むまでにすごい労力を払う。メアド聞き出したり、電話かけたり、どこか行かないって話しむけて、なんとかウォーカーとか読んで女性が喜びそうなスポットを探したりして…。

見合いはそういう面倒な過程一切なし。「見合いするか?」 イエスかのノーで応えて、イエスだと日付と場所が即決まって、そして当日、紹介されて10分後には「では後は二人だけに」と言われて。
何の労力もなくエスカレーターに乗っていれば、二人っきりのサシの時間になるんだよ。他の出会いの形でこれまで費やした努力は何だったんだ!?

だから、思う。先輩だって、食わず嫌いはやめて、まず経験してみればいいのだ。
なんでも、一つのチャンスと思って取り組んでみることだ。
といってもお見合いは、本人の努力でできるものじゃなく、親の人脈に依存する。そういうつきあいを持たない親もいるので、だから誰でもできるものではない。でもだからこそ、できる縁があるなら、やってみたほうがいい。

そして、不幸にして気に入らなかった場合の断り方も、洗練されている。
もしことわりを入れれば、「こちらには立派過ぎる方で」とかなんとか定型化された口述で、間に立った人がことわってくれる。

うーん、なんて楽なんだ。


ただ、明らかに他の形とは違うこともある。お見合いは、デジタルだってところだ。

お見合いはこの社会で最も制度化された出会いの形。結婚という制度と不可分。だから、それに向けてつねに結果を出すことが求められているのだ。
また会いますか? イエス。イエスということは、その人と結婚する意思があるということ。イエスの札を何枚かめくりれば、その先にあるのは自動的に結婚、となる。エスカレーターでそこまで運ばんでいってくれる。

しかし。もし1回ノーの札を切れば、そこで終わり。
もう二度と会うことはない。

中間解は、ない。
もう少し、友達関係を続けたい、なんて曖昧な選択は許されない。
キビしいな〜。

そう。だから、軽い気持ちでのぞむと返って後悔することもになったりする。でも最初はそういうものだとわかっていなくて、失敗しちゃうんだよね。
それである程度の覚悟をしてのぞんでいても、やっぱり応えるもんな。

相手にことわられちゃうこともあるし、こちらもファジーな態度が許されないから、では結婚ってなんだろうとか、いま僕の人生に必要なんだろうか。あれやこれやつらつら考えて。まあ、恋愛でもいつかの段階で結論を下すことなんだろうけど…。
出会った早々からそういうことを考え込んで、げんなりしてきたりもする。

まあ、そういったものを一通り経験すれば、お見合い初級レベルは卒業と言えるんじゃないかな、という気はするよ。
むかしと違っていまはお見合いでも、1回目の相手で決めることはなくて、何回もこなすのが普通。やはり最初のうちは、周りに言われて、当人の多少の好奇心もあって、考えも固まらないままのぞむんだろうしね。

ふぁ。


そう、前回この「お見合い放浪記」を観た時は、初級も初級、そういうお見合いの道理を一通り経験して、わかってきたころだったんだよなあ。
だから、ドラマに絶妙に共感して、ビビッドに反応しながら観ていた。
じゃあ、その後何回か経験して、それで初級を脱してきたのかというとそうでもない。いつまでもアマちゃんである。

ただ思うのは、お見合いはいろいろな出会いの形の一つである。この出会いの形が向いている人もいるんじゃないかってこと。
小説、映画、TVドラマに、ラブソング…。この世の中はなぜだか恋愛至上主義の価値観が行き渡っている。自由恋愛せざるもの人にあらず、って感じで。
でもべつのところに書いたけど、みんなが“掛居君”や“取手君”になれるわけじゃない。

そう、現実には自由恋愛というスタイルがうまくこなせない人も少なくないと思うんだよね。
そもそも自由恋愛なんて、たかだかこの数十年間出てきたスタイルに過ぎないのだ。数万年に及ぶ人類の長い歴史のなかではいたってマイナーな方法なんである。
だからこの時代にあっても、お見合いのような出会いの形があってしかるべきんじゃないかと思う。

かくゆう僕は、自分で何が向いているのかいまだわからないでいるけど…。
でもこの世の中には、お見合いという形こそがベストフィットな男女が、きっと少なからずいると思うのである。


それにしても……。
omiai_3そう、それにしてもだ。

僕も水野真紀とお見合いしたかったっ (;´Д`)

絶対ことわらないよ!


(以上。先日mixi日記に書いたコラムですが、せっかくなので一部手直ししてこのむびろぐにも再掲しました)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 10, 2005

アイランド

ciscoスクリーンの向こうに、Cisco SystemsのIPフォンの未来が垣間見えた。

アイランド

映画のなかで使われている電話が、そう、Cisco Systems製なのだ。

といっても現状では存在しない製品である。なにせこの映画の舞台は2019年。
ふだん目にしている現行機種よりも、大幅に性能はアップしているらしい。映画のなかのCisco製IPフォンはビジュアル対応、つまりTV電話になっている。留守録も音声のみならず映像で記録するようにできているようだ。

それがなぜCisco Systems製とわかるのか?
一目瞭然である。Ciscoの企業ロゴが堂々と表示されているのだ。

ふむ…。

僕の仕事は一応、ネットワークエンジニア。

こういう分野で働いている人ならわかると思うけど、通信事業者や企業などにおける、インターネット関連の通信機器で最も使われるのはCiscoの製品。
ワールドワイドでのシェアはナンバーワンである。

当然、僕の仕事でもとても関わりが深い。
とゆうか、最近じゃCiscoのIPフォン製品を使ったSIのビジネスを立ち上げろと言われたりしとるんだわ。もろだがね。

ということで。なにかしら自分に関わりのあるものがスクリーンに出てくると、気になって目で追っちゃうよね。

Ciscoの電話機は、米国の映画やTVドラマにはわりとよく登場しているようだ。
以前観た映画では、スパイダーマン2などでさりげなく登場していた。僕は観ていないけど、24でも出てくるという話がある。
(ちなみに国内では、ドラマ「東京ラブ・シネマ」でも出てきたんだけど…気づいたのは僕くらいかな?)。

このアイランド、小道具としてさりげなく使われているのではなくて企業ロゴ入りで堂々と使われている。
しかもいまある製品ではなく、未来のカッコいい製品。つまり想像の産物なのだが、しっかり企業ロゴだけはついているから、やたら気になってしまった。

たんなる撮影協力ではなく、もしかするとスポンサーにでもなっているのかなあ? そう勘ぐりたくなるほどの露出ぶりだ。真相はいかに。

ちなみに冒頭では、Xboxのロゴが登場しているね。あと、街角端末にはMSN Search。MicrosoftにCisco Systems…勝ち組連合であるが。むむむ。
もしかすると僕が気がつかないだけで、この映画には、他の分野の有名ブランドも登場しているのかもしれない。

iland映画自体はテンポよく展開していって、少なくとも観る前に抱いていた予想以上には、面白かった。
クローン人間が主役という設定だけど、話の途中からほとんどスピード観溢れるアクション映画と化す。高速道路で暴走を繰り広げていたと思ったら、空飛ぶバイクでビルに突っ込んだり。その後70階から落っこちることになって、でもわけわからんうちに無事助かったりとかね。

近未来が舞台というところでは、なんとなくアイ,ロボットとか、マイノリティ・リポートとか、僕の脳内では連想する部分もあるが—。

結論として、2時間ちょっとの暇つぶしとしてはお薦めできる映画であると思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 01, 2005

亡国のイージス

夜空に次々と打ち上がる花火を、缶ビールを片手に一人眺める。
まわりはカップルが多いよな〜、やっぱり。ここは横浜の赤レンガ広場——。


mm8月1日、久々に横浜みなとみらいまでサイクリングをした。
ついでに映画を見て、花火を見物してきた。

この日は、いわゆる年休消化ってやつでお休み。世間的には映画の日で、映画鑑賞は1000円の日。
そして、毎年恒例の神奈川新聞花火大会の日でもあった。

休暇をとったところで僕にとくに予定があるわけでもなく、いたって暇な1日。
よし、映画と花火をセットで見てくるか、と。
そしてせっかくだから自転車漕いで行ってみよう、最近体動かしていないしな〜。そう思い立って、繰り出したわけだ。

僕が所有している自転車は、実は折り畳み式の電動アシスト自転車
namamugiなかなかにクールなマシンである。

しかしながらそのクールなマシンも、目下バッテリが壊れて目下電動アシストは機能しない。なんとっ。
電動アシストの効かない電動アシスト自転車。その存在にいったい何の意味があるのだろう。シュールだ…。

portsideでも、電動アシストの機構に代わって僕ががんばれば、自転車としてはちゃんと機能する。うぉ〜っ。
僕の住む、横浜市内の某所からみなとみらいまで片道8キロメートル。
国道に沿って平坦な道を行くので、障害は少ない。
(右側の写真は、途中の道中だす)。

映画を見終わってワーナーマイカルみなとみらいを後にするともう夕刻。周りは浴衣姿の乙女たちでいっぱいである。
akarenga浴衣の女性を見ると、“初(うい)やつよのう〜ほれほれ”(ムフ)とか、以前は思っていたけど……最近はただただ歳の差ばかり感じるようになってしまい、姿を拝見してもほとんど何も思わない。

人の流れにしたがって、僕もぶらぶらと赤レンガ倉庫のほうに足を向け、広場に場所をとる。

神奈川新聞の花火大会というのは、僕にとっては2回目。
毎年8月1日の日付固定で、平日の開催にも関わらずけっこうな人出らしい。でも、もともとみなとみらいって空き地ばっかりだから、たいして混乱もなくゆったりと眺められますね。これはなかなかいい。

それにしても見渡すと、冒頭に記したとおり周りはもっぱらカップルか、幸せな家族連れか、あるいは仕事帰りのサラリーマンの一団といったところ。
一人で見に来ている御仁といえば、三脚構えた写真愛好家か、いかにもルンペンふうのおっさんとかばかりですね。うーむ。

むむむ。

僕もこんなことしていると、独身のダークサイドにひたすら落ちていくのではないかと、自分でもちょっと心配にはなってくる。

…。

……。


さて、この日に見た映画は、亡国のイージス

ポジション的にはわりとセンターレフトな人間にも関わらず、この春から産経新聞なぞ購読しているワタクシ…(以前のブログ)。
亡国のイージスの製作者には、その産経新聞が名を連ねているようで、購読している新聞の紙面では何ヵ月も前から宣伝が繰り広げられていた。なるほどストーリーを伺うに、産経が好きそうなお話ではあるが…。

ただ、こうくどいほどにひたすら自社グループの企画を宣伝するというのは、新しい歴史教科書の問題を見ていてもそうなんだけど、フジサンケイグループの一つの特徴なんだろうかね。

まあ、邦画の大作であるので、僕にとってはそういうこととは関係なく鑑賞するつもりであった。
原作は、ガンダムオタクの小説家、福井晴敏さんである。


この映画を見て、彷彿とさせられる…というか、わりとすぐに思い出した映画・漫画の作品がある。
以下の3つのタイトルである。

(1) ザ・ロック
(2) 機動警察パトレイバー2 the Movie
(3) 沈黙の艦隊

rockわりと容易に連想するのは、ザ・ロックだろうな。

ワケあり軍人の反乱。化学兵器を奪って都市を人質にとるという行為。こっちでは護衛艦、向こうでは島という違いこそあれ、難攻不落の砦。

思いっきり似とるがね。なんというか醤油のかかった、和風テイストザ・ロックなんだよね。

役者陣を対応させると、真田広之がニコラス・ケイジ、如月行がショーン・コネリー(秘密工作員は若者でなく老獪なタフガイなんだよね)、寺尾聰がエド・ハリス…。中井貴一や佐藤浩市は誰だろう…う〜ん。ま、ザ・ロックには存在しないキャラだな。
いそかぜはアルカトラズ島で、東京はサンフランシスコ。GUSOHは、あれ、なんだっけ? 戦闘機からの強力な弾頭で、化学兵器を周辺もろとも一瞬にして焼き払う、という問題解決のアイデアも同じ。

2作品を見ている人なら確実に、相似に気づいてしまうはずだ。

機動警察パトレイバー2 the Movieは、自衛隊の反乱というテーマで、僕の脳内ではつながった。

パトレイバー自体は、このむびろぐでもなんどか触れている通り、暴走する犯罪ロボット(レイバーと呼ぶ)を取り締まるため警察に設けられたレイバー部隊をとりまくあれこれを描いた、まロボットアニメ版「踊る大捜査線」といえるものなんだけど。

その映画版第2作機動警察パトレイバー2 the Movieは、パトレイバーの舞台設定を借りて、国家の現状に不満をもつ一部の扇動家が、覚醒を促すために自ら策謀をめぐらし危機を演出する様子—いわば平成の2・26事件を描いた作品である。

ちょっと違うのは、亡国のイージスはどうにも右翼っぽいんだけど、機動警察パトレイバー2 the Movieの視点は左翼っぽいんだよね。1993年の公開だからそうだね、いまに比べてまだまだ左翼の論理が力を残していた時代の、香りが漂っているんだろうな。

chinmokunokantai沈黙の艦隊は、同じ頃に週刊モーニングに連載されていた漫画作品だ。
今回の映画は、無敵の艦船としてイージス艦が舞台に選ばれているわけだが、沈黙の艦隊のそれは、原子力潜水艦だった。

政財界が極秘裏に建造し、米軍所属とした国産の原子力潜水艦。そいつが独立国家を名乗って脱走し、米ソの艦隊をなぎ倒し、世界政府の樹立を掲げて海江田艦長が国連総会に登壇するという、ホントむちゃくちゃでご都合主義的展開ふんだんで、それゆえ壮大かつ爽快なストーリーのコミックだった。

冷戦が終わった直後の、これから世界はどうなる?という模索していた時期でもあり、そうした雰囲気を非常に濃く漂わせている。当時の世界は、新しい秩序を作っていく多くの機会にまだまだ満ちていた。民族紛争は噴出しかけていたけど、テロも拉致もないし、あるいは、インターネットとか、この21世紀を象徴する多くのものがまだなかった(…いまから思えば、あの頃はよかったな。)

この作品もいま読み返すと左翼っぽい。
憶測だけど、作者のかわぐちかいじ氏は軍事マニアではあろうけど、本質的にはきっと左の人なんだという気がする。

特徴的なのは独立国家を名乗る無敵の潜水艦“やまと”は、日本国の自衛隊と同じく、専守防衛をモットーにしているところ。
米軍が攻撃するまではけっして反撃しないし、にも関わらずニューヨークまで到達してしまって、最後の海戦では魚雷を使わずビーコンだけで仮想的に米艦隊を全艦撃沈するというマネまで繰り広げてしまう。

亡国のイージスでは、現実の戦争では専守防衛は成り立たないのだ、ということを示すため直前まで味方として行動していた護衛艦が標的になる。有無を言わせる間もなく、ミサイルを発射していきなり沈めちゃうんである。それと比べると、まっこと対照的であるよね。
chinmokunokantai_1しかし友軍がいきなり反乱を起こしたら、べつに専守防衛じゃない軍隊だって対応できないだろ…。それを「よく見ろ日本人、これが戦争だ」というのは、映画的ではあるけどちょっとゴーインか?

で、これが沈黙の艦隊だと、護衛艦隊は米艦隊との戦闘に巻き込まれるなかにあって、攻撃されても一切応射するなという指令を出されて身動きがとれない。
そんな護衛艦隊の姿を見ても、“やまと”の海江田艦長はなぜかわりとポジティブ。「やはり日本は銃を持っていても撃てぬ国らしい。いい国……だ」とほくそ笑む。
chinmounokantai_2いやあ、盲目的なまでの専守防衛への信奉である。

かわぐちかいじ氏は、この専守防衛の理念がかなり気に入っている模様。現在連載中のジパング——これは、21世紀の護衛艦が太平洋戦争さなかにタイムスリップしてしまうという、これまた荒唐無稽な設定の漫画だけど—そのなかでもタイムスリップして護衛艦みらいの梅津艦長にこう喋らせている。
「専守防衛は平時のお題目ではない。我々の灯台じゃよ」
zipang太平洋戦争の戦闘に巻き込まれ初の戦死者を出した直後でなおこのセリフ。相当の確信犯である。

沈黙の艦隊について言うと、なにせ執筆当時は湾岸戦争の後で、国連のPKO活動に自衛隊を出せるかどうかで揉めていた頃。いまのようなイラク派遣とか有事法制の整備とか全く考えられなかったし、そもそも野党第一党はまだ、自衛隊は憲法違反だと主張していた。そんな時代である。
そんななかで教条主義的な二項対立に陥らないための方便としては、理念を肯定しつつ状況を一気に飛躍させるストーリー展開が求められたんだろうね。


専守防衛という理念の扱いと同時に、亡国のイージスと比べて沈黙の艦隊の特徴としてもう一つ浮かび上がることがあるとすれば、民主主義のプロセスの重視ということかな、と思う。

実は、亡国のイージスを見ていて、何がいったい“亡国”なんなんだよ、といそかぜ反乱の道理が腑に落ちないところがあった。いまの日本は国としての在り方を失っている、と言われたってな〜。
この辺は、映画の上映時間の制約などもあって、もしかすると細かく盛り込めなかった部分なのかもしれないけど…(原作ではちゃんと説明しているのかな?)。
いずれにせよ、亡国と言われたって、ここの政府は正当で民主的な手続きを経て成り立っているんだし。そもそも納税者が国家に差し出したお金があるからこそ、イージス艦などの装備も揃うし、給料も払えるんである。お金の出所を考えずに亡国とはなにごとじゃ〜。よしんば亡国であったとしても、あくまでそれを守って働くのが筋だろ。おい。

…と映画の登場人物の理屈にケチをつけてもしょうがないわけけど。ただ、反乱というものはいかに高邁な理想を掲げたところで、ケチをつけられるのはかようにたやすきものなのである。
仮に、腐敗からはるかに遠く清純な存在であったとしても、反乱軍というもの自体が根本的な欠陥をはらんでいる。それは、言うまでもなく正統性の欠如だ。

自分勝手な理屈で武力を奪って突き進むのであれば、それは過激派とか、それこそ強盗とか何ら変わらないということになる。
その辺の犯罪者と違うことを示すためには、自分たちの行動が恣意的なものではなく、民衆の支持があることをできるだけ速やかに示さなければならない。

かわぐちかいじ氏は作品を執筆していてその矛盾にわりと早く気づいたのであろう。沈黙の艦隊では、独立国を名乗る潜水艦“やまと”の理想に協力することの是非をめぐり、日本国の総選挙が争われる。そして、“やまと”支持の政権が成立。話の途中で、民主主義の折り紙をつけてしまったわけだ。
さらに物語が進んで終盤では、国連総会が舞台になったり、さらには衛星放送とネットワークを駆使した同時投票という形で、世界市民全体の意思を現すということまで描いちゃっている。

亡国のイージスの物語においては、いそかぜの幹部たちは正統性を得る努力に欠ける。というか、この面に関してはほとんど何もしないのである。
反乱が即座に崩壊するのも、必然であるといえよう。


結局。この映画の教訓として僕が得たもの。
いやあ、シビリアンコントロールって大切だよな〜ということ。たくさん人を殺せる武器をもったなら、なおさらである。
あわせて“亡国”とかなんとか一人よがりな理屈を本当にのたまわれたら困るわけで(ま、そんなことはまず絶対ないんだろうけど)、逆にいまのこの国の価値観を守るものとして存在するのが、自衛隊であるべきだと思うよ、ってこと。

そんなところである。

まあ、なんだかんだいっても防衛庁の全面協力を仰いで作られただけあって(石破茂さん、ありがとう)、艦船などのハード面では強烈にリアルに迫ってくるものがあります。ミリタリーオタクな人にとっては垂涎の1本と言えましょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 29, 2005

姑獲鳥の夏

姑獲鳥って、「うぶめ」って読むんだね。最初、映画のタイトルを見た時は読めんかった。

姑獲鳥の夏

おどろおどろしい(読めない)タイトルと、どこかの雑誌のストーリー紹介にあった、妊娠20ヵ月の女、とかなんとかいう文言から…キャーッ、、怪奇! 妖怪変化〜なお話かと思っちゃったんだけど。

でも鑑賞してみたら、猟奇的な雰囲気はちょっと漂っているものの、いたってロジカルなお話であった。
(ちなみに、原作者の作家・京極夏彦さんには独特のファンが多数いるみたいだけど、僕自身はこの原作も含め、氏の小説には全く触れたことがありません)。


m1000_1ところで、話は変わるけど勤め先でNTTドコモのビジネスFOMA、M1000に触れる機会があった。

PDAの時代は終わった。
さようなら、PDA、とさるコラムに記して、最後の機種の使用を辞めたのは1年以上前のことか。
それまで、シャープ電子手帳、ザウルスシグマリオンCLIEと、10年間、7〜8機種にわたってPDAを使っていた僕であるが、結局、携帯電話で求めていた全てのことができることに気づいてしまったのだ。

そう、この小型情報デバイスを駆逐したのは、片手で簡単に操作できる携帯電話だった。親指大国の成立に伴って、手のひらで操作するPDAは駆逐されたのだ。

そんななか遅れて来たPDAとでも言える、M1000
とはいえ、このM1000は、はたしてPDAなんだろうか? それともスマートフォンと言うのがいまどきの呼び方なのか。

ま、PDAは死んだとかなんとか言っても、小型電子デバイスに弱いのはある種の男性に共通する性質。
僕の周囲にも少なからずM1000に興味を抱いている御仁が少なからずいる。
しかし! そんな方にこの製品の機能を正しく説明すると、たいてい「それじゃ〜」と言われてしまう。そのポイントをここで明かそう。

一つ目。「M1000は、iモード使えませんよ」。これだ。
これを言うと、10人中、8,9人はガックリくる。

そこでフォローする。「いまのFOMA端末はそのまま持っておいて、iモードを使いたい時はSIMを入れ替えればいいんですよ」

そして次に。
M1000のWebブラウジングは、パケ・ホーダイの対象にはなりませんよ。Webをガンガン見てたら“パケ死”します」。
“え〜。だめじゃん”。

これには、ちょっとフォローしようがない。まあ、あえて言うとすれば無線LANが使える、ってことかな。だからホットスポットを使ったり、家庭の無線LANにつないだりしている間は、通信料金は抑えられる。

そう、その無線LANだ。
m1000_2今回、M1000を渡されたのは無線LANの機能をテストするためだった。このむびろぐにも繰り返し書いているけど、職場での僕のミッションは無線LANの担当エンジニアってことになっているからね。

ということで、無線LANの設定画面を披露しよう。
M1000は、IEEE802.11bの無線LAN機能を搭載している。

まず、無線LANというか、その手前のネットワーク接続の設定の画面ね。
moperaについては、デフォルトで設定(プロファイル)が入っているみたい。ホットスポットとあるのは、NTTコミュニケーションズの無線LANサービスホットスポットに接続するために僕が新規に追加して作ったプロファイルだ。
無線LANの設定である。

m1000_3ネットワーク接続から無線LANを選んで設定を開いてみると…。

無線LANに触れたことのあることなら、おわかりでしょうか。IEEE802.1X認証に対応していて、LEAP、EAP-TTLS、PEAP、EAP-MD5の4方式に対応しています(しかし、EAP-MD5って無線LANでいまさら使うんでしょうか…脆弱性が指摘されているのに)。
この写真にはありませんが、TKIPの暗号化にも対応しています。IEEE802.1X認証ではなくて、WPA-PSKを設定することもできます。

ということで、このM1000、無線LAN端末として、まあそこそこ優秀なやつだってことはわかりますな。

m1000_4実際に手に持ってみると、こんな感じ。

ちょうど、ホットスポットに接続して——SSIDとWEPキーを設定して、Webブラウザ上からおなじみのログイン画面でホットスポットのID、パスワードを投入すれば難なく接続できます。設定はPCと何ら変わりません、——それで一般のニュースサイト(asahi.com)を閲覧しているところ。
一見してわかるのはフォントが綺麗なところ——そうですね、ちょうどMac OS Xの画面でWebを見ているような感じかな。ギザギザ感のないフォントのせいで、随分と読みやすく感じます。

m1000_n2102v手持ちのFOMA、N2102vと大きさを比較してみました。

ふむ。

あ。サイズ、重さについて記しておくと、そうですねえ。
手に持った感じでは、これまで慣れ親しんだ携帯電話の電話機よりは、ちょっとごっつい感じはすると思います。

そうそう、このM1000、もちろん電話もできますよ。あまりに当たり前の機能なんで、写真撮るの忘れていた…。
電話については、FOMAのW-CDMA方式だけでなく、GSM方式にも対応している。だから、国際ローミングサービスWORLDWINGを契約して海外に持っていけば、現地で日本の電話番号そのままで電話を使うことができる。
NTTドコモで同じような機能を持つ電話機は、他にはN900iGしかないんだよね〜(N900iGに関する以前のブログ

m1000_5最後に、このむびろぐも表示させてみました。
いかがなもんでございましょう?

パケ死”覚悟でお試しを!

ちなみにこんなWebサイトもありました。

M専まとめサイト
http://www2.atwiki.jp/m1000/

ということでM1000は、1日いじって予定通り返却。
ではまた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 18, 2005

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐〈日本語吹替え版〉

newsweek_starwarsダークサイドって、いったいぜんたい何?

目下ワールドワイドで話題になっている作品、「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」を観た。2005年の海の日のことだ。

それで、思ったこと。

評議会の議長(実は後で暗黒皇帝になる悪い奴)は、アナキンを懐柔しようとしてこうささやく。

「フォースの“暗黒面”を学べ……ジェダイからは無理だ」。

フォースの“暗黒面”(ダークサイド)。
うぉぉぉ、なんだかスゴそうだ。ア、アナキン〜。

で?

でで。
ででで。

で結局のところ、ダークサイドって、何なのさ。

スター・ウォーズはマニアックなファンも多く、世間にはかなりハマっている御仁も多そう。そんななかでこんな質問をしてしまうのは申し訳ない気もするけど。

残念ながら、スター・ウォーズの物語世界に、それほどのめり込んでいない僕。
抱いてしまった感想なのだから、しかたがない。
ダークサイドって何?

僕の脳みそが話を追った限りの理解によれば、アナキンは、フォースのダークサイドを求めて、ダースベイダー卿になった、ということらしい。

しかしもし、アナキンが行動で示したものがダークサイドというなら、ダークサイドというのは“思い込み”“勘違い”のことなのだろうか。

“勘違い”に走ったジェダイ。
(ジェダイというのは、スター・ウォーズの物語世界における、騎士みたいな人たちのこと)。

相当にイタい奴ってわけだ。
しかも、ライトセーバーを縦横無尽に駆使する使い手でもあり、周りの人にはけっこうな迷惑。斬られると本当に痛い。

まあ、あまり細かいこと考えずに、この映画はノリとフィーリングで楽しめばよいんだろうね。
きっと。


この海の日の3連休。まんなかの17日に、横浜の山下公園で国際花火大会があった。
例年の通り、僕は場所取りをしてのぞんだ。

この何年かは独身の友人も減ってきて、けっこう寂しい見物になったこともあった。ところが、今回は思いもかけず大人数となった。というのも友人が、彼の知り合いで日本にて働く韓国人の友人(とその友達)を誘ったからだ。

ということで日韓の男女数人とともに花火を鑑賞するという、ちょっと奇妙で、とても楽しい一夜となった。
聞いたところでは韓国には、日本のような花火大会はないみたいですね。喜んでもらえてなによりだった。

やっぱり、花火はいいよなあ。


ついでに、最近の時事について触れておこう。

小泉首相は、郵政民営化法案が参議院で否決されたら、衆議院を解散すると言っているらしい。
参議院で否決されて、衆議院を解散する。はたして妥当なのか、疑問の多いところなんだろうけど。ただ、それ以外の選択としてはあとは辞めるしかないわけだし、手がないんだろう。

僕には郵便局を民営化するのがはたして適切なことなのか、よくわからない。
ただちょっとだけ言うと、働く立場の問題として考えて民営化ってそんなに悪いものじゃないと思う。

僕自身がかつては巨大な公営企業として存在し、かなり以前に民営化された会社に勤める経験を持っている。
やはり民間に属してからのほうがいろいろ創意工夫ができたり、スピード感のある事業展開とかやりやすくなったんだろうなと思う。

もちろん、企業には光と影があるわけで、これまでに大規模なリストラも施されたりもした。
仕事で関わった人が働きがいを失ったり、違う分野に糧を求めて転じていく場面に立ち会う。そういう時期もあった。これは正直、応えるものだよ。

でも背景としては市場が飽和したり、新しい技術による競争が始まったり、周辺環境の変化があってのもの。そこは、民営化されたのが悪い、というものではないんだよね。

と、そうはいってもリストラに遭うリスクは民間のほうが高いのは摂理。働く立場として労働環境が大幅に変わることに不安感を抱いてしまうのは当然ではある。
だから公社の従業員のみなさんが、反対に回るのは理解できる。

そこはでも、上述の通り新しい会社になればこれまでにない取り組みができたり、創意工夫が通りやすくなったり、そういう機運も同時に広がるわけだ。
そのなかできっと不安感は払拭され、新しい働きがいも生まれるだろう。そう思って前向きにやってほしい…というのはいささか楽観的でしょうか。

それから、政治の問題としてちょっと思いを馳せると。
事ここに及んで、これだけの政治力が繰り広げられていて、それでいて法案が否決される。おいおい、これって前例としてよろしくないのでは、とは思う。

結果として日本のなかに手をつけられない“聖域”を残してしまうんじゃないだろうか。
内閣倒れて、公社が残る、のである。総理大臣が政治生命をかけても、形を変えられない国の組織が存在するって、いったいどういう意味を持つのだろうか?

もう、この問題に対して誰も大ナタを振るうことはできなくなる。それがはたして、よいことなのだろうかね。


解散になれば、後輩の熊谷君が岐阜4区から立候補することになるんだよね(以前のブログ)。
彼も、準備期間が短くこういう局面を迎えるのは大変だろう。けっこう心配だな…。幸運を祈ると同時に、少なくとも健康だけは保ってほしいと思う。

心身ともダークサイドに落ちないように。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 16, 2005

電車男

「あれって実話なんですかね」

ランチの際、電車男映画を見たことを話題にすると、返されたのが上のセリフ。

「さあ、どうだろう。僕は…」
これまでも何度となく繰り返して来た会話なのだけど、いまだにお決まりのパターンのごとく訊ねられる。そして僕は自分の見解を口にする。

ふむ…。

denshaotokoということで、電車男


2ちゃんねるスレッドが全ての始まりとなったストーリー、「電車男」。
最近はTVドラマも始まって、わりと好評らしい。

そのTVドラマ版「電車男」第1回の放映の直後。7月の海の日の3連休の初日に、僕は映画館に足を運び、映画版「電車男」を鑑賞してきた。

TVドラマのなかではエルメスは伊東美咲で、電車男は伊藤淳史である。これが映画は、電車男を山田孝之、エルメスを中谷美紀が演じている。

TVドラマの第1回を見ていると、ドラマの冒頭にエルメスと電車男の出会いのきっかけとなるで電車のシーンに、山田孝之らしき人物が一瞬出てきた。
あまりに唐突だったので、それがいったい何を意味しているのかその時はわからなかった。

ところが、映画を観たところ、映画にも同様の映像が挿入されていた。
ラストのスタッフロールが終わった後におまけのようについてくるワンシーン。そこには伊藤淳史の電車男が登場する。
つまり、TVドラマの予告編をクリップしていたのだ。

映画に予めTVドラマの予告編が組み込まれる。
なるほど、製作にテレビ局が入っているわけだし、映画とTVドラマはセットで考えられていたのだろう。
商魂たくましさの一つの実例なのかもしれない。いや、メディアミックスというのか。


それにしても、たいした人の入りだった。

今回、映画館としてはTOHOシネマズ川崎に出かけた。
公開から既に何週間かたっているのに関わらず、劇場はほとんど満席に近い状態だった。

こういう光景を見ると、ついつい考えてしまう。

どういうことを考えるかというと、こんなことだ。

この電車男、ストーリーそのものが一つの奇跡みたいなもので十分に魅力的な物語だ。
だけど、こうなってくると別の側面として、人口に膾炙し消費の土台に載っていった過程のほうに不思議なものを感じてしまう。

つまり、2ちゃんねるのスレッドから始まって、一部のネットユーザーの間で盛り上がりを見せ、そこに一般メディアが着目し、漫画、映画、ドラマといった大衆も消費できる形式に次々と変換されていく。
その過程のことだ。

僕には、この過程そのものがたいしたものだよなあと感じられる。
それこそがあたかも一つの奇跡ではないだろうか。同時に、奇跡のようでありながら、何かネタがあればそれを貪欲に消費する高度資本主義社会の典型例のようでもある。
僕にはとても興味深い。

いまとなっては電車男の魅力は、この過程そのものにある。そう言っても過言ではない。
満席に近いシートを眺めて、そう思った。


さて。

「あれって実話なんですかね」。

僕の見解を記しておくと。
僕は、実話だと思いますね。多分に、本当にあったお話なのだろうと思う。

その理由は—。

書籍版の電車男を読めばわかるけど、このお話は、ラブストーリーとしてはいささか単調に過ぎるからだ。

おそらくフィクションであれば、もう少し山あり谷あり、という起伏をつけるだろう。

ところが実際には、これはきわめて順調に、ひたすら一直線に進んでいくストーリーになっている。
スレッドに集う“毒男”たちの反応—2ちゃんねる用語やAscii Artのオンパレードはきわめて面白いのだけど、それをのぞいて眺めるならば、まったく“谷”がない—電車男はエルメスを食事に誘って以後、いちども挫折していない。

つまりはたんなる幸運な男の物語なんである。

あまりに順調に事が進むので、僕は書籍を読んでいて拍子抜けしてしまった。
僕も日々、電車男並みの努力はしているつもりなのに、なぜ僕の人生にはエルメスたんが現れないのだ!?

答えは単純である。彼は幸運だった。
それだけだ。

この拍子抜けするほどの起伏のなさが、逆に信憑性を醸し出す。
だから僕は、これは実話なのだろうと思うのだ。

そして、この全く単調なストーリーをいったいどうやって映画やドラマにするのだろうと思った。

それを確かめたいという思いもあって、映画館に足を運んだわけだが。
結論をいえば、案の定そこは全く新しいエピソードを創作していたのである。

映画では、舞い上がっていた電車男がいったんくじける、という場面を作っているのだ。
その挫折から2ちゃんねらーの心温まる励ましで再び立ち直ると、電車男は全力でエルメスのもとに走る。
秋葉原の、周囲にネオンサインが煌めく交差点で二人は出会い、ハッピーエンドとなる。

ほう。

この創作のつけたしで、電車男は映画として成り立った。

もともと、オタクの恋愛というキワモノ性と、2ちゃんねらーたちの反応以外とくに面白さのなかったこの物語
それを恋愛ドラマとして一般に消費できるレベルにもっていくことは、やっぱり甘受しやすい形に翻訳することが不可欠だったのである。


“ああ、こういうふうに描くわけね”。
と、劇場でスクリーンを眺めながら、醒めた頭で僕は考えていたわけです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 03, 2005

宇宙戦争

ださくてカッコ悪いトム・クルーズが、ひたすら逃げて逃げて逃げ回るお話だった。

newsweek050706宇宙戦争
おなじみ、H.G.ウェルズ小説を原作とした、映像大作である。

映画の内容は、珍しくあまりぱっとしない男を演じるトム・クルーズが宇宙人たちの攻撃から愛する家族を守りつつ、ひたすら逃げる話。
逃げるが勝ちとはこのことか。いや、負けているけどね。
(そういえば、マイノリティ・リポートでもトム・クルーズは逃げ回っていたなあ。もっとも、この映画ではカッコよい役回りだったし、話の途中から反撃に転じていたけど…)。

とはいえ、ラストはあれですよ、あれ。もはやあまりにも有名になっている原作に忠実に従っています。
これはよい…かな?

ちょっと心配するのは、小説のラストを知っている人なら納得できるけど、知らない人が見るといささか強引な幕引きに思えるかもね。
トム・クルーズ演じる主人公が娘を連れて逃げ回ってようやく街に到着すると、唐突にエンドを迎えてしまう…。ストーリーとしてはいささか尻切れトンボな印象はぬぐえない。

でもSFの金字塔である原作がそうなんだから、むやみに手を加えるよりはましなんだろうなあ。
というか、このラストを採用しなければ、ウェルズ小説を原作にしているとは言えなくなっちゃうよね。もう一つの柱、火星人が攻めてくるという設定はこの21世紀においてはいまさら採用できないわけだし。

うん。


ところで、みなさんはこの銀河に、いわゆる宇宙人と呼ぶ存在がいると思いますか?

ちょうど、OCNブログ人のなかのコーナーの一つ、ブログ人のトラ場宇宙人っていると思う?というテーマで意見を募っていた。

これによると、「いるかも?」という人は、93.8パーセント。「絶対いない」という人が6.2パーセントだそうだ。

これ、“いると思う/いないと思う”という選択肢ではなくて、“いるかも?/絶対いない”という回答のとり方なので、前者の回答が多くなるというのはわかる。
それにしても、みんな宇宙人はいると思っているわけですね。
これはやっぱり、アレですね。あの、矢追純一さんの功績といえるんじゃないでしょうか。

ふむふむ。

じゃ、僕の意見はどうか。

僕が信じていることについていうと、実は“絶対いない”派なんだな。

少なくとも、この銀河のなかにはいないだろう、と思う。

もちろん、いてほしいという思いもあるし、ファーストコンタクトものを描いたSF作品ってものはそれなりに楽しんでいるんだけど。
一方で、あくまで感覚だけど、生命の誕生や進化というのは、簡単には起こりえないのではないかと思うんだよね。それこそ奇跡の上に奇跡を重ねたような偶然の上にあるものなんじゃないかと思っている。

だから、思う。
この銀河系にいて生命が発生したのは、地球だけ。この銀河における知的生物というのはわれわれだけ。
われわれが滅んだら、この銀河における知的生物の歴史はおしまい。
それがこの宇宙の現実。
人類の責任重大。

僕はそう思っている。

もちろんこれは僕の思い込み——信仰であって、他の人がどう思うかまでは干渉しない。それに現実がこの通りという確証もない。でも、同じくらい、というかそれ以上に地球以外に知的生物が存在するということの確証もないと思っているのだ。

だから、僕の考えを改めるとしたら、そうですね、他の惑星に生物が発生した痕跡が見つかるとか、宇宙において地球以外の知的生物の活動が発見されるとか。
そういう画期的な発見があったら僕は喜んでそれまで信じていたことを捨てようと思う。


hiroiuchu昨年の夏。こんな本を読んだ。

広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由」。

「みんなどこにいるんだろうね?」
そう科学者フェルミはつぶやいたという。
このことから名付けられたパラドックス。

宇宙には無数の星が存在する。だから、地球外文明(ETC)との遭遇があってもよさそうにも関わらず、私たちは出会っていない。
これがフェルミのパラドックスで、これまで数々の科学者がこの難問に挑んできた。

この本では、著者が選び抜いた50の理由が、3つに分類されて説明されている。その3つとはこうだ。
「実は来ている」。「存在するがまだ連絡がない」。そして「存在しない」。

そして最終的に著者が抱いている考えは——。
みなさんは何だと思います?

いずれにせよこの本は、現代科学の成果を後追いできる、とても知的な刺激に満ちた書物であった。
僕が2004年に読んだもののなかで、間違いなく最も面白かった本の1冊として推薦できます。

宇宙戦争を鑑賞したら(あるいは、スター・ウォーズ エピソード3でも、はたまた矢追純一のUFOスペシャルでもよいんだけど)、ぜひこの本を書店で探して、セットで読んでみよう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 26, 2005

交渉人 真下正義

あるいは、ライブドアの公衆無線LANサービスD-cubicに成算はあるのか、というコラム。

まずは交渉人 真下正義について。

えーと。

物語のなかでつかれる嘘は、少なければ少ないほどよい。その世界を成り立たせるためにどうしても必要なたった一つの嘘だけが許される、といっても言いだろう。

そうであってこそ、物語に真実味が増し、それゆえの面白さというものを醸し出すのだと思う。
これはたとえば、時に荒唐無稽と思われがちな、SFやアニメーションなどの作品においても変わらない原則である。

たとえば、平成ガメラの第1作、ガメラ 大怪獣空中決戦は、巨大なカメの怪獣が存在するという一点をフィクションとし、あとはリアリティに徹した。そのおかげで、キワモノ仕立て、あるいはお子様向けに陥りがちな怪獣映画としては、希有な傑作になった。
あるいは機動警察パトレイバーが、警察組織を描くという、思いっきり体制派の内容に徹していることを評価されながら、このロボットが縦横無尽に活躍できるためには電柱がない世界でないとダメだねと喝破されたり…(これはたしかBSマンガ夜話のトークで明らかにされた)。

交渉人 真下正義を見ていて、思わず叫びたくなった一言。それは…。

地下じゃ携帯の電波は届かないんだよぉおお〜っ。

ということ。

地下鉄の駅も最近では携帯を使えるようになってきて、随分と便利になった。
(名古屋の市営地下鉄をのぞいてね…名古屋の事情についてはこの記事を見よ)。
最近では、これは東京の地下鉄の話だけど、公衆無線LANが利用できる駅も増えてきているようだ。
しかしながら、いくらなんでも駅と駅の間の全く地下の区間において携帯が通じるという話は聞いたことがない。ましてや建設中の区間においてをや。

だよね。

でも、と思い直した。
これはたぶん地下でも携帯の電波が通じるという世界の話なのだ。

ところで、上で機動警察パトレイバーというアニメーション作品の名前を出したのだけど、フリー百科事典サイトウィキペティア同作品の解説によると、「踊る大捜査線などでで知られる本広克行などに強い影響を与えており、特に同監督の交渉人 真下正義は本作品へのオマージュが多々あった。」との記述がある。

ほほう〜っ、いったいどんなところにオマージュが隠されているのだろうと思いつつ鑑賞した。
たしかに警察組織の現実を描くという点において、パトレイバー踊る大捜査線は非常によく似た作品である。
SFアニメーションと、刑事ドラマという違いはあるにせよ、だ。

現場の思いと上層部の無理解、それでいて腐らずに事件解決に邁進する人びとの姿。そしてなんだかんだいっても警察が舞台、大前提として登場人物は“反体制”に走ることも、“体制”を解体することもできず、最終的には巨大な“体制”の一部としてどう生きるべきかが説かれる。
両作品は共通点が多いと僕も思うし、パトレイバー踊る大捜査線に影響を与えたと聞いてもなんら不思議には思わない。

鑑賞したところでは、何がオマージュなのか全てを読み取れたとは思えないけど、たしかにこれは、と思うシーンはあった。

カラスだ。

交渉人 真下正義では場面の切り替わりに、よくカラスが飛ぶ。
たしかにこれは機動警察パトレイバー the movieを彷彿とさせますな。あの映画でも、カラスは欠かせない動物だった。
E.Hobaが飛び降り自殺をするシーンでは肩にカラスを連れていたし、エンドでレイバーが箱船の屋上に上がった時もカラスに囲まれていた。

カラス以外のオマージュが何かあったのかというと、ちょっとよくわからないけど。


電波の話。

地下で携帯は通じるのか、ということを記したので、最近聞いた電波に関するニュースのことを書いておこうと思う。携帯とはちょっと外れるんだけど。

ライブドア公衆無線LANサービス参入の話です。

6月15日に、ライブドアの堀江社長は、公衆無線LANサービス「D-cubic」の事業説明会を開催した。
これは、インターネット上のニュースサイトで取り上げられたし、新聞、TVなどの一般メディアでも報道されたようだから、既に多くの方がご存知だと思う。

山手線内に整備された無線LANアクセスポイントが、月額525円で利用できるという、低価格なサービス利用料金の部分に、大きくスポットがあてられているようだ。
また、同社が販売を行なっているSkypeなどのフリー電話ソフトを併用して、携帯電話の代替にあたるようなサービスになるのではないかという期待もされているらしい。

4-88549-812-0実は、僕はこの無線LANという技術にもう9年ばかりもつきあっているんだよね。
(右写真に掲げたの執筆もした)。

同社が描くビジネスモデルがどのようなものか、そこに勝算はあるのか、ということは大いに気になる。
ただ、そこはひとまずおいて、技術的な観点から面的に展開する公衆無線LANというものにどういう課題があるのかを、記しておきたいと思う。

技術面から見て、同社サービスは見込みがあるものなのかどうか。


まず、なぜこれまでに同じようなサービスができなかったのかを、問うてみたい。

Aironet無線LANというものはそもそも国際的に標準化された技術を使い、製品としても市販の汎用品を用いて構築できる。
その点では、実はライブドアの参入に何ら優位性はない。誰でもできてしまうわけだ。

誰でもできることなのに、どうしていままで誰もなしえなかったのか。

いや、これまでにも参入しようとした企業はいた。

まずソフトバンク東京電力マイクロソフトが提携してサービス開始を表明し、後に結局東京電力だけがサービスの継続を担うことになったスピードネット。これは、標準化された技術ではなかったが、2.4GHz帯においてFH方式の無線LAN技術を活用したサービスだった。主に集合住宅を対象としていた。

スピードネットよりもより今回のモデルに近いのは、MIS(モバイルインターネットサービス)だろう。
人脈的には無線ベンチャー企業のルートと、ADSLの先駆者、東京めたりっく通信に関わった技術陣で開始された事業だ。これは標準化されたIEEE802.11bの技術を使い、電柱にアクセスポイントをとりつけサービスを展開しようとしていた。

しかし、どちらも失敗した。

いずれも、マネジメントの失敗や、十分でない規制緩和、一方で競合するブロードバンド技術の登場という要素に囲まれていたのだろう。
ここではそれらの分析を省き、技術的な観点のみ説明する。

つまり、技術の採用や周波数の利用にあたっての制約はほとんどないにも関わらず、面的に展開しようとする無線LANサービスで、成功したモデルはないわけだ。

唯一続いているサービスを見ると、いわゆる“ホットスポット”型のサービスだ。
NTTコミュニケーションズホットスポットや、NTTドコモMzoneなどに代表される、人が集まる店舗やビルなど、特定空間に限定して提供されるサービスである。

これらもビジネス的に成功しているかはわからないけど、技術的には納得のできるモデルである。

なぜなら、無線LANが使う2.4GHz帯は、誰もが利用できる周波数帯。
極端なことをいえば、無線LANに割り当てられた2,400〜2,497KHzは、いわば日本全国で1億2000万人が共有して使っている形になるわけだ。事業者によって周波数が占有される携帯電話などとの大きな違いがそこある。

誰もが使え、しかも限られた周波数帯を効率的に利用するには、それなりの工夫が必要だ。
その工夫の第一はセル(電波の到達範囲)を小さくすることである。セルを小さくし、それぞれのアクセスポイントからのサービス提供範囲を制約すれば、1億2000万人みんなが使っても干渉や混雑は起こらないかもしれない。
逆にセルを広げてしまうと必然的に他人の使っている波とぶつかる可能性が大きくなり、お互いにとってサービス品質が低下してしまうという結果をもたらす。

面的に展開するサービスが残らず、エリアを限定したホットスポット型の事業のみが継続されているという現実。以上を踏まえれば、これは十分に技術的な必然なのである。

ライブドアは、この技術の制約を乗り越える何かをもってサービスに参入するかというと、そうではない。
オープンな周波数帯を利用し、標準化された汎用技術を採用しているということはサービス参入がしやすい反面、つまりそこにはチャンネルの占有や継続的な提供に関して、同社にとって何の優位性も持っていないことを意味する。

技術的な課題の第一である。


堀江社長は、「D-cubicは孫さんの低価格ADSLのモバイル版」と言っているらしい。
でも、ADSLのような有線をベースにした技術と、無線LANのような周波数にのっかる技術じゃ、根本的な違いがあるんだよね。

帯域の拡大に関することだ。帯域の利用について、ADSLは掛け算だけど、無線LANは割り算になってしまうのだ。
こういうことだ。ADSLの場合、基本的にはポート数を増やせば増やすほど、帯域は増える。いまのADSLの最大速度が50Mbpsとすると、50Mbps×ポート数 の式が成り立ち、ポート数を増やせば増やすほど、利用者を拡大できるわけだ。

これが無線LANの計算式では、こうなってしまう。

 54Mbps÷利用者数。

利用者が増えると帯域が減ってしまうのだ。
ADSLでは利用者を増やすにはポート数を増設すればよかった。それに対し、無線LANでは利用者が増えれば増えるほど割り算の形で、帯域が犠牲になってしまうのだ。
あらあら、なんとしたことか。

これが電波というものの現実である。周波数というのは限られた、きわめて貴重な資産だ。もっとよこせといってもムリで、割り当てる権限をもったのは国家のみ。審議会での議論と、法律の改正が必要になる。
そうした現実を前に、この限られたリソースを効率的に使うには工夫が必要になる。

その第一が、上でも述べたようにセルを限定することだ。
電波が届く範囲を限定すれば利用者の頭数を減らすという結果が見込める。これはサービス品質の向上につながる。


そして次に、無線LANの上に音声が載せられるのかという点についても分析しておこう。

ライブドアがSkype製品の販売元になっていることと関連づけて、この無線LANサービスの上で電話としての利用が可能になること——つまり言ってしまえば、格安携帯電話のインフラになること、が期待されている。

ほんまに無線LANに電話なんかのるんかいな。

N900iL実際のところでは、NTTドコモからは無線LAN上でVoIPの通話を実現するFOMA一体型の端末、N900iLという電話機が法人向けに発売されていて、ワイヤレスVoIPの構築はいまシステムインテグレーター各社にとって注力すべきソリューションの一つになっている。

しかし、これもオフィス内という限られた空間で、セルの範囲を限定することを前提とした話。
その前提の上でもかなり品質確保や安定動作の実現に苦労しているという話を聞く。
こうしたSI各社の声を聞くと、ライブドアのように広域に展開する無線LANインフラで、安定した通話ができるかというと困難は多いだろうと思う。

どういう困難があるかというと、面的に展開する場合、物理層の安定が犠牲になっているということです。

端末は、アクセスポイントの直下では54Mbpsで接続する。しかし、もし100m離れたところにある端末があった場合、1Mbpsのリンクレートで接続してくるかもしれない。物理的なリンクが端末ごとに違うのだ。
さらに同じ距離、同じリンクレートのなかでも、ある端末は電波状態(信号の強度やノイズのレベル)がよく、ある端末は悪い、ということが起こりうる。

音声を載せた場合、処理が条件の悪い端末にどうしてひきずられてしまう。
みんながみんな54Mbpsでリンクし、電波状態も良好であれば安定した通話になるかもしれないけど、他の端末が電波状態が悪かった場合、それまで良好だった端末もそのレベルまで落ちてしまうということがあるのだ。

IEEE802.11bを使うN900iLのソリューションの場合、1台のアクセスポイントで面倒の見られる通話数は、7〜9通話くらいらしい。これを越えると、通話している端末が一斉に音質が悪くなるそうだ。
ライブドア無線LANサービスに現実にどのくらい音声の利用者が出てくるのかわからない。ただ、オフィス内での利用よりもセルがより大きく展開しているなかで、7〜9通話という屋内での技術的な上限を越えることはありえないだろう。

音声だけではない。動画の利用も心配のタネとなる。

実は一定時間、ある程度の帯域を占有する使い方に、無線LANは弱いのだ。
なにしろ良好な状態でのリンクレート54Mbps(実効のスループットは20Mbps程度)をみんなで使う帯域共有型のメディア。つまりはシェアドハブだから。

たとえば数Mbps程度の動画でも、複数の利用者が入ればとたんに処理できなくなる可能性が高い。

これが無線LANの現実である。


つまりライブドアのようなサービスモデルに懸念されることというのは、こういうことになる。

利用者が増えれば増えるほど、利用されるアプリケーションがリッチになればなるほど、実は2.4GHz帯の無線LANは限界を露呈してくるものである。
セルが大きくとられていればその分、限界の露呈は速い。

固定通信の上でのブロードバンド環境に慣れたユーザーは、当然無線LANの上でも、同じ使い勝手を期待するこことになる。しかし、無線LANという技術に内在された限界がそれを許さない。
これは、日本全国誰もが使ってかまわないと許された一事業者によって占有できないインフラを使う以上どうしようもできない制約である。いかにお金の力をもってしても、解決は困難だ。


いずれにせよ、もはや2.4GHz帯で本格的なサービスなんてできっこないわけだ。
それは僕の、この技術に関わって来た実感から断言できるし、現に先行した事業者がいずれも成功を見せていないことからも明らかなことである。

ただ、ライブドアがこれらの限界を踏まえた上で事業に乗り出すというのであれば、D-cubicの税込み525円という利用料金の設定は間違いではないのかもしれない。

制限が多いけど、安いからいいでしょ。
そんな感じのサービスになるんだろうな、たぶん。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

June 25, 2005

バットマン ビギンズ

gamera10年前のの春のことだ。
平成ガメラの第1作、ガメラ 大怪獣空中決戦が公開された時、ひそかに怪獣映画好きであった僕はいそいそと映画館に足を運んだ。

その1995年の春といえば、僕にとっては就職を控えた時期だったんだけど、世間的には1月に阪神・淡路大震災が起こり、3月には東京で地下鉄サリン事件が起こった。そんな時代であった。阪神大震災の記憶は生々しく——というか、その時はまだ記憶にすらなっていなかった。震災は、現在進行形のリアルな出来事だった。

そのような時節に公開された怪獣映画、ガメラ
怪獣映画といえばビルを叩き壊すのが定番なわけだ。劇中のビルや高架が崩れさるシーンを見て、うわぁっ、これは地震で被災した人には見せられないんじゃないか、と、映画館のなかで感想を抱いた記憶がある。


あれから10年がたった。

2005年の初夏、鑑賞に足を運んだバットマン ビギンズ。なんとこの映画には、列車事故のシーンが盛り込まれていた。
しかも、線路を外れた列車が地べたに衝突し、さらに地下駐車場に入り込んで横倒れになったまま疾走するんである。
おおおお、なんという符合。劇場で映画を観る人が100人いれば、その100人ともみんながこのシーンに対して、これは…って思ってしまったはず。

さすがに映画館には、列車事故を想起させることについての注記のコメントがしたためられたポスターがあらかじめ張り出されていた。まあ、かくかくしかじかでこんなシーンがあるけど、製作は事故の前だったし、ストーリー上重要だからそのままになっているよ、という内容だ。
実は、鑑賞時にはそんな貼り紙のことなんかすっかり忘れていたのだけど、実際にその場面が出てくるとああ、このことだったのかと思い出した。そして同時に記憶が飛んで、10年前にガメラを観た時の感想をも思い出してしまった。

ま、こういう偶然による、時事の出来事との符合というのは、時折起こるものなんだよね。
たしかに製作者に悪気は全くないだろう。

そういえば、WOWOWで映画マーシャル・ローを放送予定としていた月に、米国では9.11の大規模テロ事件が発生した。そこで、WOWOWの賢明なる検討により、マーシャル・ローは放映延期になってしまった。
なにしろマーシャル・ローは、ニューヨークで無差別テロが起こり、その結果ついに戒厳令が布かれて、アラブ系の人びとが投獄されるというお話なのだ。感嘆するほどの符合である。

いまから思うと、その後同じようなことになるんだからそのまま放送してよかったのではないかと個人的には思うのだけど、それはそれ。
大人の社会には、適切な判断というものが存在する。適切な判断により、マーシャル・ローは放映延期になり、そしてバットマン ビギンズはそのまま上映されるのである。
(9.11の時、米国ではコラテラル・ダメージは公開延期になったんだったけ)。


話を戻して。
この映画については、渡辺謙があまりにもチョイ役だったことに悲しさを感じた人も多かろう。
影の組織のリーダーだった…はずなのに、なんと実はリーダーじゃなかったじゃん!! ただスキンヘッドで意味不明の言葉を話しているだけの、操り人形であったとは。うーむ。。。

と、あれこれ書いてみたけど、わりとよくまとまったお話だと思うよ。そう、たしかニューズウィーク日本版の映画記事でも高評価であったな。

newsweek僕は週刊誌としては以前よりニューズウィークを定期購読していて、映画評についても同誌のものを読むことが多い。雑誌の映画評はどれも映画を誉めることしかしないことに気づいて久しいのだけど(なぜだろう?)、ニューズウィークの場合は箸にも棒にもかからない場合は本当に斬って捨てるから、そこがよいんだよね。で、やや性格としては天の邪鬼の僕の場合、けなされている映画はそれはそれで興味が沸いて観てみたくなっちゃうし。

そのようなニューズウィークの映画評でも珍しく、かなり誉めていたので観る気になったわけだが、納得はできる作品だと思う。

さて。


母からの手紙——。

この前、母から電子メールが届いた。

「被害に遭っていないかい?」
米国でのクレジットカードの顧客情報大量流出事件を心配しての内容だ。そう、ちょうど先月、僕は米国に出張したばかり。だから気になったんだろう。
これには一応、「心配ない」と答えておいた。今の時点でカード会社からの連絡はないし、明細にそれらしいものもない。
それに万一損害があったところで、今回の場合はちゃんとカード会社が補償してくれるからよいのだ。

最近は企業による情報流出事故の発表が多い。これは実際の件数が急に増えたというよりは個人情報保護法に関わるガイドラインで公表が義務づけられたことが大きいと思うのだけど——そういうニュースばかり耳にしていると被害者になるおそれをリアルにとらえるようになっているのではないかと思う。

でも僕は個人的には、被害者になる可能性よりも加害者になる可能性のほうが高いんじゃないかと思っている。加害者になることこそを心配し、対策をこころがけることが、むしろ必要なのではないんだろうか。

ルールは変わった。
個人情報保護法。この法律の施行で、ルールが変わったのだ。
個人情報保護事業者である企業で働く僕らもこころがけて、日々の“ふるまい”を変えなければならない。ああ、やれやれ。


個人情報保護法については、この前も書いたばかりなのだけど、これは企業の活動にけっこうインパクトのある法律であったな、と思う。
もちろん経済活動に影響を与えてきた法令というのはたくさんあるのだろうけど、企業の個々の構成員のふるまいを規定するタイプの法律というのは、あまりないように思う。

なぜなら、個人情報を扱うのは結局個々の社員であるし、それは業務の必要上ノートPCとかCD-ROMとか、紙のファイルとかいった形で、わりと身近なところに保管されていることが多い。
企業のビジネスの最前線、現場にあるわけだ。

これがシステム部門とか、一部のところに関わる話だったらその部門を中心に対策を施せばよいのだろう。
けれど、実際には個人情報を最も頻繁に取り扱い、それゆえ情報流出を起こしてしまう可能性が高いのは、営業部門である。
営業部門におけるPCや名簿の扱い方という、これまではいわば個々社員の裁量に任されることが多かった部分にメスを入れなければいけないわけだ。

つまり、管理しなければいけない対象は、現場における個々の社員の日常的な“ふるまい”そのもの。そこにひそむリスクを洗い出して、きっちりと行動を規定していかなければならない。
個々の社員の日常について、問題が生じないように“ふるまい”を変えさせなければいけないのである。


この時従うべきルールなのだけど、実は個人情報保護法そのものではない。個人情報保護法にもとづき、各省庁がそれぞれ所管する業界向けのガイドラインを策定している。
個人情報保護対策というのは、現状、この各業界の個人情報保護ガイドライン対策、ということになる。

具体的に言うと、いくつかの業界ではガイドラインとして、情報流出の事実があった場合は監督官庁に届け出て、事実を公表し、またその情報の本人に通知するものとしている。
ちなみにデータに暗号化など技術的な漏洩防止策が実装されていたとしても、公表しなければならない。実はこれが個人情報保護対策を従来のセキュリティ施策とは異色なものにする、最も特徴的な点だ。

従来のセキュリティ対策の常道には、人間の運用にリスクがある場合、技術的な対策を施してリスクを減らす、というものがあった。つまりこのような場合、人間が漏洩させてしまうのであれば、データに技術的な対策を施して容易には解読できないようにする。
しかし、そのような技術的な対策の有無に関わらず公表が義務づけられるので、結局技術的な対策は企業を守る砦にはならないわけだ。

また規模に関わらず公表することになり、事情を知らない一般の人にとっては、最近情報流出の報道がとみに多く危機感を募らせる結果になる。まあ、もちろん隠蔽して揉み消すことも問題だと思うわけだが。ただ、僕は情報流出の件数そのものは、対策を迫られている分実態としては減っているはずだと思う。
それが、増えたように見えてしまう。ひとえにガイドラインにより公表が義務づけられたからである。

技術的な対策を無効にし、流出そのものをリスクとさせてしまったことで情報保護施策のハードルを格段に上げたこと。公表を義務づけることで情報流出が頻発しているような印象を与えてしまうこと。
これらは個人情報保護法に関するガイドラインによってもたらされた、ユニークな事態だと僕はとらえている。


この個人情報保護法に関するガイドラインに従って公表するという事態は企業にとって失態である。日々の営業活動や、あるいは株価などに影響を与えかねない。企業はそれを避けたいとは考えるだろう。
しかし話を戻すと、情報を最も頻繁に扱い、よって流出を引き起こすリスクを最も抱えているのは、企業の業務の最前線、営業現場なのである。
現場に関わる社員の行動を全て規定し、管理下に置くことが非常に困難なことであることは、想像に固くないだろう。ここに悲喜劇が生じる。

いまも頻繁に、社員が情報を紛失してしまったという例が報道される。

よく見ると、電車の網棚にPCを置いておいて盗まれてしまったとか、自宅に持ち帰ったノートPCが、たまたま家に泥棒が入って盗まれてしまったとか、そういう例が多い。それはちょっとした不注意だったのかもしれない。
しかしもしそういう事故が起こってしまうと、上述のようにガイドラインにしたがって世間様にその事実を公表することになる。公表した手前、企業は個々の社員に何らかの処分を下すことになるだろう。それは見せしめといえば、見せしめにも見える。
いずれにせよ、ちょっとした不注意でそうなってしまう可能性があるのだ。運が悪いと言われれば、そうだと言える。

考えてみれば、本当は盗んだ泥棒がいちばん悪いはずなのに、盗まれた人が処分されるのだ。なんとも割のあわない話…。でも、それがこの4月からの新たなルールなのである。
つまりですね、漢の劉邦が定めた法三章より綿々と保たれてきた、何が悪いかという常識の一つが、ここでは覆ってしまったんですな。個人情報保護の観点では、盗まれるより盗ませたやつが悪いと。
注意一秒、怪我一生。不注意でひきおこした事態も本人の責任。

そう、ルールは変わった。
これは社内規則が変わったとか、ヘルプデスクが運用を改めたとか、そういうレベルのルールの変更ではない。国権の最高機関により新たに定められたところのものが、源泉になっているのだ。
ただら個々の社員がふるまいを変えずにいたとして、不幸にして問題が生じた場合は、その社員が処分されることは、当然しごくのことなのだ。


ここに不条理が生じる。

だって考えてみると、そうやって情報を持ち帰って仕事をすることって、多くの職場でこれまで普通に行なわれてきたこと。だから、2005年の4月1日、法律の施行をもって“ふるまい”を改めるって、なかなか難しいことなんだよ。

それに、わざわざノートPCを自宅に持ち帰るわけというものを考えてみよう。
仕事が忙しいからに決まっている。それは、業務がもともと過多だったり、納期に迫られたり、そんな事情で自宅作業せざるを得ずにPCを持って帰宅する。こういうケースが大半だと思う。
仕事を期日通りに仕上げることを考えるなら、持ち出しちゃうよね。
これ、いわば、従来の定規では仕事熱心とされてきた人たちの“ふるまい”。でも、今ではそういう人ほど危ない! とされてしまうのだ。

ただ、そうした“ふるまい”が新しいルールのもとではリスクをはらむものとしてちゃんと周知されていて、また業務を改める努力がされている場合ならまだよいよね。
まあ、前述の通り個人情報保護のガイドラインのハードルは高いので、現場の業務はかなりの混乱に陥ると思う。ただ社員は、“ふるまい”の変更の強制を、最終的には会社の決めたことだから、と割り切ってしまうことはできる(…でもストレスはたまるんだろうなあ)。まあ、人間である以上不注意のリスクは残るんだけどね。

悲惨なのは、社員が、このルールが変わったことを知らないとか、知っていても問題があった場合に自分にリスクが及ぶというその重大性を認識していないとか。
あるいは最悪な例は、わかってはいても職場の仕事の進め方が全然改められていない場合。そういうケースってまだまだ残っていそうな気がする。

この前も一緒に飲んだある会社の営業の人は、その場に持って来た鞄にノートPCが入っていると言っていた。その企業のグループのなかでは、情報流出で処分された人もいるそうだ。でもその彼の職場では、日々の仕事として社外でも仕事をすることを求められているのでノートPCは手放せないそうだ。

最悪である。

それでいてもしPCを盗まれたら、情報流出事故として彼が処分されるに決まっているのだ。

いちばん悪いのはは盗んだやつのはずなのに、そして運悪く本人のたまたま気が緩んだだけなのに、その不注意が咎められる。そしてなかには企業として対策を何もしていないところもあるのに、責を本人に負わせてしまう。
これが、個人情報保護対策の不条理な点だ。

これまでのやり方で仕事をしてきたのに、なんでこんなストレスを抱えてしまわなきゃいけないんだ! 仕事をするなというのか!
思わずそう叫びたくなる。

実際、僕の勤め先では、“最大のセキュリティ対策は仕事をしないことだ”と言った人がいた。
そう、不思議なことに個人情報保護対策の下では、仕事をする人ほどリスクを抱えてしまうのだ。

ふぅ…。
まずは肩の力を抜くことだ。
だって、ルールは変わったんである。そしてそのルールを変えたのは、わが国が採用する民主主義の制度によってである。

結局“ふるまい”を改められずにいて、不幸にして事故を起こしてしまったとしたら、結局処分されるのは個々の社員になる。誰も守っちゃくれないよ〜。
“ふるまい”を改めても、ふとした不注意でもしかしてそういう目に遭うかもしれない。もうこうなると、交通事故に遭うようなものだ。そう思っておくしかない。

そういう時代なのだ。


現場の実態を見れば、個人情報保護法および各省庁のガイドラインへの対策の実践は、容易には進まない気がする。

その過程で、今後も情報を紛失してしまったという企業の発表は後をたたないだろう。そしてそれにより処分される社員についても。
お気の毒なことではあるが。

労働者のみなさん。

これからは、いかに仕事がやりがいあるものでも、また納期に迫られていようと、あるいはふだんから業務が過多な職場でこなせなければ評価されないとしても、そのために家に情報を持ち帰ってまで仕事をすることは避けたほうがよさそう。

仕事は、会社でするものなのである。いや、当たり前のことなんだけど。
妙なリスクを個人で背負ってまで、家で処理するもんじゃあない。

それでも、不幸にして、職業として個人情報を持ち出さざるを得ない人びと。たとえば—。

顧客名簿を持って外回りをする営業マン。

残業が認められないので、家で生徒のテストの採点をしている学校の先生。

取材先の情報を満載した手帳をもって、東奔西走する新聞記者。

その他世にありふれた、職業をもつ普通の人たち。
くれぐれも自戒のほどを。ふだんどおり仕事をしていたつもりなのに、気づけば情報紛失の加害者として矢面に立たされていることのないことを祈っています。

運悪くそうなった暁にゃ、たぶん誰も守っちゃくれないのよ。
しみじみ…。


というわけで、母からのメールへの返信には、「カード事件は万一対象となっても、補償されるのであまり心配していません。それよりも、情報流出の加害者になることのほうが心配です」としたためた。

返事が来て、「ゆういちのパソコンには情報がたくさん入っていそうだから、大変だね」とあった。

そう、僕のPCにはたくさんの情報が入っている。

個人情報は極力保存しないようにしているけど、それでもどうしても残ってしまうものがある。
たとえば、そう、この今も使っている電子メール。
メールには発信元として、あるいは署名として、氏名、所属、メールアドレスが記載され、しかも検索可能。そして6ヵ月以上保存する。
HDDに保存されているメールボックスは、個人情報保護法で規定する、個人情報データベースそのものである。

意識しているかどうかわからないけど、あなたも私も、個人情報のかたまりを扱っているのだ。
リスクを抱えているのだ。

くわばらくわばら。


日暮れて道遠し…。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 19, 2005

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

いい歳こいて、買ってしもたよ…。

jigoro

増田ジゴロウのキーホルダー。

これ、このむびろぐでもなんどか取り上げているけど、テレビ神奈川の人気番組、saku sakuのキャラクターなんだよね。このキャラクターグッズが、たとえば神奈川県内の東急ハンズになぞ行くと、売っておるわけですな。


そんな人形と戯れんとする、平和な日曜日の午後——といっても、梅雨なんで雨が降らなくとも湿っぽくて鬱陶(うっとう)しい時期ゆえ、のどかとは言い難いんだけど。
部屋でまたまた、HDDレコーダーに録り貯めていた映画を鑑賞する。例によって、WOWOWでのオンエアを録画しておいたもの。

今日観たのは、キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
なんでも、実在した詐欺師のお話だそうで、レオナルド・ディカプリオが16歳の天才的な詐欺師を、トム・ハンクスがFBIの捜査官を演じている。

公開時にも気にはなっていて、観に行こうかな〜と思っていつつ見逃してしまった作品。
いやあ、ディカプリオ演じるフランクが繰り広げる詐欺の実に見事で華やかで爽快(?)なこと! 時間としては2時間半もあってちょっと長いかな、とも思ったけど、面白い物語でした。舞台となるのは60年代のアメリカで、その雰囲気を楽しめるのもよいかも。

しかし、10代でこれほどの経験をしてしまうのって、どうなのかなあ。その後の人生がけっこうつまらなくなるんじゃないかと、人ごとながら心配にもなってしまうね。
たとえば大学でサークルとかバイトとかが充実していて、刺激的な経験や人との出会いに恵まれていたのに、就職してサラリーマンになったとたんにペースが狂ってしまうことがあるじゃないですか。
…若い時の刺激が大きければ大きいほど、その後のギャップに悩むことになるんじゃないかとなあという気がする。

でも、若くなくなってもずっと刺激的な生き方を選びとれればいいのだろうけど。そういう生き方をしている人も、たしかに少なからずいる。うん。
フランクの場合はどちら…? ま、これについてはこの映画のエンドで、その後のエピソードが少々語られるんだけどね。


さて、華やかさから一転、渋い話でも書いておこう。
鎌倉に住んでいたことについて。

この週末は、金曜日の夜に会社の後輩たちが、そして土曜日の昼にはスキー仲間の友人たちが、それぞれ僕の住まう横浜市内にまで遊びに来て飲んだくれるという、珍しく千客万来なウィークエンドであった。
友遠方より来る、また楽しからずや…。(東京都内から横浜市まで来ると本当に遠いらしい。おつかれサマでした m(__)m )。

僕はこの4月に引っ越した。東京で働くようになってからの住まいとしては、3件目の部屋になる。

2件目だった前の部屋から今回の部屋へは、横浜市内のJR京浜東北線の同じ駅の範囲で、新築の物件に住み替えをした。東京で働いたこの10年間でいちばん長く住んだのは、1件目の部屋である。
それは実は、鎌倉だった。配属にあたって割り振られた会社の独身寮が、鎌倉市内にあったんだよね。

僕が就職して東京配属を希望したのは、日本の中心の大都会で、仕事も生活も、刺激に満ちた時間が送れるに違いないと考えたから。
まあ、東京なんだから、やっぱり東京ラブストーリーみたいなことだって起こるかもしれないと、期待するわけですよ。

でも、実際に住むことになったのは、東京都から遠く離れた土地、神奈川県鎌倉市
僕の大都会への期待は皮肉にも配属と同時に、割り当てられた寮の通知で見事に打ち砕かれたってわけデス。


そんなわけで、僕は1995年から2002年まで、緑に囲まれた閑静な住宅地のなかの寮に暮らした。

その時は、品川勤務だったんだけど、寮から会社まで、京浜急行バスとJR東海道線で片道1時間半もかかった。往復は3時間! 1日24時間のうちの実に8分の1が通勤に費やされたわけだ(しかも、それが7年間!!)。
ホント遠かったヨ…。しかも、平日朝の東海道線は信じられないほどの満員状態だし。休日は休日で、9時過ぎるとバスがなくなったりするし。
この寮に住んだ7年間は、日常的にあちこち出かける上では、かなり制約が多かったと思う。かなり損をしたという気持ちを抱いていた。

そしてその反動で、寮を出る時が来たら、駅に近いところに住もう、と固く決意をしたんだよね。
いまは駅まで5分、会社までは1時間以内というところに住んでいる。引っ越した当初は、ああ、なんて人生が楽なんだと思った。本当に、しみじみそう感じたのです。
引っ越してから体重が増加してしまったのだけど、これは炊事をして毎朝御飯を食べるようになったことに加え、なにより通勤時間が短くなったことが大きいと、僕は信じている。


鎌倉に住んでいた時は、交通も不便で通勤も遠いし実に損をしている気になったのだけど、ただ、よかったこともないわけじゃあない。

そう、ものごとには必ずいい面と悪い面があるのだ。あのポリアンナのように(…ってこのアニメ知っている人はもはや希少?)、“よかった探し”をするべきなんだよね。
で、鎌倉に住んでよかったことといえば、やっぱり、そもそも鎌倉に住むなんて経験自体、そうそうできないということに尽きるだろう。

けっして希望したものではなく偶然の結果とはいえ、首都圏近郊の観光地であり、緑と海に囲まれ、歴史遺産も豊富な土地に住んだという経験はかけがえのないことである。
おかげで、鎌倉のや、あるいは湘南の映像がテレビ番組や映画に出てくると、有名スポットであればそれがどこなのかわかるようになったし。住んでいた寮の場所は観光地からはちょっと外れたんだけど、それでもたとえば北鎌倉とか、小町通とか由比ケ浜とか、ぶらりと出かけるような機会は少なくなかった。

いまはあじさいがきっと旬なんだろうし。ああ、あじさい寺も何度か行っているよなあ。

yuigahama

これからの季節だと、とくに花火なんか楽しみだよね。

鎌倉の花火大会
一時は友人たちを誘って大勢で観に行ったこともあったけど、寮を出る最後の1、2年は一人で眺めていたかな。
花火の日、夕方からとぼとぼと由比ケ浜まで歩いて、観に行っていた。(…僕の寮からだと、大仏とか長谷観音とかの前を通って、江の電の線路を横切って、足かけ30分くらいで海岸に到着する)。

道を歩いていると途中、家族連れが増えてきて、う〜ん、地元の花火大会だよねえ、って気分になってくる。

適当な空きスペースを見つけて腰を下ろし、一人で缶ビールを空ける。これには正直、周りが若いカップルなどでにぎわっているなかなので、多少の寂しさも感じる。
でもそうやってぶらりと行って、海に上がる花火を眺めるって、風情があっていいもんだ。

それが鎌倉のの思い出である。


鎌倉の夏の風景のなかで、そんな時間を過ごすって経験、おそらくはこの先もないと思うし……そう考えると、通勤が遠いのは本当に嫌でたまらなかったんだろうけど、やっぱり貴重な7年間を過ごしたと言えるんだろうな。

偶然、最初の住まいが鎌倉のだったせいで、その後も神奈川県からはあまり離れたくないとの思いはあった。そこで、新しい住まいには、近場の都会である横浜を選んだ次第だ。

横浜での一人暮らしは気に入っている。

僕は毎朝FMヨコハマを聞いているし、テレビ神奈川も比較的よく見る。
そしてsaku sakuにも出会い、増田ジゴロウに共感を抱く身にもなってしまったわけだ。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

June 12, 2005

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊

ちょっと前の話——。

ある催しのチケットがあったので、久々に初めての人を誘ってみることにトライした。でも、がっくーん。見事ことわられてしまった。
メールの返信に、優しい言葉が添えてあった。

「私よりも、きっと他にいい人がいますよ」

この一文を目にした瞬間、思った。
ああ、この言葉だよ…。このところ遠ざかっていたけど、また出くわしたなあ。

むかしはこんな言葉を添えられて、よくことわられていたっけ。
ある時、意を決してメールを書いたり、電話をかけて、デートに誘ってみる。その結果毎度のように言われて、僕をひどくがっかりさせてくれる言葉。その一つが、「他にいい人が…」だった。

そもそも、あなたと行きたくて誘っているわけだし。

それに僕の経験の限りでいうと、その言葉の通りに他の人を新たに誘えることなんて滅多にない。
いい人が次から次に見つかればそりゃいいんだけど、言葉の通りにならないことがさらに僕を落ち込ませる。ま、そんなことで落ち込むのもなんだけど、そんなものなんだよね。

「他にいい人がいますよ」。
だから一見、優しい表現を体裁としてとっているけれど、これは僕にとっては忌み嫌うべき返事ではあった。

かつてのことだ。

それはかつてのこと。
以前だったら気落ちしたはずなのに、こんどのことについて言うと、実はさほどでもなかった。
正直、さほどがっくりこなかったことに、自分自身も驚いた。
なぜだろう。同じようなことをもう何10回も繰り返して心にもう免疫ができてしまったのか、それともその相手に対して真剣度が足りなかったのか、よくわからないけど…。

たぶん両方だろうな。
年の功もあるし、かつてのように特定の相手に過度に真剣になってはいないというのもあるんだろうな。
なにより、だいたい三十路になってこんなことでウジウジ悩むなんて、自分でも情けない。体面ってものもあるし。

いわば、乾いているのだ。僕の心が干上がってしまっている。そんな感じなんだ。
本当は、もう少し心揺れて、落ち込んだりするほうが人間的なんじゃないか、という気はするけどね。わしはこんなんでいいのか?

いいのだ、たぶん。
僕が三十余年かけて積み上げたものは、それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、僕は自分で否定することはできない。

これが自分なのだ。そう思うしかない。


ただ最近、こういうシチュエーションになると、頭の中をリフレインする歌詞があるんだよね。
こんな一節…。

♪なるべく 傷つけぬように 傷つかぬように
 切なさも ほらね 押し殺せる
 愛だと名付ければ それが愛だと言える

GARNET CROWというアーティストの、忘れ咲きって曲の詞だ。

ちょっとしんみりしてしまう歌。(♪こんな歌だ)。

garnetcrow僕は音楽といったらJ-POPしか聞かない人間で、しかも流行曲ならなんでもいい、という極めてポリシーのないリスナーを長年続けている。
そんななかでも、時々お気に入りのアーティストというものに出会うこともあるわけで、昨年の後半からはその一つにGARNET CROWが位置づけられている。

聞いたことのない人に音楽の印象を説明するのは、とても難しいことなのだけど、あえて挑んでみる。
明るく前向きな歌詞とか、アップテンポなメロディーとか、最近の僕には正直ついていくのがしんどくなりつつある。たまたま聞いたGARNET CROWの曲は、何かこう、陰影を感じさせるような響きに満ちていて、それでひかれてしまったのだ。

そして、昨年の木枯らし吹く季節に聞いたこの忘れ咲きは、当時の僕の心境に非常にフィットしていて、FMラジオで初めて耳にした時から虜になってしまった。
だって、「傷つけぬように傷つかぬように、切なさも押し殺せる。それが愛だと言える」…だもん。シラフで聞いても心にきゅうと来るよねえ。

この歌は、他に

愛だとか恋だなんて 変わりゆくものじゃなく
 ただ君を好き そんなふうにずっとね 思ってるような

とか

♪孤独や躊躇(とまど)い 弱気が押し寄せる夜に 忘れ咲いた
 思い出そっと 枯れゆくまで 今宵まだ 身をまかせて

など、僕にとっては、心をきゅううとさせる表現に満ちている。
過去の風景をしみじみ思い起こさせる出だし。やや暗めの曲調。そういったものがうまくブレンドされていて、耳にしたその時から深く僕のなかに刻み込まれたのであります。
(なぜか中国語のブログに、歌詞が掲載されています)。

心がきゅうう。

うぷ(…僕は、情緒的な文章を書こうとするとヘンになる。慣れていないんだな)。


さて、HDDレコーダーに録り貯めていた映画のなかから、GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(こうかくきどうたい)を見る。言わずもがなの押井守監督作品。

録画された日付を見ると、NHK BSで放映されていたのが2004年12月24日。ふーん、クリスマスイブか… (・ε・)

原作は士郎正宗による、とってもとってもマニアックな漫画(…正直、コマを追うのがとても疲れる、かなり読みにくい本だ)。
映画を見ると、驚くほどマトリックスを彷彿とされるんだけど、こっちの漫画のほうが先だから、どっちが真似たといえば答えはマトリックスってことになるのかな。

昨年公開されたイノセンスの、ストーリーとしては直接の前作にあたる。
いまのネット社会のはるか延長線上のお話で、人間がサイボーグとなることが日常の着衣のごとく当たり前になっちゃった未来。コンピュータやアンドロイドばかりか、生きた脳みそまでもがハッキングされ暴走しうる世界を描いている。
考えてみればこれ、原作はインターネットが普及する以前に描かれたわけだ。ここまで描き切っているのはまさに先見の明だねえ。オタク漫画たるゆえんだ。

ghostinshell-1しかし、脳みそにハッキング!! うーん、怖いですねえ。
でもだからといってこの映画は、未来社会の恐怖を描くようなありきたりなもんじゃない。
こういう舞台設定を自明のこととして、そんな未来に活躍する“少佐”こと草薙素子の姿を描く(これがまたサイボーグ女なのだ)。この主人公が属するのは公安だから、端的に言えばサイバー社会の警察漫画だね。

いったん携帯電話をもったら、サルだとか壊れているとか言われても手放せないのと同じように、この作中の世界では擬態化(サイボーグ化)は、切り捨てることのできない行為。もはや常習なのだ。

このお話の脇役に、脳みそをハッキングされて、ニセの記憶を埋め込まれてしまった清掃作業員が登場する。彼は実に気の毒だ。まるでいつぞやのフランソワ君並みにかわいそうなキャラだと、僕は思った。

ghostinshell-2離婚でもめている女房とかわいい娘がいると自慢げに話していたのに、それは全て疑似体験だった。何者かに利用されてニセの記憶を埋め込まれていたのだ。
奥さんも子供も、自分の頭のなかにだけ存在する家族だった、夢みたいなもんだと、刑事に宣告された時の男のふぬけた表情。
まさに茫然自失…。

「その夢、どうやったら消せるんです」
「残念ながら現在の技術では……お気の毒です」

ああ、こんな残酷な会話、久しぶりに見たねえ。
心にきゅううと迫ってくる。
(脳みそにファイアウォールをインストールしておかないとね)。

♪なるべく 傷つけぬように 傷つかぬように
 切なさも ほらね 押し殺せる

この未来社会で、切なさだけを抱え、それを押し殺すこともできずに、この作業員の男は生きていくんだね。

♪愛だと名付ければ それが愛だと言える

でも、そんな仮想現実も、名付けてしまえば愛だと言える。のかもしれな。い。。、. .  .     .


……。

…………。

書いていて気づいた……。
これはまさに電波男が唱える世界なのだ。

“企業のネットが星を被い電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えてなくならないほど情報化されていない近未来”を待たずとも、この2005年に仮想現実に生きることを主張した先駆的な書がある。
それが、電波男

dempaotoko

この筆者には、脳内妻や脳内妹がいるという。
電波男においてそれは強制されたものではなく、筆者自体が積極的に選び取った生き方なのだ。
そう、いまトレンドは脳内恋愛…。

脳内に生きよう。

きゅうう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 09, 2005

フォーガットン

暇つぶしに携帯で、narinari.comのコラムを呼んでいたら、この映画が取り上げられていた。

タイトルに、「シックス・センス」以来の衝撃? 「フォーガットン」とは とある。なにぃっ、そんなに衝撃的な作品というのか。
お気に入り映画の筆頭にシックス・センスを位置づけている僕としては、見に行かねば、という思いに駆られる。ということで、いそいそと映画館に向かった次第。

それが、フォーガットン

で、シックス・センス以来の衝撃とか言われたわけだけど、観賞後の感想を言うとむしろこのノリはサインに近い気がする。サイン以来の“笑劇”ではないのかい。

後になってネットを探って知ったのだけど、なんでもこの映画は既に予告編がネタバレだったらしい。ほぅ、そうだったのか。
しかし、たまたま4月、5月と映画館に足を運ぶこともなかったせいか、僕にはその予告編を観る機会はなかった。そしてこの映画の予備知識をnarinari.comコラム以外からは全く得ないで観ることになった。

だから、母親のもとから事故で亡くなった息子の写真が消え、周りの人もそんな息子などいなかったと言い出すこの映画の展開が、ミステリーなのか、スリラーなのか、はたまたSFなのか全くよくわからず観ていた。
それが、精神病のせいだといえばそうなのかあと思い、はたまたエイリアンのせいだとなれば、ほう、そうかいと受け入れ、人が吹き飛ばされれば、ふーんと思い、そのまま観ていたら…なんと終わってしまった。

なんだこれは。
いったいこのストーリーのどこに衝撃の事実があったと言うんだ。衝撃の事実なんてなくて、たくさんの伏線を残したまま終わっちゃったじゃないか。
ええっ!?

もしかして僕の頭が悪くて、誰もがわかる解釈に気づかずに観ていたのかな、と思って帰宅して、いそいそとインターネットを検索して、この映画の評判を探った。
でも、どうも僕は何かを見逃したりしてはいないようだ。どうやらこれは、僕が観たままの映画だったらしい。

そうなんか。やっぱり観たままなんだ。
とすると、この映画の感想を、僕はどうまとめればいいのだろう? どうにもまとめる言葉を思いつかない……。

母子の間の絆を実験していたエイリアンは中間管理職みたいなもので、プロジェクトに失敗して急遽左遷させられたってことか。


母と子かあ。

そういえば僕の母は、公立の小学校の教員だった。

そればかりか、父も教員だった。父は中学校の教員。
かつて学校が荒れていた時期があって、そのあおりなのか、僕の思春期はさんざん父に殴られた。痛かったな…。

ま、母は随分前に退職し、父もいまは定年退職を迎えてしまったけどね。

教師の子供は大変だ。
いや、大変なのではないかなあと思う。

ということでここからは、先生の子供として生まれつくことについて、書いてみよう(それはなかなかにユニークな体験だ)。あと、その関係で、いまの勤め先において新たに発見した事実も。


まず教員というのは、地方においては唯一の知的職業なんだよね。

これが都会だったらたぶん公立校の教員以外にも、私立の教員もいるし、大学教授とか、司法関係の職業とか、マスメディアとか作家とか、知的なことをなりわいとする職業はいくらでもあると思うんだけど、地方にはそんな人たちいない。
(そもそも大企業のサラリーマンの家庭とかも、圧倒的に少ないわけだし)。

地方における唯一の知的産業従事者。
そう、言ってみれば「先生」と言われる仕事が、本当に「先生」しかないのだ。それゆえ教員は、学校内においてや、あるいはかつての教え子からばかりでなく、地域の人にも(私生活の場面においても)先生って呼ばれる。退職しても呼ばれているよ!

そして僕も、“先生の子供”と呼ばれてきた。

地域における唯一の知的労働者の家庭に育った子供として、やっぱり周囲からは、それなりに頭がよく、まじめちゃんであることを求められている。
同級生の親とか、近所のおばさんが、「やっぱり○○ちゃんは先生の子供だもんね」みたいなことを折に触れて口にするのを聞きつつ、教師の子供は育つわけだ。

もちろん親が大卒の学歴を持ち(親の世代で、農村地帯だとそれほど多くない)、家には様々な教材やあったりこ難しい本が本棚に並んでいたりするわけで、教育としては恵まれた環境にあるとは思う。僕は科目としては社会が得意だったのだけど、これは多分に社会科教師だった父の本棚に影響は受けているだろう。
なにせ、中学の頃から六法全書読んだりしていたからね。

でも、勉強ができることを当たり前のように言われていると、いくらなんでもプレッシャーを感じてしまう子供もいるんじゃないかなあという気がする。

もっとも僕についていうと、実はそれを重荷に感じたことは、全くなかった。…善きにつけ悪しきにつけむかしから僕はマイペース。人にとっては普通の感受性が、欠けているのであるネ。
小学校くらいは成績もよかったような気もするんだけど、中学くらいの頃からマイペースに勉強しないでいたら、なんと成績がどんどん下がった(当然だけど)。勉強しないので父に怒られてビンタくらわされたりしていたけど、好きでもないことには手がつかないんだからしかたがない。高校受験の頃の評定は、オール3よりちょっと上くらいだった。

そこで、僕は素直に自分の成績に見合う地元の高校に進学した。
そしたら、近所の文房具屋のおばさんに「ゆうくん、(受験の)レベル落としたんだねえ」と言われた。でも、やっぱりさして気にならなかった。
その後、大学受験も相変わらずマイペースに勉強しなかったんだけど、たまたま運良く合格。さらに就職活動もギリギリのところで運良く1社だけから内定いただけて入社、今に至っている。いやあ、時々危うかったんだけど、運だけはあって本当によかった。

でも、これは僕の人生であって、他の多くの先生の子供が同じようにこなしてきたとは思わない。
勉強ができることを当たり前のように期待される先生の子供たち。たぶん周囲の期待に応えて自ずと努力してしまう子たちは多いだろうし、そこにはそれなりのプレッシャーはあるだろう。
そして、時にはそれをうまくこなせずに悩む子だって、ある一定の割合はいるんじゃないかなあと思う。

もし、あなたが先生の子供だったなら聞いてみたい。あなたの子供の頃は、どうでした?


まあ、答えはさまざまかもしれないけど、家庭環境としてやや特殊であったことは間違いないわけだ。
そんなわけで、たまたま知人や同僚と話をしていて、親の職業が先生だったと聞くとちょっとした親近の情、連帯感のようなものがわいてくる。

それで気づいたんだけど、いまの僕の勤め先の会社は先生の子供が多いね。
本当に多い。

僕は、小学校の6年間を通じて同じ学年に親が先生という人はいなかったし、中学になっても、先生の子供はもう1人登場しただけだった。二百数十名くらいいる同じ学年に、そのくらいの比率でしか先生の子供は存在しなかったわけだ。

ところがいまの会社に入ってみると、よく先生の子供に出会う。同じ課のなかだったり、飲み会に行くメンバーだったり、仕事で一緒のプロジェクトになった人だったり、なんだかんだで先生の子供だったという人に出会ったりする。
数えてみると、何10人かに1人か2人以上の割合にはなるんじゃないかなあと思う。

これは興味深い。
これが僕の勤め先の会社だけで見られる割合なのか、あるいは同等クラスの企業であれば、ほぼこのくらいの割合になるのか、誰も統計とっていないからわからないけど…。
しかし先生の子供は大学へ進学し、卒業することを期待されるから、その結果としてあるクラス以上の企業に就職する機会を得られることになっているんだろうと思う。

一般に先生の子供が選ぶ仕事としていちばん多いのは、教員だと思う。
もともと先生というのは、子供が真っ先に触れる職業のわけで(一方、サラリーマンに触れる機会なんて、大学に入って就職活動でOB訪問とかするまでないがね)、もともとイメージがしやすい。なおかつそれが親の仕事でもあったら、無意識のうちに選びとってしまうでしょうな。
少なくとも、教職課程をとる選択はするでしょうな。なんとなく僕も、大学3年の終わりまではとっていた。

先生の子供なのに教員になろうとしなかった、ある意味変わり者たちが民間企業をめざすことになる。
そう考えた時、僕の勤め先は、公益事業をてがけるホワイトカラーの会社。やっぱり公務員の家庭に育っているわけだから、純粋に営利を追求する他の民間企業と比較して、自ずといまの会社を選択しがちな気はする。
それが、先生の子供が多いと感じる理由なのだろうか。

まあ、といって具体的に調査したわけではないから、実際のところはよくわからないけど…。だから裏のとれていない分析なんだけど、いずれにしろこの符合はなかなかに面白いと、僕は何年か前から思い続けてはいる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 05, 2005

機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者

ウィルコムの新しいCMが、インターネットで話題になっているという。
なんでも、見ればしんみりしてしまう内容だというのだ。

ということを聞いて、さっそく部屋のPowerBookからウィルコムのサイトにとんでみた。

 WILLCOM: 広告ギャラリー: CMオンエアー
 http://www.willcom-inc.com/corporate/gallery/cm/

willcom_cm01話題になっているのは、このなかの「通話無料 父娘篇」。
ウィルコムが5月から開始したPHSの音声定額サービスをアピールする内容なんだろうけど…。
とりあえず、60秒バージョンをクリック。Mac OSのなかでWindows Media Playerが立ち上がり、映像がスタートする。

うっ。

willcom_cm02なんだこれは…。本当にしんみりしちゃうじゃんか……。
涙腺ゆるんでしまうよ。。

「元気か」
「元気だよ」
セリフとしては、ただそれだけの繰り返しなんだけどね。

僕も地方の親元を離れて、気づけばもうかなり長いこと東京で働いている。この前帰省した時には、定年退職を迎えた父の苦労をことほぎ、酒を飲んだばかり…。
なので、こういう感情を突かれると滅法弱いんだよね。

親娘の間での、同じセリフの繰り返し。
とはいえ、コミュニケーションの本質は、bitという単位に還元される無機的な情報のやりとりじゃあない。お互いの関係性を再確認するという行為である。
何万年も前から人びとは、お互いの紐帯を維持するために、ごくごくありきたりの言葉を繰り返してきた。

うまいところを突いたCMだと思う。
いいじゃん、ウィルコム

このCMで宣伝している音声定額サービスは、PHS復活の切り札だという。

実際、かなり好評のようで、ウィルコムの契約者数も2ヵ月連続で6万を超える純増を記録しているらしい。(朝日新聞の記事)。
久しく誰の目にも苦境が明らかな状態にあり、競合事業者のアステルは早々に看板を下ろしNTTドコモも撤退を公言したなか、1事業者の工夫によって復活の兆しが見えてくるというのは、面白いといえば面白い。

ところで、あのでかいお父さんストラップは、実際に作ってノベルティにしたりしないのかなあ。


さて、アニメーションの世界で2005年に復活したもの。

Z(ゼータ)ガンダム

あらかじめ言っておくと。
僕のアニメやマンガへの理解は、一般教養の一つとして話題にのぼっているものには触れておくという範囲にとどまっている。二次元世界に過度にのめりこんだり、豊穣な知識を蓄積しひけらかすという、オタクの領域に遠く及ばない。
ガンダム世界への理解も、その範囲に留まっている。

ということをことわった上で、述べるんですが;

それら一連のガンダム作品のなかで、機動戦士Zガンダムはいささか思い入れのある作品ではある。というのは、僕にとってはリアルタイムで本放送を見た、唯一のガンダム作品だからだ。

僕はZガンダムのほかには、これまでにたしか機動戦士ガンダム(ファーストガンダム)、逆襲のシャアF91を見ていると思う(意外に少ないな)。ファーストガンダムは何度も再放送をしていたのだけど、残りの2作品はここ1,2年にレンタルして鑑賞したものだ。

これに対し、Zガンダムは本放送が僕の中学1年の時だった。1985年の毎週土曜日の夕方、僕らの地域では11チャンネルの名古屋テレビで放送されていた。

土曜日、授業は半日で終わり部活動が終わって帰宅して、晩御飯を食べるまでの間の時間だ。中学生の僕は、家のテレビのチャンネルを回し、このZガンダムを見ていた。

だから、Zガンダムの主題歌を聞くと、実は中学に進学した時のちょっとドキドキした気持ちとか、真新しい校舎とか(新設校でまだ3年目だった)、学校を取り囲んでいた緑とか(山の中だった…)がフラッシュバックしてしまう。

もっとも、アニメとしては当時の僕にとってはあまり面白い作品ではなくて、最初はガンダムの続編という話題性で見ていたのだがじきに飽きて、途中から見なくなってしまった。
アムロとシャアが再会するあたりが、最後に覚えているシーンかな。
(そうそう、大人になったホワイトベースの乗組員が一通り出てきていて、登場するたびにおおっ! となるアニメではあったな)。

まあ当時の僕にとっては視聴を続けさせる魅力に欠けたZガンダムではあったが、それでも話の途中までは見たわけで、だから続きがどうなるのかは長らく気になっていた。
なんでも主人公のカミーユが最後に精神崩壊してしまうという異色のラストであることは、最近になってガンダム本を立ち読みして知った。

そういう少々気になっているアニメではあったので、機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者が製作されると聞いて、見に行くことになるんだろうなと思ったわけだ。


実際に見終えたところで感想を記すと…。うーん。

ま、お話はおそらく当時のストーリーのままなんだろうな。そこに手を加えて、あれこれ圧縮したり多少付け加えたりしているのだろうけど。

映像としてはいくつか作り替えていて、真新しい絵がかなりあるんだよね。一方で大半のシーンはむかしの絵をそのまま使っていて、その格差が激しい、と思った。
だから映画を見ていても、あ、これはむかしの絵だ。あ、こんどは新しい絵に変わった、と。ついつい気にしてしまって、落ち着いて見ることができない。それが正直なところだったかなあ。

全部新しい絵で作り替えてくれればいいのにね。まあ、でも製作費の問題もあるわけだろうけど。

それから、絵の話であえて一つ言うと。エマ中尉については、もとの絵のほうが好きだったかな。

いやあ、エマ・シーン中尉のキャラってなんとも優等生っぽくて、僕にとっては気になる女性像なのです。
会社にたとえれば、新しく入った職場に、仕事ができてちょっとキツい先輩女性がいるってシチュエーションでしょうか。うーーん、そそられるものがありますよなあ。ノースリーブの軍服姿ってのも、たまらなくgood! 

ああ、エマ中尉にビンタされたい… (;´Д`)
(あ、このシーン映画じゃカットされていたけどね)。

かくのごとく、二次元キャラながらエマ中尉に僕は憧れ、それだけイメージが強く記憶に食い込んでいたのでしょう。
ところが、リニューアルされた本作の描き直されたキャラは、全体的に、かつての絵に比べややかわいい感じになっているんだよね。カミーユも、アムロもシャアも。そしてエマ中尉もだ。

うーむ。。
この絵ではかつて漂っていたあの、凛としてちょっと厳しい職場の先輩って雰囲気が失われてしまっているよ。…ま好みの問題と言われればそれまでなんだけど、僕はむかしのエマ中尉の絵がよかったなあ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 04, 2005

saku saku ver.1.0

会社のセキュリティ対策で、携帯電話の電話帳が使用禁止になってしまったヨ!
理由は、個人情報保護法対策ってわけ。セキュリティ原理主義、ここに極まれり…。

はぁぁぁ。

というのが今回の僕の近況なんだけど。
そこに触れる前にこのほど買ったDVD、saku saku ver.1.0のことを記しておこう。


IMG_1150そう、買ってしまったのですよ、saku sakuのDVD。saku saku ver.1.0
saku sakuって何? と言っているアナタ! いま大ブレイクしているこの音楽バラエティー番組をよもやまだご存じない?

以前にも書いたのだけど、、
謎のサイコロ人形キャラ、増田ジゴロウの放つ辛口トークと、いまをときめく20歳のモデル、木村カエラちゃん(ボーダフォンのCMで、“カエラはメールし放題〜”とのたまってたあの女の子だ…忘れないで感じることを〜♪)のぶっとび発言。爆笑だ。
この絶妙なテンポの虜になり、朝からテンションの高い時間を過ごしている。

IMG_1157といっても実はこのsakuSaku神奈川県の県域ローカル局、テレビ神奈川で放送されているものだからね。関東でも視聴できない人がたくさんいるのが現実で、会社でこの番組の魅力をいかに熱弁しても必ずしも理解されないことが多いのは残念なところだ。

IMG_1155ただ一方で、視聴可能エリアに住んでいる人々のなかでサクサカーは着実に増えているのであるよ。
ぜひ、いちど騙されたと思って、朝の放送を見るか、そうでなければこのDVDを見てほしい。

あなたもきっと、ハマるはず!

IMG_1159とくにテレビ神奈川については、僕にとってもう一つのお気に入り番組として外せなかった「みんなが出るテレビ」—神奈川の女子大生が県内の口コミ情報をレポートするという番組なのだけど、これがこの4月になってからのセカンドステージでパワーダウンしてしまった分、saku sakuにかける期待は増している。

ただ、いかにマイブームな番組とはいえ、わざわざDVD買うのはちょっと散財のリスク高いかなあと、軽い葛藤もあったんだけど。見終えたいま、買ってみて正解だったと思うな。全く後悔のない1枚であったよ。
ver.2.0が、待ち遠しい。出るんだよね? …いや、これだけのヒットなんだから、必ず出るでしょう!


さてー。

携帯電話の話に戻りますか。

会社で、携帯電話の電話帳が使用禁止になってしまった。
理由は、冒頭で述べた通り個人情報保護法対策ってわけだ。そう、携帯電話の電話帳は、個人情報のかたまりってことになるんだよね。

言われてみれば、全くその通り。個人情報の定義は、端的に言えば氏名とそれにひもづく情報のこと。なので、“氏名+電話番号”というのは、当然のように個人情報に該当する。
くぅ、誰も反論できない。

僕の勤務先は、個人情報保護法でいうところの個人情報取扱事業者に該当している。
個人情報保護法の完全施行は、2005年4月1日から。それがスコープに入ってから、セキュリティ関連の運用が少しずつがんじがらめになってきた。たとえば、ある日ノートPCの持ち出しが禁止になってしまったりとかね。
真綿で絞めつけられるとは、こういう感じを言うんだろな。

あなたの会社はどうですか?

この辺りの対策については、同じ個人情報取扱事業者であったとしても、実際には企業によって対応の温度差がかなりあるみたい。
僕が見るに、大きな違いは日常的に個人情報を扱って主たる事業をしているか、あるいは専ら法人相手の商売をしているか、というところにあるような気がする。法人に属する個人の情報もれっきとした個人情報だから、実はきちんと管理しなければならないのだけど、現実レベルでは運用に差はつきがち…なんだと思う。

運がよいのか悪いのか、僕の勤務先は電気通信事業者だ。会社としては、膨大も膨大、数えきれないほどの個人情報を抱えている。同業他社には、史上最大の情報流出事故も起こしたところもある。
その二の舞はごめん。情報漏洩事故が生じる可能性を潰すために、時には現場の業務を無視して理不尽にルールが定められる。職場はパニックに陥る。

人びとはそれを、セキュリティ原理主義と呼んだ。

 「“セキュリティ原理主義”に陥るな」――奈良先端大 山口氏
 http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/NEWS/20040601/145236/

そしてある日、社内で誰かが気づいてしまったんだよね。携帯電話ってどうなんだ、と。
考えてみれば、上述の通り携帯電話の電話帳も、個人情報の要件を十分過ぎるほど満たしている。だから、社員の誰かが携帯電話を紛失し、その電話帳に顧客の氏名や電話番号を登録していたとしたら—それは個人情報流出になってしまう。

これは大変だ。

携帯電話の電話帳も使用を禁止するべきではないか。
そんな議論が、社内のセキュリティ対策会議で真剣に行なわれたのです。

そんなばかな! これこそセキュリティ原理主義の最たるものと、その時は思った。
論理的に考えればたしかにそうなるのだろうけど、社会慣習として携帯電話の電話帳を使わないことはありえないだろう。無用にハードルを上げてしまって、現実のビジネスの効率はいったいどう考えるんだよ。

IMG_1160いや、みんな無理があるのはわかっていたんだよね。わかっていたけど、やっぱり反論できない。反論するための理屈が組み立てられないんだ。
そこでなんか変だという思いは抱きつつ、妙なことで刺されるのも嫌だから、素直に会社から貸与されている携帯電話の電話帳を僕もクリアしたわけだ。

はぁ。

しかし携帯電話を紛失したら、本当に情報の流出事故として届けることになるのだろうか…?

個人情報保護法は、法律の規定のみならず、実際の運用のガイドラインとして各省庁が業界別のガイドラインを作っている。実際にはそれぞれのガイドラインに従って、各社は対策を立てることになるだろう。
僕の勤務先は、電気通信事業者だから「電気通信事業における個人情報保護に関するガイドライン」が適用されるんだよね。

そこには、こんな条項がある。

 電気通信事業における個人情報保護に関するガイドライン
 第22条 電気通信事業者は、個人情報の漏えいが発生した場合は、速やかに、当該漏えいに係る事実関係を本人に通知するものとする。
 (略)
 3 電気通信事業者は、個人情報の漏えい等が発生した場合は、当該漏えい等に係る事実関係を総務省に直ちに報告するものとする。

このガイドラインがあるからこそ、通信事業者は情報流出があるとこまめに発表し、総務省に届け出ているわけだ(…おそらく、他の業界でも似たようなガイドラインが定められていると思う)。
では、電話帳登録のある携帯電話を紛失した場合、この第22条にしたがって、通知や届け出を行なうことになるんだろうか。論理的に考えればそうである。でも、まさかそんなことを…ううむ、という思いがあった。

5月30日。asahi.comを見て目が釘付けになった。
ああ、やっぱりそうなんだ。

 顧客119件登録の携帯電話盗難 日興コーディアル証券
 http://www.asahi.com/digital/mobile/TKY200505300258.html

ついにこの日が来てしまったか…。携帯電話を紛失した場合でも正直に公表する事例が、ここに登場したのだ。
金融業界と通信業界という業界の違いはあるにせよ、ともに個人情報保護として求められる水準はだいたい同じくらいだと考えていいだろう。やはり届け出ることになるのだ。

日興コーディアル証券自身によるプレスリリースがこちら。

 盗難被害によるお客様情報の流出について
 http://www.nikko.co.jp/news/2005/n_20050530_01.html

衝撃のあとには、ため息がやってくる。そしてその思いは胸の内を去ることはない。
ふぁぁ。
こんな時代になったんですね、もはや。気づけば僕らは携帯電話の電話帳も自由に使えない時代に生きることになったわけです。

携帯電話だけじゃありませんよ。
氏名とそれにひもづく情報といえば、ビジネスの現場ではもう一つ忘れてはいけないものがあるんです。

名刺だ。

思いっきり個人情報だ。
携帯電話の電話帳が禁止になるのであれば、実は顧客の名刺の持ち出しも禁止しなければならない。顧客の名刺をうっかり落としたら、個人情報流出だ。
幸い、まだ名刺を落としたことで監督官庁に届けたという事例はないみたいだけど。いや、それはたまたま起こっていないだけだろう。これからきっとそういう事例が出るに決まっている

予言しておこう。遠からぬ未来、こんな見出しが新聞の紙面に踊ることになるだろうね。
「××社、顧客情報○○件流出 社員が名刺入れ落とす」


そんなわけで、ビジネスの現場ではてんやわんや。まさに個人情報保護という泥沼にはまったかのようで、そして抜け出せない。
さらに、こんな法改正が検討されているという記事を目にした。

 自民、個人情報保護法改正案を了承・漏洩の従業員に罰則
 http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050422AT1E2100721042005.html

むむ、さらに厳しくするつもりなのか。個人情報を不正に漏洩させた従業員に罰則とは。
たしかに現在の法律に罰則規定がないのは、見る人が見れば不十分な話だろう。

ただ法律の個々の条文が効き目をもった結果として、その先に何が起こりうるか。それを読まなければならないだろう。
ミノフスキー粒子の発見が、有視戦闘が可能な兵器としてのモビルスーツの登場を促したように。巨神兵を用いた火の七日間で汚染された世界に、浄化システムとしての腐海が急速に面積を広げたように
個人情報保護法が制定された時、誰が携帯電話の電話帳を使えなくなると予測したであろう。

そこで僕は予測する。

この改正案が通ったら、社員が退職する時にはこれまで交換した名刺を会社に納めて辞めないといけないですね。仮に営業マンが転職して、新しい会社に前の会社の名刺を持っていったら、それは“犯罪”です。
それでは、せっかく再就職しても即、退職の憂き目を見てしまいます。

ううむ。

名刺を持ち出せない営業マンとはあわれなもの。
これからは営業マンの転職活動は、人脈で評価されるのではなく、真の営業力が勝敗を決めるかもしれません。

これからは選挙活動も大変になるでしょう。
政治家の事務所も、電話をかけたり葉書を出したりして投票を訴えようにも、各種団体の名簿はもうもらえないわけだから。政治家のセンセイたちも、きたるべき選挙に突入した時初めて自らの制定した法律が、どのような影響を及ぼすものだったのかに気づくのでしょう。
民主党の次期衆院選公認候補に決まった、わが後輩・熊谷君の選挙活動はいかに…!?)。

あと、個人持ちの携帯電話を業務に使わせている場合ってどうなるんだろう。
会社の顧客の情報を、私用の携帯電話に登録した時点で、それは個人情報流出なのではないだろうか。
個人持ちの携帯電話を業務に使わせる例は少なくないと思う。僕の聞いた範囲では、たとえば大手新聞社のA社やM社ではそういう運用をしているらしい。記者が取材先の情報を登録したら、個人情報流出ってことになるのでは…。あ、報道は個人情報保護法の適用対象外だから、よいのかなあ。

うーん。どうなるのだろう。
繰り返しになるが僕らはまさに個人情報保護という泥沼のなかを泳いでいる。ちょっと前まで杞憂で片付けられたことが、いまは杞憂でないとは言い切れない。
どのような事態が予測されるのであれ、こういう時代に僕らは生きるのです。


このことで学んだこと。

まず、法律とか規則とか、自分に関係ないところで作られていると思っていても、それは直接的に自分の身の上に影響を及ぼしてくるものなんだな、ってこと。時には暴力的なほどに。

とはいえ個人情報保護法の必要性は僕も否定するものではなく、それが制定されるには時代の要請があったと思う。
けれど、結果としてビジネスの現場でセキュリティ原理主義を加速させることを担っちゃっている。
これ、法案をてがけた官僚たちや、立法にあたった国会議員のみなさんはどう予想していたんだろう。おそらくこの状況をリアルに見通すことなど、彼らにはきっとできていなかったのではないか。

つまり、法律や制度というのは、その当初の意図とか、制定したものの予想の範囲を越えて動き出すことがあるということだ。
想定の範囲外、って表現すれば、ちょうどいいのかもしれない。

ここから先は、僕としてはちょっと論理の飛躍もあると思うのだけど、おそれずに書いてみよう。

たぶん、規則や命令、あるいは法律(もしかすると憲法改正論議にもあてはまるかもしれない) —こうしたものは、現実によほど不都合がない限りあまり増やさないほうがいい。
シンプルであることこそが実はいいんじゃないかと、最近は思うのだ。

それなのに、実際にそういうものを作る場になると、誰から見ても反論できないって内容が持ち出されることがある。
たとえば、多くの人が共有すべきものとされている規範ーつまり道徳とかモラル、マナーといった範疇に属することを持ち出されると、それを盛り込むことに正面から反対しにくい。反対できないから、書いちゃえということになってそのまま通ってしまう。
でも、そういって加えたものが後になって、想定外のところで何かの妨げになったり、ものごとを阻んだりすることがあるんじゃないだろうか。

だから考え方を改めよう。たとえそれが正論だったとしても、慣習的に保たれてきたものならば、不都合がない限りこれからも慣習に任せておけばいい。
命令や規則なんてものは、必要最低限の範囲におさまっているほうが美しい。個人情報保護という泥沼にあって、いまはそう思っている。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

June 02, 2005

ザ・インタープリター

大学時代の後輩の熊谷正慶君が、民主党公認候補に決まった。次期衆院選で彼の地元、岐阜4区から立候補する予定だという。

 MSN-Mainichi INTERACTIVE 都道府県ニュース
 選挙:衆院選・岐阜4区 民主県連、元銀行員・熊谷氏を擁立 /岐阜
 http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/gifu/senkyo/news/20050427ddlk21010024000c.html

熊ちゃんは僕と出身大学は違うんだけど、僕のことを気さくに「みずみず」と呼んでくれる旧友たちの一人である。1990年代、名古屋で最もホットだった学生メディア・グランドネットワークの、1コ下の後輩だ。

僕は、このサークルが出来てから3代目にあたる代で、編集長という役割を務めていた。その1つ下の学年に、熊ちゃんはいた。
サークルには年4回発行する雑誌の誌面づくりを行なう編集長や、企業を回って広告をとってくる営業部長、書店にお願いして雑誌を置かせてもらう流通部長など、様々な役割があった。それら全てのメンバーを束ね、サークルの“顔”として活動するのが、代表だった。

熊ちゃんは僕らの代を引き継いで、サークル代表を務めた。

サークルを引き継ぐと、彼は持ち前のバイタリティでまさにサークルの“顔”としての役割を100パーセント以上発揮。ついには当時の経団連・豊田章一郎会長のインタビューを実現させるという、他には真似のできない功績を残した。
バイタリティだけでなく、抜群なセンスをもつパフォーマーでもあり、宴席では和田アキ子のリアルな物まねが得意で、僕らをつねに愉快にさせてくれる存在だった。

名古屋大学を卒業後は、東京三菱銀行に就職。実に異色のバンカーだよなあ、と思っていたら、数年して銀行を退職してしまった。
僕は正直なところ、おいおい、結婚したばかりなのにどうするんだよ、と思っていたのだけど、在野にひそむこと2年余りで、こんどは民主党公認候補として僕らの前に姿を現した。

img1f2471420kugu7そんなわけで5月27日、金曜日の夜。

東京は竹橋のパレスサイドビル。地下1階にある赤坂飯店に、学生時代の仲間が多数集まった(名古屋で出会った仲間なのになぜか、みんな東京で活躍しているんだよね)。ここで彼の新たな挑戦を祝い、激励したのであるよ。

しかし、ここまでこぎつけた彼の努力は、たいしたもんだと思う(…念のために言うと、彼の親御さんは地元の教員であり、いわゆる世襲とか二世とか、そういうものではない)。
そして同時に、この後こそがいよいよ大変だよね、と思う。

実はかつて僕の母方の祖父も、選挙に立候補したことがある。選挙といっても地元の市議会議員選挙だけど、家族、親戚巻き込んでその時はみんな大変だった。また、大学4年生の夏休みには、参議院議員選挙の選挙事務所のアルバイトをして国政選挙の現場を垣間みた。
だから僕も、選挙に立候補するというのはどのくらいのエネルギーが必要なのか、また当人のみならずその周りにいる人にどのくらい影響を与えるものなのか、少しばかりは想像がつく。

そういうことを考えると、これは重い決断なのだ。

もっとも、そういったことをいまひしひしと身に染みて感じている熊ちゃん本人だと思う。
なにより代議士になれば権力を少なからず有する立場になる以上、並大抵程度のリスクでその職を得てしまえるとしたら、それはそれで困ったものである。やはり政治家をめざすというのは、それなりに重いものを背負っての選択であるべきだと思うよ。

だからこそ、個人として彼の選択を励ましたいと思うし、僕もこれから少しばかりは力になれたらいいなと考えているところです。
万一、当選が果たせたとしたら(この期待が全く予断を許さないことだとはわかっているけど)、かつての仲間から代議士が誕生したするというのは、こんなに栄誉なことはないと思う。

むろんこの先の結果がどういうものであれ、彼のこのたびの挑戦は尊敬に値することだというのは変わりがない。考えれば、僕らの世代もそろそろこうした役割を果たす頃にさしかかってきているわけだ。大きなリスクを賭してその先陣を切ったのが、彼だと言える。

リスペクトなのだ。
(いやあ、いちど使ってみたかったんだよね、このリスペクトって言葉を)。

IMG_1145さて、そんな熊ちゃんの挑戦だけど、最近は一人必死に演説のスタイルを考え抜いているらしい(彼の声を読むべし!)。

願わくば、こうやって生み出される熊ちゃんの言葉がこれから、彼が立候補を予定する岐阜4区の、できるだけ多くの人びとの耳に届き、そして心に響く力をもちますように——。

彼のブログへのリンクを、このむびろぐの右欄にある「知人のブログ」に掲載しておきました。
#とくに岐阜4区の人は、見てあげてください〜。m(_ _)m


さて、最近見た映画の話。

凛として美しく、ちょっと物憂げなニコール・キッドマンの姿に再び出会ってしまった…。ザ・インタープリター。眼鏡をかけた女性フェチのワタクシにはたまらない…(知的な雰囲気を醸し出した美女に滅法弱いのデス)。

(;´Д`)

これを鑑賞したのは、6月2日。残業をわりと早めに切り上げて帰途についたんだよね。
京浜東北線の電車に乗って川崎駅に近づいてきた頃に、お、もしかして映画見に行けるんじゃ…?と思い立ち、上映時間を調べると、ちょうどレイトショーの始まる時間に間に合いそうだった。
このところ映画館に足を運んでおらず、そろそろ何か見たいなという思いがくすぶっていたところで、にわかに決断して下車し、駅前のTOHOシネマズに向かった。

上映が始まると、出だしのシーンで、すわ、ルワンダ虐殺かっ!?と思ってしまう。なにせ、昨年ジェノサイドの丘を読んだところなもんで。
舞台はアフリカの架空の国、マトボ共和国。

そこからニューヨークに飛んで、国連を舞台にしたお話になる。
シークレット・サービス役のショーン・ペンとの絡み合う視線。おお、大人の危ない恋の雰囲気漂わせているぜー(ウブな僕の人生には縁なし)。といっても、最後までベッドシーンとかはなかったので、お子様も安心して(!?)鑑賞いただけます。いやいや、お子様にはもとよりこのストーリーは難解で理解できないよな。そう、世界はいまも様々な悲劇に見舞われているのです。

ということで、国連を舞台にするにふさわしい重厚なストーリーであり、大人の映画として楽しめます。
…にしても通訳のブースくらいチェックしておけよ! どう考えても狙撃するとしたらそこからしかないだろっ!! (あの漫画・沈黙の艦隊でも、海江田艦長の国連総会演説のシーンでは通訳のブースから狙撃されたんだよね)。

しかし、ニコール・キッドマンがアフリカ出身のマトボ国籍という設定にはたまげるわな。こんな美人が加わっているんなら、マトボの反政府運動にゃ、みんな参加したくなるだろーよ。

(;´Д`)


そういえば、国連というと、僕は国連の仕事をしていた人にはいままで1人としか会ったことがないな。

この方だ。

 asahi.com:ニュース特集:イラク情勢
 国連、イラクに日本人派遣 法律顧問として活動へ
 http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200411180403.html

この記事に登場している水野時朗さんという方と、ほんの少しだけ関わったことがある。

それは、1994年の晩夏のことであったよ。水野さんは、当時の自社さの連立与党の要請で、国連を辞めて参議院愛知選挙区再選挙に立候補した。
上に少し書いたけど、名古屋で大学生をしていた僕はその時、水野さんの陣営でアルバイトをしていたのだ。

選挙の結果は、残念ながら落選だった。気になった僕は、落選とはどういうものなのか、水野さんの家を訪れて話を聞き、当時連載があった毎日新聞の学生取材欄に記事を載せた(その時の記事がこちら)。
その後しばらくして水野さんはまた国連に戻ったらしい。このことは以前のブログにも書いた。

それから11年たったいま、こんどは僕らの仲間の一人が、国政選挙に挑もうとしているわけだ。
ふぅむ…。


#このブログは、基本的に映画を1本見るたびに更新することにしています。
#ただし映画というのは、実は更新のトリガーに過ぎず、その時々で僕が感じていることを記録することに主眼が置かれています。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

May 21, 2005

ナショナル・トレジャー

世の中には飛行機嫌いという人たちが少なからずいて、乗るのが嫌でたまらないという声を聞くことがある。

たしかに人工の入れ物に乗って、高速で空に浮かんでいるというのは、感覚的に不安を招かざるを得ない状況だろう。エコノミークラスのあの狭い席に閉じ込められ、時には乱気流に巻き込まれたりしながら数時間を過ごすというのは、人を不愉快—時には苦痛にさせるに十分だ。

ただ、僕についていうとそういう感覚はない。むしろフライトのその何時間かというのは、楽しみな時間である。
狭い座席はさほど苦にならないし(座席は、予約の際にあらかじめ通路側を指定しておく)、また映画は無料で見られるし、お酒も飲める。キャビンアテンダントのお姿を拝して“萌え”も楽しめる(おっと、これは余計か…)。
そうしたものに飽きたら寝てしまうか、あるいは沈思黙考し、その時々直面しているさまざまなものごとについて考えをめぐらす。フライトの時間は、僕にとって落ち着いて考えをまとめるよい機会である。

1週間の米国出張。

IMG_1131今回は、ある無線LAN企業のテクニカルトレーニングとカンファレンスを受講した。米国に来て新しい技術の動向を聞くというのは、(英語わかんないんだけど)ネットワークエンジニアとして他にない刺激となる。
おかげでちょっとした新しいビジネス検討のアイデアも固まったし、日程のなかで当地にいる知り合いとも会えたし、外国に出かけたことでリフレッシュにもなって初めてゴルフもしてみたし(おっと、これはまた余計)。とにかくそれなりに意義あるものであった、と言えるんだろうな。

そんな思いを抱きながら、帰国の途につく。
機内で上映されていたのが、ナショナル・トレジャー
宝探しのアクション映画。主演は、ニコラス・ケイジフリーメイソンが隠したお宝の地図が、なんとアメリカ合衆国の独立宣言書の裏に書いてあるという。そこでその宣言書を盗み出すというお話。いやあこの荒唐無稽さ、よいねえ! やはりハリウッド映画はこうでないと。

それにしても、United Airlinesは今時スクリーンでの上映なんだね。座席にTV画面がついていないのにはちょっとがっくり。人の頭越しに、前方のスクリーンを凝視する。

さて、ナショナル・トレジャーは荒唐無稽な設定とは裏腹、なかなか素晴らしい映画であったよ。何が素晴らしいって、このお話、アクション映画なのに、人が死なないのですよ。これってかなり希有なことじゃないですか。
宝探しもののアクション映画の名作として、かつてインディ・ジョーンズという作品があった。あれは無実の人々がバタバタ死んでいくよね。

で、悪者が死ぬなら自業自得といえるけど、道案内をしていた現地人の首がすっぱり飛んだりするのは、あまり気分よろしくないものである。
というか、そういう映画を平気で量産して楽しんでいる米国人たちっていったい何者!?
親鸞上人は、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をやとおっしゃった。悪者だって助けちゃうという教えもあるなかで、無垢の人々、善意の第三者が死んで行くことに彼らは不条理や道徳性の欠如を感じないのだろうか。と言いつつそんな映画を見に行って楽しんでいる時点で、僕も同罪だけどね。

最近見た映画で不条理だったのは、タイム・ラインのフランソワ君である。
過去に紛れ込んでしまった教授を、学生たちが、量子コンピュータの力でできあがったタイムマシンで探しに行くという、これも荒唐無稽な冒険もの。

フランソワ君は、その映画の脇役で、人がよくて気の弱い青年。過去に旅立つことを渋る彼を、仲間の学生たちはお前のフランス語の能力が必要なんだと説得して、無理矢理連れて行く。行き先は英仏百年戦争のただなか。
さっそく一行はイギリス軍に捕まって、名前を問われ、フランソワ君が名乗ったら、このやろーフランス人じゃないか、敵だ!!ということでさっくり殺されてしまう。
その後は不幸なフランソワ君など、はなからいなかったかのようにストーリーは展開。主人公の男女たちはあれやこれやと活躍して生き残る。そして、ラストには時代を越えた大団円のシーンが待っている。めでたくハッピーエンド…って、おいおい、君たちはそれでいいんだろうけど、フランソワ君のことはどうした。
あまりにひどい話だ。フィクションとはいえ、非常に心が痛む。

でも、ナショナル・トレジャーは死なない。
唯一、物語が佳境に向かう頃に階段を踏み外して穴ぼこの底に落っこちてしまう、運の悪い人がいる(悪者たちの仲間の一人だ)。まあ、こういう不注意による不幸な事故はふつうに生きていて起こりうるもので、当人やご遺族にとっては不条理なんだろうけど、とりわけ不自然ではないだろう。

ということで、人が死なないアクション娯楽作品ナショナル・トレジャーは、貴重な1本として文部科学省推薦にできると思うよ。
ストーリー展開もテンポよいし。気持ちのよいお話です。


200506051817000帰国してからのトピックス。
5月27日に、Bフレッツの開通工事があった。

引っ越したマンションの部屋には、LANの先行配線がされていた。そして、Bフレッツが契約できるようになっていたのだ。
そのことを知ってOCNを、移転と同時に契約変更、OCN光 with フレッツを申し込んでおいた(僕はメールアドレスブログはもう13年間も会員を続けている@niftyのものを使っているのだけど、アクセス回線についてはOCNを使っている)。
ところが手違いなどあって工事日がすんなり決まらず、調整の結果、結局5月の末に設定されることになった。

開通工事自体は、すんなり完了。というか、たぶんマンションの管理室でスイッチングハブにLANケーブルをさしているだけなんで、僕にでも十分できる作業なのだけど。この作業のために1ヵ月半近く待ったということになる。
これでしばし追い込まれていたダイヤルアップ生活とも、おさらばだ。

しかし自宅に光ファイバが届くというのは、職業として通信事業に関わる身としては少なからず感慨深いものがあるな。

僕が社会人になったばかりの頃、最新の通信技術といえばISDN
その時、既に未来の通信はFTTH(Fiber To The Home)になると語られていた。その当時は、2005年頃、月額1万円程度の10Mbpsの回線といった形で、家庭に光ファイバが届くことを目標にしていたと思う。
あ、ベースとなる高速通信のプロトコルは、ATM(Asymmetric Transfer Mode, 非同期転送モード)ね。

ブロードバンド革命の進展により、実際の2005年には、月額5,000円程度(集合住宅の場合ね)で、100Mbpsの回線が届くことになった。そしてプロトコルとしてATMは消え去り、IPオンリーの時代になった。
入社してたまたまLAN担当に配属されて、職場で先輩社員の方々と、「もしかして将来、家庭でもLANを使うようになるんですかねえ」「イーサネットを使った通信サービスなんてできないんでしょうか、いやまさか」と話していたのも懐かしい。

さらにさかのぼり、就職する以前の13年前の5月。2400bpsのモデムで初めてNIFTY-Serveに接続したことを思う…。

実に感慨深い。


それまでダイヤルアップで我慢していたいろいろことが、Bフレッツの開通によって再開できるようになった。
その一つとして、Japan-A-RadioをFMラジオ代わりに楽しむことがある。

いまの部屋では、PowerBook上でiTunesを使って再生する音楽を、無線LAN経由でミニコンポに飛ばして聴けるようになっている。アップルコンピュータ無線LANアクセスポイント、Air Mac Expressの機能を使う。

それでiTunesだと、CDから移した音楽を楽しむほかに、インターネット上に開設されている海外のラジオ放送も楽しむことができるようになっているんだよね。
Japan-A-Radioは、そのリストのなかにある、インターネットラジオ局の一つだ。

日本ではインターネットラジオは規制が多いので、結果iTunesのリストには海外の局しかない。
僕は、ほとんど日本のポピュラー音楽しか聴かないという軟弱リスナーなんで、海外のインターネットラジオが多数聴けてもあまり嬉しさを感じない。だけどある日たまたま、そのリストのなかからJapan-A-Radioを見つけてしまった。

これも外国の局なんだろうけど、ずっと日本のポピュラー音楽を流し続けているのだ。これはいい、ということでたまに聴くようになった。前の部屋ではADSL経由で楽しんでいた。
Bフレッツの開通でリスニング再開。つねに音楽のある部屋になるわけで、悪くはない。いいもんだ。

しかし不思議に思う。著作権処理はどうなっているんでしょうな、この放送は。
まあ現実に聴けて、楽しめているからいいんだけどね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 15, 2005

レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語

萌え”だ。

レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語
不幸な3きょうだいの話なんだけど、その長女・ヴァイオレット役で登場するのがエミリー・ブラウニングちゃん。

美人ではないが、かわいい! ぽってりとした丸顔。長女役としての凛としたふるまい。あぁ…。
迷わず“萌え〜”を感じてしまうYO!

残された遺産を奪うため、3きょうだいをつけ狙うオラフ伯爵
彼女と結婚式を挙げるシーンに激しく嫉妬したのは、おいらだけではないはずだ。

えーと、、(ごほごほっ)。

5月15日から22日まで米国に出張してきました。
成田を発ち、サンフランシスコに向う飛行機のなかで上映されていたのが、この映画だったのです。
ちょうど国内でも公開が始まったところみたいだけど。

萌え”ってのっけから言ってしまったから誤解されそうだけど、それは見る人が見れば、という話。この映画ストーリーとしてもなかなか面白かったよ。
3きょうだいに降り掛かってくるさまざまな不幸を、知恵と勇気で乗り切っていくというお話。タイトルを見るとちょっとキワモノっぽいんだけどね。でも、秀逸なファンタジー作品です。

で、僕はずっと長女ヴァイオレットに釘付けだったんだけど…悪役はこれ、ジム・キャリーだったんだね。
飛行機のなかで見たので、画面が小さかったせいで、オラフ伯爵がジム・キャリーだとは気づかなんだ。
あとで言われて、そうだったのか、と思った。こういう変幻自在な人物を演じさせるには、まさにピッタリな人だよな。

ふぅ〜。


萌えに身をゆだねているうちに、サンフランシスコ国際空港(SFO)に着陸。

空港に着いて、今回一緒に行動するメンバとの待ち合わせのため、とりあえずカフェで休憩。
で、しばらく時間があるのでカフェでくつろいでいる最中に、いそいそと実験を開始する。

IMG_1092鞄から取り出したのは、N900iG

日本を発つ前に私用のFOMAiモードから、NTTドコモの国際ローミングサービス、WORLD WINGを申し込んでおいた。
申し込むと、空港でFOMA/GSM両対応の携帯電話機、N900iGを貸してくれるのだ。

実験とは、最近米国でもiモードが使えるようになったというので、それを試してみようと思ったのですよ。
もしぶじできたならば、わがモバイル道、一歩前進。

国内で使っているN2102VからSIMFOMAカード)を取り出して、N900iGにはめ込む。そして電源をオンにすると……ちゃんとアンテナのバーが立つ。ふむ。
とまあ、実は以前も国際ローミングは申し込んでみたことはあって、昨年のヨーロッパ出張の際にオランダやイギリスで日本の090番号のまま通話はできることは確認している。
ただ、その時ドコモが貸してくれたのはモトローラ製のGSM電話機だった。当然、iモードはできない。

今回は、FOMA N900iG。ちょっと大きめなんだけど、写真のとおり見た目は日本の普通の携帯電話と何ら変わりがない。

この、N900iGのiモードボタンを押す。そして、iメニューを選ぶと…。

IMG_1095iモード、キタ━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!

当然日本語でメニューは表示される。

もちろん、iモードメールの送受信も問題ない。
メールを端末で直接受信することもできるし、iモードセンターに到着しているメールを、iモードから読みに行くという、いわゆるWebメール形式での使い方もできる。

さらに僕の勤め先では、会社のサーバとiモード網を接続して、iモードからメールや様々な業務システムを利用できる、モバイルコネクトというサービスを導入している。

携帯電話の画面で、会社のメールをWebメール形式で読んだり、グループウェアの画面にアクセスしてスケジュールの確認ができる
僕らの職場では4年くらい前から導入されているのだけど、とっても手軽で、とくに外出の多い営業系の社員にはかなり好評なシステムだ。僕も国内で外出する時は、日々活用している。

このモバイルコネクトiモードがここ米国の地で使えるというのなら、iモードと接続しているモバイルコネクトだって、たぶん使えるはずだ。

IMG_1097そう考えてモバイルコネクトのサイトのURLを入力してみる(ふだんはブックマークしてあるもので、親指で入力するとちょっと時間がかかる)。
接続してみると……問題なし!
ちゃんと認証画面が出てきて(モバイルコネクトでは、乱数表上で決めた位置にある数字を、認証のパスワードとして使う)、ログインすると国内と同じく普通に利用できる。

海外で、てのひらから会社のサーバにつながるようになったヨ!
ピース、ピース。

これまでも、ノートPCを持って行って、ホテルのインターネット接続サービスを使ってインターネットVPNで接続してメールを読むことが可能だった。今回も、もちろん持って来ている。

一方、国内では、わざわざかさばるノートPCを持ち運ばずとも、上述のように携帯からモバイルコネクトでメールを読めていた。まあ、携帯からだと返事を書くのはさすがに難儀なんだけど、連絡が入っていないか確認するにはこれで十分だった。
思うにノートPCを持ち運ぶのはもう古い。個人情報保護法のあおりで、情報を持ち運んで万一紛失したりすると社内的に非常にややこしいことになってしまうご時勢であり、そう考えるとノートPCは正直、面倒なんだよね。
それが携帯ならかさばらないのに加えて、モバイルコネクトのしくみなら、端末の内部に情報も残らないし。

そう、いまやビジネスも親指で処理する時代を迎えているのである。

それが、ついに海外でも同じことができるようになるとは…。
感動した!

そして、NTTグループの技術力は実に素晴らしい!!

さて、僕は英語が得意ではないし、本来業務は国内で完結している。だから、海外に出張する機会がそれほど多いわけではない。
それでもごくまれに、棚ボタ的に出張の機会はめぐってくる。そんな時は、モバイルについての実験の繰り返しだ。

以前は、海外から会社のメールをチェックする時には、会社のリモートアクセスサーバでダイヤルアップで接続していた。
日本まで国際電話をかけていたわけだ。
これは、なかなかの挑戦である。国際電話の料金も気になるし、日本とは勝手の異なる、ホテルのPBXを相手に苦闘しなければならない。

3年ほど前に、社内のリモートアクセスの手段として、インターネットVPNによる接続が導入された。
自分で契約しているプロバイダが海外ローミングも提供しているので、ダイヤルアップで出張先の最寄りの都市のアクセスポイントまで接続するようになった。こうすれば、国内の電話料金だけでいい。

ちょうどその頃からは、ホテルの部屋にTut Systemsの機器などが設置され、LANによるインターネット接続サービスが提供されるようになってきた。
これは有料のところが多いのだけど、こうしたサービスが備わっていればLANポート経由で、ブロードバンドの接続ができる。

SFO一昨年の出張では、これはちょうどサンフランシスコ国際空港だったのだけれど、公衆無線LANサービスによる接続を試した。

この時は、無線LANって、手軽でいい! と思った。
僕はもともと無線LANの技術評価を担当しているから、設定はお手のもの。接続自体は標準化されている技術で、国内でも海外でも勝手はとくに違わずに接続できる。
空港に入っているのはT-Mobile Hotspotで、これは米国のスターバックスコーヒーの店舗でも提供されていることがある。T-Mobile Hotspotには月額での契約だけでなく、最初の1時間何ドルかプラス1分10セントという従量制的な契約もあって、エリアからのオンラインサインアップが可能だったのでその場で使うことができた。

その成果は拙著にもまとめておいた。

昨年、ヨーロッパに出張した際には、初めてNTTドコモWORLD WINGを利用した。この時も私用のFOMAから申し込んだので、料金は気になって実際にはあまり使わなかったのだけれど…。日本の090番号のまま、海外で携帯電話が使えるというのは上で書いたとおり。

そして、今年は海外でiモードだ。
親指大国の国際進出だ。

思へば遠くへ来たもんだ。

かつてのダイヤルアップ時代、海外からの接続についてはIT系の出版社から指南書が発売されたりして、みなそれを手におっかなびっくりしながら接続にトライしていたものだ。そこまでして旅先で通信しなくてもいいじゃん、と、一般人たちの実にもっともな指摘を受けながら…。
(その時のおいらモバイラーたちの目標は、偉大な先駆者山根一眞サンだったのデス。アマゾンでの取材に携帯ワープロ持って行って電子メールを送るというワザを1994年に既にやってのけていたその偉業は、まさに金字塔としていつまでも語り継がれるべきものだ。マンセー!)。

それが今では、手のひらの上から、お手軽接続できる時代となったわけです。

さすが、21世紀だよね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 08, 2005

世界の中心で、愛をさけぶ

珍しく、映画よりも、TVドラマのほうが好みだな、って思ったんだよね。

この日、WOWOWで見た世界の中心で、愛をさけぶのこと。
この映画の原作にあたる書籍を、昨年僕は職場の先輩に貸してもらって読んだ。
この作品はその時既に話題になっていたし、既に映画化もされTVドラマにもなっていた。

近所のレンタルショップにTVドラマ版の世界の中心で、愛をさけぶDVDが並んだので、今年に入ってからはそれを1枚1枚借りて来て、視聴しているさなかだ。
そのドラマのDVDは、まだ最後の1枚を見終えていない。だけど番組表でWOWOWで放送されることに気づいたので、先に映画版を楽しむことにした。

本も読んで、映画も見て、ドラマも外さないという作品はこのところ、他にもあった。それは、解夏だ。

映画解夏にも大沢たかおが出ていた。

大沢たかおつながりの両作品。
きっと彼は、純愛路線のストーリーにはかかせない俳優なのだろう。これはたぶん、よみがえり話には竹内結子が外せないのと似たようなもんだ。

世界の中心で、愛をさけぶ原作映画ドラマを比べてみると、例に漏れずドラマはキャストとか風景とか、大きく脚色してある。
もともと、あじさいの咲く町といった演出は悪くないなあと思ってドラマを見ていた。そして映画版を見終えた今考えると、僕の感覚としては正直、ドラマ版のほうが好きだなあと思ったんだ。

なんだろう。
やっぱり配役が僕好みなんだと思う。
綾瀬はるかは、僕はあまりタイプではないけど、主人公の彼がいい。山田孝之だ。
ドラマを見ているとつくづく、この彼の眉の太さは、地方の高校生を演じる上で適切なレベルだなあ、と思ってしまうのだ。

映画版の感想もちょっと記しておこう。
この映画は、たんに原作を映像化するだけでなく、いま出会った大切な人と、実は以前にいちどめぐりあっていたというオリジナルのエピソードを盛り込んでいる。

で、気になっているのだ。

好きになった相手が実は遠い過去に既に会っていた、ってそういう話、前にもあったよなあ。
えーと、なんだっけ…。うーん。

しかし、思い出せん。

だからとても気になる。
思い出せそうで思い出せない、もどかしさ。この、世界の中心で、愛をさけぶはその感覚とともに、僕の記憶の片隅を漂うことになるのであろうか。


さて、近況報告。
今回は、自分中心で、“正論”だと叫ぶ、ということについて。

shimbun竹橋駅の壁面広告に掲げられた文言を見て、ああそうだよなあと頷いてしまった。
「新聞社が一方的な意見を押し付ける時代は終わりました」
とある。毎日新聞の広告だった。

最近、引っ越しをした。
引っ越しにともなって読む新聞を替えて以来、新しく取り始めた新聞の紙面になんだかな〜と思うことが多い。

新しく読んでみることにした新聞は、産経新聞だ。
フジサンケイグループが発行する全国紙である。

購読をし始めたら、新聞社から契約の謝礼の手紙が届いた。
そこには、「産経新聞は、国益を重んじ、「正論」路線にのっとった報道をこれからも続けます」という旨が記載されていた。

このメッセージからして、僕にとっては気に入らないものだったんだよな。
これは僕が多分にひねくれているからなんだろうけど。
なんだこれは、って思った。

その、「国益」って何さ?

国益。
goo辞書で検索してみると、「対外関係における、国家の利益」とある。

産経新聞の報道を見ると、中国韓国ロシアに対しては批判的な論調が多い。とくに中国に対しては記事の中でもネガティブな表現が圧倒的に多い(中国嫌いの人は、溜飲を下げるんだろうなあと思う)。
翻って、米国に対してはこのような論調はほとんどない。

たぶん産経新聞は、日米協調国益にのっとると考えていて、一方、中国韓国ロシアなど近隣の国に対しては妥協せず、毅然とした外交を展開することが国益にのっとると考えているのだろうな。

それが本当に国益なんだろうか。

あえて言えば、中国ロシアと仲良くすることこそが国益にのっとると主張することも十分可能だと思う。
だって、いまの日本政府は安全保障理事国になることをめざしている。この目標をかなえることを国益であると設定すれば、それは中国ロシアの支持を得ないければ果たせないんじゃ?
だからこれらの国と、時には妥協してもよい関係を築くことは、国益である、と唱える人がいても不思議ではない。

つまり、国益というのは便利な言葉なんだ。
この言葉を掲げつつ、右から左まで180度、いずれの立場をとることができる。
産経新聞が唱えるところの「国益を重んじる」というのは、その180度ほどもある多くのある選択肢のなかから「産経新聞の主観にもとづく国益」を重んじるということでしかない。

国益とあわせて唱える「正論」路線というのも、よくわからない。
産経新聞には正論というコラムがあるから、それをPRしたいというのもあるのだろう。きっと。

でも、「これが正論だ!」と掲げられると、僕は抵抗を感じてしまう。
それに正論というコラムに書かれることのなかには、正論というよりは、各論だったり、極論もしくは暴論だったりするもののほうが多い。

それらはオルタナティブな主張としては意味があるのだろう。でも、それを正論と強調されるとほんまにそれが正論か? と思ってしまう。
しかし、だからといってコラムのタイトルをそのまま「暴論」という題名にしたら身も蓋もないわけで。
よって、オルタナティブな主張に、正論と名付けなければならない編集上の事情は、よくわかる。よくわかるんだけどねえ。。

まあ、新しい新聞に切り替えてから、「なんだこのドキュン新聞は!」と思う場面が日々少なくないわけです。

ただ、僕の実家ではもともと朝日新聞を購読していた。朝日の紙面に慣れ親しんできたから、ひときわそういう思いを強く抱いてしまうのかもしれないな、とも思う。
もし、僕が生まれた時から産経新聞とか、読売新聞を読んでいたら、朝日新聞の紙面に対して「なんだこのドキュン新聞は!」と言っていたのかもしれない。

そういうことはあるにせよ、それにしても産経新聞の論調はやけに鼻につく。彼らにとっての“国益”を、むやみに強調し過ぎている観は否めないだろう。
それってどうよ、と、強い疑問を抱いていたところだったので、地下鉄の駅を歩いていて目にした広告に、そうだよなあと素直に頷いてしまった次第なのだ。

毎日新聞社いわく、新聞は論争と共感の広場なんだそうです。
ということで、次に機会があったら、毎日新聞を読むことにしよう。

と少し考えて、そして思い直す。
産経新聞をとった理由というのは、紙面の論調ではない。実はそこは何ら考慮になかったのだ。
理由、それはただ
「夕刊がないこと」
これに尽きる。これだけだった。

夕刊は、ゴミになるのだ。
朝刊は電車のなかで読んで、駅か会社のゴミ箱に捨てられる。でも夕刊は家に届く。そのまま家のなかに蓄積され、散乱する。毎日数ページの量だが、1ヵ月もたつと膨大になる。
加えて、 僕が住む横浜市のゴミ収集では、古紙回収が月に1回しかない。引っ越したばかりの新居で、紙のゴミの量はとくに増やしたくなかったのだ。

ゴミの散乱していない部屋ほど、心地よいものはない。
その観点で、新しい部屋での新聞を選んだ。その時に産経新聞は、僕個人の私益に最もかなったのである。

そんな理由ですみません。
はい。

#このブログは、基本的に映画を1本見るたびに更新することにしています。
#ただし、映画というのは更新のトリガーに過ぎず、その感想の記述よりは、時々で自分が感じていることを記録することに主眼が置かれています。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

April 30, 2005

マスター・アンド・コマンダー

このところ、映画館に足を運んでいない。
映画といえば、もっぱらWOWOWNHK BSで放送されているものを鑑賞するのみだ。

映画館に行っていない理由は、バタバタしていたからだ。
何をバタバタやっていたかというと、引っ越しである。

そう、このたび引っ越しをしました。
近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください〜。


そもそもこれまでの住まいはというと…。

社会人になって東京勤務になって以来、足かけ8年に渡って住んだのが鎌倉市内の独身寮だ。そして、勤務先のビル移転を機にそこを出たのが3年前。
その時横浜市内に借りた部屋は、ほとんど1Rに近いといえる1Kの部屋だった。

これが最近になって、住み心地がよろしくないなあという思いが増してきたんである。

もともと20㎡の広さしかない物件なので、3年間住んでいると荷物が増えてだんだんと手狭になってきた。
それに、国道に面しているので、常にクルマが通る騒音に囲まれている。僕は音に過敏なほうではないので、なんとなく慣れてしまってはいる。けど、喧噪のないことに越したことはない。
それに困るのは、騒音にさらされるので窓を開けることができず、夏になると空調に頼らない限りは蒸し風呂状態になることだ。

さらに悪いことに、去年からベランダに鳩が棲み着いてしまい、糞公害に悩まされることになった。

引っ越しへの気運は、自分のなかでは少しずつ高まっていたと言える。


といっても、現実問題では引っ越しにはそれなりに費用がかかる。なので、どうしようかなあと思っていた。
いい物件でも出ない限り、べつにいまのところでいいや、と思っていた。

そう考えて逡巡していたところ、すぐ近くに新築のマンションが建ち始めた。
どうせファミリー向けの分譲だろうなあと思って眺めていたそれが、完成してみると1Kくらいのサイズの賃貸物件だった。
入居者募集の垂れ幕がかかっている。

合わせて3月の下旬、それまで個人的にあれこれ考えて取り組んでいたことが潰えて、当面手持ち無沙汰になった。うーん、これからしばらく何に注力しようかなあ〜という気になっていた。

気分転換がしたかったのだ。

そこでふと不動産屋の扉を叩き、その物件を見に行った次第。
ここまですると、引っ越しへの気持ちが固まってくる。不退転の決意になってくる。


13028474_216ところで2004年度の下期には、会社からCiscoの資格取得を課せられていた。
これは前にも書いたように難儀していたのだけど、残るCCNAも3月中にはパスする見込みとなった。

同時に、休日勉強をするというお題目もなくなり、別の個人的な取り組みが潰えたことも合わせて、手持ち無沙汰になることを意味していた。
これは、引っ越しへの敷居を下げる大きな要因だった。


…もっとも、そのCCNAは実際のところ3月末になってもまた落ちてしまい、結果としては4月上旬までかかった。
これは誤算であったわけだが、結局取得できたのでヨシということだろう(ほっ)。


契約を交わし、鍵を受け取って4月の上旬から引っ越しを開始した。
ごく近所なので、とくに業者には頼まず、2週間くらいかけてゆっくり荷物を運ぶつもりで作業を開始した。
アルミ製台車など楽天で購入したりして、準備万端である。

200504091545000

最初の週の土日は、ちょうど桜が咲いていた時で、新居の隣にある公園の桜が満開となっていた。
荷物を運ぶ傍目で眺めて大変気分がよかった。



200504091542000

次の週は、会社の後輩が手伝いに来てくれた。わざわざ横浜市内まで遠路ご苦労様というものである。
感謝、感謝。

bd66459863668e47da71eaad973a470e
といっても実際にはあまり荷物を運ばず、すぐに酒盛りになったのだけどネ。



200504100933001そうやって引っ越した新居の感想を言えば、まず、広い。

今回は32㎡ある。これで、ようやく人間が住むくらいの空間になった気がする。本当に。


200504100934000
いや、20代はべつに寮だとか1Rの物件でとくに不満もなかったわけだけど(そもそも20代の給料では贅沢は言えない)、30代の独身生活にはこれくらいあってしかるべきなんだろう。

そして、新しい。
新築なんだから当然だが、これはかなり気分がいいものだ。

その結果として、必然的に家賃が高い。
これは心配だ。
実はこの春に昇格したから、その給料アップである程度は吸収できるという目論見なのだが、はたしてそんなにうまくいくものか。
おまけに僕は、たいして乗りもしないのにクルマも持っている。その駐車場代にバカにならない金額を支払っている。
節約しなければいけないわけだが、意思の弱い自分。正直言ってうまくできた試しがない。

ということで、金銭面は大いに心配である。

とにもかくにも、そんなこんなで生活を開始した新居です。


気づけばゴールデンウィークに入っていた。

予定のない休日。一人の時間。
そこでTVのスイッチを入れたら放送されていたのが、ラッセル・クロウ主演のマスター・アンド・コマンダー

ラッセル・クロウはカッコよいよね。
ああ、つくづく僕もラッセル・クロウに生まれたかったよ。もし僕がラッセル・クロウだったら、見合いでことわられることもないだろうに…。

と新居でチューハイを空けつつ、くつろいで鑑賞したのである。
これがひとり飲み会ってやつだね。
うーん、満足…。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 06, 2005

ハウルの動く城

ハウルの動く城でございます。

何の予定もない休日には、暇つぶしに一人で映画を見に行くのが僕の過ごし方。
だけどこういう話題作になると、実は見に行くのがわりと遅めになる。

なぜかということで結論を先に言っておけば、話題作って、誰かを誘って見に行けるんじゃないかと思っちゃうんだよね。

そもそも、映画で人を誘うのって、定番のように見えて、実はなかなか難しいことだ。
その理由だけど。ご存知のように映画にはジャンルというものがある。アクション、SF、恋愛、コメディ、アニメーションなどなど…。
そして、人によって好みとしているジャンルは異なってしまう。

だから映画で人を誘うのって、既に十分相手のことを知っている場合をのぞくと、けっこう気を遣うわけだ。

僕について言うと、あまり見ないジャンルの映画で誘われたとしても、領域を広げるよい機会だと思って(といいつつ、本音は誘われること自体が嬉しいので)ご一緒させていただくことが多い。
けど、全ての人がそのような選択をするかは限らない。

しかし、あまりそういうことを気にしないで済む作品というものがある。
いわゆる、話題作というものだ。
話題作というと、好みのジャンルかどうかは置いておいて、とりあえず話題になっている。そのことで見に行く必然性が既にそこに存在している。

それに、話題作はだいたい万人に受けるように予め作られているから、見てからなんじゃこりゃ、と思うこともそれほど多くない。
そう、僕はだいたい映画については、変なポイントについてコメントをつける癖がある。僕のことをよく知らない人と見に行った場合には、屁理屈をこねまわす人という印象を与えるおそれがかなりある。
まあ、できるかぎり言わないよう気をつけるんだけどね。

万人に受ける映画というのは、なんじゃこりゃと思うことになる可能性は少ない。
仮にそのように思う場面があったとしても、万人に受けているのだから間違っているのは己だろうと言って自分を言い聞かせることができる。
(えーと、僕は屁理屈をこねくりまわすくせに、常識とか体制というものにはいたって弱い。長いものにはまかれろ、寄らば大樹の陰という人間なのだ。…まあ、でなきゃサラリーマンなんてやっていないわけだが)。

つまり、僕自身にとっても失敗のリスクが小さい。

そのような事情に、話題作というのは、人をお誘いするにはうってつけと思われるわけだ。

さらに、逆説として話題作を仮に一人で見に行った時のことを考えてみる。
ひっきょう、劇場にカップルやファミリーがたくさんいる。
そんな空間に一人で入り込むと寂しさもひときわになってしまう。
これはなんとしても、どなたかお誘いするしかないではないか!

毎回毎回、そういう思いに至るのである。

とにもかくにも、話題作は人を行動させる力をもつ。

そして、日本映画における話題作の筆頭。
それはなんといっても宮崎駿アニメであることは衆目の一致するところ。

かつて、未来少年コナンアルプスの少女ハイジを作っていた頃とは打って変わって、日本を代表する映画監督にのし上がってしまった宮崎駿氏。

1,000万人規模の人が見に行くという、その作品。

“アニメ=オタクのもの”という図式が完全になくなったわけではないが、宮崎駿アニメだけは別枠である。
えー、ルパン三世・カリオストロの城風の谷のナウシカが初公開された頃はたしか、そんなもの見に行くのは大いにマニアックな人扱いされたような気がするんだけど。
でも、いまやそうした過去の作品までさかのぼって、一般人にとっての名作とされている。

現在では3年にいちどくらいのペースで公開される宮崎駿アニメ。
多くの人が待ちわびる期待感に反するような、その製作のペースの遅さは、RPGのドラゴンクエスト・シリーズに匹敵するであろう。
その公開のタイミングといえば、それはそれは貴重な機会であるわけだ。

しかし…。

これは、宮崎駿アニメ以外の話題作でもよく経験することであるが……。

今回もまた、結局どなたへのお声がけにも成功することはなかった。。
ちゃんちゃん。

とほほ。

_| ̄|○
_| ̄|○
_| ̄|○

というわけで、公開開始から何ヵ月かたったある日。そろそろ見ておかないと上映が終了するんではないか。まあ、べつにいまさら見に行かなくてもいいだろうけど…しかし、話題作なだけに今後いずれかの席で話題に上ることも多いと思われ。
現代人の一般教養として、見に行っておいたほうが得策であろうなあ。そんな計算が働いて、映画館に足を運んだ。

こうして4月の初めに見たハウルの動く城

さて。
一つ言わせてもらってよいでしょうか。

上に掲げた、話題作は、なんじゃこりゃと思うことはない、という論旨とは矛盾するのだけど。
あるいは、万人が正しくて僕の常識のピントがずれているということの証明の一つなのかもしれないけど。

最近の宮崎駿アニメって、本当に面白いですか?

いや、つまらないとは思わないけど…ただ本当に、1,000万人規模の人びとが物語に面白さを感じたり、描かれたテーマに感動したりする内容なのでしょうか?

正直に言うと、僕はもののけ姫以来の作品は、話のよさがさっぱりわからないのだけど。

かつてはそうでなかった。

天空の城ラピュタなんて、冒険アニメの最高傑作だと思う。見ていてすごくわくわくするし、その気持ちは大人になっても変わることがない。
(ただ、人は不要にたくさん死ぬけど)。
となりのトトロは、言わずもがなで、日本人のハートをくすぐる風景にとんだお話だ。
そして、僕がいちばん好きなのは、魔女の宅急便
最後の飛行船を助けるシーンでは、がんばれキキ!と、思わず声を挙げて応援しそうになってしまったものだ。

そう、かつての作品はわかりやすかったのだ。

しかし、最近の一連の作品は、わからないことだらけ。
不可解のオンパレード。

もののけ姫。これはナウシカの裏返しだということだけはわかった。が、この内容でみんなが気持ちよく見られているものなんだろうか。
千と千尋の神隠し。よいお話だとは思うけど(おまけに、千尋の声を柊留美ちゃんがやっているところには“萌え〜”なんだけど)、、なんでお父さんとお母さんは豚になり、ラストではなぜ、大当たり〜♪で元に戻れるのだろう。うーん。。。

そして、ハウルの動く城
ここに至って、その作品世界への不可解な思いは頂点に達した感があるのです。

わ・か・ら・ん。

なぜ、そんなに大多数の人が見に行っているのかが、わからない。

どうなんでしょう。
やっぱり、間違っているのは僕の感性なんでしょうか。

_| ̄|○

…これって屁理屈

_| ̄|○

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 03, 2005

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!アッパレ戦国大作戦

日曜日の午前。昨日の曇天とは打って変わって、天気もよい。

桜は開花したといっても、まだほとんどがつぼみだろうなあ。でも、さくら名所100選にもなっている近くの公園まで見に行こうかな〜。

そう、僕は花見の季節が好きなのだ。咲き始める桜を見ると、たまらない気持ちに包まれる。
そして平安の色男、在五中将を気取って、彼の歌をひとりごちたりしてみる。

 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

そんなことを考えながら、まずは休日の朝の例に漏れず、朝食や洗濯やらとりかかっていたのだけど、ついでにつけてしまったテレビのチャンネルがBS 5チャンネル、つまりはWOWOW
そこで放映されていて、なんとなく見てしまったのがこの、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!アッパレ戦国大作戦

しんちゃんが、戦国時代の春日部にタイムスリップして、あれやこれや…というストーリー。

むむむ、これはなかなか骨太なアニメだな。
なにせラストは、まんまであり、かつ戦国自衛隊(映画ではなく、小説のほうね)なのだ。

子供向けアニメで、このラストとは!? 重すぎるぜー。さすが、クレヨンしんちゃん

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 29, 2005

超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか

世間的には春休み。

ということでなのか、NHK BSではアニメ特選として、マクロス・シリーズの一連の映画(OVA含む?)作品が放送された。それを知って、思わずこの超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか愛用のHDDレコーダーに録画してしまった次第であるよ。
で、さらにその後、DVD-Rに焼き直しまでしてしまったのである。

そんなふうにこだわったのは、少しばかりのわけがある。
このマクロスは、ヤマト、ガンダム、エヴァンゲリオンなどと並ぶような、アニメ史上のエポックメイキングな作品だ。
(こう言って間違いないと思う…たぶん)。

80年代、90年代という時代をリアルに語るための一つの教養として、アニメやマンガへの理解は不可欠であると思っている僕にとっては、外せない。

といっても、いわゆるオタクと呼ばれる人たち(代表格は岡田斗司夫センセイでしょうか、やっぱり!)ほどの知識量や執念の深さを、幸か不幸か僕は持ち合わせていない。だから、あくまにライトに親しんでいるだけなんだけど。

#実は、眼鏡をかけ独特の語り口をもつという僕の見てくれに注目し、僕自身がオタクなんじゃないかという誤解をする人が少なくないようです。でも、それはオタクな人たちに失礼だと、内心思う。
#えー、繰り返しますが、僕はあくまで教養の一つとして広く浅くキーワードをおさえているだけ。アニメやマンガの個々の作品について、人に誇れるほどの感情移入はないので。あしからず。
#…最近「おおみずさんはオタクかと思ったけど、意外にこだわりがないんですね」と言われたりするので、あえて記してみました。

閑話休題。
そういうスタンスをとる僕にとって、外せないものだったわけです。

映画に先立って放送されていたテレビシリーズは、本放送ではなく再放送で見た記憶がある。
平日の朝5時半だか6時だかからやっていたから、早起きしてこたつにもぐりつつ見ていたよ、たしか。(この再放送は、CBCだけだったんだろうか?)。

で、当時は気づかなかったのだけど、実はリン・ミンメイってとーってもジコチューな女の子なんだよね。
で、そのわがままな女の子に、優柔不断な男の子の一条輝君が翻弄されているってお話だったのである、これは。
おお、そうだったのだ!
戦闘機からロボットへと変形するバルキリーのカッコよさとか、文化を知らない宇宙人たちといった設定の斬新さには目を奪われていたけど、そんな80年代的男女の恋愛模様まで読み取れというのは、子供には所詮無理なことであったのだ。

こういうことは、ごく最近になってインターネットのWebサイトで指摘されているのをたまたま発見し、なるほどそうだったのだ、と改めて気づかされた次第。
考えてみればミンメイとヒカルの仲がいったいどういう関係なのか(恋人でもないし…)ということに腑に落ちないものは、当時から抱いていたんだよね。
上官で年上の早瀬未沙にヒカル君が惚れてしまうのもよくわからなかったけど、いまから見直せば、彼女は気が強そうに見えても実は内面女の子なわけで、ウムそういうこともありなん、て思うよね。
(自分も含めて、ある種の男はこういう女性には弱い)。

はい。まったく。

ところで、愛、愛ということなのだが、この映画の放送に先立つ3月25日に、僕の地元の愛知県では、愛・地球博が開幕した。

以前もこのむびろぐで書いたことがあるのだけど(その時のブログ)、いやあ本当に始まるんだね、という気がする。

ま、そういうふうに自分の生まれ育った地域が注目され、奇しくも好景気で湧いているという報道もされたりしているのを見ていると、ふと、地元を離れて東京で働いていることに一抹の寂しさを感じちゃったりもするんだけどね。
(まあ、これは相変わらず今の土地に身寄りのない、根なし草生活を続けているところが大きいのだろうけど…)。

でも、そういうある種の寂しさを感じているのは、僕だけなんだろうか?

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 20, 2005

ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月

ブリジット男(?)を自認するワタクシ。

なにしろ三十路、独身の生活なのだ。気ままといえば気ままだけど、こんなんでいいのか?という不安を常にまといながら生きている。

そんなわけで、前作に続いてきれそうな私の12か月を見に行った。

正直な感想としては、うーん。前作のほうが共感できたかなあ。
といったところ。

まず、僕にとって許容しがたい点が2つほど。
ここであげてしまってもよいでしょうか?

スキーです。
スキーにでかけた時のコメディのセンスは…なんといいますか、かつてサザエさんにそんなシーンあったよなあ、って感じなのだ。

スキーができないのに話の流れでスキーについていく。リフトを下りることができずにそのまま下ってしまう。滑り出すと停まらずに、上級者コースに入ってそのままゴールイン。
ってあまりにもギャグとして定番過ぎませんか(…もしかして海の向こうではこれが新鮮なのだろうか??)。

それから、騒動に巻き込まれ、タイで収監されてしまうこと。
いくらなんでも話を広げすぎではないですかね。

こういう展開には、僕はかつての週刊少年ジャンプの漫画を思い出す。
僕が中学生の時に人気絶頂だった漫画週刊誌だ。そこに連載されている漫画は、ストーリーが続いていくにつれやたらと活躍の舞台が広がっていく。先々ではどんどん強い敵が出てきて、主人公は限りなく成長して行く。それがジャンプのパターンだった。

で、これも同じなのかと思ってしまったのですよ。

前作を超えるためにわざわざ海外を舞台に選んだのだろうか。しかもそこで麻薬所持の容疑で逮捕されるというこれまでのレベルを超えたドタバタを繰り広げないといけないのだろうか。
でも、もし現実に起こったら、笑い事にできない問題だと思う。
うーん。もう少し、身近なところで話を展開させてくれたほうがいいんじゃない?

と、感じてしまった次第。
ただこれらは、僕が僕の基準で受け入れ難いと思っただけで、映画として面白いとかつまらないとかは別の問題だ。
細かいことに目くじら立てるほうが大人げないわけで、映画としては、たぶん楽しい1本と言うのがいいと思う。

さて、前作のほうが共感できたかと述べたけど、その理由は別にこの2点にあるわけじゃない。
理由はもっと単純だ。
今回は、ブリジット・ジョーンズに彼氏ができてからのお話だから。
そう、そこなのだ。

前作はレニー・ゼルウィガーも、もてない女の、ちょっとイケていない日々を演じてくれていたのでよかった。

思い出すのは前作の冒頭のシーン。
ブリジットが部屋で絶叫して“一人はもうたくさん”と歌うシーンとか、あるいは部屋でのたれ死んで、犬にがりがりと食われているところを発見されるという日記の表現とか、絶妙だったよね。ホントに。

なのに今回は、違う。
恋人ができてからのウキウキ感とか、恋人が浮気をしていないかと杞憂を抱いての騒動とか、双方の誤解で危うく別れそうになることとか、そういうものが主題で描かれている。
(恋人がいるから、セックスだって馬のようにやりまくりなのだ)。

ずーん。

ああ…。

そう、僕もこの3年の間に、変身していなければならなかったのだ…。
もてる男に。
そう、コリン・ファース並みの男に。

そんなことに改めて気づいた作品であった。

どうしたらいいのだろうか?
そうだな。
まずはトナカイとか雪ダルマとか、お茶目な刺繍の入ったセーターを着込むことから始めよう。うん。


話は変わるけど、レイトショーでこの映画を見る前に、横浜の中華街で晩飯を食べた。
ちょうど中華が食べたいさかり! だったので、非常に満足だった。
そして翌日は、このところ引っ越ししたいなあ〜という思っていて、不動産屋に行って、近所の新築のマンションを見せてもらった。

だから、部屋探しと中華とブリジット・ジョーンズ。これがこの3連休の過ごし方。

しかしいつも思うけど、休みも3日もあると持て余すよなあ。
たまにならいいと思うけど、最近3連休が多過ぎる。まったくなんでハッピーマンデー法なんて作られてしまったのか。

さらに、カレンダーを眺めていたら、気づいてしまった。
なんと、今年はゴールデンウィークの日の並びが異常によいのだ。

月曜と金曜に休みを入れると、10連休になってしまうではないか。そして実際、職場では多くの人が10連休を取得するに違いない。

おそらくは僕もだ。
しかし、与えられるその膨大な時間に対し、僕はいったい何をすればいいのだ!?

デートを楽しむという目論見もあったけど、それはこの前潰えちゃったし。
原稿を書くにも、はこの前仕上げてしまって、その後とくにまとまった依頼もないしなあ。
CCNAはいくらなんでもその時には取得できているだろうし(いや、万一できていないと相当やばいことになる)。

横浜でだらだらと過ごすか。
例によって、VELOCEで安いコーヒーをすすりながら読書に励む。部屋に積まれたまま放置しているハードカバーがいくつか減らせそうだ。
あるいは帰省して独身の友人と会う。
うん、せっかくだから地元で開催中の愛・地球博に足を伸ばしてみるか。…でも誰と? それに、混雑のさかりだぞ。

一人暮らしにとって、10連休は長過ぎる。
かなり持て余しそうだ。

この難局を、どう乗り切ればいいのか?

そうだ! 引っ越しだ。
引っ越しをすれば、やることがいろいろ出てくるだろう。
荷物の整理に、家電や家具の購入。体を動かすから、ダイエットにもなるし。

そんなわけで、引っ越しをしたい気持ちがまたにわかに高まっていくのである。

でも、なんか変な気がしないわけではない。
なんだかものごとの順序が逆のような。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

March 19, 2005

東京原発

都知事が主役の映画。

むかし広瀬隆さんの著作で東京に原発を!という本があった。たしか、ウクライナでチェルノブイリ原子力発電所事故が発生した頃だったと思う。

当時はその事故のせいで、原発の安全性や推進の是非をめぐって活発な議論が交わされていた季節だった。
もし推進派の言うように原発が安全というなら、東京に原発を建造しないのはなぜか? という強いメッセージを込めて書かれた本が「東京に原発を!」だった。

もっとも、僕はこの本は買わなかったんだよね…なにせ、まだ中学生だったからねえ。
ただインパクトのあるこの書名に、思わず手に取って立ち読みをした記憶は残っている。

ということで、東京原発。このタイトルを見た時には、中学時代にフラッシュバックした。
DVDとなってレンタルビデオショップに並んでいたので、借りてきて鑑賞する。


映画は、タイトルからしてその本のままなんだけど(原案がそれ、と言っていいんだろうな)。
東京原発の建設を実際に断行しようとしたらどうなるか? 架空の設定で現実を風刺しているように見せつつ、いまの状況が抱え込んでいる問題点をくっきりとあぶり出している。
まあ、あれだ。“思考実験”ってやつだ。

ということで、一見過激なテーマのためか、たいして公開も広がらなかったらしい(やっぱり電力会社に遠慮したのだろうか?)。
役所広司演じる東京都知事が、東京に原発を誘致する構想を発表する。目的は、それによってもたらされる莫大な経済効果。建設候補地は、新宿中央公園。おおーっ。

突如として降って湧いた都知事の原発誘致構想に度肝を抜かれて戸惑う会議室での役人たちの模様と並んで、劇中でもう一つの舞台になるのは、極秘輸送の核燃料を積んだトラックだ。
そのトラックが、テロリストによって奪取されドタバタはクライマックスに。時限爆弾のしかけられたトラックが向かう先は、東京都庁—。

そして都知事が活躍する。

ま、アメリカでは大統領が映画に登場し、カッチョよく描かれたりするけど、日本では内閣総理大臣が主役として描かれることはない。で、ようやく日本の政治家が描かれると思ったら、それは都知事であった。
なるほど、いまの都知事のパーソナリティなど思い起こせば、総理大臣よりは映画になりそうではある。

といっても、喜劇なんだけどね。


映画についてはこのくらいなんだけど、ちょうどいいから知事ネタを一つ。

知事といえば先週、千葉県の知事選挙があって、現職の堂本暁子さんが再選された。
というのは、まあ千葉県民以外にはさして関心のない話題だろう。愛知県出身、神奈川県在住、都内勤務の僕にとってもとくに利害関係はない。

ただ、僕は堂本さんにいちど取材でお目にかかったことがある。10年前、彼女が参議院議員だった時のことだ。
そう。ここで明かしておこう。堂本さんは、おそらく日本の政治家のなかで、最も早い時期にネットを活用した人である。1995年1月のことだ。

まだ、インターネットは一般的ではなかった。それは、当時日本最大のパソコン通信だった、NIFTY-Serveの電子掲示板でのことだった。毎晩、「永田町日記」という日記を掲載していたのが堂本さんだった。
その時、僕は愛知県の大学生で、文系の学生にしては珍しくNIFTY-Serveの会員になっていて、毎晩ダイヤルアップしてメールを読んだり掲示板を見たりしていた。そこで「永田町日記」に出会ったわけだ。

で、たまたまその頃の僕は、アエラの記者と知り合いになってそのトピックス欄に名古屋や大学生、パソコン通信関係のネタを取材して寄稿していたんだよね。
これはネタになる! と思ってアポをとって、愛知県からえっちらおっちらと東京・永田町の参議院議員会館まで取材にでかけ、掲載されたのがこの記事。

パソ通で永田町日記 参議院の堂本暁子議員
http://homepage.mac.com/yu1o/private/library/aera/nagatacho.html

実はこの後、同じ新党さきがけ衆議院議員(いまは民主党参議院議員)の簗瀬進さんが、「原人日記」という報告を同じくNIFTY-Serveで開始した。それが、僕が知る限り政治家がネットを活用した2番目の事例になる。

また当時、堂本さんの事務所には岡本さんという若き秘書がいた。永田町日記は、その人が堂本さんに代わってパソコンを操作し、アップしていたものだった。
その岡本さんはその後、新党さきがけでホームページを開設した。それが、僕の知る限りにおいて、最初の政党ホームページである。


なお、堂本さんはいまでは知事としてメルマガを出しているみたいですね。

千葉県知事:堂本暁子のメールマガジン
http://www.jca.apc.org/domoto/regist.html

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 12, 2005

ローレライ

いろんなものを彷彿とさせる映画だよなあ。

ローレライ
なんと、超兵器を積んだ潜水艦という荒唐無稽な設定。舞台も、終戦間際というリアルな状況を選んでいるように見えつつ、そのほとんどは架空のもの…。
戦争末期の話というから、もっとシリアスな作品かと思って見に行ったら、なんともポップな歴史観にぶっとんだ。
むむむ。

で、あれこれ彷彿させるというのは、先立つ作品に、設定や要素として似たものが散見されるということだ。

まず、潜水艦である。弾薬を使わず操艦技術を駆使して圧倒的な量で迫り来る米国艦隊を打ち破る、という部分は、なんといっても沈黙の艦隊を思い出す。
また、終戦間際に、突如として現れた新兵器を使って“あるべき終戦の姿”を模索するという点では、同じ作者が現在連載しているジパングに通じるものがある。

新兵器を積んだ潜水艦の映画ということではレッドオクトーバーを追えもあるかな。
艦が危うい状態になった時に、士官が自己犠牲で仲間を救うシーンなんかはK-19かなあ。

そして、戦闘中に深海から歌が聞こえるという設定は、これはなんといっても超時空要塞マクロス。これでしょう!
そう、リン・ミンメイである。
いやあ、あのマクロスの設定はすごかった。宇宙空間を目前にしたステージでかわいいアイドル歌手が、キュートでポップな歌をうたい、それがそのまんま戦争の武器になるというシーン(なにせ、マクロスの物語世界の宇宙人は“文化”を知らない。歌を聞くのも初めてなので混乱してしまうのだ)。
これにはぶっとんだな〜。
平和の象徴である歌を、戦争に使う! すごいシナリオ考える人がいるものだ。
まあ、そうでなければマンガやアニメの系譜のなかに一石投じる作品にはならなかったわけだろうけど。

…おっとこれは、マクロスのブログではなかったね。

あと、日本海軍が密かに開発した超性能を誇る軍艦という設定も、かつてどこかのマンガであったよね。終戦後も身を隠したまま正義の味方になり、世界の平和を守る、という話があったと思うけど。
サブマリン707、あるいは、ビッグ・1か? いや、海底軍艦轟天号だな)。

とまあ、原作者のせいなのか、映画の制作者が意図したのかはわからないが、これら過去の作品をけっこう意識しているんじゃないだろうか、という気がした。

…と書いていて思いついた。これは、実写の形をとっているが、アニメなんだ。
リアリティを出すために舞台は宇宙ではなく海、時代は未来ではなく近過去を設定している。そしてモビルスーツや宇宙戦艦の代わりに潜水艦が活躍する。
でも中身はまさに、オタク世代のためのストーリーなんだ。
そうだったんだ!

そもそも原作者の福井晴敏さんは、ガンダムファンなのだ。先日、ガンダムに関するテレビ番組に登場していて、その姿は、ちょっとしたオタクっぽさを醸し出しているようであった。
ということで、原作者は、僕らの世代がその発展とともに触れてきたアニメやマンガというものに、かなりの程度関わりを持ってきた人だと言える。だから、先立つさまざまな物語の要素を、意図して隠し味のように溶かし込んだに違いない。

しかしなんだかんだ言っても、この映画、物語の展開としてはうまく仕上がっている。
最近見たなかでは比較的よくできた作品だと思うよ。少なくとも娯楽として、人におすすめできる一本ではある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 06, 2005

アメリ

200503191427000
寒い…。
もう、3月だというに。

しかし、この寒さは体の感じるものばかりではなさそうだ。

なにせ、一人で横浜のみなとみらい、赤レンガ倉庫の界隈なぞうろついているのだ。三十路の独身男が、である。周りはカップルばかりのなかで、なんと寒々しいことよ。

といいつつ、実際にはみなとみらいを一人で散策するって、ふだんからよくやっているんだけどね。

それで、今回わざわざ赤レンガ倉庫まで足を運んだのはわけがある。誕生日の贈り物をすることになって、何がいいかなあと物色しにきたのだ。
やはり、ふだん足を運ぶスーパーとかデパートじゃなく、こういう非日常的な空間に来たほうが、何となくよいチョイスができそうな気がするものだ。

ちょっと洒落た空間に身を置いて、贈る相手と交わした今までの会話のなかから、何に興味があるのかなあ、と考えたり。

一方で、贈る相手との関係性—親密さの度合いというものも踏まえないといけなくて、その関係性から導き出される適正な値ごろ感というのもある。これは無視できない。
つまり、あまりに高価なものでは負担に思われるし、かといってチープすぎてはわざわざ贈る価値がない…てところのバランスをとるのが、プレゼントを考える時のポイントだ。

考えているうちに、かつての感覚がよみがえってきた。そう、20代の頃はそれなりに誕生日プレゼントも贈っていたんだよな。
もちろん、とくにそれで見返りが得られるわけじゃなかったけど。ただ、異性との交友関係を保つ上で、そういうことは自然にしなければいけないような気がしていたんだよね。

いつの間にかしなくなっていたというのは、そういう相手もみな結婚してしまったというのが大きいんだろう。
そう、彼女たちがそれぞれ誰かとともに新しいステージに上がっていく傍らで、僕は相変わらず一人で暮らしていて、のんべんだらりとした生活を繰り返しているわけだが…。
そんなマンネリとした生活の日々だけど、久々に物色する時間を得て思った。たまにこういうことがあってあれこれ考えるのって、やはりいいもんだよね。

ま、そういう知恵を巡らせて赤レンガ倉庫をうろついているとするならば、およそ似わぬ空間に一人身を置いているさまも、あまり寒々しくはないかもしれない。

実のところ、寒いのはやっぱり体だけだったんだろう。


ショッピングを済ませ、万国橋のたもとの道路沿いに停めていたクルマに戻る。
もう6年乗っている愛車、マツダのデミオだ。パーキングチケットの1時間以内で戻ってきたので、ほぼ予定通りのショッピング時間。順調だな。

さて家に帰って、近所のVELOCEで安いコーヒーすりながらCCNA(相変わらず合格していない)の勉強でもしようかな。…キーを回してエンジンをかけながらそう思ったけど、せっかくここまで来たのだから、映画でも見てみようか、とふと思ってしまったのがイケナイ。

よし! ローレライを見に行こう。携帯のサイトで上映時間が迫っていることを確認して、本牧に向かう。
ところが着いてみると、14時頃からと思っていた上映開始が、実は15:00からだった。なんだ、時間が空いてしまうじゃん。うーむ、しかたがないか。


15:00の券を買おうとして、壁のポスターが目に入った。

アメリだ。
なんと今週は特別上映をしているらしい。そういえば三河の友人Rから去年もらったメールに、アメリはいい、ぜひ見るべきだ、と書いてあった。おお、これはアメリを見にゃいかん! ということで、ローレライの予定を変更。

そしてアメリをぶじ鑑賞したのだった。
ふむ。たしかに悪くないストーリー。
贈り物をあれこれ考える日に見るべき映画としては、最適な1本かもしれないね。

今日はそんな日だった。


そうそう赤レンガ倉庫で、誕生日の贈り物はちゃんと納得したものを買えたんだけど、ついでに自分のものについても、珍しく衝動買いなぞしてしまった。

IMG_1002

それは、鞄だ。
僕は休日はもっぱら原稿執筆用にPowerBook G4(12インチ)と、それから読みかけの本を1,2冊くらいを持ち運ぶ。
ちょうど、そうしたサイズにふさわしい、ちょっとイカす感じの鞄を発見したのだ。

迷わず購入~。思ったとおりのよい感じで、るんるん♪ お出かけの定番になりそうだ。

それいいね、どこで買ったの、と訊かれた時に、んー、横浜の赤レンガ倉庫だよ、と答えられるマイかばんというのも(実際にそんな会話をする機会があるかは別として)、悪くはない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 26, 2005

二重スパイ

目下の僕の課題。それは、Ciscoの資格取得だ。難儀している。

ネットワーク技術者の人には言うずもがなのことなのだけど、シスコシステムズはインターネットを構成する通信機器であるルーターの製造メーカー。しかもルーターで世界的に圧倒的なシェアを誇るメーカーなのだ〜!
本社はもちろん、米国である。

インターネット上で送受信される電子メールや、閲覧されるWebサイトなど。インターネットを流れるありとあらゆる情報は、このルーターと呼ばれる通信機器が伝送を担っている。
あなたが会社や家庭からインターネットに接続しているとしたら、あなたの会社のネットワークの基幹部分、あるいはプロバイダーのネットワークオペレーションセンターの内部にルーターは設置されている。
そして、そこにあるのは十中八九、シスコシステムズ製のルーターだ。

最終消費者に届く製品を作っていないから一般にはあまり知られていない。だけど、シスコシステムズという会社は、インターネットの世界におけるトヨタやNTTドコモなどのようなナンバーワン企業なんである。

そんなわけでネットワークエンジニアは、このシスコシステムズの製品を扱うことが多い。他社製品のことを全く知らなくても、Ciscoルーターを知っていれば一人前とみなされるほどだ。
ルーターといってもコンピューターの一種だから、動作させるためにはプログラムが必要になる。それを僕らの業界ではコンフィグレーション、あるいは日本語で“設定”と呼んでいるのだけど、Ciscoルーターの設定を行えることは必須なのだ。

いま、僕が取り組んでいるのは、Ciscoルーターの設定に関する資格なのだ。
それを取得することは、一人前のネットワークエンジニアであることの証しである。

これが他の業界だったら、その業界の技術の習熟度をはかる資格は公的な団体が認定するのだろう。でも歴史が浅く競争の激しいIT業界では一般に、特定メーカーの特定製品の技術を習得することが技術力の証しとされる。
例えばルーターのシスコシステムズだけではなく、OSやオフィスアプリケーションであればマイクロソフト、データベースであればオラクルと、それぞれナンバーワン企業がはっきりしているわけだ。だから各分野の技術者はそのナンバーワン企業の製品についての勉強をし、その会社にお金を払って資格試験を受験する。

これは非常に巧妙な戦略である。
ナンバーワン企業の製品の製品をまずマスターしないとその業界でやっていけない。そこでみんなが勉強して資格を取得する。その結果、必然的に他社の製品の勉強をする機会はなくなる。業界では他社製品についての知識をもつ人が少なくなるので、ナンバーワン企業はそのシェアを安定して維持することができる。

さらにシスコシステムズは狡猾である。たんに技術者を教育して囲い込むだけではない。シスコは製品を直接ユーザー企業に販売するのではなく、販売代理店(パートナー)を介して販売する形をとっている。そしてパートナーには、この資格を取得した技術者が何名いるかという数によってランク付けし、製品の卸価格を決める。

こうなると、個々のエンジニアの技術力の証しとしてだけではなく、会社としても社員に資格を取得させることが至上命題になるわけだ。なにせCiscoルーターのシェアは圧倒的だから、Cisco認定資格者の数がその会社の競争力を左右してしまう。

巧妙でしょう? ルーターを作る会社は国産(NEC、日立、富士通など)も含めていくつもあるのだけど、シスコシステムズの圧倒的なシェアは揺るがない。
“巧妙”というとネガティブな響きもあるのだけど、純粋に商売として見れば、こういうビジネスモデルを作り上げた人にはただただ頭が下がるばかり。

そして僕の勤務先も、ユーザー企業のネットワークを作り上げるという仕事をしており、このシスコシステムズのルーターを調達してきて販売する。できるだけ安く調達してくることが、受注確度や利益を左右することになるわけだ。
これまで、僕の仕事のポジションがあまり関係なかったのだけど、最近になってこのシスコシステムズ製品の調達、技術評価の部隊に組み込まれてしまった。

説明が長くなった。けど、そのようなわけでネットワーク業界に生きながら資格取得というものとは無縁に生きてきたこの僕も(なにせ持っている資格は第一種普通免許と博物館学芸員(!)と、そしてネットワーク関連では唯一、.comMaster★★)、それでは済まなくなったのである。
僕は、シスコシステムズのルーターについて学習し、関連する同社の資格を4つばかり取得しなければならない。その期限は、3月末—。

やれやれ。

言い訳させてください。
実は僕はネットワークエンジニアといっても、いささか特殊な経歴の持ち主なんだよね。なにせこれまで、インターネットの通信を担う根幹の機器であるルーターの設定に携わったことがないのである。
これまでは専ら無線LANという通信機器に携わってきた。最近では一般家庭のなかで普通に使われるようになってきた無線LANだけど、でも実のところ企業通信のなかではそんなにメジャーな機器ではない。
しかし一貫して関わって来たこともあってそれなりの知識は身につき、昨年は専門書も出版した。

そんな僕にとってルーターは初めて。もちろん、TCP/IPの知識や、RIPの動作くらいは研修で受講する機会がなんどもあったきた。だからそのあたりはだいたい想像がつくのだけど、OSPFとかEIGRPなどのルーティングプロトコルになるとさっぱり。アクセスリストは概念をわかっても、コマンドレベルに落とせない。

シスコシステムズのルーターに関する資格のうち、最も基本的で入門レベルに位置づけられる資格がCCNA(Cisco Certified Network Associate)だ。
僕はこのCCNAに、もう2回も落ちてしまった。
危うし! 危うし! 危うし!

それにしても、無線LANについては専門書を執筆し、社内ではスキルプロフェッショナルの認定も受けた身でありながら、よりによってCCNAに苦戦しているとは……。これは何がなんでもナイショにしておかなければいけない。正直言って、立場がないというものである。

ということで、このブログを読んだみなさんも、口外しないようにお願いします!!
(ちなみに受検の代金ですが、上述のようなビジネス上の理由があるので会社持ちです。その代わり、嫌でもパスするまでは受けなければなりません)。

そんな休日。本当はCiscoのテキストを開いて勉強しないといけないんだけど、なかなか取りかかれない。
部屋にいると、ついついドラクエ8に興じてしまったり(なにせこれも週末にしかやっていないからなかなか進まないのだ)、あるいはマンガや雑誌を読んでしまったり、なんとなくテレビを見てしまったりする。
こういう習性は、学生時代の試験勉強と何ら変わらないよなー。無理強いされることにモチベーションが全くわかず、義務感で自分を律することができず、集中力も維持できないというのは、いまも全く変わらない。

ということでなんとなくHDDレコーダーのメニューを操作したりしていて、録り溜めた番組のリストから選んで見始めたのが、タイトルの通り二重スパイ。
シュリやJSAに連なる、朝鮮半島の南北分断をテーマにした韓国映画であった。だいぶ前、WOWOWで放映されたものだ。もともとこういうポリティカルフィクションは嫌いではないので、録画はしておいて、でもなんとなくまとまった時間がなくて鑑賞はせずにいたのであった。

鑑賞したら、番組をレコーダーから速攻削除。
HDD搭載DVDレコーダーなる文明の利器を購入したのは、本格的なブームになる直前くらいだった。だからディスク容量は限られていて、最新機種に比べると録り溜めておける時間は短い。適度に見終えてさくさく削除しないと、後々予約録画した番組の時に、ディスクの容量不足で録画が番組途中で尻切れになるという悲劇に見舞われる。
永久保存しておきたいような本命の番組の時にそんな目に遭うと、かぁなりガックリする。このガックリ度は、ファミコンのドラクエIIIにおいて冒険の書が消えてしまった時のあの落胆をはるかに上回るだろう。

そんなふうに二重スパイは僕のレコーダーのハードディスクから駆除されたのである。
もしまた見たくなったら、DVDでレンタルしてくればいいんだよね。

そして、僕の貴重な土曜日も終わった。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

タワーリング・インフェルノ

タワーリング・インフェルノです。いまさらなんだけど、できあがったばかりの超高層ビルが、竣工パーティーの日に火事になって燃えちゃうという話。1974年の映画です。

これ、たしか中学生の時にTVで見て、そのインパクトに釘付けになった記憶があるんだよね。
高層階のパーティ会場から隣のビルの屋上までロープを渡して、ワゴンで避難する! ラストでは給水タンクを爆破して火を消す! な、なんという荒唐無稽さ。こういう現実にはありえないアイデアのオンパレードは、パニック映画にはやはり必須ですな。

火事の発生を知らずに情事を重ねていて逃げられなくなり、焼け死ぬカップル。自分だけ逃げようと周囲をはねのけワゴンを奪うが、結局、綱が切れてまっさかさまとなるやつ(まるで蜘蛛の糸のガンダタ)。うひゃうひゃ。いや〜やっぱりこういうやつらが出てこないとねえ。

WOWOWで放送されていたんだけど、むかしのインパクトが強かったのでついついまた見てしまった。
この映画の終幕。詐欺師をしていた男がようやく本気で愛する女性と巡り会ったのに、結局彼女は死んでしまっていた。そして生き残った彼女の愛猫を渡される。まさに、涙なしでは見られない…印象に残るラストシーンだね。


ところで、猫の話が出てきたので、今日はもう少し猫について語ってみる。

僕はペットとしては、犬より猫のほうが好きだ。いわゆる猫派である。

僕にとって、犬は、人間に媚びる姿が好きではないんだよね。彼らは弱い者には威張り、強い者に媚びる生き物のように僕の目には映る。人間が強いから、餌をくれるから従う。
そういうふうに見える。それが僕には許せない。

それに比べると、猫はふだんは人間なんて我関せずというスタンス。こっちが呼んでも振り向きゃしない。ただ腹が減ればニャアニャア鳴いて寄ってきて、寒くなればゴロゴロ言いながらこたつに入ってくる。その現金なふるまいが、かえって好感を持てる。

それに、僕が実家に帰ると、実家で飼っている犬が僕を見て吠えるのだ。
僕はもう10年家を留守にしていて、犬の彼(—名前は何だっただろう? 興味がないので覚えられないのだ)が家に来たのは3、4年前。彼にとってこちらがよそものなのだろう。
一方、僕が大学生の頃から飼い始めている猫のほうは、長らく留守にしていてもちゃんと認識してくれている。

やっぱり猫が好き。

もっとも、犬や猫が自分で好き好んで彼らの習性を選びとったわけではないので、彼らがそのように行動することを責めるのもせんなきことなんだろう。あくまで、僕の好みの問題だ。

それに、犬より猫が好きと述べたばかりでなんだけど、僕は猫にもとりわけ愛情を抱いているわけでもない。
僕が元来、いちばん好きなのは人間だ。そして動物は、好き嫌いはあっても僕の人生を左右するものではないと思っている。動物は動物で、人間とは別の存在だ。

彼らには感情がない。僕はそう感じる。
もちろん、喜怒哀楽といった程度の情動はあるようだ。でも所詮、彼らは他人のそれを自身のものとして感じ取るような、知性を備えた存在ではない気がする。
感情が通じないものに精魂を注ぐよりは、やはり人間を相手にしたほうが何倍もいいな。そう思って醒めた目でペットと向き合っている。

でも、そんなふうに動物を見ていることを、人間の、とりわけ女性に言うとすこぶる評判がよろしくない。人間の女性を相手にする時は、ペットに関する話題には重々気をつけようと思っている(でも、言っちゃうんだけどね。あーー)。

ところで、この前のお正月もそうだったのだけど、もう何年も前から実家に帰るとくしゃみがとまらず、体がだるい。どうやら原因は、猫の毛に対するアレルギー反応らしい。
猫が好きなのに猫アレルギーになってしまうとは! なんということだ、やれやれ。

やっぱり猫も好きにならないほうがいいのかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 20, 2005

パッチギ!

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたる例なし
世の中にある人と住家と、またかくの如し
(鴨長明「方丈記」)


歴史を舞台にした大作が好きだとこの前書いたところだけど、実は近い時代を舞台にしたものも、わりと好きだったりする。

時代で言うと、戦前、戦後から高度成長のあたりかな。まあ、いわゆる“昭和”ってやつだ。
だから、平成6、7年にNHKスペシャルで放送された「戦後50年・その時日本は」なんて、全回ビデオに録っていたりする(おっと、今年はもう戦後60年…このNスペも10年前なんだよな〜)。

それで思うに、NHKスペシャルのようなドキュメンタリーとは違って、フィクションにおける近過去の映像化って、けっこう難しい気がする。

みんな、その風景のなかで生きてきたわけで、つまり大半が覚えている景色を再現するわけだ。
でも、その景色を構成するはずの個々の事物が実のところ、具体的にいつまで存在していたかってことになると、人々の記憶はきわめて曖昧である。

時代にリアルと曖昧さが同居していることが、考証をかえってややこしくするだろう。
そんななかであえてそこを舞台にしている映画があると、素直に足を運んでみたい気分になる。


あと、近過去について思うことというと—。

けっこう前、日本とアメリカが戦争したことを知らない若者がいるということが、新聞記事になっていたのを読んだことがある。まあ記事になるってことは、つまりそれは問題なんだろう。

でも思うけど…知らないのってべつに、太平洋戦争のことだけじゃないし。

つまり戦争があったってことだけじゃなく、戦争が終わった後から今まで何があったかってことも、たぶん多くの若者は知らない。
たぶん、安保闘争とか高度成長とかあさま山荘事件とか、その時代を生きた人にはきわめてリアルなんだろう。
でも、そこからちょっとずれて生まれたとたんに過去のベールに包まれるちゃうんだよね。

たとえば、1970年代生まれの僕が大学生の時に経験したこと。
学生雑誌の企画で、かつての学生運動を取り上げようとしたことがあった。
でも、その時にサークルの仲間と議論してわかったけど、全学連と全共闘の違いがわかっている学生がほとんどいなかったんだよな。これは自分も含めて、なんだけど…あなたはわかりますか?

なので、戦争を知らない若者がいることが特段の問題とは思えないし、仮にそれを問題にするなら、安保闘争とか全共闘とか、あるいは高度成長とかオイルショックとか、はたまたプラザ合意とかバブル景気とか知らない若者がいることだって同じように問題ではないかい。

結局、近過去のことをみんなが知ってる自明のことだと思って、あえて学校の授業で教えないのが悪いように思う。前の世代の人たちは、続く世代が自分たちの生きた時代を知らないことを認識しなければならない。
いまはほとんど民間の口承に頼って伝えられるのみのこれら近過去を、丁寧に伝える機会をもう少し作ったほうがよいのでは、と思っている。

まあ、最近では1969年のアポロ11号の月着陸が嘘だったと信じている若者が少なくないことからも、近過去への正しいまなざしというものは、いかに危うい状態にあるかがわかる。
今後、JRは国鉄だったとか、ソ連という国があったこととか、阪神大震災とか、青山刑事は都知事と同じ名前だったとか、知らない若者が登場しても全然不思議ではないと思う。

近過去は、つねに忘却の危機に瀕している。まさによどみに浮かぶうたかた。佐渡島のトキのごとし。


それでまた、ちょっと論点がずれちゃうんだけど。
僕は出版社から刊行される、日本の歴史のシリーズものを眺めていても我慢ならないことがある。
戦後の扱いだ。
たいていどの出版社のシリーズでも、戦後の歴史は1巻に納まっている

それで思う。
おいおい、戦後ってもう60年もあるんだぜ。
なんでたったの1巻なの?

だって、たとえば明治を基準に考えて、戊辰戦争、明治維新から大正デモクラシー、関東大震災あたりまでを1巻で説明しますかね。
通常これら60年にわたる時代は、3巻くらいにまたがると思う。戦前・戦中の扱いだって、この昭和の最初の20年間に1巻くらいは割いて記述するだろう。

なのになぜ、戦後の60年を1巻で納めようとするのか…不思議でならないよ。
この60年は、そこを生きてきた人にとっては、まだ歴史になっていないのかもしれない。でも、上に書いたように1970年代生まれの僕らにとっては、もう半分以上が歴史なんだ。
そしてその割合は、僕らより下の世代に行くほど増える。

手を抜くな! おろそかにするな!
近過去をなおざりにするべきではない、と僕は言いたい。


と、前口上が長くなったところで、パッチギ!

1968年が舞台だ。昭和でいうと、44年。そして、京都。
上にも書いたように、近過去の風景の映像化ってけっこう難しいと思っている。ついつい背景には目を凝らす
スパイ・ゾルゲとか、この世の外へとか、血と骨とか見た時もそれなりに目を凝らしたんだけど、この映画もそういう楽しみ方ができる作品だと思った。

お話としては、どこかで試写会を見た人の感想にあったけど、大切なことを面白く仕立てて伝える。そういう映画だよね。
基本的にはユーモアに満ちあふれているんだけど、映画のクライマックスにさしかかる場面で在日朝鮮人の老人が吐露する、
「お前ら日本のガキ、何知っとる…知らんかったらずーっと知らんだろ」
このセリフ。絞り出されるような言葉が脳天に響くのですよ。
ずーん。

その点では、「血と骨」と同じ裏韓流映画。ただ明るい、ポップな裏韓流だね。

まあ実際にはそんなこと深く考えず、たんに沢尻エリカのチマチョゴリ姿と京都弁に萌え〜で見るのもよいと思う。
エリカたん…ハァハァ…(;´Д`)

ということで、ハァハァ映画にもケテーイ!

| | Comments (1) | TrackBack (0)

February 12, 2005

アレキサンダー

歴史を舞台にした大作映画はわりと好きだ。ということで、今日はアレキサンダーである。

歴史大作といえば、この前のトロイは残念ながら見逃してしまったけど、印象深いところではローマ帝国時代の剣闘士を描いたグラディエーターや、アメリカ独立戦争を描いたパトリオット など…。ま、公開されればだいたい足を運ぶ。
なかにはラストサムライみたいに、なんじゃこれは (゚Д゚)ゴルァ!!…と叫びたくなる映画にも遭遇するけど。

映画を見た後は、歴史が好きで買い揃えた世界の歴史(全30巻!)—ふだんは本棚の肥やしとなっているこのシリーズが役立つ時間でもある。
帰宅後に、該当の時代の巻を手に取り、史実をひもとく。映画の舞台になったその時代その国、その人物を取り巻いた状況は、実際のところどうだったのか。
映像の余韻がリアルに残っているうち、そんなことに思いを馳せるのは、映画鑑賞そのものにも増して楽しい行いなんだよね。

さて、「アレキサンダー」だが、世界史上最大の英雄であるアレクサンドロス大王の物語というのは言わずもがな。
紀元前4世紀に生きて、ギリシャの王となって宿敵アケメネス朝ペルシャを倒し、東征して遥かインドにまで足を踏み入れた人だ。そこまでのことをいまの僕の歳にまで成し遂げ(!)、そして死んだ。

しかし、アレクサンドロス大王の生涯を描いたこの映画、見る人によっては現実の世界情勢を重ね合わせてしまう。
なにしろ理想に忠実で無垢なアレキサンダーが「被征服民族を解放して自由を与えた」「父のなしえなかったことを遂げた」と発言する。思わず、お前は彼の国の大統領か、と突っ込みを入れたくなる。

この映画にイラク戦争を見るのは僕だけではないようで、いくつかのブログでもそんなコメントは目にした。
敵の王ダレイオスビンラディンにそっくりだし(しかも山岳地帯に潜伏して逃げ回る!)。占拠したのはバビロンだし。
大王の征服路はまさに現在のイラク、イラン、アフガニスタンの辺りを駆け抜けていっているわけだし。

意図しているのかしていないのかわからないけど、でもおそらくはこの監督流の仕込みなのだろう、そんな見方をしてしまう映画ではある。
語り部のプトレマイオスにも、ラストに「何が理想だ! 彼がやったことは征服と略奪だ」と口走らせているしね。

ま、その辺の感じ取り方は人によって様々としても、歴史大作としてはそれなりに楽しめる作品だと言える。
コリン・ファレルのちょっと優(やさ)男系な表情もgood! トラウマ抱えた同性愛嗜好の大王を演じるにはまさにナイスな配役だったという気がする(しかも、彼の国の大統領にも風貌がそこはかとなく似ているし)。
ストーリーとしては、ちょっと冗長な気もするのが残念だけど。でも、映像としてはガウガメラの戦いを鳥の眼で俯瞰できるし。バビロンの都も圧巻だし。いやあ、期待通りの歴史絵巻を再現してくれます。

つまり、歴史大作の醍醐味とはこういうことなんです。

よく、僕は博物館の企画展に足を運び、そこに並べられた歴史のカケラを鑑賞する。
幾千年の年を経て発掘された土器や金属器や像などの遺物。そうした断片から当時の様子がどうだったのか、一生懸命思いを馳せる。
でも、映画の映像表現は、その、僕が想像しようとしていたものをたやすく目前に繰り広げてくれる。ダイナミックに、そしてとてもクリアに。もちろん、それが本当の歴史の光景ではないのだろうけど、タイムマシンがない以上そんなことを突いたってしょうがない。
歴史学や考古学が明らかにしたものの上に途方もなく膨大な金をかけ、最大限の想像力を駆使してスクリーンに再現する。そんな現代の絵巻物を楽しむ。

これが、たまらないんだよね。


ところでまた全然話は変わる。
ふと、理系と文系のボーダーについて書いてみたくなったのです。

僕は実は文系出身の人間。にも関わらず、いまは技術系の仕事をしている。
すなわち所属している職場は、理系出身の人たちが多数を占める職場である。
そんな環境で仕事をしていて気づけばかなりたっているけれど、いまさらながら理系のカルチャーって文系と違うよな〜って思う。つくづく。

このことは、いつか整理して書いてみたいと思っている。
ここであえて一つだけ、理系の職場の特徴を挙げておくとしたら
 会話に下ネタが少ない
これを指摘したい。

新人の頃、営業部門でOJT(On the Job Training)をした時の記憶をひもとくと、会話のオチはたいてい下ネタで落とすのが定番だった。毎回毎回あまりに見事にそこに落ちるので、感動すらした覚えがある。
それに比べ自分が配属になった技術系の部門では、そんな会話は全くなかった。同じ社内でありながらこの違い! 以来10年、技術系の職場に居続けているが、雰囲気は変わらない。

会社では、社外講師に委託したセクハラ研修が定期的に実施される。けれど、そのような研修はこの人たちには無用なのではないかとさえ思う。
(実際には顕在化しない事例もあるだろうから、研修もそれなりに有効なんだろうけどね…たぶん)。

といっても、これは僕の限られた範囲で見ているだけだから、実際には下ネタが頻繁に交わされる理系の職場というのもあるのかもしれない。

他の会社では、どうなのだろうか?

少し前のこと。学生時代のサークルの後輩の女性が、システムインテグレーターの名古屋の支社に派遣社員として勤めることになった。彼女もずっと学校が文系で来ていて、派遣社員になる前も東京の文系の会社(出版社)に正社員として勤めていたという人だった。

そんな彼女に、職場に下ネタがないよね、という話をしたら、「そうそう」と大きく頷いて同意された。
だからやっぱり、そういう傾向は会社は違えど見られるのだと思う。
そして、彼女にとって初めてとなる理系の職場は、なかなか居心地がよいらしかった。
女性には理系の職場、これオススメかもしれない。僕もそういう方面の話は苦手なほうなので、理系の職場はたしかに居心地悪くない。…のかな?

ま、本当言うと僕は文系といっても経済や法科ではなく文学部の出身だから、文系のなかでもまた特殊な感覚をもつところを出ているんだけどね。
実は文系における文学部のポジションは、理系における理学部と同じである…ということも機会があればまとめてみたいけど、今日はとりあえずこの辺で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 04, 2005

解夏

「貴殿の文章にはうんざりさせられますが、それでも私は貴殿が書き続ける自由は命をかけて擁護します」。

フランスの思想家ボルテールが書いたと言われる一文だ。一般に“言論の自由”の本質を端的に表した文言として語られている。
…といっても、実は僕はボルテールという人のことをよく知らない。それでも、どこかで目にした覚えがあるので、これはそれなりに有名な言葉だと言ってよいんだろうと思う。

最近注目の世間のできごとの一つに、朝日新聞が報道の端緒を切った、いわゆるNHK番組改編問題がある。

僕はかつて就職活動の折に一瞬、報道という職業を志し、朝日新聞社も日本放送協会も両社受験した(そして両社とも落ちた…(T T) )。そんな身としては少なからず耳目を傾けさせる事件ではある。

で、この問題に関する一連の報道を眺めていて、どこかで読んだ冒頭の言葉が頭に思い浮かんだ。
誰の発言だったかと思い、インターネットで検索してボルテールの名前に行き着いたわけだ。

この言葉の通りに世の中が実践されれば理想的なのだろうけど、なかなかうまくいかない。今回の事件がまさにそれをよく表している。
とはいえ、ふだんの生活や職業に関係のないことについて必要以上に思いを巡らす必然性は、僕の側にもないわけだ。ただ、それでも趣味的に好きなものだから頭の片隅で考えている。
そんななかで、にわかにラストニュースを読みたい気分が沸き上がってきた。

ラストニュースとは…?
これは、10年くらい前に連載されていた猪瀬直樹原作、弘兼憲史作画の漫画だ。ちょうど、ソ連の崩壊や政界再編などで報道が熱かった季節だったと思う。そんな時期に描かれた、放送ジャーナリズムが抱える様々な課題を浮かび上がらせた作品である。
ラストニュースとはこの漫画の舞台となる、わずか11分の報道番組のタイトル。その日の最後、夜11時59分から放送される番組の制作現場を通じて、真実を追い求める人間の姿勢を描く。

さっそく関内のCERTEに出かけて、芳林堂で小学館漫画文庫版全6巻を購入してくる。
ペラペラとページをめくる。

10年前の作品ではあるが、内容は新鮮味を失っていない。というか、この漫画と似たことが相変わらず繰り返されていることに改めて驚かされる。
たぶんマスメディアが抱える課題というのは、いつの時代になってもそんなに変化しないものなのだろう。

日は暮れて、道遠し。

そんななかで今回、とりわけ読みたかったのは、「フリーダム・オブ・プレス」と「圧力」のエピソードだ。

“freedom of press”—。日本国憲法で、GHQ案の本来の趣旨によれば“報道の自由”と訳されるべきだったこの言葉。これが何者かの作為により、たんに“出版の自由”という表現になったという。そしてまた、放送の不偏不党と自由を謳った放送法第1条第2項も、より明解だった原案が玉虫色の現条文に改められた。

あくまでフィクションの体裁の範囲内で、現行の憲法と放送法の制定過程をそれぞれ描いている。
こういうことがあると、かつていちど読んだ時に増してますます面白く読める。

しかし、こういう本が気づくと品切れ、在庫流通のみになっている。読みたい人がいざ読みたい時に実際には読むことができない、という状況はなんとかならんものかいな。
出版の自由が確立されても、読書の自由はまだまだである。
(たまたま、CERTEの芳林堂にあったのはラッキーだった)。


さて、2月4日に近所のDVDショップで、一昨年公開された映画解夏のDVDを買う。

いちどレンタルで借りて来て見てストーリーがよかったのと、長崎の風景が素敵な映画だなあと思った。
(僕は風景が綺麗な映画が好きなのだ)。
映画を見た後には、さだまさし原作の小説を読んだ。さらに言うと同じ原作のTVドラマ愛し君へもレンタルして全話見た。

解夏(げげ)という言葉の響きと意味。失明という苦悩に、日常では聞き慣れない仏教の用語を重ねて解きほぐす。そんなお話の編み方が、生きることの深みを描くことに成功していて巧いと思ったんだよね。
(逆にTVドラマはキモだといえるこの主題がさっくり削られていて、物足りなかった。長崎が舞台ということと、ベーチェット病で失明するという点をのぞけば、全く別の話だな…菅野美穂はよかったけれど)。

そんなわけでお金さえあればDVDを購入してもよい映画だなとは思っていたのだ。
ちょうど酒を飲んだ後で財布の紐が緩んでいた時で、奮発して6,300円の支出なり。

ところで僕の職場の先輩にも、長崎県出身の人が一人いる。
(解夏はまだ見ていないとのことだけど…)。
その人は既に家庭を持ち父親となり、最近東京の近郊にマンションも購入した。そんな彼も、長崎に帰りたいという気持ちはいまだ心の底に強く抱いているらしい。

その彼が東京で知り合った奥さんをかつて結婚直前に長崎に連れて行った時の話を、この前酒の席で聞いた。
実家に赴く途中で、二人きりの時に、九州には住みたくないと涙をこぼされたという。
…いやはや、現実は甘くありませんよね。
愛しているというその気持ちのままに、これから失明する男のもとへ東京から全てを投げ打ってかけてつけてきて嫁入りする。そんなことは、実際には起こるべくもない。あるわけないんだぎゃあ。

ゆえにこの物語は成り立つ。その愛に、見る人が思わず感動するんですよね。
(そして人によっては、我が家も石田ゆり子みたいな嫁がほしかったと思うことだろう…)。
ああ、なんともいい映画だ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 30, 2005

東京タワー

気がつけば、東京の会社で働くようになって10年近くがたっている。

東京で働くということは、実にさまざまな可能性に満ちている。僕の関わってきた仕事—インターネットに関わる最新の技術の評価—を考えると、たしかに多くは東京にでなければできなかったことばかりだ。

その一方で就職してから出てきたことで、どうしても知り合いの幅も行動の範囲も限られてしまう。僕は、この土地に身寄りのない、いわば根なし草の身。
つねに気を張り続けている気はしていて、この無意識の緊張というものからは、ずっと抜け出せていないように思う。

ま、そんなこんなの思いをしながら、東京に居続けてきたことで得たささやかな醍醐味。その一つに、映画やTVドラマを見ていて、どこでロケを行っているのか、わかる場面が増えてきたということがある。
同じ土地に暮らしているのだから、実際に足を運んでみた経験もあったりして、ああ、ここだよ、俺知ってるよという気分に包まれる。

これが地元でキー局のドラマ見ていた頃は、遠い土地のよく知らないけど洒落たところ、という感覚しかなかったからなあ。

といいつつも、実際には映像を見て全ての場面がわかることはもちろんなく、それはごくごく一部にしか過ぎない。
比較的よくわかるのは、お台場六本木ヒルズ汐留など都内の有名スポットか、あるいは僕が生活したことのある鎌倉・湘南や横浜の周辺の風景だ。
でも、そんなシーンが少なからずあると、ああ、都会に暮らしているんだなあという事実を改めて実感する機会にはなる。


今回の東京タワーでも、 僕の知っている場所がいくつか登場していた。

たとえば冒頭で登場するFranc franc。あれは丸の内だろうけど、あそこの入り口を下りていくとFanc francの向いにCOOPERSって店がある。
12月に、そこで飲んだばかりなんだよね(なかなかいいところなので、オススメです)。
そういうのを見つけると素直に嬉しくなってしまう。ま、一人で映画見ているから、ここはどこだよって、とくに誰にも言えないのだけど…。

映画自体は、僕にとっては映画館でなければおそらく最後までは見ないであろう種類の映画だった。製作した人びとには申し訳ないけれど、部屋で鑑賞していたとしたら、だんだんとどうでもよくなって、途中で寝てしまう…そんな気がする。
考えてみれば、年上の女性と若い男子の恋愛のストーリー。そして女性が黒木瞳で、男の子が岡田准一。…どうにも共感しがたい組み合わせではないか。

不倫に走る女性の心なんて踏み込めないし、かといって岡田准一に肩入れしようにもこれも世界が違いすぎるわな。
何せ岡田君は、東京タワーが見える部屋にお住まい。まだ大学生の身の上なのに僕とそれこそ10倍くらい家賃が違いそうなおうちに住んでいるのだ。

結局のところ、これは覗いてはいけない世界だったのだ。たぶん。

ここに描かれたものは、いままで上野樹里山形弁萌え〜と言って満足していたのに比べると、真逆に位置するところのものなのだ。
このような映画を前にして、僕らにできることはただ一つ。自分が岡田准一に生まれなかったことを恨むしかない。…いや恨むというより、諦観すべきといったほうが現実に近いか。
(もし女性がご覧になっていたら、ただただ黒木瞳に生まれなかった不幸をお嘆きください)。

なのだ。
岡田准一は…彼は毒男の敵とは言わないまでも、いわば平行線のように存在するものである。ユークリッド幾何学が支配するこの世界において、彼らと僕らは決して交わることがない。のぞむとのぞまざるとに関わらず—。

ただ、おそらく多くの人が感じる平行線の距離を埋めるため、寺島しのぶを置き普通の主婦に近い感覚でのサブストーリーも描いてはいる。常識的世界とあり得ない世界の橋渡しだ。
実はそっちの物語のほうが面白かったかな。

それにしても、東京タワーというタイトルのわりに、ラストがエッフェル塔の土地だったことに、軽く文句をつけたくなった僕は間違っているのでしょうか…?


オープニングの主題歌、ノラ・ジョーンズの♪スリープレス・ナイトは落ち着いて、洒落た感じの曲なり。
これはgood!

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 23, 2005

自由戀愛

WOWOWが、自由戀愛というタイトルで自主制作ドラマを放映したので、チェックする。
1月23日の日曜日の夜。

舞台は、大正時代。
主演は、長谷川京子。相方に、この前の北の零年でお目にかかったばかりの豊川悦司

ハセキョウというと、僕はこの人のルックスが素敵なのは認める(NTTドコモのパブリシティに魅入ってしまう)。
一方で、演技がうまいと思ったことはいままであまりない。
天は二物を与えたまわず、とはこのことか?
このドラマでも共演の木村佳乃に比べれば女優として遠く及ばないと思う。ただ配役として見ると、主役の明子を演じる人としては他になく適役のようには思えた。

それから、この風景。
ロケが行われたのは明治村だというのは、映像を見てすぐにわかった。

明治村といえば、愛知県で唯一と言っていい、全国に誇ることができる文化主体のテーマパークである。
愛知県は、ケチな県民性でこれまで経済の分野に投資を絞ってきたためか、文化の方面に関してはただただ貧弱だなあ、とかつて住んでいた時には思っていた。
犬山市で名鉄が経営する明治村は、そんな県内において数少ない文化の発信地。国内でもユニークな、野外展示タイプの博物館だ。

その明治村に、愛知県の人は必ず一度は学校の遠足で訪れることになる。定番スポットでもある。
僕も最後に行ったのは遠足だから、もう20年近く訪れていないことになる。しかし、子供の頃に見たものって心に焼き付いて残っているものだ。建物に見覚えがある。

なにより頻繁に登場した、帝国ホテル。これは明治村にある建物のなかでも、最も有名なものの一つだろう。
あと、住まいはもしかすると森鴎外邸じゃないか。ふむふむ
…なあんて考えてドラマを見ていると、ちょっと懐かしくなる。こんど帰ったら、久しぶりに行ってみるかなあ。

しかし地震を伏線に据えたのは、放映が阪神大震災10周年の時期だということを意識したのだろうか?

さてさて。

映画を見るたびに、その時々の周辺的な雑記も含めてまとめているのだけど、このところ婦警フェチだの、女子大生だの相次いでネタに取り上げてしまった。
しかしもし万一、僕がそんなことしか考えていないと思われると困る。人格が疑われかねない。もしかすると駅で髪型を整えようと思って、ふと手鏡を出したら逮捕されちゃうかもしれない。

そこで、たまには真面目な内容の話を書いておきます。
一期一会。

水野時朗さん。

その名前を目にした時、あっと思った。
昨年11月の朝日新聞。「国連、イラクに日本人派遣 法律顧問として活動へ」という記事だ。

 国連は18日までに、イラク暫定政府に選挙実施や新憲法制定、司法制度の整備について助言す
 る上席法律顧問として、国連活動の経験が豊かな水野時朗さん(58)を派遣することを決めた。

僕はこの人と、ほんの少しだけだけど、関わったことがある。

記事ではまったく触れていないけど、いまから10年半前のこと。
水野時朗さんは、愛知県で選挙に立候補したのだ。

水野さんは当時も国連職員だった。
その頃、愛知県では新間正次参議院議員の当選無効に伴い愛知選挙区の再選挙が行われることになった。
自社さ連立政権の与党陣営に請われ、国連を辞めて帰国し、立候補したのだ。
水野さんは名古屋の出身で、ご実家は天白区にあった。地元出身の国連職員。たしかに政党が担ぐ御輿として悪くない経歴だろう。

それはたしか、3党の連立政権が発足しての初めての国政選挙だったと思う。
細川内閣、羽田内閣と続いた連立政権で野党に転じていた自民党。それが政権に復帰するため、小沢一郎主導の連立政権のなかで疎外感を強めていた社会党さきがけを取り込む。そして、社会党委員長の村山富市を総理大臣に担ぐというウルトラCをやったのだ。
国民は、みな唖然とした。

その直後のことで、水野さんが立候補した選挙は、いわば呉越同舟の連立の支持を仰ぐ選挙としても注目されていた。

そして大学4年で就職も決まり余裕のあった僕は、当時知り合った社会党県本部の人に頼んで選挙期間中、その陣営でアルバイトをさせてもらったのだ。
(公職選挙法が改正されてボランティアが建前となったいまと違い、当時は選挙の手伝いをやるときちんとアルバイト代をもらうことができた)。

結果は、落選—。
後に新進党を結成する野党陣営が担いだ対立候補、元労働省の都築譲さんが当選した。
(ちなみに次点の水野さんに次いで第3位につけた候補が末広まきこさん。翌年の参議院選挙で当選することになる…ああ)。

ただ、僕が水野さんを印象深く覚えているのは、たんに選挙のアルバイトをしたからだけではない。
その後の話がある。改めてお会いする機会があったのだ。

その頃、毎日新聞中部本社は、地域面において学生が取材する連載記事を設けていた。「桃色珊瑚隊」と名付けられたその欄の、僕はライターの一人だった。
“桃色…”というとヒワイなことを想像する大人も多いが、もちろんそこにはそんな意味はない。およげ!たいやきくんの歌詞にちなんで、学生も広い海に飛び込み、それぞれの桃色珊瑚を見つけようという趣旨でつけられた題名だ。
(ちなみにその学生ライター集団には名大生の男子などもいたけど、椙山女学園大学はじめ圧倒的に女子大生が多かった…)。

その選挙の直後に取材のお鉢が回ってきて、僕はつねづね疑問を抱いていたを迷わずテーマに選んだ。
「落選した政治家は何をやっているのか?」

インタビューする対象は、もう言わずもがなだろう。僕は水野さんの実家を訪れた。

その時の記事は、こちらにアップしてある。

 落選のリスク背負う 政治家人生

この取材の時は、しばらくぶらぶらしながら身の振りを考えると答えていた水野さん。でもその後は結局、再び国連に戻ったらしい。それは人づてに聞いた記憶がある。
考えてみれば、僕は愛知県というローカルな土地にずっと育ってきた。そんななかで、国連というインターナショナルな仕事に就いてきた人と話をした初めての機会だった。その後も国際機関に働く人と関わることもとくにないし、いまから思うと貴重な取材だったと思う。

その翌年には、僕も就職してサラリーマンになった。
そうして、彼の名前を忘れて何年もたっていた。

イラク戦争—。
それは新聞やTVのニュースで見聞きしてなんとも言い難い感情を抱きながらも、しかし同時に遠い彼方にある国の出来事だ
そこで目にしたこの記事。かつて僕が直接家を訪ね、会話を交わした人が赴くとは。

もちろん水野さんは、僕のことなど覚えてもいないだろう。僕にしたところで、これまで経てきたたくさんの人との関わりのなかでは、ごくごく短かく小さな付き合いでしかなかったと言える。
でも、再び目にしたそのお名前に、少なからず感じたものがあるのは事実だ。
つくづく、一期一会という言葉の意味を、考えさせられてしまうのである。

きっと楽ではないお仕事だろう。僕は、水野さんの活動が実りのあるものになることを祈った。
(まったくありきたりではある。けど、だいたいにおいて人間の感想なんてありきたりなものだ)。

そしてこの記事から3ヵ月…。
報道を目にしている限りでは、イラクの情勢は益々悪化する一方のようだ。もう二度とお会いする機会はないのだろうけど、水野さんははたしてどこでどうしていらっしゃるのだろうか。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

January 16, 2005

北の零年

アンチ・ラストサムライの渡辺謙の姿を見た。

1月16日の日曜日の夜。本牧で鑑賞した北の零年

僕の狭い部屋の本棚に並ぶ本のなかで、読みかけて放ってある1冊に、池澤夏樹静かな大地がある。けっして小説がつまらないのではなく、時間がとれずなんとなくそのままにしているだけなのだけど…。
その「静かな大地」と同じく、明治初期、淡路から北海道・静内の地に移住した稲田家の人びとの苦労を描いた映画だと予告編で知った。それで足を運んだわけだ。

映画の主役、吉永小百合の相方を、昨年ラストサムライを演じた渡辺謙が演じる。

「ラストサムライ」では、新政府においても天皇への忠義を重んじ、武士道の論理で内乱を正当化する架空のサムライ(時代設定からするとモデルは西郷隆盛のはずなんだけどね…)。
一方こちらのサムライは維新後の混乱のなか、故郷を離れ未開の地に移住し、結果として新政府に騙され棄民された人びと。架空ではない、史実にもとづいた存在。

「ラストサムライ」では、武士道に殉じて死んだサムライ渡辺謙が、「北の零年」ではサムライを捨て、仲間と家族を裏切って姑息に生き延びる。
「ラストサムライ」も「北の零年」も、舞台はまさに同じ明治10年なのだ。

しかもラストサムライのモデル西郷隆盛が起こした西南戦争のために、人びとから馬や物資を徴用する新政府の木っ端役人となって現われる。これは、もしかして痛烈な皮肉を込めた設定なのかと見ていて思ってしまった。

それにしても、吉永小百合である。
あまりに凛としすぎ…。カッコよいのだ。

気になったところとしてこの映画は、吉永小百合を中心に登場人物が周りを取り囲む学芸会的シーンが多かった。わりと、一つのシーンで起承転結をおさめることが多いと思った。
殿が来て、帰って、絶望して、踊って、気を取り直して、がんばるとか。あるいは、馬を徴用に来て、いざこざがあって、怪我をして、馬が逃げて、役人が帰って、土を掘って、馬が帰って来て、大団円とか。
現実には数日にわかれて起きると思うのだけど。全部1シーンで起こる。

でもこればかりは重箱の隅をつつくような指摘に近い。
ま、映像表現の仕方としてはこういうのもありなのだろう。


最近のマイブーム(って、死語か?)。

それは、TVKである。テレビ神奈川
僕が住まう神奈川県の地域放送だ。UFHの42チャンネルになる。

なかでも絶妙に抜群に面白いのが、sakusaku
平日朝、7時半から放送されている。出演はいまをときめく20歳の木村カエラだぎゃ。そして謎の人形キャラ、増田ジゴロウ
毎回繰り広げられるジゴロウの辛口トークに早朝からはまってしまい、なんとなく見始めたのは2002年頃か。相方が木村カエラではなくあかぎあいだった時だ。

しかし、これがいったい何の番組なのかはよくわからなかった。
アパートの屋根の上とおぼしきセットに座って、木村カエラとジゴロウと、そしてゲストがトークするというスタイルがメインだし。
ただ、ゲストとしては突然一青窈が出てきたり、ローカル放送に似つかわしくない大物が登場するなあ、とは思っていた。

そしてgoogleでWebサイトを検索して知った。音楽バラエティー番組と銘打たれていたのだ。
なんと、sakusakuは、音楽バラエティーだったんだ。
道理で、最新の楽曲の紹介やら、アーティストがゲストとして呼ばれることが多いと思った。
疑問解決!

さて、もともと僕は、他の地方から就職のために首都圏に出てきた。いまは横浜市内に居を借りて住まい、毎日都内の会社に通っている。
平日はほとんど寝るためだけに帰り、かろうじて土日をぶらぶら過ごすだけの土地。
神奈川県に何の根っこもないだけに、困ったことに、この土地で起きているできごとというのがわからない。

そういうわけで、地域の情報を仕入れるために、FM横浜を聴く習慣を始めた。
(その以前は横浜ウォーカーなんか毎号買っていた。けど、三十路に入るとさすがに読者層から外れているのか、内容についていくのがつらい。もう何年か買っていない)。

それと同じように、TVKやマンションに入ってくるCATVのYOUテレビをぼーっと眺めていたりする時間をとる。根無し草の人間にとって、地域の情報を仕入れるのは打ってつけだ。
神奈川県に根ざしたメディアがあって、よかった。

このように親しみ始めたTVKだが、最近、sakusakuと並んでお気に入りとなるもう一つの番組を見つけた。
みんなが出るテレビだ。

これは、女子大生が神奈川の口コミ情報についてリポートするという内容の番組。
木曜日の夜10時からが放送時間で、あと金曜日の午前零時からも再放送されている。

僕は、むかしNHK教育で放送されていた土曜倶楽部が好きだったし、もともと名古屋をフィールドに学生メディアの編集に関わった。そんなこともあって、向こう見ずでちょっと上昇志向の若者が何かを企画したり、考えて行動する、そういうスタイルは嫌いではない。

加えて、女子大生である。

おお。

女子大生なのだ。
そういえば、最近まわりにいないものが女子大生なのだ。

思えば僕も大学生の頃には、あえて意識しなかったんだけど、女子大生の友達はたくさん存在していた。
その当時、女子大生は、ふつうに会話をする相手だった。飲みにも行けば、映画やドライブなどでご一緒もした。でも、いまはいない。
いったい彼女たちはどこに消えてしまったのか?

ま、大学時代に女の子の友達を作れば、それはみんな女子大生の友達…あまりにもあったりみゃあだ。
しかし、気づけばその当たり前だった環境が遠い彼岸の彼方なのだ。そうなって久しい。
(なんと、かつて女子大生だった僕の友達たちは、負け犬と称される世代になりつつある…。いや、自分もね)。

…思うに、彼女たちは、人生に一瞬関わって過ぎ去る存在なのだ。そう、いわば、一つの風だ。
(なんじゃそりゃ)。

その風のように過ぎ去った存在が、TVKの「みんなが出るテレビ」に、いた。
僕は懐かしいまなざしで、ブラウン管を眺めている……( = =) トオイメ
(おいおい)。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

ドリーム・キャッチャー

血液型性格診断が、実のところあまり好きではない。

いや、どちらかというと嫌いだ。
なぜなら、それが近い将来、差別の構造に発展するおそれがあると思えてならないからだ。

かつて森永が、血液型別に客の行動をデフォルメしたCMを放映したのをご記憶の方はいるだろうか。僕はいまでも覚えている。
「優柔不断で客という意識がない。A型は思い切って買え! 森永ハイチュウ
というフレーズ。

一生忘れないだろう。

生まれついて持っている、選択のありようがなかった身体の属性の一つ。目に見えず、感じることもないもの。
それをもとになぜ、こんなことを言われないといけないんだろうか。そう思った。
しかもそれが公共の電波に堂々とのって、数知れない多くの人びとのもとに届けられる。そこにいったい、どのようなデリカシーがあるというのだろう。
僕はたしか、まだ10代の半ばだったと思うけれど、強烈に腑に落ちないものを感じたのだ。

大学の時、「血液型と性格」の社会史という書に出会った。
サブタイトルに「血液型人類学の起源と展開」と掲げたその書は、まさに僕の疑問を解き明かす書だった。なんと4,500円もして、学生の身としてはかなり高価な1冊だった。
しかし僕は奮発して購入し、その書を読み込んだ。

いまはうろ覚えながらその内容を記すと…。
血液型に注目が集まるようになったのは第一次世界大戦から。戦争で怪我人がたくさん出て、輸血の必要性が出て来たことで、血液型を把握する必要が出てきたのだ。
血液型と民族の気質を結びつけることは、当時からあったらしい。
ヨーロッパ人にA型が多かったことから、それが優秀な民族の証しとされた。その説が日本国内に紹介された時は、多少の波紋があった。比較的B型が多い日本人は、だからといって決して劣った民族などと思わないように、と注釈がなされたらしい。

その後、国内でも血液型と個人の性格の関係を唱える学者が登場したりして、人口に膾炙するに至ったわけだ。

ただ、この本はその後知人(同じ学科の後輩の女の子だったナ)に貸してそのままになってしまい、僕のてもとから離れてしまった。いまは絶版だし、もったいないことをした。かえすがえすも残念だ、ああ。

いずれにせよ、そんな本を読んだこともあって、血液型で性格がわかるという信仰を僕は全く持ち合わせない。
だから血液型を聞いて性格と結びつける会話も、自分から切り出すことはない。

それでも、飲み会に参加したりすれば、必ず1回は血液型の話題が出る。
あああ。
信者でない人間が他人の信仰を聞かされる。それは、愉快とは言い難いものだ。
だからといって、その場でむやみに否定するのもせんない。いまでは信者のほうが多数派なので、共通の話題としてそれなりに盛り上がる。
その空気のなかであえて理屈を述べるというのは、機微に欠けたふるまいだろう。

座をしらけさせてもしょうがないのだ。長いものには巻かれろ。
その時間、適当にやり過ごして、別の話題に移るのを静かに待つ。

やれやれ。

ただ、最近は血液型性格診断という信仰の流行に、ちょっとさざ波もたっているらしい。
BPO(放送倫理・番組向上機構)が、血液型を取り上げたTBSのTV番組について、視聴者の意見を受けてTBSに回答を求めることになった。その意見と局側の回答が掲載されている
変化へのきざしになれば、よいのだが。
朝日新聞の記事も参照のこと)。

さて、日曜日。

家でだらだらしている時に、TVをつけたらWOWOWにてドリームキャッチャーが始まるところだった。そのまま見てしまう。

なんとも言い難いテイストの映画だったけど。前半は何の映画かという気もしていたけど、途中から宇宙人の侵略ものだということがわかる。スティーブン・キングサインといったところかな。

しかし…地球破滅の危機を目前にして銃撃している元上司と部下って…この2人はいったい何考えているんじゃ?

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 09, 2005

僕の彼女を紹介します

これは、制服フェチ、婦警フェチのみなさんには、たまらない映画だろう。
他でもない、僕の彼女を紹介しますのことです。

1月9日に、新宿の映画館にて鑑賞した。

猟奇的な彼女の主演女優だったチョン・ジヒョンが、この映画の主役。監督も同作品の人ということだ。
このチョン・ジヒョン、僕は猟奇的な彼女でもスクリーンに釘付けになってしまったんだけど、とってもキュートなルックスの女優さんなんだよね。今回も、街角で“ボクカノ”のポスターを見つけると僕は思わず魅入ってしまう。

それでいそいそと映画館に足を運んだわけだ。

すると、映画館のロビーで、「83パーセントが泣いた」と宣伝文が掲げられていたのが目に入った。
そして懸念を感じた。
もしかすると俺は、少数派—涙を流さない残りの17パーセントに入ってしまうんじゃあなかろうか。

…案の定、その通り。
泣かなかったヨ……_| ̄|○

ま、僕は男だから、もともと公衆の面前で涙を出すように育てられていないというのもあるんだろう。映画を見ていて、たしかにこのシーンは泣くべきなんだろうな、というのはわかることはわかった。

だけど、ストーリーの展開が僕にとっては今一つだったんだよなあ。

僕があまり好きではない奇跡を前提とした物語だというのは置いとくとして、でもその奇跡のシーン以外の、リアリティがあるべき物語の展開に必然性が薄い。というか無理が多い。一言で言えば強引ということです。

そもそもこの婦警さん—ヨ巡査は、冒頭からなぜあんなに無鉄砲なのか。その説明もないよね。猟奇的な彼女のイメージを引き継いだだけなんだろうけど、それは別の作品だしなあ。
なんでこの彼氏を好きになったのかも、見ているだけではよくわからん。
なにより、問題なのはラストシーン。このオチはちょっと許せないものを感じたよ。おいおい、と思ったのは僕だけ?

なのだ。

しかしながら、この映画の僕にとっての本質は、ストーリーとは別のところにある。
はっきりいってストーリーはどうでもよかったのだ。
展開が変だと突っ込むのは野暮だし、涙を流さない17パーセントに入ったからといって人間としての大切な何かが欠けているのでは…と悩む必要もない。

もう、何も考えずに婦警姿のチョン・ジヒョン、そのかわゆいお姿を拝められればいい(実際、そんなカメラワークばっかりだ)。
それで2時間、萌え〜の気分に浸って満足を得る。映画館に足を運んだ時間とチケットに払った代金については、十分元をとれるというものだろう。

そのような観点で、お勧めです。
いやあ、やっぱりたまらんわなぁ…制服姿の婦警さんとデートって。。。( ;´Д`)


ところで、この3連休は、ただそんな妄想だけを抱いていたわけではない。
主に費やしたのはもっぱら執筆と編集(僕の生活としては、例によって例のとおりではあるんだけど…)。

というのは、今年の3月頃をめどにまた技術書を出す予定になっているのだ。
昨年10月に、企業向け無線LANの設計ガイドを出版したところなのだけど、こんどは他の技術者たちと共著で、企業オフィス向けのソリューションを網羅的に解説した本を出版する。
僕は、その編集担当である。

正直に言って、勤務時間中に編集作業をやっている余裕はない。
ということで三十路独身の気ままな身の上、休日を24時間自由に使える生活なので連休を費やしているわけだが。
一人で黙々と作業をしていると、だんだん暗い気分になってくる。

だから感覚的に楽ではないんだけど。ただ、それを引き受けること自体が嫌かと問われれば、そうでもない。

もともと僕は、かつて学生メディアの編集に関わった身だ。週刊誌や新聞にも縁ができて、それらの紙面のために取材して記事を書いた経験もある。
その後の就職活動の結果、技術をなりわいとする企業に入社した。そしてそこで10年働いてきた。10年経って、またもとの得意分野に戻って来たかなあ…というのが正直な感想。

ま、かつて作っていた学生雑誌よりも発行部数の少ない、専門的な技術書に過ぎないんだけどね。
それでも、できるだけ多くの人に執筆者の伝えたいことが届くよう、文章を加工する。できあがる書籍を想像して構成を考える。
これらは、僕にとってはかなりやりがいある作業なのです。

世の中現金なもので、本ができて友人と飲みに行くと、原稿料いくら入るんだとか、おごれとか、そんな話にしかならない(ホント、文字通り現金な話だ)。
ので、このブログに本を作ることの醍醐味というのを、ちょっと書いてみた。

唯一、締切りという時間的制約がなければいいのだけど。
しかし締切りがなければなんも手をつけんわけだしなー。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 04, 2005

スーパーサイズ・ミー

双子で有名になった名古屋のおばあさん、きんさんとぎんざん。
この二人は、実はむかしは双子ではなかった。しかも、一人だったという事実は、知られていない。

そしておばあさんの名前は、きんさんでもぎんさんでもなく、どうさんだった。

ある日、どうさんの家族が、どうさんと一緒に道を歩いていた。

どうしたことか、どうさんがよろけた。そして、道の横にあった池に落ちてしまった。あれよあれよと沈んでいくどうさんの姿。
家族はあわてた。大切なうちのばあさんが、溺れてしまう!!

家族が途方に暮れていると、突然、池のなかから女神が現れた。
そして家族に尋ねた。

「あなたが落としたのは、金のおばあさんですか。それとも銀のおばあさんですか」

家族は答えた。
「いいえ、うちのはどうさんです。」

女神は言った。
「正直でよろしい。では、このきんさんとぎんさんを差し上げましょう」

こうしてどうさんは姿を消し、家族は代わりにきんさん、ぎんさんと暮らすことになった。
その後、正直ものの家族は、女神からもらったきんさん、ぎんさんでガッポリ稼いで、大金持ちになったという。

…という小話を、僕はきんさんぎんさん存命中に考案し、まわりの友人たちに語っていた。
これ、きんさんぎんさんが亡くなってしまったいまとなっては、いま一つ面白さが理解できないかもしれない。

ところが実は、きんさんぎんさんが現役だった頃にもこの話は、
「なんじゃそりゃ、面白くない」
と言われていた。

ただ、それだけ。

僕のセンスを推し量ることができるというものである。

お正月なので、こんなたわいもない話を書いてみたくなったのだ。

さて、前回も書いた通り、今年は年末年始が短い。
4日が仕事始めなので、車で帰省して3日に戻ってくるとする。確実に渋滞に巻き込まれる!
…そう考えて、実は4、5日はお休みを入れさせてもらっていた。

そうしたところ、なんと大みそかは雪が降って東名高速道路が凍って通行止めになってしまい、元旦になってもそのままだった。
しかたがないので、元旦に新幹線で帰ることになった。
…まあ、日本のなかでも高速道路も新幹線もある地域に生まれたというのは、すごく幸運なことだと言えるのだろうけど。

ただ、電車で帰った場合にいつも困るのは、地元での足がないということ。
というのも、僕の実家は、市街地からかなり離れた農村エリア(…といってもいまはみんなサラリーマンだが)にある。最寄りの名鉄の駅までバスで30〜40分かかる。
車がないとスーパーにも喫茶店にも郵便局にも行けない。コンビニだって車で行く。そのような土地なのだ。
まったく、米国みたいなところだ。

おかげで今回の帰省中はすっかり往生こいてしまった。
で、何もできない以上長居していてもしかたがない。ということで3日の昼の新幹線で戻って来たのだ。
そのはずみで、4、5日はのんびり過ごす時間になった。…といっても、例によって締切りに迫られて原稿を執筆したりしているんだけどね。

4日の夜、映画を見に行った。今回鑑賞したのはスーパーサイズ・ミー

1日3食全てマクドナルドで食事をとり、それを1ヵ月続けたらどうなるか、というドキュメンタリー映画だ。

こういう体当たりものって、好きな人は好きだろう。
日本でも古くは、土曜倶楽部(NHK教育)や地球ジグザグ(TBS)、コメディで進め!電波少年(NTV)というTV番組があった。

ただ米国の監督作品の場合、一見コミカルな体当たりレポートを、たんにキワモノのレベルに終わらせない。それをちゃんとジャーナリスティックな内容に昇華させる作法をわきまえているらしい。
M.ムーアボウリング・フォー・コロンバイン華氏911などがその代表例というのは、言うまでもないんだろう。
反面、日本ではそういう作品作りって、ほとんど見ないように思う。マジメはマジメ、コメディはコメディでくっきりわかれる。…なぜなんだろうね。

スーパーサイズ・ミーも、それらの米国作品の系譜に連なる、ユーモアに富んだ、それでいてリアルな米国流ドキュメンタリーだ。
監督当人の無謀な挑戦の合間に、専門家へのインタビューを織り交ぜて話は進む。

印象的なのは、そうした専門家たちのコメントよりも、当人の体に起こる変化だ。
喜劇的なままマクドナルド生活が進んで行くかと思いきや、体に変調を来たし、本当にぼろぼろになっていくのだ。
そのさまは、痛々しいという形容詞がまさにふさわしい。

マクドナルドを食べ続けることが、こんなに痛々しい結果を招くことだとは気がつかなかった。ううむ。一見の価値あり。
でもま、もともと提供されている米国サイズが、トチ狂っていると言えるんだけどね。

描かれる主題とは裏腹に、スクリーンでビッグマックにかぶりつく姿を眺めるうち、ハンバーガーを無性に食べたくなってしまったのも、また事実である。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

December 31, 2004

エイリアンVS.プレディター

2004年も、ついに今日も終わり。

今回は多くの人が気づいている通り、年末年始のお休みが短いんだよね。だから、とくに僕らのように地方から東京に出て仕事をしていて、この時期に帰省しないといけない身としてはけっこう慌ただしくて大変なのだ。

あまり早く帰ると渋滞に巻き込まれるだろうし。かといって、明日はもう元旦。
だから今日、クルマを運転して実家に帰ろうと思っていた。そうしたらなんと雪が降っているではないですかい。あれよあれよと横浜でも積もり、そして東名も通行止めになってしまった。なんとしたことか。

よって今日帰るのはあきらめ、明日元旦の日中にクルマを走らせることに。
いやはや、神奈川県で一人年越しなんて、あのy2k問題の対応で待機していた時以来だわい。
おかげで途中まで印刷できていた年賀状を仕上げる時間はできた。100余通の葉書を書き上げポストに投函することができたのは怪我の功名か。

その後、空いた時間で映画を見に行くことにして、エイリアンVS.プレデターを鑑賞に赴いた。

もう、このタイトルから行って、いかに娯楽路線で設定ありきのご都合主義映画かわかるというものである。
とってもキッチュな香ばしさの漂う映画であることは、言うまでもない。

要は、エイリアンも、プレデターも記号になってしまった。
このような物語が生み出されるということは、キャラクタが記号と化した証し以外のなんでもない。
つまりはエイリアンもプレデターも、それだけの定番名作ものになったってことだ。

もともと、キャラクタというのは本来のストーリーそのものと不可分のもの。その物語世界のなかの必然性によって生み出されたもの、そうではないんだろうか。
しかし、そこを切り離してそのキャラクタのユニークさ、そのものだけで逆に物語世界を構築できる。
まあ、もともとそれだけインパクトのあるキャラクターだったんだろうけど、それでこういう映画を実際に作ってしまうすばからしさがよいよね。トルネコの大冒険みたいだ。

でも、これが許されるなら、もっといろんな対決ものができていいと思う。
エイリアンVS.スパイダーマンとか、プレデターVS.ラストサムライとか、エイリアンVS.キティちゃんとか、プレデターVS.寅さんとか……。
(そういえば、話は違うけど、先日見たゴジラ FINAL WARSには、ゴジラVS.USA版ゴジラのシーンがあったナ)。

ところで、例によって映画とは関係ない話に移る。
前々から気になっている話をここで一つ書いておく。調べてみたらもう1年半以上前の話なんだけど…。

気になっている新聞記事がある。
朝日新聞の2003年4月4日と5日の夕刊に2回にわたり掲載された、日本の若者は殺さないというタイトルの企画ものの記事だ。

「日本の若者は、おそらく世界一、人を殺さない若者だ」というのが、その記事の出だし。

近年、未成年者による凶悪な殺人事件が何度か起こり、そうした事件の印象だけが人々の記憶に残る。
…でも、実際のところ、日本の若者の殺人は過去何10年にも渡って減り続け、主要国のなかでも最も低い。その記事はそんな事実を明らかにしていた。

ここで興味を抱く人のために、インターネットでもその記事がオープンになっていればいいのだけど、残念ながらどこにもアップロードされていないようだ。
朝日新聞大学入試研究所のサイトに、記事の前編が引用されている。それから、こちらにもその記事をめぐる論説が掲載されている。そんなところかな。

それまでこのような分析を目にしたことがなく、その時の僕にとってこの記事はとても面白く思われたのだ。

目から鱗ってやつだ。

ふつう、世の中だんだん悪くなる、というのがおそらく大勢の人の実感なのだろう。
でも僕は内心、この世の中そんなに捨てたもんじゃないんじゃないか? とつねづね思う。ちょっとみんな過度に自虐的で、いささかセンシィティブに事件や事故の報道を受け止め過ぎているんじゃないか。

しかして実際のところ、統計を洗い出せば、こういう事実も浮かび上がる。
欧米にもアジアにもない、日本特有の傾向なんだそうだ。

なぜ現代の日本で、若者が人を殺さなくなっているのか。その問いに対する明快な解答は記事にはない。それは結局のところ、誰にもわからない。
わからないんだけど、とにかくこれが事実ならば、とてもよいことだと僕は思った。

この、僕らが生きるこの世の中はそれほど捨てたもんじゃない。それを証明するいくつかのグラフの一つなのだ。
…そんな思いを抱いたからこそ、今でも記憶に留まっている。

では、2005年もよい年でありますように。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 30, 2004

マトリックス・リローデッド

12月26日にスマトラ島沖で起きた地震を、NHKのニュースで巨大地震と表現している。
たんなる大地震ではなく、あえて巨大地震と呼ぶとは…? と思って調べてみると、マグニチュード8以上の地震を巨大地震と呼ぶことがあるようだ。

たしかにマグニチュード9.0と聞いた時は、どえりゃあ地震だがや、と思った。
といっても僕は地球物理学の専門家でもなんでもないので、報道で耳にしてきた数字の印象で言っているのに過ぎない。
ただ、耳にしてきた限りでは日本で起こる地震で、マグニチュード6とか7の地震は聞くが、マグニチュード8以上というのは聞いた覚えがない。
調べると関東大震災がマグニチュード7.9、阪神大震災がマグニチュード7.3。先日の新潟県中越地震は最初の本震がマグニチュード6.8だったようだ。

マグニチュードが0.2上がると地震の規模は倍に、1上がると実に32倍になるらしい。いやはや、たいしたもんだがな。

そんなことを考えているうちに地学熱がちょっと高じてきたので、書店に行って石黒耀震災列島を買ってきて読んだ。

この石黒耀氏といえば、破局的噴火を主題にしたデュー作の死都日本がかなりインパクトのあった。
数万年に一度のサイクルで起こると言われる超巨大規模の噴火。それが現代の日本で起こり、国家が破滅に陥る様を描いたものだ。
カタストロフィーのスケールが無限大、加えてウンチクも満載でぐんぐん読ませる物語だった。

つまりは、地学をテーマにしたハードSFだ。この手の小説は小松左京日本沈没以来だと思う。
「日本沈没」は、僕が中学生の時に読んで虜になった小説だ。地殻変動で日本列島が沈没に至る過程の説明に地球物理学の理論が駆使され、まさに珠玉のSFだった(なにせ映画版には竹内均が登場しているほどである)。
とはいえ、日本列島が短期間で海底に沈むというのは、現実には起こらない変動だろう。それに比べ、「死都日本」で描かれる破局的噴火は何万年という時間軸のなかでは確実に起こる。そう思って読むと、ぞくぞくとするようなリアリティを感じた。

さて「震災列島」だけど、買ってから知ったけどこれ、名古屋が舞台の小説だったんだね。名古屋が大地震と、大地震後の津波に襲われて水没してしまう…。

考えてみれば東海地震がテーマなので、その地にある大都市としては妥当な舞台設定と言えるだろう。おかげで名古屋弁や東海地方の地名がたくさん出てくる。
愛知県生まれで名古屋市内の大学に4年間通った身としては、大変読みやすい小説である。清水義範の作品じゃなくても、名古屋はこういう形で文芸の舞台になりえるんだ…。

12月30日。自宅でマトリックス・リローデッドを見る。かなり前にWOWOWで放送されていたものを、HDDレコーダーに録画していたのだ。

本当は、この年末の休暇中にエイリアンVS.プレデターか、スーパーサイズ・ミーを見に行きたいと思っていた。

しかし、29日が雪が降るなどかなり寒かった。それで、あいにくのことに風邪気味となってしまったんだよね。
ふだん体調を崩すことはあまりない身なのだけど、とにかく正月の帰省もしなければならない。あまり無理に出歩かずに部屋でおとなしくしようと、映画鑑賞はとりやめた。
「震災列島」を読み進めたり、ドラクエ8をプレイしたり、年賀状を印刷したりして(これはもともとしなければいけない)、時間を過ごす。

そして、HDDに録っただけで見ずに放置しているTV番組を整理しようと思い立ち、リモコンでナビを見ていて、目についたのがマトリックス・リローデッドだった。そんな理由で鑑賞し始めたのである。

しかしながら、前作のマトリックスも本気では見ていない(たぶん部屋で鑑賞していて、途中であきらめ最後まで見ていないか、あるいはどうでもよかったかでラストを記憶していない)。その上、今回のリローデッドもながら視聴をしていたら、まるでお話がよくわからなかった。
攻殻機動隊並に理解し難い。

ただ、たまたま今日の僕にとってよくわからなかったからといって、 この映画で描くテーマを否定するものではない。
やはりこういう映画は、部屋のTVで鑑賞するのは向いていないということなのだろう。映画館に行って、2時間缶詰になる覚悟を決めて眺めるべきである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 23, 2004

ニュースの天才

この映画を見て、考古学界を揺るがしたあの大事件を思い出した。

本論に入る前に、僕と考古学の関わりをちょっと述べておこう。
また学生時代の話になる。いまをさかのぼること10余年前、僕は名古屋市内の私立大学に通い、文学部で文化人類学を勉強していた。

当時、僕のいた学科には民族学考古学の講座があり、僕は民族学のゼミに所属していた。ただ、同じ学科のなかには考古学の講座もあるわけなので、考古学の講義もいくつかとっていた。

もっとも専攻していたからいって、熱心に学問を追究していたわけでは全然ない。それは他の多くの文系学生と同じだ。
民族学専攻だからといってフィールドワークにも行くわけでもなく、同じ学科の考古学専攻の学生たちのように発掘のアルバイトに精を出すこともなく、そんなふうに4年間を終わった。
少しもったいなかったかな、と正直いまでは思ったりもする。

大学を出て社会に出て、僕は全く違う分野での仕事に就いた。
そうして、考古学とは縁のない日常を生きることになった。

2000年11月5日。毎日新聞朝刊は、旧石器発掘捏造事件を報じた。
僕がサラリーマンになって6年目の秋のことだ。

数々の遺跡発掘で発見を繰り返し「神の手」と呼ばれた藤村新一氏。
その藤村氏が、宮城県の上高森遺跡の発掘現場で石器を埋め、発見の捏造をはかろうとする決定的瞬間を毎日新聞の取材班がビデオに撮影。同紙のスクープとなったわけだ。

その後の検証作業の結果、彼が関与した162の遺跡の捏造が断定された。20年以上に渡って捏造を繰り返していたのである。
旧石器時代をめぐる教科書の記述は修正され、日本の前期旧石器時代の研究は白紙に戻ってしまった…。

まさに、考古学をゆるがす大事件だった。発覚後、考古学関係者はずっとその後始末に追われただろうし、このことで人生の歯車が狂ってしまった人も少なからずいることは想像に難くない。

もっとも僕はリアルタイムでそうした事情を把握していたわけではなくて、その時は断片的に報道を目にするくらいだった。
その全容を知ったのは、毎日新聞旧石器遺跡取材班による発掘捏造古代史捏造を、2003年から2004年にかけ読んだことによる。
この両書でスクープに至る経緯と、ゴッドハンドと呼ばれた男による捏造の全貌を知った。そのスケールの大きさにただただ圧倒されるばかり—。

ただ、なぜ藤村氏がそんなことをしてしまったのか。その人間心理の内面までは誰も知り得ていない。
これは当人が語らない以上どうしようもないことなのだけど、多くの人にとって最も知りたくなるその肝心のところが、いまだ薮の中にある。

なぜ、人は嘘をつくのか?

いったん嘘をつくと、それを取り繕うために嘘の上塗りを重ね、嘘の常習犯となる。

僕は幸いなことに、あからさまに嘘をつく経験はほとんどない、と思う。
とはいえ、ある事実を脚色したり単純化して、多くの人にわかりやすい内容にして、人と会話をする席で受けをとるくらいのことはする。誰でもこのくらいはするだろう。

その経験から推し量ると—。
たぶん、嘘をつくことで得るものは、罪悪感や後悔と、その嘘を信じた周囲の喜びや尊敬。その両方がある。
後者の快楽で前者の感情を押し殺し、自分の行為を正当化するようになる。そういう一線を踏み越えて常習化するタイミングが、どこかにあるのだろう。

くわばらくわばら。

映画館でニュースの天才を見ながら、この旧石器遺跡捏事件をずっと考えていた。

この映画そのものの感想を述べると—。
きっとこのお話は、事件の検証とか、ジャーナリズムの現場を描くといった目的があるのだろうな。
でも、先入観なしで見に来る人にとってはどうか。

この映画は、嘘がばれた時の経験—誰でも多かれ少なかれ、子供の時にあったと思うけど、あの時の感覚を再び味わうことのできるお話だと言える。
あぁ〜という後悔の念と脱力感と、じっとりと体のうちからにじみ出すあの汗と、そうした嫌な気持ちの諸々を再体験できます。
…だから、気楽に映画を楽しみたい人にはオススメできないかもしれないな、と思う。

それにしても、旧石器遺跡捏事件のほうは、誰も映画やドラマや、あるいは小説にしないのだろうか。
事件の検証は済んだが唯一、主犯の心理が明らかになっていないわけで、想像力を働かせて作品化する上では、打ってつけの題材のような気もするが…。

まさに、事実は小説より奇なり、なのだ。

いや、事実ではなく嘘か。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 11, 2004

ゴジラ FINAL WARS

NHKのニュースを見ていたところ、世論調査で小泉首相の靖国神社参拝について意見を聞いた結果を伝えていた。続けた方がよいという人が46%で、止めた方がよいという人が38%だとのことだった

先日同僚と飲んでいて、酔った勢いの上での談義なのだけど、中国だとか靖国だとかの話題になった。その時は、僕の周りに座っていた2人が2人とも小泉首相の靖国参拝は続けるべきだと言っていたので、たしかにそういう意見のほうが多いのかな、と思う。

ただ、僕の意見としては、日本の総理大臣は、靖国神社にお参りすべきではないと思う。
それは中国の反対があってもなくても関係ない。理由としては、日本国憲法に以下のような条文があるからだ。

 日本国憲法 第22条
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 (中略)
 第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

だから、別に靖国神社へのお参りに限ったことではない。
たとえば年始の伊勢神宮へのお参りもどうかと思う。これがキリスト教の教会であろうと、あるいは僕の地元の氏神さんである古村積神社だったとしても、公人としては行くべきではないと思う。

公職にある政治家が宗教行為を自らの支持のために利用する。あるいは、宗教団体が政治家の訪問を受けることで何らかの権威を得る。
そういうことは、政教分離の原則を掲げている国では、のぞましいことではないという気がする。

ところで、靖国神社には一般の軍人の戦没者に加えて、A級戦犯もお祀りされているらしく、それが中国などから反発を呼ぶ大きな原因らしい。

このA級戦犯がどういう人たちかというと、一連の「侵略戦争」についての「共同謀議」を行なって、平和に対する罪、人道に対する罪を重ねた人たち、となる。
極東国際軍事裁判(東京裁判)でそのように判決が下った。

4、5年前に僕も、東条英機と東京裁判を描いたプライド 運命の瞬間(とき)という映画を見たことがあった。
それがきっかけになったと言えるのかどうかわからないけど、ここ2、3年、僕は日本の近代史にわりと興味をもち、本を読み始めた。太平洋戦争の開戦に至る経過の記述もいくつか目にしている。
まあ、読んでいるのはこんな本とかこんな本とかこんな本とか、こんな本だ。

そのなかでわかってきたことだが、東京裁判で言われた共同謀議があったのかというと、それは大きな疑問である。共同謀議を認めた研究者の本は、1冊も出会ったことがない。
やっぱり、統帥権の独立を盾に軍部が暴走していく過程と、政治家が世論迎合でかつ無責任である様の記述ばかりが目につく。

軍人や政治家たちが共同で謀議を巡らせて戦争を遂行していたというのは、間違いなのだろうと思う。

このことは、東京裁判の正当性に疑義を生じさせる。そしてその結果、この裁判の構造を批判する、いわゆる「勝者の裁判」という論に力を与えるものとなる。
この主張をさらに進めると、A級戦犯は占領の犠牲になって刑に処せられた殉難者という理屈も出てくるだろう。

でも仮に、それが勝者の裁判であり、共同謀議の認定が虚構だっとしても、戦後、日本国はその虚構にのっとって独立を達成したのも、また事実である。

 サンフランシスコ平和条約 第11条
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)

受け入れているわけだ。
この結果、日本の国は戦後の発展を享受し、当然ながら政府はいまでもこの論理は捨てていない。政府がサンフランシスコ平和条約を破棄したという話は聞かない。

そのような理屈を受け入れて成立した国の行政府の長が、その戦犯が祀られた靖国神社にお参りに行く。
これは、もしかすると、虚構の論理を奉じたことについての贖罪の表現なのかもしれない。
もっともお参りしている当事者がそんな事情まで鑑みているのかは、わからない。思うに、たんに、論理の矛盾に対する感性のなさを披露しているだけ、という気も同じくらいするのだけど。…まあ、なんともわからない。

いずれにせよ、日本国は無理のある戦争を行い無条件降伏を受け入れた。その帰結として、虚構を抱えて独立せざるを得なかったという現実がある。
そして同時に、この矛盾した現実を受け入れることへの抵抗は、「勝者の裁判」論とか「A級戦犯は殉難者」とか「大東亜戦争は正義の戦争であった」といった主張を産み落とすことになる(靖国神社のWebサイトにもそのような趣旨の主張が掲載されている)。

ある意味、不幸なことなのかもしれない。
たた、その当時—敗戦後の歴史の経緯が、そうせざるを得ない道のりを辿らせたのである。論理の矛盾や、そこに対する抵抗が生じたことも含め、これが成り立ちなのだ。

だから考えるに、こうした経緯については、ある特定の観点にもとづく主張を抱き、それに盲目的に組するのは得策ではない。それらの主張が産み落とされることになった歴史の過程こそ、目を向けるべきものなのだ。クールに、複眼的に。
僕はそう思って、今日も本を読む。(ちなみにいま読んでいるのは、民主と愛国…これは本当に参考になる)。

しかし…イラクなど見ていると、あんなふうに国を崩壊させられては、敗戦後の日本よりもはるかに、とってもとっても大変なんだろうな。
復興も困難だろうけど、仮に復興できたとしてあの国が今後抱え込むであろう分裂した国論。それについては、同情を禁じ得ません。


さて、12月11日。最初はあまり見に行くつもりはなかったのだけど、ゴジラ FINAL WARSを見に行くことにした。

実は僕は、怪獣映画はけっこう好きなのである。
にも関わらず、ゴジラ映画は、見ていていつも脱力してしまう。だから、このところは忌避すべき対象になっていた。

これまでに、TVやビデオで見たもの、実際に映画館に足を運んだものを区別せずに、鑑賞したゴジラ映画を挙げると、ゴジラゴジラ(1984)、ゴジラ VS ビオランテゴジラ VS キングギドラゴジラ VS デストロイアゴジラ 2000 MILLENNIUMGODZILLA(米国版)がある。

見ていてがっかりしてしまうのは、どうしてもガメラと比べてしまうからだ。

いわゆる平成ガメラ三部作は、抜群に面白い。
怪獣出現という荒唐無稽な事態を描くなかでリアリティを重視したガメラ・大怪獣空中決戦、ハードSFのテイスト漂うガメラ2・レギオン襲来、前作とは打って変わって古都を舞台にした伝奇作品となったガメラ3・邪神〈イリス〉覚醒などなど。

平成ガメラを超える面白さをもつ怪獣映画は、僕にとっては1954年の初代ゴジラしかない(1954年のゴジラは、たんに怪獣映画の傑作というだけでなく、邦画全体を見渡してみても最高傑作だと思う)。
よく言われることだけど、あれは戦争の記憶を呼び起こし、リアルな恐怖感を感じさせる映画だったのだろう。

それ以外のゴジラ映画は、全てとは言えないが、かなりの作品が僕にとっては駄作に感じられる。
理由は簡単だ。ストーリーに、まるでリアリティがない。人間の演じるドラマが凡庸。子供仕立てで大人の鑑賞に耐えられない。
そんなところが、毎回がっかりさせられる。

だいたい続編を作り過ぎなのである(ゴジラは寅さんか?)。作品ごとで完成度が異なり、設定としても世界観が一定していないのも問題だ。
というわけで、ゴジラ映画なんてもう見に行かないぞ、と心に決めていたのだ。

でも見に行ってしまった。
というのは、ふと目にした新聞の映画評で、いままでのゴジラとは違うというようなことが書かれていた。それを読んでこれはもしかすると面白いのかもしれない、と思ってしまったからだ。

なるほど、いままでのものとは違いました。一言で言うと、戦隊ものになっていました、ハイ。
ゴジラや怪獣たちが暴れるシーンはその通りとして、人間たちが演じるドラマ仕立ての部分は、アクション戦隊ものとサンダーバードとインデペンデンス・デイを足して割ったような感じであるよ。

これは、面白い。
でももっと分析的に言うと、素直にある程度面白いというのと、いままであまりにつまらなかったから多少趣向を変えただけで痛快に感じられる、というのが足し算された面白さなんである。
1回限りの楽しさであり、もしこれが1回で終わらず定番路線になったら、それはそれで辟易してしまうだろう。

今回がFINAL WARSといいながら、早くもゴジラは再び帰ってくるだろうということが映画関係者の間では言われているみたい。
でも、もう帰ってこなくていいよ。
あまり続編を作られると、またがっかりする機会が増えるだろうから。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 04, 2004

血と骨

ドラゴンクエストVIIIをようやく入手できた。

このゲームが、プレイステーション2向けに発売された、今年最も売れるタイトルにおそらくなるであろうことは、言わずもがな。

このVIIIが、これまでの一連のシリーズとは装いを大きく変えているのが、ハードウェアの進歩に合わせてフル3Dを採用しているところ。
RPGのもう一つの巨頭、ファイナルファンタジーシリーズでは、もう何年も前、プレイステーション上でのリリースと同時に3D化に舵を切ったのだけど、ドラゴンクエストシリーズではこれが初めてだから、人によって好き嫌いの判断がわかれそうではある。
グラフィックと操作性が変わっただけで、ベースとなる世界観は、従来のドラゴンクエストのままなんだけどね。

僕は、中学2年の時に当時一世を風靡していたファミリーコンピュータドラゴンクエストの第一作をプレイして以来、このシリーズの作品は、ほぼ全て購入し、プレイしている。
いまでも時折、ゲームボーイでリニューアルされて発売されたドラゴンクエストI・IIで遊んでいるのだ。

一連のシリーズで僕がいちばん好きなものを挙げると、少しマイナーなんだけど1990年に発売されたドラゴンクエストIV〜導かれし者たちですね。

この作品が好きなのは3つの理由がある。
まずストーリーの作り方というところで2つ。5章仕立てに別れていて、まずそれぞれのキャラクタになりきって各章をプレイした後で、最後の章にキャラクタが集結して主人公と出会うという構成。次に敵の大ボスが人間を憎み根絶やしにしようとするまでの経緯の描き方。そりゃ当然だと思うほど悲しいものがありました。これらはよかった。
そして3つめはシステム。AIのシステムが導入されてボタンを適当に押すだけで戦闘が進んで行き、あまり頭を使わなくてもよくなったという、操作性の上での改善(人によっては改悪だったみたいだけど)はなにより大きい。

思い起こせば、大学4年の初夏、就職活動をしていて期待していた企業に全て落ち、ついに持ち駒がなくなったことがあった。この先俺はいったいどうなるんだ? と深く思い悩んでいた(…ああ、あれは失恋と同じくらいしんどかったな)。
その時、気晴らしと暇つぶしにIVを再びやり初めて、ついついクリアしてしまったのも、いまとなっては実に思い出深いことである。

ちなみに最後まで遊んだのはI〜Vまで。これ以降のVI、VIIはいまだ最初のところで終わっている。
Vまでが学生で、VI以降が社会人になってからの発売だから、単純に時間がなくなったんだろう。悲しいことだ。

そういえば、社会人になってからの9年間でクリアしたRPGは、ファイナルファンタジーIXだけなんだよなあ。

XIは、ファイナルファンタジーの一連のシリーズでは、これまたあまり話題になっていない作品なんだけど、僕は好きだ。
なにより、えー、ヒロインのお姫様がよかったのです。
当時好意を抱いていた職場のかわいい女性と雰囲気が似ていて、一人連想を働かせ愉悦の世界に浸りながらプレイしていたら、最後まで至ることができた。
社会人には過酷といっていいほど長時間プレイしなければならない大作路線のゲームに取り組む上で、そういう脳内麻薬を分泌させるような何かしらの動機は、きわめて重要だと思うのであります。

ドラゴンクエストVIII〜空と海と呪われし姫君も、なんとかクリアに至りたいものであるな。
はい。白状すると今回は後輩の女性と、一緒に競い合ってプレイすることを約束しました。

…と、わりと脳天気なことを書いたところで、今回見た映画の感想。

血と骨

この映画は、当初はとくに見に行くつもりではなかった。
僕と同様いまだ独身・カノジョなしの三河の友人、Rから見たというメールを受け取った。調べてみるとレイトショーでもまだやっていたので本牧に鑑賞に赴いた。

いやはや、掛け値なしに稀代の悪漢を描いた、実に壮絶な物語でありました。
既にいろいろなところで語られている通り、人並みはずれた強欲と凶暴さ。その描写は中途半端ではない。だからこそその男と相対する息子の葛藤のリアリティも十分である。
フィクションとはいえ、実在の人物をモデルにしているというから、また空恐ろしい。

ビートたけしの怪演ぶりがとりわけ決まっている。
原作は、僕はまだ読んだことのない作家だけど梁石日の、同名の小説

劇中に映し出される、在日朝鮮人コミュニティ周辺の日常風景から、戦中・戦後の日本の変化が垣間見える。
ということで、裏韓流としてお薦めしたい一本です。まあ、邦画だし、とくに思いのない人は決して見に行かないタイプの映画ではあるけど。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

November 28, 2004

いま、会いにゆきます

迷惑メールが多過ぎる。

と感じているのは僕だけかしらん。

としたところ、ちょうど日経コミュニケーション2004.11.15号に、「迷惑メール、五つの誤解を解く」という特集が載った。
サブタイトルには、「メール・システムに“有事”、プロバイダが騒然」とある。だから、やっぱり大層な事態になっているのだろう。

具体的な例を挙げよう。
僕がプライベートでメールボックスを使っているプロバイダは@niftyなのだけど、このような感じだ。

11月29日に僕が受け取った私信は、1通。それに対して迷惑メールは36通。
11月28日に僕が受け取った私信は、0通。それに対して迷惑メールは29通。
11月27日に僕が受け取った私信は、4通。それに対して迷惑メールは25通。
11月26日に僕が受け取った私信は、4通。それに対して迷惑メールは29通。
11月25日に僕が受け取った私信は、2通。それに対して迷惑メールは24通。

うーん、冷静に数えてみると、けっこうすごいな…。多過ぎるというレベルをとうに越えている。しかもこの数日だけで見ても、増加傾向にあるようにも思える。

ちなみにこれは、@niftyのメールに迷惑メールフォルダーという、迷惑メールの自動振り分け機能がある。その起動で振り分けられた数と、それから僕が手作業でゴミ箱に移動させたメールの数をカウントしたものだ。

他の人はどうなのだろうか?
@niftyは数100万のユーザーを抱えるのに対し、アドレスはサブドメインがないシンプルな構造だから、迷惑メールの送信業者にとっては、もともと送りつけやすいという土壌があるだろう。
また、僕の場合、メールマガジンを発行していたりメーリングリストにいくつか入っている。それらの送信のため、メールアドレスを明記することになる。もしかすると、それがどこかで業者のリストに拾われてしまったのかもしれない。

そう思ってGoogleで僕のメールアドレスを入れて検索してみると…。ああ、84件も出てきますね。これでは業者のリストにも載ってしまうだろう。やれやれ。

だから、僕の例はとりわけ多く迷惑メールを受信している範疇に入るのかもしれない。でも、ある程度インターネットをアクティブに使っているだけで、こういう結果になってしまうことを考えると…。
なんというか、インターネットの崩壊は近いと想像してしまうのは、悲観し過ぎであろうか。

迷惑メール栄えて、インターネット滅ぶ、である。

さて、11月28日の日曜日に見に行ったのは、いま、会いにゆきます
同タイトルのベストセラーを映画化したものだ。

いいお話だと思う。

ただ、僕の性格としては、奇跡を前提にした物語の構成って素直に受け入れられないのだよね。僕はふだんは現実が全てと思っている、夢を見ない人間だから。

だから、鑑賞しつつも、話の出だしからちょっと距離を置いた感じで見ていた。
しかも、途中で黄泉がえりに似ているような気がしてきた。と思ってしまうのは、なにしろどちらも竹内結子だからだ。

とはいえ、それでも眺めていると、竹内結子はなんだかいままでの印象とは異なるキャラを演じていて、しっとり感が漂い、けっこうよい感じである。
それから最後まで見て、奇跡の構造もわかった。ま、なぜそのような奇跡が起こるのかは、結局腑に落ちなかったのけど、構造がわかったのはスッキリした。黄泉がえりじゃなかったんだね。

まあ、僕がちょっとひねくれた性格だからこういう感想のまとめ方をしてしまうのだろうけど、多くの人にとってはよい映画なのではないかい。カップルで見に行けるといいよね。

それから、お子さんをお持ちの方や、あるいは女性の立場で見たら、またちょっと違う見方があるのかもしれないな、とも思われた。

主題歌は、ORANGERANGE

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 21, 2004

レッド・ドラゴン

電車男と私ということで。

電車男がベストセラーになっているそうだ。

2ちゃんねる独身男性板(通称“毒男版”)は僕もしばしばウォッチしている板の一つだ。さりながら、そのなかのスレッドの一つでこのような興亡が繰り広げられていたとは、メディアで取り上げられるまでつゆ知らなんだのである。

同僚が読み終えて書籍をくれたので、目を通してみた。
掲示板形式のまま掲載されていて、サクサク読める本である。
こういうことが、インターネット上で繰り広げられていたという事実は面白いし、板の住人のコメントやAAも見ていて吹き出してしまう。読み物としては、楽しい一冊と言えるだろう。

ただ、恋愛ドラマとして読むと、少々物足りないものを感じたのも正直なところ。だって、ハッピーエンドまで一直線だからね。途中でもっと挫折とかあるのかと期待してたんだよ。

そう、だからあえて言おう。
電車男氏はたんに運がよかっただけなのではないか?(いや、みんなそう感じていると思うけど)。

そうなのだ。彼は幸運だったのだ。
ただ世の中には—エルメスたんと会う前の電車男氏がそうであったように—女性と出会う機会がないとか、関係を深めるための努力の具体的な方法を知らない御仁もかなりいらっしゃるようだ(そういう人種が毒男板にはたむろっているのだ、ああ)。だから彼らに向けての啓蒙の書には仕上がっているのかもしれない。
あるいは、そういう人種がいることを知らない市井の多くの女性にとっても。

でも、思う。
そういう努力は当然のこととして、それでもなおうまくいくとは限らないのが現実だろう。
努力に比例して幸運に恵まれるかというと全然そうではない。やるべきことをやったとしても、結果としてうまく回っていかない程度の不条理さや不公平さに満ちているのが、人の世のなりたちである。
(だって俺なんか、車内で人を助ける機会はないけど、それ以外では電車男並みのことはふだんから心がけている。でも身の回りにエルメスたんらしき人はいないヨ…)。

この物語程度の努力はやるべきであるし、多くの人がやっていることだろう。
彼はたまたまストレートに幸運だった。けど、他の誰かが彼以上にがんばってふんばったとしても、そんなもんうまくいくとは限らないものだ。
そういう不条理や不公平。それらに遭ってなおその先に、はたして因縁なのか偶然なのか、得られて残るものがあるかもしれない。
その得られたものをこそ、人は愛おしく抱きしめられるのだろう。

30年も生きてみると、そう思わせることをいくらかは経験する。
いや、あまりにも当たり前のことなんだけどね。

電車男はたしかによいお話だけど、そこまでの含蓄はない。くれぐれもアキバ系毒男たちが誤解しないよう祈る。

さて、たまたまTVをつけたら、WOWOWレッド・ドラゴンを放送していたのでそのまま見てしまう。

むかし(僕の中学生の頃)プレイしたドラゴンクエストIIIは、作品としてはIIIなのだが、物語世界のなかでは、IやIIの前に起こったこととして位置づけられている。レッド・ドラゴンもそれと同じ。

そういえば、ハンニバルでは、レクター博士が、男の頭を切り開いて脳みそ削り取って焼いて食べるシーンが、まこと印象的でありました。
そういういささか強引なまでのインパクトのある場面は、レッド・ドラゴンにはないな。…だから、観賞後に焼肉を食べる機会とかあっても大丈夫です。たぶん。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 20, 2004

隠し剣 鬼の爪

この時季、好むと好まざるとに関わらず意識せざるを得ない、クリスマスというものがやってくる。

ご想像の通り、独り身の身の上にとっては、不要なことをあれこれ考えさせられたり、何らかのプレッシャーにさらされるわけであり、困ったお祭りごとだと思う。
(今年はこともあろうに、月9のドラマのタイトルがラストクリスマスなんで、10月のまだ台風が来ていた頃からなぜだか意識させられていたですよ、まったく)。

僕の中には、そもそもキリスト教信仰がほとんど根づいていない国なのに、過度にクリスマスをお祝いするのはどうよ、という気がおおもとにはある。そういうのって誠実じゃないよ。

と思いつつも、ただクリスマスを前にして、立派なツリーがあちこちで飾られたり、イルミネーションが綺麗に灯されたり、クリスマスソングがBGMとして奏でられる。そういう街の風景というのは必ずしも嫌いではない。
そういう街を歩くのって、たとえ一人でもなんだかいいよね。

それで、この季節の雰囲気にくるまれると、僕はついつい大学の頃を思い出してしまう(ああ、もう10年も前だ)。

というのも、僕が通ったのは、名古屋のカトリック系の大学だった。 
クリスマスになると、キャンパスの片隅にイエスが生誕した厩が再現して建てられていた(東方三博士の礼拝とか、そう言われているシーンだ)。木々には電球が吊るされ夜になるとイルミネーションが灯っていたし、キリスト教概説の講義をしている神父の先生がサンタクロースの格好をしてクリスマスパーティーのビラを配っていた。

悪くはない。
もちろん、こうだったからといってその大学の教育研究機関としての評価は別なのだけど、僕としては4年間通ったわけだし、そういうところだったと後から振り返られるのは、けっこういいものだ。
思い起こすと僕も、聖書を買ったし、キリスト教の講義も2年間は受けたわけだ。だから信者ではないとしても、クリスマスに名目的に参加するくらいの権利は、そこで得られているのではないかと思う。だからこのシーズン、街を歩いて雰囲気を楽しむくらいはよいのだ(たぶん)。

さて、隠し剣 鬼の爪を、川崎のCINECITTA'で鑑賞する。
見終わって、ああ、いい映画だったなあという気持ちで、大変満足した。僕にとっては、今年の邦画のなかではたぶん、解夏下妻物語と並んで忘れられない作品になるだろう。

とはいいつつも、邦画だし時代劇だし、タイトルもヘンテコだし、たいしてヒットもせずすぐに上映打ち切りになってしまうんだろうな、と思う。
お話は、このタイトルからは想像もつかないけど、永瀬正敏演じるだらしな系の侍と、松たか子演じる萌え系な女中との、純愛ストーリーなのだ。もちろん、ほんのちょこっと、殺陣もある。
松たか子は、ドラマHEROでの好演を見て以来、僕としてはわりと好きな女優のうちの一人に数えているのだけど、そういう個人的な贔屓目を割り引いても、この映画は素敵な一本だと思う。

そもそもサムライを描いた映画としては、1年前のラストサムライより、100倍くらいいいよ。米国人にそそのかされて名誉のために内戦を起こすサムライの姿よりは、こういうお侍さんの姿のほうがわが国にはふさわしいと思うのだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 06, 2004

笑の大学

久々に、ノルウェイの森など読み返している。

村上春樹は、僕にとって高校から大学にかけて好きだった作家の一人だ(いまでも新作は読む)。この作品を以前読んだのはいつのことだろう。単行本の刊行が1987年とある。だから、僕はきっと10代の後半にこの本を読んだのであろう。

でも当時は、確たる感慨を何も抱かなかった。
なにせ読み直すまで、主人公が恋人にフェラチオしてもらうシーンとか、31歳の主婦が13歳のレズビアンの女の子に襲われるシーンくらいしか記憶になかったのだ(要は10代後半の男にとって、かなり刺激的な場面ね)。

100パーセントの純愛小説と言われてもピンと来ず、当時の僕にとっては世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドのほうが、完璧なストーリーだった(内閉の世界観を描いた、こちらは10代の頃にはいかにもはまりそうな話)。 ただ、ノルウェイの森は何も感じなくても、その序文にあたる、は好きだったことは記憶に残っている。あの突撃隊は、こちらでの印象で記憶に残っているのだろう。

そのノルウェイの森。いま読み返してみると、とてもいいお話だと思う。
考えてみれば喪失と再生の物語と言われたところで、日々、実家から田んぼのなかを自転車こいで高校に通い、言われるがままに素直に進学しようとし(勉強はしてなかったけど)、都会といえば名古屋に稀に模試を受けにいくくらい。恋愛も何も経験していない身の上で、何がわかっただろう。
当時の僕は、何も失わないし、よって再生するほどの何かもなかったわけだ。

その後、大学を卒業して東京に働きに出て、一人暮らしを経験し、新宿とかその辺りの地理感も身についた。恋愛はうまくなったと言い難いけど失恋なら何度も経験したし、身近な人の死にも立ち会ったりして、そして気づけば19歳のワタナベ君よりは、37歳のワタナベ君のほうに近い歳になってしまった。
ようやく、描かれているものを感じ取れる器を、自分に備わって来た気がする(フェラチオのシーンで、不要にドキドキしてしまうこともないしね)。

ところで、よくひきあいに出されるようだけど、このお話を世界の中心で愛を叫ぶと比較するのは、そもそもが間違っていると思う。表層は似ていても、全然タイプの違う小説だ。
でもあえてここでも、僕の感想を書いておくと、ノルウェイの森のほうがはるかに深みがある。人物の造型が立体的だし、個々の人物がいろいろな生き方、価値観を複層的に見せてくれる。世界の中心は、ストーリーとしては直線的で平坦な気がする。

それにしても…いまさらながらノルウェイの森をひっぱりだしてきて読みふけっているのは、たいがいテンションが低くなっている証拠である。
でも、この小説を読み進めたおかげで、気持ちを落ち着け、わりと心静かにものごとを考えられるようにはなった。

そういう気分を吹き飛ばそうと思って見に行ったのが笑の大学だ。
もともとは舞台演劇のようだけど、楽しかった。これは戦争の影が近づく時代を舞台に描いた、一つのファンタジーである。

ふだんはクールな印象のある稲垣吾郎が劇作家で、不条理な指示に悪戦苦闘する姿をコミカルに演じる。無粋な取調官がいつの間にかノリにのってしまい、巡査姿を想像して楽しそうに走り回る。無理なく演じられる存在として役所広司も最適だろう。この二人の共演は初めて見たが、いい味醸し出しているよ。

ということで、配役も脚本もわりといい感じだったと思う。
ただ、上映時間はもう少し短い方が、気楽に見られたのではないかな。

とつづったところ、笑の大学のブログが、ココログで公開されているのに気づいたヨ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 23, 2004

宣戦布告

1990年代の前半に流行した漫画に、沈黙の艦隊というのがあった。
いま読み直してみると、それなりに面白い。

日本の政財界がひそかに建造し米海軍所属とした原子力潜水艦が独立を宣言し、類い稀なる操艦技術によって米ソの艦隊をバッタバッタとなぎ倒し、国連を舞台に世界政府の樹立を求めるというストーリーの劇画である。

冷戦の末期に描かれただけあって、核を保有する大国が軍隊を差し出せばそれで世界政府が実現するという明解な世界観が根幹になっている。そのなかで日本は、軍事に否定的な感情を抱く国として、独立した原潜国家やまとを潰そうとする米ソのはざまのなか、自衛隊の指揮権を国連に差し出すことで政軍分離を率先する。

…て、これって日本政府がイラクに自衛隊を送ったりして、海外派遣がリアルになった現在では逆に描けない理想像だよな〜、と思う。
それに大国が軍隊さしだしたって、アルカイダみたいなテロリスト集団とか、ルワンダで起きたジェノサイドとか、北朝鮮の拉致のような国家的犯罪とか、現実にその後の世界を覆った危機的状況には、“The Silent Service”構想じゃなんら太刀打ちできまい。

連載の初期はまだバブルが崩壊していない頃で、日本は米国に従属しちゃだめだ、という気運も強かったのだろう、強硬に対立する米国に、暴言を吐く官房長官などが出てくる。いまとなっては根拠のない自信が、当時の日本にはあったのだなあ、と振り返ることができる。ああ、よい時代であったな。

ということで、ある種の状況を背景に作られた作品というのは、その旬な時期を過ぎると陳腐化してしまう。…ように見えるものだけど、しかし読み返すとやはり面白い作品は面白い。なぜか。
それは作品自体が優れているからというものもあるし、もう一つの読み解き方としては、反映された内容が、むしろいまは忘れ去ってしまった過去の論点を知り得るものとして価値が出るのだ。その時、何がリアルに受け取られていたのかを伺い知ることができるのだ。

DVDを借りて来て見た宣戦布告も、現代のある種の状況を背景に成立した作品であった。
しかし状況をストレートに描き過ぎたせいで、沈黙の艦隊のような名作として後世に残るかというと、それは大いに疑問を呈してしまう。

いわゆる有事立法の成立が、着実に進んでいるだけあって、この映画の内容はすぐに過去のものになってしまうだろう。上映後2年たっての鑑賞だが、既にいくつかのシーンは懐かしさを感じさせる。

ところで、沈黙の艦隊と同じく、過去のある時点において見えた、もしかするとありえた日本を描いた作品として僕が好きなのは、機動警察パトレイバー劇場版ですね。80年代の好景気が永続していたらありえたかもしれない東京の大規模再開発の想像図を、明瞭に見せてくれる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 16, 2004

デビルマン

多彩で複雑な世の中の事象に対して、単純で決まりきったレッテル貼りをすることを好む人たちの、なんと多いことかとインターネットを見ていると思う。

たとえば“サヨク”とか“ウヨク”とか、そういうレッテルを貼っての議論が、2ちゃんねるの掲示板では盛り上がっている。

日教組といえば、“サヨ”というレッテルがあるけれど、実際には僕が生まれ育った県の教職員組合は組織率が100%に近く、おかげで日の丸の掲揚や君が代の斉唱にとくに目立った反対運動などしない
(だいたい労働組合なんて、過激なことを言えるのは組織率が低いからで、組織率が高まれば穏健な体制派になってしまう。あなたの会社もそうだろうが、教職員組合も例に漏れない)。
同様にサヨのレッテル貼りをされるメディアの代表格である朝日新聞にしてみても、特定の分野の記事ではたしかにある傾向があるわけだけれど、個々の記事を読んでいる限りではとくにそう目立って反政府的とか革新的な観点が盛り込まれているとは思えない。

“朝日”の記事全てが反体制的でもなければ、日教組の組合員が“サヨ”とは限らない。
癒しのナショナリズムで取り上げられた、つくる会の運動を支えた保守派市民が迷える子羊であったのと同じように、“サヨク”にもまた完全な“プロ市民”がいるわけではない。
要はデーモンに体をのっとられなかったデビルマンだっているわけし、糞味噌いっしょくたにして一律に語ることは不毛なのだ。

しかしそれらを対象に、勝手な想像を働かせ、ある特定の像を仕立て上げて批判をする書き込みはあまた存在する。
それで何かをやり玉に上げたい人たちの溜飲は下がるのかもしれない。けれども実のところは結局、存在もしない自分たちに都合のよい仮想敵を作って、その都合のよい像に向って批判しているだけだ。
その様は、水車の羽を巨人の腕と勘違いして立ち向かっていくドン・キホーテを思い出させる。

インターネットのなかの言説だけじゃない。実際の日常の判断にもそういうものが多い。
以前、勤め先(第一種の電気通信事業者)で、CATVに関する仕事をしている時もそうだった。

通信サービスに乗り出そうとするCATVを、通信事業の土俵を侵す敵と見る、仲間として手を組む策と考える、はたまた我関せずとしてとくに何もしないと、いろいろな考えの社員がいた。
そうしたなかに、CATVなんて、弱小でいまにみんな潰れる。CATVに、まっとうなサービスはできるわけない。そう決め込んでいる人がいた。
そういう人には、CATVの各事業者と手を組んでビジネスをするなどという発想は、当然のことながら宿らない。

たしかに全国的な規模でサービスをする通信事業者と、CATVでは通信サービスの仕様や品質も、企業としての体制も大きく異なっていたのは事実だ。
しかし、CATVは全国に数100あるのである。そのなかには弱小なCATVがたくさんある。しかしそれと同時に、経営も良好で、サービスを順調に発展させているCATVも同じくらいたくさんあったのだ。

それをCATVはみんな、という表現で一括りにしてしまうのはどうよ、と思った。
要は、数100あるCATVの経営状況、サービス内容、一つ一つを見なければならない。一つ一つそれぞれの事業者を見て初めて、提携できる相手かどうかがわかるのである。

実際にそうした作業を何も行なわないで、CATVはみんな、という思い込みだけで議論する。
それは実りのない主張だ。そして対象を個別に具体的に分析し、歯車を前に動かす人が出てきた時点で、力を失ってしまうものだ。

さて、今日見に行った映画は、デビルマンだ。

映画館が改装してのリニューアルオープンで、上映作品が全て1,000円だったので、昼間から安く映画を見ることができて嬉しかった(ふだんは節約のため、たいていは安くなる夜9時以降の回を見に行く)。

それで映画に関する僕としての感想は…今回はとくにない。
見ていてとくに何も感じなかったのだ。

それは、いま公私共々何かと立て込んでいる時期で、考えなければいけないこと、やらなければいけないことがいくつか迫っていて、あまり落ち着いていないなかで見たというのが大きい。
(しかし公私共々立て込んでいるなんて書くと、近々年貢を納めるみたいだな。そんなことはないよ、もちろん)。

あえて言うと、原作はかなり名高い漫画であるわけで、どうしてもある一定のレベルの出来を期待してしまうだろう。
その期待するものに対して、映画の品質や、役者の演技はそれほど高いようには思えなかった。
だから、何かと立て込んでいるなかで見ている僕の心に届くものがなかったわけだ。

そういう周辺事情がなかったとすれば、そこそこ、2時間の暇潰しにはなる映画だと言うことくらいはできたかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 11, 2004

赤い月

平成51年。その頃の僕らはいったいどうなっているものなのか——。

最近マンションや、あるいは戸建て住宅を買う知人が多い。考えてみれば僕の同期や先輩は、30代前半から半ばを過ぎる頃の年代だ。

人間、平均的に年貢を納めていれば(国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、男性の平均初婚年齢は28.5歳なのだ)、結婚して数年はたち、もしかすると子供も2人くらいいて、住宅の購入に踏みきるのにはちょうどよいタイミングなのだろう。
僕自身は独身だし、同じ境遇の男どもも、周りには多いけどね。

おまけに僕と同期かその下の何年かの世代は、いわゆる団塊の世代Jr.にあたる。
首都圏の再開発地区や、あるいはこれまで工場など企業の施設があった跡地に、これでもか、というほどマンションが続々と建築されているのは、そうした需要を見越してのことなのだろう。

埼玉県でマンションの購入に踏み切ったある知人に聞いたところ、彼はローンを35年で組んだという。
35年!
たしかに人生を考えるとこの先そのくらいは生きていくだろうし、したがって当然、そのマンションには住まい続けるだろう。
これまでだって35年くらい生きてきたのだ。人生のターニングポイントは、35歳だと言った人もいる。そう、まさに人生の半分としてとらえればちょうどいい年数なのかもしれない。

しかし、考えてみると平成16年の35年後は、平成51年である。契約書には実際に平成51年と記されるそうだ。
時代として考えると、35年は十分に大きな開きがある。
たとえばですよ、昭和16年に日本が置かれていた状況と、昭和51年のそれを考えれば、その間に開いたものの大きさがわかるというものだ。

昭和16年は1941年。昭和16年といえば言わずもがな。日本が真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争に踏み切った年である。僕の父はまだ生まれていない。
昭和51年は、1976年。高度成長が終わった後だ。ロッキード事件田中角栄前首相が逮捕された年。東京は革新都政で美濃部知事であり、成田では反対派と機動隊が衝突していた。僕自身も既に生まれていた。

人は35年よりは長く生きるし、記憶を積み重ねていくのが人という生き物である限りは35年たっても同じ人である。
同じ人物が、ある時は新人類とかナウなヤングとか言われたり(言われないか?)、はたまた守旧派だの化石だと言われたりする。そのくらいの変化はあるだろうが、でも中身はたいして変わっていないと当人のなかでは思っているだろう。
また、おおむかしであれば、時代というものも35年くらいではたいした変化がなかったかもしれない。

しかし民衆の感覚や英雄の行動よりも、それに先立つ構造として科学技術や経済制度のほうが歴史を規定しているのは自明だし、その科学技術や経済制度についての変化はどんどん加速する一方だ。
その加速度のなかでいま、35年という値を代入すれば、その結果はどのようなことになるか。
人生は連続していても、時代のほうがまるで変わっている。そういうことが大いにありえるのだと思う。

僕は最近、時代の変わる区切りは、15年くらいを節目に考えるのがよいのではないかと思っている。
15年もあれば、一つの時代が全く新しい時代へと切り替わってしまうのには十分な時間なのだ。

たとえば、1853年にペリーが浦賀に来航して、開国幕末の動乱、大政奉還を経て1868年に薩長主体の明治新政府が成立するまで15年。また、十五年戦争という言葉が示す通り、満州事変から日中戦争太平洋戦争を経て日本が連合国に降伏するまでも約15年である。
今回の構造不況も、バブル崩壊から景気対策や構造改革などいろいろやって、景気回復の曙光が見えてくるまで15年かかっているように思う。
(まあ、これはまだ現在進行形なのでどこに落ち着くかわからないが、タイムマシンで1989年に戻って、バブルのただなかにいる人に2004年の日本経済のことを話しても信じてもらえないことは確実である)。

やはり15年は、ちょうどいい数字だろう。

しかしだからといって、住宅ローンは15年で組んでもおそらく支払うことはできないので、どうしてもそれよりははるかに長い年数になってしまう。
それに、15年は時代が新しい時代へと変わるのに必要な年数で、新しい時代に移ってからは30年くらいは安定した感じになるような気もするので(なってくれなければ困る)、35年という年数もそれほど無体な数字ではないかもしれない。

でも——正直なところ、平成51年の日本や、世界がどうなっているのかなんて、全く予測がつかないと思いませんか?

さて、連休の最後の日にレンタルビデオ店から借りてきたDVDで、赤い月を見た。
満州を舞台に、女性が子供を守って生き抜くお話だ。